第5話:六本木『エデンの園』 VIPルームの完全アリバイを粉砕する心拍のノイズ
六本木の地下深く。
表向きは高級シガーバーとして営業しているビルの地下四階に、その「黄金の密室」は存在した。
会員制地下カジノ『エデンの園』。
政治家、裏社会のドン、悪徳実業家――表の社会では決して顔を合わせることのない日本のVIPたちが、一夜にして億単位の金と欲望をチップに変えて溶かしていく狂乱の空間。
豪華絢爛なバカラ・クリスタルのシャンデリアが放つ黄金色の光が、イタリア製の最高級ベルベットが張られたカジノテーブルを毒々しく照らし出している。
『――聞こえてる? 詐欺師さん』
右耳の奥に仕込んだ極小の骨伝導イヤホンから、湊の冷ややかな声が響いた。
「ああ。感度は良好だ。お前が偽造したVIPカードのおかげで、顔パスで潜入できたぜ」
『当然よ。私のハッキング技術を舐めないで。カジノの監視カメラのループ処理も終わってる。あんたの顔は、運営側のモニターにはただの金持ちのボンボンにしか映ってないわ』
「優秀な共犯者を持てて光栄だよ」
俺はオーダーメイドのタキシードの襟を正し、シャンパンのグラスを片手に、喧騒に包まれたフロアを悠然と歩き出した。
カジノ特有の、アドレナリンと香水、そして絶望が入り混じったむせ返るような匂い。
俺の脳内にある『絶対記憶』が、すれ違う客たちの顔骨格、歩き方の癖、身につけている装飾品のブランドと推定価格を瞬時に弾き出し、視界にARのように情報をタグ付けしていく。
『ターゲットはVIPルームの第3テーブル。堂島グループの総帥、堂島剛造よ。昨夜、被害者である国家公安委員と最後に接触した疑いのある、裏社会のフィクサー。……見つけた?』
「……ああ。ど派手な成金趣味の男だな」
フロアの最奥。
屈強な黒服に守られた半個室のVIPルームの中央で、葉巻の煙を燻らせながらテキサス・ホールデム・ポーカーに興じている初老の男がいた。
堂島剛造。
首回りには下品なほど太い金のネックレス。
脂ぎった顔には傲慢さが張り付いている。
同席しているのは、彼の腰巾着である二人の悪徳ブローカーだ。
事件の鍵を握る重要参考人。
奴を落とせば、俺を陥れた黒幕へと繋がる絶対的な糸口が掴める。
俺は黒服の制止を視線だけで制し、湊が用意したブラックカードを提示してVIPルームへと足を踏み入れた。
「ご機嫌だな、堂島会長。俺も混ぜてくれないか?」
俺が空いている席に腰を下ろすと、堂島は葉巻を咥えたまま、値踏みするような爬虫類の目で俺を睨んだ。
「……見ねえ顔だな、若造。ここは1ベット最低一千万の鉄火場だ。ガキの遊び場じゃねえんだよ」
「心配には及ばない。金なら腐るほどあるんでね」
俺はディーラー――感情を完全に殺したような、冷たい美貌を持つ若い女性――に向かって指を鳴らした。
「チップを五億円分。すべてこのテーブルに」
その言葉に、堂島の取り巻き二人が息を呑む。
ディーラーの女性の瞳孔が、ほんの一瞬、わずか〇・二ミリだけ拡大した。
(……なるほど。このディーラー、徹底的に訓練されてはいるが、人間の『生理反応』までは殺しきれていない。使えるな)
俺の観察眼は、すでにこのテーブルの支配権を握るための布石を打ち始めていた。
ゲームが始まる。
最初の数ゲーム、俺はわざとらしく負けを重ねた。
チップの山が減っていくたびに、堂島とその取り巻きたちの顔に、獲物をいたぶるような下劣な優越感が浮かび上がる。
「ひひっ、威勢がいいのは最初だけか。会長、昨夜からツキっぱなしですね」
「ああ。昨日の夜、このカジノで一億勝った時から、どうにも運気が向いてきてるらしい」
堂島が葉巻の灰を落しながら、わざとらしく声のトーンを上げた。
――昨夜。
その単語が出た瞬間、俺は右耳のイヤホンを軽く指で叩いた。
『ビンゴよ。堂島のアリバイ』
湊のタイピング音が微かに聞こえる。
『堂島の主張によれば、昨夜の20時から深夜2時まで、彼はこのエデンの園のVIPルームに入り浸りだった。カジノの監視カメラ映像にも、彼がここでポーカーを打っている姿がバッチリ残ってる。被害者が殺された21時15分には、彼は間違いなくここにいた。……完璧なアリバイよ』
「完璧、ね。……湊、この世に人間が作った完璧なものなんて存在しない。俺が今から、そのメッキを剥がしてやる」
俺は誰にも聞こえない声で呟き、配られた二枚のカードをめくった。
スペードのAと、ハートのK。
勝負の時だ。
「昨夜もいらっしゃってたんですか、会長」
俺はチップを弄りながら、世間話でもするかのように切り出した。
「ああ。昨日の夜8時から、ずっとこの席でな。ちょうどこの二人のバカを相手に、カモにしてたところよ」
「ええ、もうコテンパンでしたよ! ちょうど夜の9時過ぎですかね。会長がストレートフラッシュを揃えた時は、さすがに肝を冷やしました」
取り巻きの一人が、へこへこしながら同調する。
「夜の9時過ぎ……ですか。それは凄い」
俺はわざとらしく感嘆の声を上げた。
「ああ。ちょうどその時、ディーラーの姉ちゃんが新しいシャンパンを持ってきたんだ。俺は機嫌が良かったから、姉ちゃんにもチップを弾んでやった。そうだよな?」
堂島がディーラーに同意を求めると、彼女は無表情のまま、わずかに首を縦に振った。
「はい。昨夜21時10分頃、堂島様から多額のチップを頂戴いたしました」
彼女の声には淀みがない。
まるで、あらかじめ用意された台本を読み上げているかのようだ。
監視カメラの映像。
取り巻きの証言。
そして第三者であるディーラーの証言。
見事なまでに強固な、三位一体のアリバイ。
普通の刑事なら、ここで引き下がるしかないだろう。
だが、俺は天才詐欺師だ。
嘘を吐く人間が発する『微小なノイズ』を、俺の絶対記憶が見逃すはずがない。
「……おかしいな」
俺は五千万のチップをテーブルの中央に無造作に放り投げながら、冷ややかに言い放った。
「堂島会長。あんた、昨夜9時過ぎには、ここにはいなかったはずだが?」
その瞬間、テーブルの空気が凍りついた。
堂島の葉巻を持つ手がピタリと止まり、取り巻きの二人が血相を変える。
「……てめえ、急に何を言い出すかと思えば。言いがかりをつける気か?」
「言いがかりじゃない。事実だ」
俺は椅子の背もたれに深く寄りかかり、両手を組んだ。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
『絶対記憶』――アーカイブ展開。
検索条件:『昨夜21時前後の世界』および『現在のテーブル上の全音声データ』。
脳内のスクリーンに、膨大な記憶の奔流が巻き起こる。
「第一の矛盾。お前の取り巻きの発言だ」
俺は目を開き、先ほど「9時過ぎにコテンパンにされた」と発言した男を指差した。
「お前、数分前に隣の男とこんな雑談をしていたな。『昨日は大負けしたから、帰りに深夜の牛丼屋でやけ食いした。あの時間の牛丼は格別だ』とな」
「そ、それがどうした!」
「深夜の牛丼屋、か。……昨日の夜から今朝にかけて、都内のあのチェーン店はシステム障害で全店舗が『臨時休業』していた。ネットニュースにもデカデカと出ていた事実だ。お前は、存在しない牛丼を食ったのか?」
男の顔面から、スッと血の気が引く。
「それは……勘違いだ! 一昨日の話と混ざってたんだ!」
「なるほど。じゃあ、第二の矛盾だ」
俺は視線を、無表情を貫こうとしているディーラーに向けた。
「あんたは『昨夜21時10分にシャンパンを持ってきた』と言った。だが、あんたの『脈拍』は嘘を吐いている」
ディーラーの肩が、微かに跳ねた。
「俺は席に座ってからずっと、あんたの頸動脈の動きを数えていた。ポーカーのディーリング中、あんたの脈拍は常に1分間65回で安定していた。プロの証拠だ。だが、堂島に『昨日の21時10分』について同意を求められたあの瞬間だけ、あんたの脈拍は一瞬80回に跳ね上がり、呼吸が0.5秒停止した」
「……っ!」
「心理学的に言えば、明確な『虚偽の発言』を行う際のストレス反応だ。……堂島、お前、このディーラーの女をいくらで買収して口裏を合わせさせた?」
「ふざけるなッ!」
堂島が激昂し、テーブルを拳で叩きつけた。
「心理学だの脈拍だの、そんなもん証拠になるか! ここには俺が昨夜ずっといたっていう、防犯カメラの映像が残ってんだよ! 警察が確認すりゃ一発で証明できる確固たる証拠がな!」
「……ああ、映像ね」
俺はニヤリと笑い、右耳のイヤホンに向かって合図を送った。
「湊。やれ」
『了解。……三、二、一。ジャックポットよ』
直後。
VIPルームの壁に設置されていた大型モニターの映像が、突如として砂嵐に変わり――次の瞬間、まったく別の映像が映し出された。
それは、まさに『昨夜21時15分』の、このVIPルームの防犯カメラ映像。
しかし、そこに堂島の姿はなかった。
誰もいない無人のテーブルで、ただディーラーだけが虚空を見つめて立っている、無機質な映像。
「な、なんだこれは……ッ!?」
堂島が椅子から立ち上がり、モニターを指差して絶叫する。
「種明かしをしてやるよ」
俺は立ち上がり、堂島を見下ろした。
「あんたが買収したカジノのセキュリティ責任者が作った『偽のループ映像』は、確かによくできていた。だが、映像のタイムコードに仕込まれた暗号化キーが古すぎた。うちの天才ハッカーが、オリジナル(本物)のサーバーから、消されたはずの『真実の映像』をサルベージしてくれたんだよ」
堂島の顔が、絶望的なまでに歪んでいく。
「お前たちのアリバイは、最初から存在しなかった。お前は昨夜21時15分、このカジノにはいなかった。……じゃあ、どこにいた?」
俺は堂島の胸ぐらを掴み、その耳元で悪魔のように囁いた。
「国家公安委員が殺害された、あのペントハウスの真下にいたんじゃないのか?」
「ひっ……!」
「お前がペントハウスの生体認証をハッキングする手はずを整え、実行犯を招き入れた。そして、俺の指紋がついた偽の凶器を用意した。違うか?」
圧倒的な論理と、絶対的な証拠の前に、堂島の強固なアリバイは木端微塵に粉砕された。
彼は膝から崩れ落ち、脂汗をダラダラと流しながら、ガチガチと歯を鳴らした。
「お、俺じゃない……! 俺はただ、言われた通りに手はずを整えただけだ! あんな大物、俺の一存で殺せるわけがないだろうが!」
「……誰の指示だ」
俺は堂島の胸ぐらをさらに締め上げ、氷のように冷たい声で問いただした。
「言え。誰がこの台本を書いた? 警察機構を裏から操り、俺をハメた『黒幕』の名前を言え!」
堂島は恐怖で白目を剥きかけながら、震える唇を開いた。
「警視庁……副総監……『神宮寺』……だ……っ!」
警視庁副総監。
日本の警察組織における、事実上のナンバーツー。
その名前が出た瞬間、俺の中でバラバラだったすべてのピースが、完璧な一枚の絵として繋がった。
なるほど。
それほどの権力者であれば、国家公安委員の暗殺も、SATを私兵のように動かすことも、すべての辻褄が合う。
その時だった。
『――ッ! 零、逃げて!!』
イヤホンから、湊の悲痛な叫び声が鼓膜を劈いた。
『エデンの園の周囲を、機動隊の車両が完全包囲してる! 突入部隊が地下に降りてくるわ! 堂島に吐かせたことが、連中に筒抜けになって――』
直後、VIPルームの分厚い防音扉が、指向性爆薬によって吹き飛ばされた。
凄まじい爆音と粉塵。
俺を陥れた巨大な闇は、すぐそこまで迫っていた。
「……面白い。やってやろうじゃないか」
俺はカードテーブルを蹴り倒して身を隠しながら、極限の死地においてなお、口角を深く吊り上げた。
アリバイは崩した。
黒幕の正体も掴んだ。
だが、タイムリミットまで残り三十時間。
天才詐欺師と電子の魔女の反撃は、ここからが本当の地獄だった。




