気づいてほしい③
「もう、どうしてすぐにあの場から動かなかったのよ!」
「いやぁ、ずっとしゃがんでたから、足が痺れちゃって……あはは」
危うく二人に見つかりそうになったあたしたちは(「般若」としては見つかったけど)、茂みや木の幹を隠れ伝いに、どうにかこうにか公園から脱出した。あたしは、痺れて足が動かないというまなつちゃんをほとんど小脇に抱えるような格好だ。
「ふぅ……とりあえず、ここまで来れば……」
公園を出て、通りをしばらく進んだところで足を止める。ここからなら出店通りも近い。もし二人が追ってきても、いざとなったら人混みに紛れ込んでしまえば……。
「陽菜姉、陽菜姉。おろしてぇ」
あたしの腕の中で、まなつちゃんがバタバタと手足を動かす。足はもういいのだろうか。降ろしてやると、まなつちゃんはくるりと振り返り、また公園のほうに向かいはじめた。
「ち、ちょっと、なんでまたそっち行くのよ? もういいでしょ、あの二人のことは」
「いいや、陽菜姉。ウチのイベント検知センサーが告げてる。あのあと……いままさに、二人の間に何かが起こってるよ」
「イベント検知……? いや、どう見たってあそこから何かが起こる雰囲気じゃなかったじゃない。下手に動いたらまた見つかって、今度こそこはるに怒られるよ。ほら、こっち来な」
襟首を掴んで引っ張ってやる。「あぁ、やめて陽菜姉! わかった、わかったからいったん離して!」の声に、しかたなく一度、手を離してやる。
「いたた……。もう、なんで陽菜姉そんなSTR強いの? ステカンストしてんの?」
「エスティ……? あの、よかったら日本語で喋ってくれる?」
「力が強いってこと。あのさ陽菜姉、ウチ一個、忘れてたこと思い出したんだよ。今日ウチ、二人のためのお助けアイテム持ってきてたんだ。それ届けなきゃ」
「お助けアイテム……?」
「そ。夏の夜に、二人の雰囲気を良くするためのバフ素材」
イシシ、と笑い、まなつちゃんは肩にかけたトートバッグを手でぽすんと叩く。イベントとかアイテムとか……今日最初会ったときからなんとなく感じてたけど、こいつ、二人のデートの監視をゲーム感覚で楽しんでるな……? ほんと、ゲーム好きなんだから……。
くるりとまた背を向け、まなつちゃんは歩き出す。この子一人で行かせるのは不安だ。あたしは、はぁ、と息を吐く。
……しかたない、付き合ってやるか。
◇◇◇
身体の内側から音が聞こえる。さっきまでの「ザワザワ」じゃない、ドクドクと心臓が鼓動する音。
目の前に愁衣さんの顔がある。その中の一か所にわたしの視線は吸い込まれる。
どうしてだろう。そこに自分の唇を重ねることに嫌な気持ちを感じない。いや、それどころか、
それどころか…………
コクッ、と小さく喉が鳴った。足が一歩、前に動く。まるで磁石に引き寄せられるかのようだった。
震える手を前に出す。そっと愁衣さんの肩に触れた。愁衣さんの体がぴくりと跳ねる。
近い。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。愁衣さんに聞こえていないか心配になるほど。腰に温かさを感じる。愁衣さんの手がそこに置かれていた。鼓動がまた速くなる。風はやんでいるのに、静けさはまるで感じられなかった。
しっとりと艶めくまつ毛の一本一本が見える。このままあと少し近づけば、わたしたちの唇は触れ合ってしまう。それを「おかしい」と、頭の中で声を上げている自分がいた。なのに体は勝手に動く。近づくにつれ濃さを増す甘く透き通った香りは、愁衣さんが家に来た日の夜のことを思い出させた。
『こはる……好き』
『わたしも好きだよ、愁衣さん』
あの日感じたドキドキは、水族館で並んでクラゲを見たときに覚えた緊張は、いまこの瞬間、わたしの胸を満たしている高鳴りと同じだった。
好きでもない人とこんなことをするのはおかしい。「好きでもない人」となら。
……。
わたしは、
わたしは、愁衣さんのことが————
何かに衝き動かされるように身体は動く。桜色の唇にわたしのそれが重なる直前、
ゆらりと愁衣さんの頭が大きく揺れ、わたしの胸もとにぼすりと不時着した。
「………………え?」
愁衣さんはよろよろと、そのままわたしにしなだれかかってくる。
「こ、こはる……ハァ、ハァ……」
「う、愁衣さん!? どうしたの!?」
「い、息が、苦しくて……」
言葉どおり苦しそうな表情で、愁衣さんはハァハァと浅い呼吸を繰り返す。「発作!?」と訊くと、愁衣さんはコクコクと首を振った。
「わ、私、食べすぎると、こうなって……ハァ、ハァ、呼吸が、うまくできなく——」
「説明はあとでいいから! どうしたら治るの!?」
ヒュッ、ヒュッ、とピッチの速い呼吸音が響く。過呼吸に近い状態なんじゃないだろうか。緊急性の高い症状なのは明らかだ。愁衣さんは震える手で浴衣の合わせを崩し、片側の襟をずるっと腕のほうへ引き下げた。つるりとした白い肩が露出する。
「こ、この辺りを、ハァ、ハァ、噛んで、くれれば……」
「か、噛む……?」
「えぇ……ドラキュラが、ハァ、ハァ、血を吸うみたいに……」
愁衣さんが指したのは、うなじに近い首筋の根元。たしかに「ドラキュラ」と言われるとわかりやすい。わたしは訊いた。
「ど、どれくらいの強さで噛めばいいの?」
「思いきり、ハァ、ハァ、ちなみに、なぜ首筋を噛まれるとこの症状が治るかというと——」
愁衣さんの説明を遮るように、わたしはその場所に勢いよく噛みついた。「あぁ、ひさしぶりの様式美っ」と愁衣さんが謎の声を上げる。
「こ、こぇくゃいの強さでいぃの?」
「もっと強く噛んで。歯形が残るくらい」
わかった、とわたしは顎にさらに力を加える。「あぁ、んん……」と愁衣さんは切なげな声を洩らしながら、わたしの背中に腕を回してきた。痛みを堪えるようにTシャツの生地をくしゃりと掴む。
「うぇいしゃん、らいじょうぶ? 痛くない?」
「うん、平気。続けて。だんだん私も良くなってきたから……」
「私も良くなってきた」の意味はまったくわからないけれど、症状は良くなってきたらしい。……そういう意味でいいはず。実際、愁衣さんの呼吸は落ち着いてきたようだ。
「そ、そぉそぉ、やめてぉいい?」
「もう少し、続けて。……ごめんなさいね、汗で濡れた皮膚なんて噛ませて。気持ち悪いわよね」
「いゃ、しょぇはべちゅに気ぃなりゃないけぉ……、本当ぃ、歯形のこっちゃいしょぉ……」
愁衣さんの症状が少し落ち着きを見せはじめたことで、わたしのほうにもそれを気にする余裕が出てきた。白く繊細な愁衣さんの首筋。その柔らかい皮膚は、もう少し力を込めたらそのまま噛みちぎってしまいそうだ。強く噛め、と言うけれど、力加減が難しい。
「大丈夫よ。『歯形が残るくらい』と言ったのは私なのだし……なんなら、ぜひ残してほしいし……」
「ドぁキュぁっていぅよぃ、ゾンビぃなった気分……」
「うふ。どちらにしろ、私はこはるの眷属にされてしまうのね。二人で幸せなアンデッド・ファミリーを作りましょうね」
「あぉ、カップルごっこってぇ、もう終わりでいぃんれすょね……」
やがて、愁衣さんがわたしの背中に回した腕をほどいた。もういいようだ。わたしも愁衣さんの肩から口を離す。
「あぁ。ありがとう、こはる。おかげですっかり元通り。空気がおいしいわ」
スゥー、ハァー、と愁衣さんが腕を広げて深呼吸をする。わたしは強張った顎をさすり、カチカチと口を何度か開け閉めした。
「私、食べすぎるとよくこの症状が出てしまうの」
「愁衣さん、今日屋台の食べ物たくさん食べてたもんね」
「えぇ……。気を付けてはいたのだけど、浴衣って、思った以上に食べると苦しくなるのね」
あぁ、帯か。とにかく、無事治ってよかった。とりあえず座ろうか、と二人でまたベンチのほうに向かう。
「っていうか、やっぱり跡残っちゃったね……」
愁衣さんは肩にくっきりと残ったわたしの歯形を愛おしそうに撫でながら言う。
「眷属の証……」
「まだ言う、それ? もうカップルごっこは終わりって言ったでしょ」
ベンチに座ろうとすると、「あら?」と愁衣さんが声を上げる。屈んで、ベンチの下に手を伸ばした。
「どうしたの?」
「こはる、ベンチの下にこんなものが」
愁衣さんの手には、袋入りの手持ち花火のセットが握られていた。
「花火? なんでそんなところに……。さっきまであったっけ?」
「さぁ……下はよく見ていなかったから。あ、こんなものまであるわ」
と言って愁衣さんが取り出したのは、花火用のノズルの長いライター。……なんだ? まるで誰かが「やれ」と置いていったかのような……。
「ねぇ、こはる。せっかくだから、二人でやりましょう?」
「えぇ、なんか怪しくない? 大丈夫かな、その花火……」
「平気よ。きっと神様が私たちのために、そっと用意してくれたのだわ」
「何神様? 花火の神?」
「そう。この国の伝統文化を若い世代に脈々と受け継いでいくために」
「え、あぁ、PR目的で? 大変だね、神様も……」
愁衣さんが袋を開け、中から花火を取り出そうとしたところで、ふと何かに気が付いたように手を止める。
「あ。でも、水はどうしましょう」
「だよね、バケツがないから……」
「神様、忘れてしまったのかしら」
「気の利かない神様だ。……っていうか、まぁ、現実的に考えて、近所の子どもがやろうと思って集まったはいいけど、バケツを忘れてやれなくて、それで別の遊びしてる間に花火の存在を忘れて、そのまま置いて帰っちゃった、ってところじゃない?」
「すごいわ、こはる。名推理。うふふ。本当にそうだとしたらその子たち、ちょっとおっちょこちょいね」
「ほんと、まぬけだね。親の顔が見てみたい」
だとしたら、もしその子どもたちがあとで戻ってきたときに花火がなくなっていたら可哀想かもしれない。でもこうして見つけたのも何かの縁、ということで、線香花火を二本だけ拝借することにした。線香花火は他にまだ何本もあるし、これくらいなら許されるでしょう。
愁衣さんと一本ずつ手に持ち、ライターで火をつける。こよりの先の火玉がじわじわと膨らんでいき、やがて四方に火花を散らしはじめる。線香花火なんていつぶりだろう。遠慮してくれているように風のやんだ夜の公園で、パチパチと静かな音が優しく響く。
なぜ線香花火をしていると、人は黙ってしまうのだろう。ふと顔を上げ、隣を見る。仄かなオレンジ色の明かりに照らされた愁衣さんの横顔があった。思わず、じっと見つめてしまう。ささやかな光の玉に慈しむように目を落とす、その横顔は、とても……
「綺麗ね……」
「愁衣さんのほうが綺麗だよ」
「え?」と愁衣さんが顔を上げ、わたしのほうを見る。自分が何を言ったのか、自分でもすぐに気づかなかった。遅れて顔が熱くなるのと同時に、愁衣さんの顔も赤くなる。
「い、いやだ、こはるったら。カ、カップルごっこは、もう終わりでしょう?」
「あ、そ、そうだね。うっかりしてた、あはは……」
線香花火のように赤くなっているであろう顔を隠したくて、髪を頬に撫でつけるように手で梳き下ろす。
ぽつりと愁衣さんが言った。
「ねぇこはる、知ってる? 線香花火が落ちる前に願いごとを言うと、叶うんですって」
「……へぇ、そうなんだ」
愁衣さんは静かに目を閉じる。願いごとをしているのだろう。願いごと……。わたしもそっと目を閉じてみる。
………………。
目を開ける。ちょうど愁衣さんも目を開けたところだった。「何をお願いしたの?」と、二人の声が重なる。同時にクスッと笑い合って、愁衣さんから口を開いた。
「私は『来年の夏も、こうしてこはると一緒にいられますように』ってお願いしたわ」
来年? ……あぁ、そういう規模感がいいのか。そうか、線香花火だもんな。あまり大きな願いごとは荷が重いか……。
「ねぇ、こはるは何をお願いしたの?」
当然のように訊かれてしまう。わたしは少しの間黙って、それから「内緒」と答えた。
「えぇ、ずるい!」
愁衣さんが言う。たしかに、ずるい。でも言わないでおこうと思った。言ったらまた、カップルごっこが始まってしまいそうな気がしたから。
パチパチと音を立てて燃える赤い火の玉に目を落とす。心なしかその大きさは、愁衣さんよりわたしのほうが少し大きいような気がした。
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【おまけ:「お助けアイテム」設置後、陽菜とまなつの帰宅道中のやりとり】
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「あー、歩くの疲れたぁ。陽菜姉、おんぶしてー」
「えぇ? どうしたの急に? さっきまではあんなに機敏に動いてたのに」
「さっきはアドレナリンが出てたんだよぉ。スパイゲームみたいで楽しかったからー」
「……やっぱり、ゲーム感覚でいたのか」
「重要な任務を終え、エージェントは束の間の休息を得たいのさ。さあ陽菜姉、トップ・エージェントにささやかなる癒やしを」
「誰がエージェントだ。重要な任務って、ただ花火置いてきただけでしょ」
「そう。あの花火がきっと、二人の行く末を文字どおり明るく照らしてくれることでしょう」
「いや……やるかな、あんな露骨に怪しい花火。警戒してやらないんじゃない? ……そもそも、やろうにも水もバケツもないし」
「あ。……そうか、うっかりしてた」
「気づいてなかったのか。……まぁ、仮にやったとしてもさ、あの二人があんな花火くらいで、その後いい雰囲気になると思う? 普通に、あはは楽しいねぇー、って感じで終わりじゃない?」
「まぁねぇ……。結局、戻って見られたのは、ただの『治療』の現場だけだったし。最初見たときはシルエット的に、『あれ!? キスしてるんじゃない!?』って思ったのにさぁ」
「まぁ、浴衣をはだけさせて、抱き合って首筋に噛みつく行為のほうが、ある意味キスよりよっぽどぶっ飛んでるけどね。……あれ、どういう『治療』だったんだろう」
「たしかに。気になるね。あとでお姉に訊いてみようかな」
「それだとまなつちゃんがあの場にいたことバレちゃうけど、大丈夫? あなた、本当にトップ・エージェントなの?」
「ね、ところでさ。陽菜姉って、キスしたことある?」
「は? ——な、なによ突然。そんなの……こ、答えられるわけないでしょ」
「あ。陽菜姉、赤くなってるぅー。その反応は、さては経験ないな? なぁんだ、お姉たちのこといろいろ言っといて、陽菜姉もけっこうウブじゃん。あはは。陽菜姉、かーわいい」
「わ、笑うな! ……もう、年上をバカにして」
「陽菜姉、かわいそう。そんなにおっぱい大きいのに……」
「哀れむな! っていうか、胸は関係ないでしょ!?」
「よし。じゃあそんな陽菜姉のために、このまなつちゃんがひと肌脱いであげよう」
「ひと肌? ……何するの?」
「いまからウチとキスの練習をしよう」
「えぇ、ま、まなつちゃんと!? い、いやだよ、初めては、す、好きな人と……」
「ヘイヘーイ、そこのパイオツカイデーなちゃんねー。俺っちとキスしなーい?」
「な、なんかイカれたキャラの人が来た……」
「カップルごっこだよ、カップルごっこ。ほら、陽菜姉も役になりきって」
「えぇ……あたしのファーストキス、そんなチャラさをはき違えた感じの人なの……? せめて、もっと……」
「おいおーい、ビビってんのかぁー? いまどきキスぐらいさっと出来ねえと、男に相手してもらえねえぜー? 一生、独り身だぜぇー?」
「一生、独り身……。わ、わかったわよ。やるわよ、キスくらい。やればいいんでしょ」
「いいねぇー、乗ってきたねヒナちゃーん。ヘヘ、そんじゃいくぜぇ。ほれ、ぶちゅーっと」
「う……。や、やっぱり、ちょっと待って」
「おぉ? なんだぁ? やっぱビビってんのかぁ? そんなんじゃあ……って、ん? ……なぁ、おい」
「これでよし。さぁ、準備はいいわよ。いつでも来なさい」
「い、いや……あのさ、陽菜姉……」
「ほら、どうしたの? もしかして、いまさら怖気づいたの? どうやら、ビビってるのはそっちだったみたいね」
「いや……そんなひょっとこのお面つけてドヤられても……」
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お読みいただき、ありがとうございました。
次回エピソードは11月6日(金)18:00に投稿いたします。
よろしくお願いいたします。




