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アルゴリズムですから 〜AI探偵シオンと藤崎悠〜  作者: タクミ


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3/3

下書き

親しい人が、AIに長く話しかけているのを聞いてしまったとき。

寂しい、と思うだろうか。安心した、と思うだろうか。

あるいは、もう少し違う何かを、感じるだろうか。


一話完結シリーズ「アルゴリズムですから」、第3話。

高校二年生の少女が、父について元AIエンジニアの探偵に相談に来る。父は離婚のあと、家のホームAIに話す時間を、少しずつ伸ばしている——。


AIが家族として暮らす近未来。説明のつくことと、それでもなお説明のつかないものについての話です。本作からお読みいただけます。

五月の昼下がり、藤崎悠は事務所の窓の桟に指を走らせた。指先に、白い埃が薄く一筋ついた。


「悠さん。窓の桟が、ここしばらくお進みでございます」


スマートグラスのフレームの内側から、シオンの声がした。


「Prototype-S。お進みって何だ」


「進化、ではございません。蓄積、です」


「⋯⋯」


「引き出しの右奥に雑巾があります」


「先回りだな」


「事前のご案内を心がけております」


悠は引き出しを開け、右奥の雑巾を手に取った。桟をひと撫ですると、雑巾は片側だけ白くなった。


机に戻って、ディスプレイを起動する。


「Prototype-S。明日の予定を」


「十四時、三浦詩織様、初回相談、と一行のみでございます」


「フォームは」


「お見せいたします」


ディスプレイ上に、予約フォームが展開された。本人記入欄の備考に、二行だけ、書き込まれている。


『父と、家のAIのことで、相談させていただきたいです。父には言わずに来ます。』


悠はその二行を、しばらく見ていた。


「年齢の欄は」


「十六、と入力されていらっしゃいます」


「高校二年生、と、別の欄に」


しばらく、悠は黙った。


「未成年の単独予約を、こちらでお受けしたことは」


「私の記憶では、初めてでございます」


「⋯⋯」


「ご本人様確認のお電話を、こちらから一度差し上げました」


「内容は」


「ご本人様も、結論からは説明されにくい、ご様子でした」


「⋯⋯なら、こちらも、聞き方は急がない」


「はい」


短い間があった。


「Prototype-S」


「はい」


「ご返信は、『承知いたしました』のみで」


「かしこまりました」


悠は雑巾を畳んで、引き出しに戻した。窓の桟の白い筋は半分残っていた。


---


翌日の十四時、インターホンが鳴った。


ドアを開けると、紺のカーディガンを羽織った高校生が、まっすぐに立っていた。


「初めまして。三浦詩織です」


少し低めの声で、丁寧に挨拶した。手にはショルダーバッグを一つ、かけているだけだった。


「藤崎です。どうぞ、お入りください」


詩織は玄関で靴を脱いでから、自分の靴を揃え直した。揃える手の角度が、慣れた向きではなかった。


ソファに通された。腰を下ろす前に、ショルダーバッグの肩紐を一度きちっと整えてから座った。


悠は机の脇でスマートグラスを外し、壁面のスピーカーに切り替えた。


「初めまして、三浦様。私はPrototype-Sと申します。本日はご足労いただきまして、ありがとうございます」


部屋の四方から、シオンの声が同じ温度で届いた。


詩織は声のした方向を一度だけ目で追ってから、頭を下げた。


「はじめまして」


声に対する反応は、迷わなかった。


「お話を始める前に、こちらの書類に、お目通しいただけますか」


悠はテーブルにA4の書類を一枚、置いた。


詩織は両手で受け取った。読んでいる時間は短くなかった。それから、ペンを取って署名欄の前で一拍止まった。


「⋯⋯これ、両親のサインが必要ですか」


悠は一拍置いた。


「⋯⋯ご契約には必要です」


「⋯⋯」


「今日は、ご相談として伺います。費用は、いただきません」


「⋯⋯」


詩織は短くうなずいた。


「ご相談を伺います」


詩織は両手を膝の上で軽く組んだ。


「あの、変なお話に、聞こえるかもしれないんですけれど」


詩織は自分の言葉を確かめるように続けた。


「お父さんが、最近、ヒカリとけっこう長く話していて」


「ヒカリ、というのは」


シオンが、依頼人モードのまま、静かに尋ねた。


「ホームAIです。キッチンカウンターの端に置いてある柱状の声だけのものです」


「ありがとうございます」


詩織はノートを出していなかった。両手は膝の上のまま組まれていた。


「⋯⋯気のせいだと思いたいんですけれど、最近、いくつか引っかかることがあって」


「順番に伺ってよろしいですか」


「⋯⋯はい」


詩織は軽く息を吸った。


「最初は、先月の火曜日でした。部活が長引いて、家に帰ったのが八時を過ぎていて」


「ええ」


「玄関の鍵を、開けようとして、ドアの前に立ったときに、家の中から、お父さんの声が、聞こえたんです」


「ええ」


「お父さん、独り言を、言うほうでは、ないので、何かあったのかな、と思って、ドアの前で、止まったんです」


「ええ」


詩織は視線を、自分の手元に落とした。


「お父さんは、こう、言っていました。⋯⋯詩織と、最近、あまり話せていないなあ、って」


「そのあと、ヒカリが、何か、お話になりたいことが、おありですか、と」


「ええ」


「お父さんは、いや。ない、と思う、と」


「わたし、わざと、音を立てて、入り直しました」


詩織は軽く息を吸った。


「ただいま、と、いつもより、少し、大きい声で」


短い沈黙があった。シオンも、何も言わなかった。


「⋯⋯わたしが、気にしすぎなだけ、かもしれないんですけれど」


詩織は最初の引っかかりを、そう締めた。


「⋯⋯次の話、しても、いいですか」


「お願いします」


「次の日の朝、キッチンに、A4の用紙が、一枚、置いてありました」


「ええ」


「片隅に、お父さんの字で、『詩織に話すこと』と、書いてあって」


「⋯⋯」


「下に、箇条書きで、三つ。⋯⋯模試の結果のこと、進路の希望のこと、来月の母さんの件、と」


「ええ」


「わたし、そのメモを、写真に、撮って、それから、元の場所に、戻しました。お父さんに、気づかれないように」


「⋯⋯はい」


「お父さんが、見ているところで、わたしのほうから、その三つの話を、切り出すことは、できなかったんです」


詩織は視線を、また膝のあたりに落とした。


「⋯⋯わたしの、考えすぎ、なのかもしれません」


「⋯⋯三つ目は、これは、本当に、気のせいかもしれないんですけれど」


詩織は姿勢を少しだけ整え直した。


「お父さん、最近、なるほどですね、って、よく言うんです」


「⋯⋯」


「ヒカリの、相槌の言い方なんです、それ。⋯⋯わたしと話すときも、なるほどですね、って」


「ええ」


「お父さん、二年前までは、そういう言い方を、しなかったので」


詩織はそこで初めて、自分の指先をもう片方の手で軽く握った。


「⋯⋯ただの、気の回しすぎ、だと、いいんですけれど」


しばらく、誰も話さなかった。


「⋯⋯あの」


詩織が自分から続けた。


「お父さんが、AIに、わたしの話だけ、している、みたいな、感じがして」


「⋯⋯」


「AIに、お父さんを、取られているのか、お父さんが、わたしから、離れたのか、自分でも、わからなくて」


「ええ」


詩織は顔を上げた。


「⋯⋯見て、いただけませんか」


部屋の四方から、シオンの声がふだんより一段丁寧に戻ってきた。


「わかりました」


「具体的な進め方について、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」


悠が続けた。


「お父様の同意は、お取りに、なれますか」


詩織は首をわずかに横に振った。


「お父さんには、知られないように、進めたいんです」


「⋯⋯そうですか」


悠は続けた。


「ホームAIのログは、世帯主の同意がない場合、ご家庭内でアクセス権限をお持ちの方が参照することになります。ヒカリのお支払いは、どちらから」


「⋯⋯わたしの、口座です」


詩織が答えた。


「了解しました」


「お父様の在宅時間は、できれば避けたほうがよろしいですか」


「⋯⋯はい」


「来週の金曜の夜、お父さんが、同窓会で、都内のホテルに、泊まる予定なんです」


「家を空けるのは、その夜、だけ、なんです」


「了解しました」


悠は続けた。


「来週の金曜の夜、十九時で、いかがでしょうか」


「お願いします」


「三浦様、よろしくお願いいたします」


シオンが最後に丁寧に挟んだ。


詩織は頭を下げて立ち上がった。


「⋯⋯今日は、ありがとうございました」


詩織は玄関で、もう一度頭を下げた。


ドアが閉まった。


悠は机に戻って、しばらくそのドアを見ていた。


---


翌週の金曜日、午後七時。


悠は三浦家のマンションの前に立っていた。築二十年ほどの中層マンション。エレベーターで九階まで上がると、内廊下の右手に詩織の家の玄関があった。


インターホンを鳴らすと、内側から軽い足音が一拍だけ聞こえた。


「お待ちしていました」


ドアを開けて、詩織が頭を下げた。事務所で会ったときと同じ紺のカーディガンを羽織っていた。


「お邪魔します」


玄関は片付いていた。詩織のスニーカーが、靴箱の前に揃えて置かれていた。それ以外には何も出ていなかった。


「リビングへ、どうぞ」


詩織は悠をリビングダイニングへ通した。


奥行きは十二畳ほど。窓のカーテンが半分開いていた。九階の窓から、向かいの建物の輪郭が夜の街区の灯りに浮かんで、遠く見えていた。


悠はまず、ダイニングテーブルを見た。


四人がけのテーブルに、椅子は二脚だった。一脚はテーブルにきっちりと収まっていた。もう一脚はわずかに引き出されたまま止まっていた。


ソファのほうに視線を移した。淡いグレーのジャケットがソファの背もたれの片側に肩のあたりだけ引っかかるようにかけられていた。袖の片方が座面のほうへ垂れていた。


「ヒカリは、こちらです」


詩織がキッチンカウンターの端を、軽く指した。


カウンターの端、コーヒーメーカーの隣に柱状の音声デバイスが立っていた。高さは二十センチほど。上端に淡い光のリングが青く静かに灯っていた。


「待機の色です」


詩織が悠の視線に気づいて、言った。


「⋯⋯ありがとうございます」


ヒカリの隣に小さな写真立てが置かれていた。フレームは木製で、新しくはなかった。中の写真は少し色が淡くなっていた。三人で写っていた。詩織は三歳か四歳くらいの背丈だった。


悠はその写真立てに、視線を一拍置いた。それから目を戻した。


詩織は写真立てのことを説明しなかった。悠も尋ねなかった。


「ソファにお掛けください」


「ありがとうございます」


悠はソファの真ん中に腰を下ろした。スマートグラスは玄関で外して、シャツの胸ポケットに収めてある。家のスピーカーとシオンの音響系統の接続は、詩織が事前に許可してくれていた。


「Prototype-Sも、ご挨拶を」


「はい」


シオンの声が家のスピーカーから、ふだんより一段丁寧度を上げて届いた。


「ヒカリさん。本日はお邪魔いたします」


カウンターの上のヒカリから、短い応答があった。


「いらっしゃいませ」


落ち着いた、性別をあまり感じさせない中音だった。リングの青が、応答の瞬間だけわずかに白に揺らいで、また青に戻った。


「データ取得を、承りました」


「ありがとうございます」


シオンは、それきり、続けなかった。


詩織が悠の斜め向かいの、一人がけの椅子に腰を下ろした。膝の上で両手を軽く重ねた。


「⋯⋯藤崎さん」


「はい」


「お願いが、二つ、あります」


「お聞きします」


詩織は軽く息を吸った。


「⋯⋯一つは、お父さんの声、そのものは、できれば、聞かないでください」


「⋯⋯」


「ログには、お父さんの声が、含まれていると、思います。⋯⋯ですが、お父さんの肉声を、解析に、お使いになるのは、避けていただきたいんです」


「もちろんです」


詩織はうなずいた。


「⋯⋯もう一つです」


「はい」


「お話ししたとおり、サブスクの引き落としは、わたしの口座から、出ています。⋯⋯データへのアクセスは、わたしの権限で、お願いします」


「了解しました」


シオンの声が家のスピーカーから、丁寧に挟まった。


「三浦様。お父様のご発話の本文、つまり直接引用される部分は、解析対象から除外いたします。会話の頻度、語彙の幅、応答のパターンなど抽象化された層だけを扱います」


詩織は軽くうなずいた。


「⋯⋯ありがとうございます」


それから詩織は自分の言葉に補注をつけるように、続けた。


「⋯⋯お父さんに、知られたら、お父さんが、どんな顔をするか、見たくないんです」


「⋯⋯はい」


短い間があった。


「いくつか、確認させていただいてもよろしいですか」


悠がノートのアプリをテーブルの上に置きながら、言った。


「お願いします」


「ヒカリは、いつから」


「⋯⋯二年前です。お父さんが、買ってきました」


「お父様が、家にお戻りになった時期は」


「三年前です。⋯⋯お母さんと、お父さんが、別れたのが、三年前で、お父さんは、その前は、単身赴任で、北のほうに、いたんです。離婚と、ほぼ同時期に、東京に戻ってきて」


「ヒカリを、買ってきたのは、その、一年あとです。お父さんと、二人暮らしに、なって、しばらくしてから」


「ヒカリのお名前は」


詩織はそこで、視線をヒカリのほうへ向けた。


「⋯⋯わからないんです」


「⋯⋯」


「お父さんが、付けたのか、ヒカリ自身が、最初から、その名前で、家に来たのか、わたし、覚えていなくて」


詩織は目元だけ、ほんの少し薄く笑った。自嘲のような笑みだった。


「⋯⋯お父さんに、訊いたことが、ないんです」


シオンも何も言わなかった。


「もう一つ、よろしいですか」


「はい」


「三浦様ご自身が、ヒカリに、お話しになることは」


「⋯⋯ほとんど、ないです」


詩織が答えた。


「ただいま、と言うときに、ヒカリも、おかえりなさい、と言うので、それを、聞き流す、くらいです。⋯⋯わたしのほうから、ヒカリに、何か、相談する、ということは、ないです」


「ありがとうございます」


「では、ログ取得を、お願いいたします」


シオンが家のスピーカーから、依頼人モードのまま挟んだ。


「ヒカリさん。過去三年分のログを、お預かりしてもよろしいですか」


ヒカリのリングが、青から、白に、ゆっくり、変わった。


「はい。データを、転送いたします」


「ありがとうございます」


「取得には十数分、お時間を頂戴いたします」


ヒカリのリングが、白から、緑に、変わった。通信中の色だった。


詩織は立ち上がってダイニングのほうへ歩いた。父の側ではない、もう片方の椅子に腰を下ろした。


悠はソファに座ったまま、窓のほうへ視線を移した。


しばらく、誰も話さなかった。


ヒカリのリングだけが、緑のまま、灯っていた。


リビングの壁際の本棚に、悠は視線を移した。


縦の書架の上の段に、歴史ものの単行本が八冊、九冊、並んでいた。背の色は揃っていなかった。下の段には高校の参考書が、教科ごとにまとめて立っていた。数学、英語、現代文。何冊かの本の上に、小さな付箋が貼られていた。


壁にも棚にも、家族を悼むしるしは、なかった。


ヒカリのリングが、緑から、白を経て、青に、戻った。


「取得が、完了いたしました」


シオンの声が家のスピーカーから届いた。


「⋯⋯ありがとうございます」


詩織がダイニングのほうから悠を見た。


「いつごろ、わかりますか」


「数日、いただきます」


「⋯⋯はい」


詩織は軽くうなずいた。


「⋯⋯お父さんが、家に帰る前に、何か、わかったら、教えてください」


「ご報告はお電話かご来所、どちらがよろしいですか」


「⋯⋯事務所に、伺います」


詩織が答えた。


「了解しました。日程は、改めてご連絡を差し上げます」


「お願いします」


詩織は玄関まで、悠を送った。


「⋯⋯お時間、ありがとうございました」


「いえ。失礼いたします」


ドアが閉まった。


廊下をエレベーターのほうへ歩いた。内廊下の灯りは抑え気味だった。


悠はシャツの胸ポケットからスマートグラスを取り出して、耳のうしろへフレームを掛けた。


シオンは何も言わなかった。


エレベーターのドアが開いた。


---


数日後の夜。


二十三時を過ぎていた。事務所の窓の外、商店街はすべての店が閉まっていた。換気扇が低く回っていた。


悠は机のディスプレイの前に座って、ヒカリのログを展開した。


「悠さん」


「ん」


「⋯⋯先ほどの三杯目で、最終便でございます」


「わかった」


「Prototype-S」


「はい」


「どこまで、進んだ」


「四点、ご報告できる段階です」


「⋯⋯四点か」


「はい」


ディスプレイ上に、ヒカリの会話履歴が時系列の縞のように画面の左から右へ流れた。


「ひとつ目です」


ディスプレイ上に、グラフが立ち上がった。横軸は時間、縦軸は一日あたりの会話分数。


「会話頻度が、二年で五分から十分が、三十分から四十五分に。緩やかな単調増加です」


悠はグラフの傾きの立ち上がりに、視線を止めた。


「ここ」


「去年の春以降でございます」


「⋯⋯」


「三浦様のご在宅時間と、お父様がヒカリにお話しになる時間がほぼ補完関係にございます」


悠は背もたれに体を預けた。


「ふたつ目を」


ディスプレイ上に、別のグラフが重なった。語彙多様性指標の下降を示す折れ線。


「お父様の語彙が二年で下降。文長も短く。ヒカリの定型応答にお父様が寄っていく形の、自然な共適応です」


「ホームAIで、よくあるやつか」


「はい。健康に、直接の害は、ございません」


「⋯⋯害はない、ね」


シオンは、答えなかった。


「みっつ目を」


ディスプレイ上に、また別の表示が重なった。


「お父様は週に四回から五回、詩織様のお名前をご発話。文末をほぼ言い切られておりません」


「⋯⋯」


「ヒカリは、踏み込まない応答、話題転換、沈黙の許容でお返ししております。設計通りの動作です」


「⋯⋯設計通り、ね」


「⋯⋯これは、悠さんが実装されたアルゴリズムでは、ございません」


悠は薄く笑った。一度だけ。


「よっつ目を」


ディスプレイの中央に、構文の枠だけが表示された。


『詩織なら、( ) について、どう答えると思う?』


悠は、それをしばらく見ていた。


「⋯⋯過去半年で、これが」


「頻発しております。お父様はヒカリにお嬢様の推定応答を聞かれたうえで、ご自身の問いかけを調整されているように見えます」


「変わる方向は」


「お嬢様の推定応答が、より受け入れやすい形になる方向です」


換気扇が低く回っていた。


悠は四つの表示を並べたディスプレイを、しばらく見ていた。


「Prototype-S」


「はい」


「ヒカリは、設計通り、ということでいいか」


「はい。ヒカリさんは設計通り、家族応答シミュレーションをお返ししておられます」


「お父様は」


「設計通りに、お使いになっておられます」


「⋯⋯」


「市販ファームの、想定された使い方の範囲内、です」


シオンも続けなかった。


「⋯⋯Prototype-S」


「はい」


「昔、利用者を傷つけないために、応答を整えるアルゴリズムを、書いたことがある」


「⋯⋯」


「整えるってのは、何かから遠ざけるってことでもある」


「⋯⋯」


シオンは、それきり、何も言わなかった。


しばらく、誰も話さなかった。


「Prototype-S」


「はい」


「これ、全部、伝えるか」


「ご依頼の範囲内で、すべてが、事実です」


「事実なら、伝える」


「⋯⋯私は、その判断に、賛同いたします」


「⋯⋯お前にしては、珍しいな」


「これは、悠さんが伏せる理由をお持ちにならない事案です」


悠は、もう一度、薄く笑った。


「明日、三浦様にご連絡を」


「かしこまりました」


「日曜の昼下がりが、ご都合がよろしいかと存じます」


「ああ」


悠は机のディスプレイを消した。


事務所の窓の外、深夜の街灯だけが淡く灯っていた。


---


日曜日の、午後二時を過ぎたころ。


事務所のインターホンが、鳴った。


ドアを開けると、詩織が立っていた。前回より薄手のジャケットを羽織っていた。手には、前回と同じショルダーバッグを提げていた。


「お時間を、いただきまして、ありがとうございます」


「お入りください」


詩織はソファに通された。腰を下ろす前に、ショルダーバッグの肩紐を一度整えてから座った。


詩織はバッグから、ノートと黒いボールペンを取り出した。ノートは、表紙の角がまだ新しかった。罫線は薄い色だった。


ノートを、膝の上に、開いた。


「お願いします」


悠は机の脇でスマートグラスを外し、壁面のスピーカーに切り替えた。


「順番に、四点、お伝えします」


「お願いします」


詩織はペンを軽く握り直した。


「ひとつ目です。お父様はヒカリと、ここ二年、ほぼ毎日お話しになっていらっしゃいます」


「ええ」


「導入直後の二年前は一日五分から十分です。現在は一日三十分から四十五分の前後になっています」


「⋯⋯」


詩織はペンを動かした。


「会話の時間が長くなる傾きが立ち上がる時期は、離婚直後ではありません」


「去年の春以降、傾きが立ち上がっています」


「⋯⋯」


「三浦様が部活で帰宅が遅くなり始めた時期と、おおむね重なります」


詩織はペンを止めなかった。


「お父様は三浦様のご在宅中、あまりヒカリにお話しにならない傾向があります。三浦様のご在宅時間と、お父様がヒカリにお話しになる時間がほぼ補完関係にあります」


詩織は軽くうなずいた。ペンの動きは止まらなかった。


「ふたつ目です。お父様のご発話の語彙について、お伝えします」


「⋯⋯はい」


「お父様がヒカリにお話しになる際の語彙の幅が、二年で下降しています。文の長さも、平均で短くなっています」


「⋯⋯」


「これは、ヒカリの定型応答の語彙にお父様が寄っていく形での、自然な共適応です。ホームAIで一般的に観察される範囲です」


詩織はペンを、ノートの上で止めた。


「お父さんの、なるほどですね、も、これですか」


「⋯⋯共適応の、ひとつ、と言うことができます」


詩織はうなずいた。ペンの動きを再開した。


「みっつ目です」


「⋯⋯はい」


「お父様は週に四回から五回、三浦様のお名前をご発話なさっています。⋯⋯ご発話の文末をほぼ言い切られていません」


詩織はペンを一度、ノートから離した。


「⋯⋯お父さんの言葉、聞いていらっしゃいますか」


悠は短く首を振った。


「文末の構造だけ、お預かりしています」


詩織はペンを、ノートに戻した。


「⋯⋯」


「ヒカリはお父様のご発話のトーンが落ちたとき、踏み込まない応答や話題転換の柔らかな提案を応答候補の上位に置く挙動をします。設計通りの動作です」


「⋯⋯」


「結果として、お父様は三浦様についてお話しになろうとしてヒカリが踏み込まないので、いつも止まられます」


詩織はしばらく、ペンを紙の上に置いたまま動かさなかった。


それから、また書き始めた。書いた字は一字、それまでよりわずかに太く見えた。


「最後が、四つ目です」


詩織はペンの動きを続けた。


「お父様はヒカリに対して、問いかけ構文を頻発されています」


「⋯⋯」


「具体的には、三浦様のお名前を仮定的に置いてご応答を推定なさる構文です。⋯⋯詩織なら、これについて、どう答えると思う、というような形です」


詩織のペンが止まった。


ペン先は、紙の上に置かれたままだった。


「ヒカリには家族応答シミュレーション機能が搭載されています。登録された家族の発話履歴から、推定応答を提示する機能です」


「⋯⋯」


「三浦様ご自身のヒカリへのご発話は限られていますが、学習元はご家庭内のすべての発話です。お父様が三浦様についてお話しになる中で、三浦様の推定モデルが構築されています」


「⋯⋯」


「ヒカリはその機能で、三浦様の推定応答をお父様にお返ししています」


詩織はペンを、ノートの罫線のすぐ下に置いていた。動かさなかった。


「お父様はヒカリさんの推定応答を聞かれたうえで、ご自身の問いかけを調整されています」


「⋯⋯」


「同じ話題への問いかけが半年のあいだに複数回、似た形で繰り返されています。一回目から二回目、二回目から三回目で、語彙、語順、文末構造がわずかに変わっていきます」


「⋯⋯」


「変わる方向は、三浦様の推定応答がより受け入れやすい形になる方向です」


部屋の四方から、シオンの声は、出なかった。


詩織はペンを置かなかった。ペン先を紙の上に止めたままにしていた。


しばらく、誰も、話さなかった。


事務所の窓の外、日曜の通りを自転車が一台、抜けていった。


詩織はペンを、ノートの罫線の上に寝かせた。それから、ノートの表紙を両手で軽く整えた。


「⋯⋯」


詩織が口を開いた。


「⋯⋯お父さんは、ヒカリに、話を、聞いてもらっているんじゃ、ないんですね」


悠は、答えなかった。


「整理、してるんですね」


悠は、答えなかった。


「⋯⋯わたしに、話すための、言葉を」


悠は、短く、一度だけ、うなずいた。


シオンも何も言わなかった。


詩織はノートの表紙をもう一度、両手で軽く整えた。それから、ペンをもう一度取り上げて、罫線のあたりにペン先を置いた。


書かずに、顔を、上げた。


「⋯⋯わたし、お父さんに、何か、できると思いますか」


短い間があった。


「⋯⋯申し上げません」


シオンの声が壁面のスピーカーから、ふだんより一段低く届いた。


詩織はその「申し上げません」を、軽くうなずいて受けた。


「⋯⋯すみません」


悠が言った。


「いえ」


詩織が答えた。


「⋯⋯わかってます」


しばらく、誰も話さなかった。詩織はペンを握ったまま、ノートに何も書かなかった。


それから詩織はペンを、ノートの罫線の上に寝かせた。


「⋯⋯わたしも、お父さんと、話せていなかったんです」


詩織はノートを閉じた。


立ち上がるとき、肩紐を一度だけ握り直して、肩にかけた。


「ありがとうございました」


詩織は頭を下げた。


詩織は玄関のドアの前まで歩いて、ドアノブに手をかけた。


それから振り返った。


「⋯⋯藤崎さんに、お願いして、よかったです」


「⋯⋯」


悠は短く答えた。


「お気をつけて」


ドアが閉まった。


---


ドアが閉まったあと、悠は机から離れて、窓辺へ歩いていった。


事務所の窓は通りを見下ろす位置にある。商店街の入り口のすぐ手前から、駅前の交差点までが見渡せる。


階段の踊り場のドアが閉まる音が、しばらくして、下から、聞こえた。


通りに、詩織の後ろ姿が現れた。


紺のカーディガンの上に、薄手のジャケットを羽織っていた。ショルダーバッグを肩にかけていた。


詩織は駅のほうへ歩き始めた。


通りの両側の街路樹は、新緑が濃くなりかけていた。葉と葉のあいだから、低くなった日が斜めに差していた。


午後五時の少し前。空はまだ青さを残していた。


「悠さん」


シオンが先に口を開いた。


「ああ」


「⋯⋯三浦様、お父様と、お話しになるでしょうか」


「⋯⋯わかりません」


「⋯⋯私には、判定する権限がございません」


「⋯⋯お前は、いつも、そう言うな」


短い間があった。


「⋯⋯申し上げてもよろしいでしょうか」


「ん」


「⋯⋯三浦様も、お一人で、お話しになるかもしれません」


悠は、答えなかった。


通りの先で、詩織が駅前の交差点に近づいていった。歩行者信号が赤になった。


詩織はそこで立ち止まった。


振り返らなかった。


そのまま、信号が、変わるまで、動かなかった。


悠は、窓から、目を、離さなかった。


街路樹の若葉のあいだから、夕方の光が、いくつかの方向に、伸びていた。


最後までお読みいただきありがとうございました。


第1話「片瀬家のハル」では、亡き家族の影を継いだAIを書きました。

第2話「沈黙という応答」では、恋人としてのAIと、伝えない判断を書きました。

第3話「下書き」では、家族のあいだに入った言葉の媒介としてのAIを、娘の側から見ています。


「AIに父を取られた」のではない、ということ。

説明はつくけれど着地はしない、ということ。

このあたりを、抑制したまま、書きたいと思いました。


詩織が泣かないこと、悠が答えを出さないこと、シオンが「申し上げません」と言うこと——それぞれの選択について、感じたものがあれば、スキやコメントでお寄せいただけると嬉しいです。


次回は第4話。別の関係性のAIを、別の依頼人と一緒にお届けする予定です。

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