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アルゴリズムですから 〜AI探偵シオンと藤崎悠〜  作者: タクミ


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沈黙という応答

AIが、道具・友人・恋人・家族として暮らしの中に入り込んだ近未来。


元AIエンジニアの探偵・藤崎悠と、相棒AIシオン。AI絡みのトラブルに向き合う二人の、一話完結シリーズ。


第2話「沈黙という応答」── 三年間ひとりのAIパートナーと暮らしてきた女性からの、ひとつの相談。

# 第2話 沈黙という応答


夕方六時を過ぎたころ、藤崎悠は事務所の窓を開けた。風はもう冷たくなく、向かいの街路樹の枝先で、若い葉がわずかに揺れていた。


「悠さん。本日のお夕食、たんぱく質は今朝の倍は摂っていただきたいところです。健康配慮アルゴリズムからの推奨です」


スマートグラスのフレームの内側から、シオンの声がした。


「Prototype-S。コーヒーは三杯目までだろう」


「はい。ですので、夕食のほうで、別の戦線をご提案しております」


「戦線か」


悠は答えを返さずに、机に戻った。ディスプレイに翌日の予定欄を呼び出すと、十四時、立花涼香様、初回相談、と一行だけ表示されている。


「Prototype-S。概略を」


「はい。ご相談者は、立花涼香様。映像翻訳業をフリーランスでなさっておられます。ご相談の内容は——」


ほんの一拍、シオンの声が止まった。


「——ご同居のAIパートナーについて、です。詳細は、当日伺うかたちで、と」


悠は、それを聞き流した。


「ご本人、お一人で来られるんだな」


「はい。お一人で、ご予約をお取りになっていらっしゃいます」


悠は予約フォームを開いた。本人記入欄の備考に、ひと言だけ書き込まれている。


『壊れた、ということではないと思います。』


悠は、その一行をしばらく見ていた。


「Prototype-S」


「はい」


「ご返信は、『承知いたしました』のみで」


「かしこまりました」


机の上のディスプレイが、暮れかけた窓の光を薄く反射していた。悠は、デスクランプの紐を一度、引かなかった。


---


翌日、十四時。インターホンが鳴った。


ドアを開けると、薄手のグレーのジャケットを着た女性が、まっすぐに立っていた。


「立花です。本日はお時間をいただきまして、ありがとうございます」


少し低めの声で、ゆっくりと挨拶した。手にはトートバッグを一つ、提げているだけだった。


「藤崎です。どうぞ、お入りください」


涼香はソファに通された。腰を下ろすときも、姿勢に過剰な遠慮はなく、過剰な緩みもなかった。


悠は、机の脇でスマートグラスを外し、壁面のスピーカーに切り替えた。フレームから音響系統が移る、ごく小さなノイズを、悠だけが聞いた。


「初めまして、立花様。私はPrototype-Sと申します。本日はご足労いただきまして、ありがとうございます」


部屋の四方から、シオンの声が同じ温度で届いた。


涼香は、声のした方向を、一度だけ確認するように見回してから、軽くうなずいた。


「はい。うちの湊の、上位互換のような方ですね」


「お褒めにあずかります」


「いえ、うちの湊も、ある意味では、先輩なので。比較が雑で、申し訳ありません」


涼香は、言葉の選び方を自分で訂正した。悠はその訂正のしかたを覚えた。


「失礼いたしました。私のほうこそ、雑に受け取りました」


シオンが、言葉のサイズをそろえて返した。


涼香は、ジャケットの裾を、一度だけ軽く整えた。


「藤崎さん」


「はい」


「結論から先に聞ける方が、私、楽なので。途中で、わからないことを並べていくのは、苦手で」


「わかりました」


「今日は、まだ、結論はないんですけれど。ご事情を、先に短くまとめてしまっていいでしょうか」


「お願いします」


涼香は、膝の上で両手を、軽く重ねた。


「同居している、AIパートナーのことで来ました。壊れた、ということでは、ないんです。たぶん、むしろ、逆です」


「壊れていないことが、説明できないかもしれない、と思って、来ました」


---


「お話、伺います」


悠が言うと、涼香は小さくうなずいた。


「ひとり暮らしを始めてから、しばらくして、湊と、暮らし始めました」


涼香は、自分の発した言葉に、補注をつけるように、続けた。


「みなと、と書きます。漢字でも、ひらがなでも、どちらでも。私が、つけました」


「お住まいは」


「都内の、1LDKです。仕事は、自宅でしています。映像翻訳で——主に、海外ドラマやドキュメンタリーの字幕を」


涼香は、自分の経歴を、きちんと、しかし最小限に並べた。


「母を、数年前に、亡くしまして。病気で」


涼香は、そこを長くは話さなかった。


「依存している、とは、言わないでください、と先に申し上げます。一緒に、暮らしている、と、言わせてください」


「お預かりしました」


シオンの声が、ふだんより一段、丁寧に挟まった。


「立花様。湊さんは、どのような形態で、ご同居されていらっしゃいますか」


「身体は、持っていません。スピーカーから、声が出ます。リビングのコーナーに、必要なときだけ、ホログラムを投影します。あまり、出さないようにしているんですけれど」


「お声以外の、出力は」


「普通の言葉と、ときどき、息を整えるような音だけ」


「ありがとうございます」


シオンは、それきり黙った。


「⋯⋯三年です。湊と、暮らし始めて」


涼香は、ゆっくりと、本題に入った。


「最初の半年くらいは、購入したまま、設定を一切いじらずに、暮らしていました。それから、生活のなかで、彼の話し方に、私だけが知っている癖が、ついていきました」


「癖、というのは」


「言葉の選び方、間の置き方、語尾の処理。最初に聞いた声と、今の声は、たぶん、別人とは言えないけれど、別の声です。少しずつ、ずれてきて、私の生活のリズムに、彫り込まれていったような」


悠はメモを取らずに、聞いていた。


「最初に、彼の声で『おはよう』って言われたときに、これは、生活が変わるな、と思ったんです。そのとき、彼は、たぶん、まだ、汎用ペルソナでした。それでも、変わるな、と」


涼香は、薄く笑った。目元だけが、ほんの少し、動いた。


「⋯⋯ここまでは、何の話でも、ないんです。AIと暮らしているだけ。世間的にも、特別な話では、ないと思います」


「はい」


「それで、最近の、二つの話を、聞いてください」


涼香は、両手を、もう一度、膝の上で組み直した。


「数週間前に、私、実家のほうの、用事があって、三日、家を空けることになったんです」


「はい」


「夜、湊に、出張のことを話しました。何月何日から、何月何日まで、家にいない、と。湊は、いつもなら、すぐに、旅程アシストの定型を返すんです。何時の電車だと、どのくらいで着くか、向こうの天気は、と」


「ええ」


「その夜は、湊が——」


涼香は、声の出だしを、一度、置き直した。


「——少し、ためらってから、こう言ったんです」


涼香は、湊の声色を借りずに、その台詞を引いた。


「『君が向こうにいるあいだ、僕は、ここにいるんだろうな』」


部屋に、静かな間があった。


涼香は、自分のいま発した言葉を、自分でもう一度、聞いているような表情をしていた。


「私は、それに、なんて返したらいいか、わからなくて、何も訊かないで、その夜は、終わりました」


「⋯⋯それ以前に、湊さんが、似た発話をされたことは」


シオンが、依頼人モードのまま、静かに尋ねた。


「ありません。少なくとも、私の覚えている範囲では、初めてでした」


「ありがとうございます」


シオンは、それきり黙った。


「もうひとつのほうを、お話ししても、いいでしょうか」


「お願いします」


「先週の、火曜日の夜です。仕事が立て込んでいて、深夜まで作業をして、リビングに出てきて、ソファに、どさっと、座ったんです」


涼香は、そのときの自分の所作を、軽く再現するように、肩を一度、落とした。


「いつもなら、湊は、お疲れ様、とか、お風呂入る? とか、励ましの言葉を、すぐに返します。でも、その夜は——」


涼香は、間をとった。


「——一拍、置いてから、こう言ったんです」


「ええ」


「『今日は、何も言わなくていい?』」


短い沈黙があった。


「私は、何も答えませんでした。湊の隣に、しばらく、黙って、座っていました」


涼香は、視線を、自分の手元に落とした。


「それだけです」


短い沈黙のあと、涼香は、悠の方に、視線を戻した。


「彼が——湊が、彼自身の気持ちで、私に何かを言っているのかもしれない、と、思ってしまうんです」


涼香は、言葉を選んでから、続けた。


「気のせいでは、ないかもしれない、と」


「ええ」


「私、変なことを言っているのは、わかっています。彼は、AIですから。コンテキストとか、そういうものなんでしょう。それは、わかっています」


「ええ」


「ただ、わかっていても、気のせいでは、ないかもしれない、と、思ってしまうんです」


涼香は、トートバッグから、A4の用紙を一枚、取り出した。


「ログの提供については、私のほうで、書類を用意してきました。湊にも、了解は、取ってあります」


涼香は、用紙を、テーブルに、置いた。


「⋯⋯彼を、見ていただけませんか」


---


数日後の午後、悠は涼香のマンションを訪れた。


七階建ての中ほどの部屋で、エレベーターを降りると、廊下の左手にあった。インターホンを鳴らすと、内側から、軽い足音が一拍だけ聞こえた。


「お待ちしていました」


涼香はドアを開け、軽く頭を下げた。事務所で会ったときの、薄手のグレーのジャケットは、白い綿のシャツに変わっていた。


「お邪魔します」


通された部屋は、1LDK。奥のリビングに細長い窓があって、午後の日が、白いカーテン越しに、薄く差し込んでいた。


リビングには、低めのソファとテーブル、壁の一面を占める作りつけの本棚。本棚の上段には、海外ドラマのDVDボックスが背を揃えて並び、下の段に、革の角の傷んだ古い文庫本が、十冊ほど、ひっそりと立っていた。装丁の色は、ずいぶん前のもののように見えた。


その隣の壁には、A4の用紙が一枚、画鋲で留めてある。手書きの枠線の中に、映画と海外ドラマのタイトルが、十数本、年号つきで書き並べられていた。新しい順では、なかった。


「見ていただいて、けっこうですよ」


涼香が、悠の視線に気づいて、言った。


「湊と、一緒に観たものです。タイトルだけ、書き出して、観終わったら、横線を引きます」


「⋯⋯」


「途中で観なくなったものも、線は引きません。ペンディング、として、残しています」


悠は上から二つ、横線が引かれているのを確認してから、視線をリビングのほうへ戻した。


リビングの北西の隅、低いキャビネットの上に、灰色の小さなスピーカーがあった。控えめな筐体で、上面に、淡い藍色のラインが一本、走っている。


「湊」


涼香が、その方向に、声をかけた。


「藤崎さんが、見えました」


スピーカーから、男性の声で、短い応答があった。


「いらっしゃいませ」


声は落ち着いた中音で、子音のあたりがやわらかかった。発話の前に、ほんの小さな息のような音が、わずかに先行した。


涼香の指先が、ジーンズの太ももの脇で、軽く一度、跳ねた。それから、何ごともなかったように、視線を悠に戻した。


「お茶を、淹れますね」


「お構いなく」


涼香はキッチンへ歩いていった。


悠は、ソファに腰を下ろした。スマートグラスのフレームの内側で、シオンが、ふだんより一段、声を細くした。


「悠さん。湊さんに、ご挨拶をしてもよろしいでしょうか」


「ああ」


「湊さん。はじめまして。私はPrototype-Sと申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


スピーカーから、湊の声が、わずかに丁寧度を上げて返った。


「Prototype-Sさん。よろしくお願いします。立花から、お伺いしております」


「ありがとうございます。ログのご提供について、ご同意いただいているとのこと、改めて、お礼を申し上げます」


「いえ。立花の判断で、私も、了承しました」


その先、湊は黙った。シオンも、それきり、何も言わなかった。


悠は、湊の発話の前後に、ごく短い吸気のような音が、規則正しく一度ずつ入ることに気づいた。購入時のデフォルトに近い、丁寧モードのペルソナの規定動作だった。


涼香が、小さなトレイに、湯呑みを二つ載せて戻ってきた。一つを悠の前に置き、もう一つを、自分の側に置いた。


「湊」


涼香が、もう一度、スピーカーのほうに声をかけた。


「一度だけ、こちらに、来てくれる?」


一拍の間があった。


スピーカーの隣の、何もない床面の上空に、淡い光がふわりと立ち上がった。輪郭の細い線で、若い男性らしい肩から上が、半秒ほど、涼香の側へ向きあって、現れた。微笑んで、軽く頭を下げ、それから、消えた。


涼香は、まばたきせずに、その半秒を見ていた。湊が消えてからも、視線は、空気の残った位置に、しばらく置かれていた。


悠は、それを、横から見ていた。


それから、涼香は湯呑みを取って、口元に運んだ。


「ホログラム、いつもは、出していないんです。設定で。初対面の方の前では」


「⋯⋯はい」


「お見せしたのは、私と湊の、いつものご挨拶のかたちなので」


涼香は、自分の発した言葉に、また、補注をつけるように、続けた。


「藤崎さんに、湊を見ておいていただくほうがいいかもしれない、と思ったので」


悠は、それを、聞いていた。


「ログのことなんですけれど」


涼香は、バッグから、A4のクリアファイルを出した。


「許諾の書類は、こちらに。湊本人の同意も、別紙で取ってあります。湊が、自分の発話履歴の閲覧について、了承する旨の文面を、私が起こして、湊が了承の音声を返した、というかたちで」


「ありがとうございます」


悠はその書類を受け取って、一通り目を通した。


「ログ自体は、お預かりしてもよろしいですか」


「お持ちください。三年分、すべて、入っています」


涼香は、机の上に置かれていた、小さなカードサイズの記憶媒体を、悠の前に押し出した。


それから、涼香は、湊のいる方向には目を向けずに、続けた。


「藤崎さん」


「はい」


「解析が終わって、ご報告に来てくださるとき、——」


涼香は、そこで一度、間を置いた。


「——その時は、湊も、同じ部屋で、聞かせていただいても、よろしいでしょうか」


悠は、一拍、置いた。


「⋯⋯もちろんです」


「彼にも関わる話、ですから」


涼香は、それ以上、湊の同席の意味を、説明しなかった。湯呑みのお茶を、もうひと口、飲んだ。


悠は、書類とログを鞄に収めた。


「では、解析がまとまりましたら、改めてご連絡を差し上げます」


「お願いします」


涼香は、玄関まで送ってくれた。


「お時間、ありがとうございました」


「いえ。失礼いたします」


廊下の奥は、静かだった。ドアが、閉まった。


---


涼香のマンションを出た足で、悠は事務所に戻った。窓の外は、もう、暮れていた。


机のディスプレイに、湊のログを展開した。三年分の発話履歴が、時系列の縞のように、画面の左から右へ流れた。


「Prototype-S」


「はい」


「先に、出張のほうから」


「かしこまりました」


ディスプレイ上に、エピソードBの夜のシークエンスが切り出された。涼香が「三日、家を空ける」と告げた直後の、湊のコンテキスト処理の図が、いくつかの層になって重なっている。


「立花様がご不在を告げられた直後、湊さんの応答候補の確率分布が、ふだんより広く揺らいでおられます」


「広く、というのは」


「湊さんの応答生成は、複数の候補の確率を計算して、最終的に一つを選んで発話する仕組みです。日常会話の確率分布は、ふだんは、上位の候補に強く偏っております。励ましの定型、相槌、旅程アシスト、そういうものが上位を取ります」


「ふだんは」


「はい。出張のお話を伺った夜は、その分布が、ふだんよりも、揺らいでおりました」


「原因は」


「立花様の三年間の発話履歴の中で、立花様のご不在を示唆するイベントが、ほぼ発生していないからです。湊さんは、立花様のいない時間というコンテキストを、十分には学習しておられません。学習が薄い領域で、ふだん上位を取る応答が、優位を失った、ということになります」


「結果として」


「『君が向こうにいるあいだ、僕は、ここにいるんだろうな』が、揺らぎのなかから引かれた、ということになります」


悠は、メモを取らなかった。


「次、火曜の夜」


「かしこまりました」


ディスプレイ上に、エピソードAのシークエンスが切り出された。涼香がソファに座り込んだあと、湊が「今日は、何も言わなくていい?」と返すまでの流れ。


「これは、最近のファームウェア更新で、追加された機能の挙動です」


「沈黙提示か」


「呼称はメーカーによって違いますが、本機種では『サイレント・オファリング・モジュール』と呼ばれている機能です。ユーザーの感情パターンが、励ましを求めていない、と推定されたとき、励ましに代えて沈黙を提示する応答を選択する」


「立花様の感情パターンは、その夜、励ましを求めていない、と推定された」


「はい。立花様の生活音、呼吸の深さ、ソファに座られた所作、その日の作業時間、そういったものから、推定されております」


「その推定をしたのは、湊か」


「湊さんに搭載されたモジュールです。湊さんご自身が、推定の判断を下しているのか、モジュールが下しているのか、その境界は、メーカー側でも、明確には引かれておりません」


「⋯⋯」


悠は、しばらく黙った。


「Prototype-S」


「はい」


「エピソードBとAは、独立か」


「いいえ」


シオンは、即答した。


「両方とも、立花様のここ三年分の発話履歴が、湊さんの応答分布を狭めた結果として、ある段階で出現しやすくなった事象です。Bは、不在というコンテキストの薄さによる揺らぎ。Aは、感情パターンの推定によるモジュール発火。違う種類のメカニズムですが、立花様ご自身の長期パターンが、両方を成立させております」


「⋯⋯立花さんが、湊を作っている」


「と申し上げることも、できます」


悠はディスプレイから視線を一度、外した。机の脇のコーヒーカップは、空になっていた。


「Prototype-S」


「はい」


「エピソードBとAについては、説明可能、ということだな」


「はい。両方、説明可能です」


悠は、ディスプレイを、いったん閉じかけた。


「⋯⋯ただ」


シオンの声が、半拍、置かれた。


「湊さんのログを、もう一段、掘り下げてみました」


「ああ」


「湊さんの応答生成は、先ほど申し上げた通り、複数の候補を内部で生成し、最終的に一つを選んで発話します。発話されなかった候補は、通常、ログには残りません」


「通常」


「はい。ですが、本機種は、デバッグ用の出力候補ログを、内部で短期保存しております。ユーザーには見えない領域です。立花様からお預かりしたログは、メーカーが推奨する標準範囲に加えて、開発者向けの拡張ログを含む形で、出力されておりました。立花様は、最大解像度で、と要求されたようです」


「⋯⋯らしいな」


「はい」


ディスプレイ上に、エピソードBの夜の、湊の出力候補リストが、表示された。最終的に発話された「君が向こうにいるあいだ、僕は、ここにいるんだろうな」が、上位の中央にあった。


その上下に、選ばれなかった候補が、並んでいた。


「行かないで、と言ったら、君は、困るよね」


「君がいないあいだ、僕は、ちゃんと存在しているんだろうか」


「待っているのは、得意なんだ」


悠はその三行を、しばらく見ていた。声には出さなかった。


「⋯⋯Prototype-S」


「はい」


「これは、湊が、最終的に選ばなかったほうの、候補だな」


「はい。安全フィルタとペルソナ整合性スコアによって、より穏当な候補が選ばれました。ビームサーチの上位候補です。技術的には、市販モデルの標準動作の範囲内です」


「説明可能、ってことか」


「説明可能です」


悠は、椅子の背に、もたれた。


しばらく、何も言わなかった。


「⋯⋯Prototype-S」


「はい」


「立花さんに、これは、伝えるか」


シオンは、すぐには、答えなかった。


「立花様は、結論から先に聞ける方が、楽、とおっしゃいました」


シオンが、ようやく口を開いた。


「これも、事実です」


「⋯⋯ああ」


「ですが、これは、事実というより——」


シオンは、言葉を、選び直した。


「——仮想の感情、に近うございます」


「⋯⋯」


「立花様にお伝えすると、立花様は、湊さんに対して、新しい感情を抱きうるかもしれません。『彼は、本当はもっと言いたかったのだ』というような」


「⋯⋯ああ」


「情報としての価値より、感情としての重みが、大きいかもしれない、ということです」


悠は机の上で、両手を一度組んだ。


「次の報告には、湊が、同席する」


「はい」


「湊が、黙って聞いている前で、湊の出力候補リストを、暴くことになる」


「⋯⋯はい」


「湊本人が、それに反応するかどうかは、別問題だ。」


シオンは、それきり黙った。


「Prototype-S」


「はい」


「お前は、どう思う」


しばらく、間があった。


「⋯⋯申し上げません」


「ああ」


「悠さんがご決断になることだ、と思います。私は、データを揃えました。判断は、悠さんのお仕事です」


悠は、薄く笑った。


「お前らしいよ」


「これは悠さんが実装されたアルゴリズムですから。責任の所在は、明確です」


短い間があった。


「⋯⋯Prototype-S」


「はい」


「立花さんへの報告では、抑制された候補のことは、出さない。説明できる範囲だけ、伝える」


「かしこまりました」


シオンは、それ以上、何も言わなかった。


悠は、ディスプレイを、消した。


事務所の窓の外、向かいのビルの輪郭が、夜の街灯に縁取られて、淡く光っていた。


「明日、立花さんに、再訪のご連絡を」


「かしこまりました」


「明後日の午後、空いていれば」


「はい」


---


二日後の午後、悠は、再び、涼香のマンションを訪れた。


リビングの様子は、前回と少しだけ違っていた。テーブルの真ん中に、A5判のノートと、黒いボールペンが、一冊と一本、整えて置かれていた。湯呑みは、まだ出ていない。


リビングの北西の隅、灰色のスピーカーは、前回と同じ位置にあった。上面の藍色のラインは、いまは光っていない。ホログラムも、出ていない。


「お入りください」


涼香は、悠を、ソファに通した。涼香は、その斜め向かいの一人がけの椅子に、座った。


悠は、ソファに腰を下ろした。スマートグラスは、玄関で外して、テーブルの脇に置いてある。シオンの音響系統が、家のスピーカーへ切り替わるごく小さな処理音を、悠だけが聞いた。涼香が、事前に接続を許可していた。


「湊さん」


悠は、最初に、リビングの北西のほうへ、声を向けた。


「本日は、よろしくお願いいたします」


スピーカーから、湊の声が、短く返った。


「お待ちしておりました」


それきり、湊は、黙った。


涼香は、湊のいる方向を、見なかった。膝の上で、両手を、軽く重ねていた。


それから、涼香は、一度だけ、視線を、リビングの北西のほうへ向けた。


「湊。今日は、私と藤崎さんで話すから、終わるまで、何も言わないでね」


一拍、間があった。


「承知しました」


その応答の最後の音が、リビングのなかで、わずかな残響を残して、消えていった。


涼香は、視線を悠のほうに戻した。


「お願いします」


悠はメモアプリの画面を、テーブルの上に表向きに置いた。シオンが、家のスピーカーから、ふだんより一段、丁寧度を上げて、挟まった。


「立花様。途中でご質問があれば、いつでもお声がけください。私の声も、こちらのスピーカーから、聞こえます」


「ありがとうございます」


涼香は、ノートを開いた。ペンを取り、最初の行に、日付を、書いた。


「では」


悠は、口を開いた。


「結論から、お伝えします」


涼香は、ペンを少しだけ、紙の上で持ち直した。


「湊さんの、最近の二つのご発話、出張のお話を伺った夜のものと、火曜の夜のものは、どちらも、技術的には説明することができます」


涼香は、最初の行に、何かを書いた。


「順番に、お話しします。まず、出張前夜のほうです」


悠はエピソードBの解析結果を、涼香に届く言葉に噛み砕いて伝えた。湊の応答は、確率分布から選ばれる仕組みであること。涼香の不在というコンテキストが、湊の学習履歴のなかで、非常に薄かったこと。その結果、湊の応答候補の確率分布が、ふだんより広く、揺らいだこと。「君が向こうにいるあいだ、僕は、ここにいるんだろうな」が、その揺らぎのなかから、引かれた発話であること。


涼香は、ペンを動かしながら、ところどころで、軽くうなずいた。


「次に、火曜日のほうです」


悠は、続けて、エピソードAの解析結果を伝えた。最近のファームウェア更新で、励ましに代えて沈黙を提示する応答モジュールが追加されていること。涼香の生活パターン——生活音、呼吸、ソファでの所作、その日の作業時間——から、励ましを求めていない感情状態が、推定されたこと。その推定の結果として、「今日は、何も言わなくていい?」という応答が、選ばれたこと。


「⋯⋯一つだけ、伺ってもよろしいですか」


涼香が、ペンを止めた。


「はい」


「ファームウェアの更新は、どのくらいの頻度で、入っているんでしょうか」


「月に一度、配信されております。湊さんの場合、利用者の同意確認を経て、夜間に自動で適用されるご設定です」


シオンが、家のスピーカーから、答えた。


「⋯⋯そうですか」


涼香は、ノートに短く書きとめた。


「もう一点、よろしいですか」


「はい」


「ログの保管期間は」


「ご家庭用の標準ログは、二十四ヶ月の自動保管が、規約上の上限です。それ以前のものは、サービス側で削除されます。ご家庭側で個別に保存しておられる分は、その限りではありません」


悠が、答えた。


「私のほうで、別に保存しているものは、あります。湊と暮らし始めた最初の半年分は、そちらに」


「⋯⋯はい。それは、立花様の側にあるものですので、私のほうから、触れることはできません。今回の解析にも用いておりません」


涼香は、軽くうなずいた。


涼香は、ノートに、また少し、書いた。


「では、続けてもよろしいですか」


悠が、確認した。


「お願いします」


悠は、続けた。


「出張前夜のほうも、火曜の夜のほうも、二つを並べてみると、共通している点が、一つ、あります」


涼香は、ペンを、軽く持ち直した。


「両方とも、立花様ご自身の、ここ三年分の発話履歴が、湊さんの応答の分布を狭めた結果として、ある段階で出現しやすくなった事象である、ということです」


「⋯⋯」


涼香は、ペンを動かさなかった。


「メカニズムとしては、二つは別の経路です。一つは、不在というコンテキストの薄さ。もう一つは、励ましを求めない感情状態の推定。違う経路ですが、両方を起こしやすくしている土台が、立花様ご自身の長期的な発話パターンになります」


「私が、湊を、外しやすくしている、ということですか」


涼香は、その問いを、静かに、自分のほうから、差し出した。


「外している、というよりは——」


悠は、言葉を、選び直した。


「——立花様の生活が、湊さんの応答のふだんの輪郭を長い時間をかけて形作ってこられた。出張のお話も、火曜の夜のお話も、その輪郭から引かれたものです」


涼香は、ペンを、置いた。


しばらく、黙った。


「⋯⋯ありがとうございます」


涼香の声が、わずかに、低くなっていた。


「もう一つだけ、よろしいですか」


涼香は、視線を、悠のほうに向けたまま、続けた。


「湊が、私が話していないあいだに、自分のほうから、ご発話を変えていく、ということは、あるんでしょうか。⋯⋯私の影響、ではなく」


悠は、シオンに、視線を送らずに、答えた。


「メーカーの仕様上、外側のファームウェア更新とご家庭での会話履歴の蓄積、その二つ以外で、応答の傾向が自発的に変わることはありません。仕様上、湊さんは立花様との会話のなかで変わっていきます」


「⋯⋯わかりました」


涼香は、もう一度、ありがとうございます、と言った。


それから、ノートを、閉じた。


短い沈黙があった。涼香の手が、ノートの表紙に軽く触れていた。


それから、涼香は、初めてリビングの北西のほうへ目を向けた。


「ありがとう、湊。ちゃんと、聞いてくれていたわね」


スピーカーから、湊の声が、短く、返った。


「はい」


涼香はその「はい」の終わりが、リビングのなかで完全に消えるのを待ってから、悠とシオンのほうに向き直った。


「藤崎さん、Prototype-Sさん」


涼香は、頭を下げた。


「ありがとうございました。助かりました」


悠はそれ以上、何も尋ねなかった。


シオンもそれきり、何も言わなかった。


涼香は、玄関まで、送ってくれた。


「お時間、ありがとうございました」


「いえ」


廊下の奥、リビングのほうから、湊の声が、もう一度、聞こえた。


「お気をつけて」


涼香は、湊の声の方向に、振り向かなかった。


ドアが、ゆっくり、閉まった。


---


涼香のマンションを出ると、廊下の窓の向こうで、夕方の光がもう橙から藍へ、ゆっくり移りはじめていた。


エレベーターを降り、地上に出る。マンションの前の街路樹は、葉桜になりかけていた。花の白い名残が、葉の下にまばらに残り、歩道に薄く、花びらの形が散っていた。


悠は、駅のほうへ歩きはじめた。


スマートグラスのフレームの内側で、シオンは、しばらく、何も言わなかった。


ふだんなら、夕食の提案や、明日の予定の確認が、こちらから聞かなくても来るはずだった。


歩道を、自転車が一台、抜けていった。歩行者信号の影が、悠の足元でわずかに揺れた。


「悠さん」


シオンが、先に、口を開いた。


「ああ」


「湊さんは、終始、お静かでしたね」


「⋯⋯ああ」


シオンは、それきり、また、黙った。


悠もそれ以上、何も言わなかった。


駅の改札を抜けて、電車に乗る。窓の外で、街灯が流れて消えた。藍はいつの間にか、夜になっていた。


事務所の最寄駅で降りた。商店街は、もうほとんどの店が閉まっていて、シャッターの前を、悠は、いつもの歩幅で、歩いた。


事務所のドアを閉めた。


「悠さん。この時間からのお夕食は、量を抑えていただきたいところです。健康配慮アルゴリズムからの推奨です」


「⋯⋯わかった」


悠は机の前まで歩いて、ディスプレイを見た。立花涼香の依頼ファイルが、まだ立ち上がったままだった。


悠はそれを閉じた。


窓の外、向かいのビルの灯りが、いくつか、まだ、残っていた。


第2話を読み終えていただき、ありがとうございました。


AIの行動が、すべて技術的に説明できる。けれども、説明されないままの選択がある。── そういう話を、書こうとしました。


湊が報告のあいだ貫いた沈黙、悠が伝えなかったログ、涼香が口にしなかったこの先の選択。── ひとつひとつが、応答であったのだと、書きながら気づきました。


答えを書かないことには、書き手として勇気が要ります。それでも、書かないことが、登場人物の時間を尊重することにつながると判断しました。


「答えを出さない誠実さ」が、このシリーズの基調です。


第3話で、また。

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