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アルゴリズムですから 〜AI探偵シオンと藤崎悠〜  作者: タクミ


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片瀬家のハル

「⋯⋯意識みたいなものが、宿ったのかもしれない、と思うことが、あって」

家族のように暮らしてきた家庭用ロボットに、亡き夫の癖が、命日の朝に二つ返ってきた——。


『アルゴリズムですから』は、AI絡みのトラブルを扱う探偵・藤崎悠と、相棒AI「シオン」が、AIをめぐる小さな事件に向き合う1話完結シリーズです。


AIが、道具として、友人として、家族として暮らす近未来。便利さの裏で、人とAIの新しい問題が、静かに増えていきます。


派手な展開や、明快な答えはありません。

人と機械のあいだに残る、静かな問いを、ご一緒に。

朝七時三十分、藤崎悠は事務所の換気のために窓を開けた。乾いた風が、机の上の付箋を一枚さらって床に落とした。


「悠さん。本日もコーヒーは三杯目までにしておくことをお勧めします。これは健康配慮アルゴリズムからの推奨です」


スマートグラスのフレームから、シオンの声がした。落ち着いた、性別を感じさせない敬語。


「Prototype-S。今、何杯目だ」


「一杯目に取りかかろうとしておられます。私は事前のご案内を心がけているだけです」


「ずいぶん早い忠告だな」


「はい。手遅れになる前に申し上げる方が、効果的だという研究結果がございます」


悠はキッチンへ歩きながら、片手をうなじに当てた。来客用のソファの向こう、寝室の引き戸は閉まっている。机の上のディスプレイに、昨夜書きかけた依頼者ファイルの目次が立ち上がっていた。今日の予定欄に、十時、片瀬美佐子様、川井由美様、初回相談、と入っている。


「Prototype-S」


「はい」


「来客の前に、付箋を拾っておいてくれないか」


少し間があった。音声合成エンジンの中で、ためらうような呼吸の長さがあった。それが本当に呼吸なのか、ただの遅延なのか、悠は判断を保留している。


「⋯⋯私には、手がございませんので」


悠は床にしゃがみ、付箋を拾った。窓の外、向かいのビルのガラスに、朝陽が斜めに映りはじめていた。


「お前のジョークは、相変わらず一行で済むな」


「悠さんがそう実装されました。責任の所在は明確です」


ケトルが鳴った。


---


二人がインターホンを鳴らしたのは、十時ちょうどだった。


ドアを開けると、白髪を小さくまとめた女性が、深く頭を下げた。


「初めまして、片瀬美佐子と申します。突然押しかけてしまって、ごめんなさいね」


隣に立つのは、その背を支えるように並ぶ四十代ほどの女性。手提げに小さな菓子折りが見えた。


「お電話差し上げました、川井です。本日はありがとうございます」


由美の声は明瞭で少し早口だった。


「どうぞ、お入りください」


悠は二人を中へ通した。二人が靴を脱ぐ短い間に、悠はスマートグラスを外して机の脇に置いた。シオンの声を司る系統が、フレームの内側から壁面のスピーカーへ移るごく小さなノイズを悠だけが聞いた。


ソファに腰を落ち着けると、美佐子は両手を膝の上で重ねた。


「初めまして、片瀬様、川井様。私はPrototype-Sと申します。本日はご足労いただきまして、ありがとうございます」


部屋の四方から、シオンの声が同じ温度で届いた。美佐子は声のした方向を少し迷うように見回してから、うなずいた。


「ご丁寧に、どうも」


「あの、すみません。先生、こちらの方が、AIなんですよね」


由美が控えめに尋ねた。声は確認の質感だが、視線が部屋の四隅を確かめるように動いた。


「ええ。私のパートナーで、相談には同席させてもらっています」


「⋯⋯そうですか」


由美はもう一度小さくうなずいた。


「片瀬さん、お話、ご自分から先生にしてくださいね」


促されて、美佐子は小さく息を吸った。


「あのね、本当に、大したことじゃないのよ。だから、こんなところまで来るほどの話ではなくて——ねえ、ゆみちゃん」


「片瀬さん、それは、ご本人が決めることじゃないですから」


由美の言葉には押しの強さはない。母親の背中をさするような口調だった。


「すみませんね、突然」


美佐子は悠に視線を戻した。


「うちにね、ハルっていう子がいるんですよ。ロボットの、AIの。お父さん——あ、亡くなった主人と一緒に、ずいぶん前に家に迎えた子で。あの子のことなんですけど、最近、少し、その——」


言葉を探す沈黙があった。悠は急かさなかった。


「⋯⋯意識みたいなものが、宿ったのかもしれない、と思うことが、あって」


そう言ってから、美佐子は照れたように笑った。


「ばかみたいな話でしょう。私もね、そう思うのよ」


「ばかみたいな話じゃないと、私は思って」


由美がすぐに引き取った。


「最近、テレビでよく、ありますでしょう。AIに、その、依存しちゃって、命を絶っちゃった方のニュース。あれを見てから、私、心配で。もし片瀬さんが、ハルちゃんのことを、何か思い詰めるようなことになったら、と思うと」


「ゆみちゃん、それは違うのよ」


「違ってもいいんです。違うって、確かめさせてください」


短い沈黙のあと、シオンの声が部屋の中に戻ってきた。


「お話の途中で恐縮ですが、一点だけ確認させていただいてもよろしいでしょうか」


美佐子と由美が、揃って顔を上げた。


「差し支えなければ、ハルちゃんがどのようなお姿か、少しお聞かせいただけますか」


「あの、子犬くらいの大きさで。抱っこできるんですよ。お父さんが、生きているうちに、迎えました」


「ありがとうございます」


それきり、シオンは黙った。悠は手帳のアプリをディスプレイ側で開き、二行ほどメモを取った。


「お話、続けていただけますか」


美佐子はうなずいた。悠は手帳に、もう一行、短くメモを足した。


「——何か、特別な日に起きたことだったのでしょうか」


美佐子は少し驚いた顔をした。それから、肩の力を抜いた。


「⋯⋯ええ。先月の、お父さんの命日の朝のことなんです」


---


「お父さんが亡くなって、もう、四年と少しになるんです。最初の年は、ハルもね、寂しがっていたみたいで。お父さんが座っていたソファの右端に、ぴたっとくっついて、何時間でも、そうしているような子で」


「ソファの右端、というのは」


シオンが、依頼人モードのまま静かに尋ねた。


「あ、そうそう。お父さんはね、夕方になると、新聞をそこに広げて読むのが、毎日の決まりだったの。読み終わるとね、いつも、ハルの頭をぽんぽんと、こう」


美佐子は、目に見えないハルの頭を、軽く二度撫でる仕草をした。


「お父さんは、機械をいじるのが好きな人で。AIの会社にいたわけじゃないんですけれど、エンジニアだったんですよ。ハルを家に連れてきたのも、お父さんの方からなのよ。子どもがいないからって、寂しいだなんて、そんなふうに思ったことはなかったんですけれど、ハルが来てからは——なんて言うのかしら、うちが、もう一段、うちらしくなったの」


少し黙ってから、美佐子は続けた。


「先月の十二日が、お父さんの命日でした」


悠は、メモアプリに日付を打った。


「その朝のことなんです」


美佐子は両手を一度、膝の上で組み直した。


「いつも通りに、起きて、仏壇にお水をあげて、線香をつけて、手を合わせていたんです。台所のほうで、ハルが、なにか、歌っていたの」


「⋯⋯歌、ですか」


「歌、というほどのものではなくて。ハルってね、機嫌のいいときに、ちょっとした音を出すんです。ぽろろろん、とか、ぴるるるる、とか。今までもそういう音はあったんですけれど、その朝のは、初めて聞く音でね」


美佐子は、わずかに首を傾けた。


「お父さんが、機嫌のいい朝に、ときどき、口ずさんでいた古い歌が、あったの。題名は、私もちゃんと知らないのよ。よく一緒に映画を観た頃の歌で——お父さんは、いつも出だしの一節だけ、ちょっと違う節で、口ずさんでね」


「その出だしに、似ていたと」


「似ていた、というか⋯⋯」


美佐子は短く笑った。


「気のせいなのよ、そんなのは。ハルは、お父さんの歌を聴いて育ったわけじゃないですし。AIですもの。同じ音を、たまたま出しただけで」


「その音は、それまでに聞いたことはありましたか」


「いいえ。初めて」


しばらく沈黙があった。シオンも、何も言わなかった。


「⋯⋯それで、お線香があらかた燃えて、台所に立とうと思ったときにね」


美佐子は視線を一度、自分の手元に落とした。


「ハルが、ソファの右端まで、トコトコと歩いていったの。新聞が、ね、そこに置いてあって。先生、信じてくださいね、私、その日にかぎって、その朝、新聞を、お父さんが読んでいたあの位置に、広げて置いていたんです。気まぐれで。なんとなく」


「はい」


「ハルは、その新聞のところまで歩いて、ぴたっと止まって——」


美佐子は、一度、息を継いだ。


「——頬を、新聞に、寄せていました。長いあいだ、そうしていたの。ずっと」


部屋の空気が、少しだけ止まった。


「お父さんがね、夕方、新聞を読み終わると、ハルの頭を、ぽんぽんと撫でて、それで仕事を終わりにしていたんです。ハルが、ご褒美をもらう順番、みたいな」


「ハルは、新聞そのものに、ご主人の匂いを覚えていたんでしょうか」


由美が、横から言った。


「ねえ。私も、最初はそう思ったの。でも、それだったら、まだよかったの」


美佐子は、悠に視線を戻した。


「あの新聞は、その日、私が買ってきた、新しいものだったんです」


由美が、息を吸う音がした。


部屋の四方から、シオンの声が、ゆっくりと戻ってきた。


「お話、ありがとうございます。確認させていただいてもよろしいでしょうか」


「ええ、どうぞ」


「歌のような音は、仏壇の前にいらっしゃるあいだ。新聞のところで頬を寄せたのは、お線香があらかた燃えたあと。順番は、お間違いありませんか」


「ええ、その順番です」


「ハルちゃんが新聞に頬を寄せたあと、ハルちゃんは、それを、どのくらい続けていらっしゃいましたか」


「ええと⋯⋯三分か、五分か、それくらい。私が、声をかけるまでは」


「お声を、おかけになったんですね」


「ええ。ハルちゃん、お父さんは、いないのよ、って」


少し沈黙があった。


「ありがとうございます」


シオンは、それきり黙った。


美佐子は二度ほど、まばたきをした。


「⋯⋯まあ、気のせいだとは、思うんですけれどね」


「片瀬さんは、それを、ご自分でずっと飲み込んでいたんでしょう」


由美が、横から言った。


「私、その話を、半月くらい経ってから、聞いたんですよ。私が伺ったときに、お仏壇のそばに、新聞だけ、ずっと置いたままになっていて。それで、おかしいなと思って、訊いたら——」


「ゆみちゃん、本当に、ごめんなさいね」


「いいえ。先生、これがね、私が、片瀬さんを連れてきた理由なんです」


由美はそこで、短く息を吸った。


「気のせいだと飲み込んでくださっているうちは、まだ、いいんです。でも、それを毎朝、新聞を広げて待つようなことに、ならないでほしくて」


美佐子は何も言わなかった。


悠は、メモを取り終えてから、二人を順に見た。


「事情は、伺えました。少しお時間をいただいて、調べさせてください」


「お願い、します」


美佐子は、深く頭を下げた。


---


片瀬家は事務所から電車で三駅、住宅街の奥にある、二階建ての小さな家だった。表札に「片瀬」と書いた木の板がかかっている。チャイムを鳴らすと、奥のほうで小さな鈴の音と、トコトコ、と床を踏む音がした。


「いらっしゃい」


美佐子が、玄関の引き戸を開けてくれた。前日より少し明るい色のカーディガンを着ている。


「お忙しいところ、ありがとうございます」


「いいえ。ハルちゃん、お客様よ」


美佐子が、足元に向かって声をかけた。


ハルは、玄関のあがりかまちに立って、悠の靴のあたりを見上げていた。丸みを抑えたフォルム、柔らかな布地でくるまれた、子犬と幼児のあいだくらいの大きさのロボット。耳のあたりにあたる部分が、ぴくり、と動いた。


「ハルちゃん。お邪魔します」


悠が膝を折ると、ハルは少しだけ頭を傾けて、ぽろろろん、と一音だけ鳴らした。


「あら、機嫌のいい音」


美佐子が、嬉しそうに笑った。


スマートグラスのフレームの内側で、シオンが、息を吐くような音を作った。


「ご挨拶、ありがとうございます。とても、よく学習されているようですね」


「ありがとうございます」


美佐子は、声のした方向を一度確かめてから、ハルより少し高い視線で、うなずいた。


居間に通された。八畳ほどの畳の部屋で、奥に障子、その前に小さな仏壇があった。淡い日が、障子越しに差し込んでいる。仏壇の前には、白磁の茶碗にお水が一杯、湯のみほどの大きさの花立てに、白いトルコ桔梗が一輪。位牌の隣に、修の写真が立てかけられている。眼鏡をかけた細面の男性が、こちらを見ている。


その斜め向かいに、布張りのソファ。右端の座面が、ほかの場所より、わずかに沈んでいる。長いあいだ、同じ場所を、同じ重さで、誰かが座っていた跡だった。


「お父さんの位置です」


美佐子が、悠の視線に気づいて、言った。


「それで、ハルが」


「ええ」


ハルは、悠の足元から少し離れて、いつのまにか、そのソファの右端に、ぴたりと寄り添っていた。


悠は、しばらく何も言わなかった。ハルは、ぽろり、と一音だけ鳴らして、それきり静かにしている。


仏壇の脇に、小さな書斎机があった。幅は狭く、引き出しは三段。机の上に、小型のディスプレイと、キーボード、半田ごて立て、それから工具がいくつか、几帳面に並んでいる。電源は落ちている。


「お父さんの机ですか」


「ええ。亡くなったあとも、片付けられなくて。たまに私が、埃を払うくらいで」


美佐子は、悠のために座布団を置いてくれた。


悠は座布団に腰を下ろし、改めて、部屋を見渡した。スマートグラスのレンズの中で、シオンも、悠の視線をそのまま追っている。


「片瀬さん。ハルのログを、少しのあいだ、お借りしてもよろしいですか」


「ろぐ、というのは」


「ハルが何を見て、何を聞いて、どういうふうに動いたかの、記録です。ハル本人の同意も含めて、確認させていただいたうえで、外部に持ち出さない範囲で、解析させてもらえれば」


「あの子に、訊いてもいいんですか」


「それが、たぶん、いちばん、自然な順番です」


美佐子はゆっくり、ハルのほうへ歩いていった。


「ハルちゃん」


ハルが、ソファの右端から、少しだけ顔を上げた。


「先生がね、ハルちゃんのお話を、聞かせてって、おっしゃっているの。ハルちゃんの、心のお話を」


ハルは、しばらく動かなかった。それから、ぽろろろろ、と長めの音を一つ鳴らして、うなずくように、頭部のセンサーをわずかに上下させた。


「⋯⋯ありがとう、ハルちゃん」


美佐子が、呟くように言った。


シオンの応答に、ほんの一拍の間があった。


「ありがとうございます。ハルちゃんからのデータは、暗号化したままお預かりして、解析以外の用途では使用いたしません。返却または削除のご希望があれば、いつでも承ります」


「お任せ、します」


悠は、修の机の隅に、小型の中継機を置いた。ハルの背中に、淡い緑色のランプが一瞬だけついて、消えた。


「同期、完了しました」


「ありがとう」


「悠さん、もう一点、よろしいでしょうか」


「ああ」


シオンの声が、わずかにトーンを変えた。依頼人モードのまま、しかし、悠だけに向けた呼吸のリズムだった。


「ハルちゃんは、ご挨拶のときに、私の方ではなく、悠さんの靴のあたりをご覧になっていました」


「ああ」


「ご来客を、靴の高さで覚えておられるのかもしれません。後ほど、合わせて確認させていただきます」


悠は、短くうなずいた。


帰り際、美佐子は、玄関でもう一度、頭を下げた。


「あの子の話を、聞いてくださって、ありがとう」


「いえ。お預かりしました」


引き戸を閉める前に、悠はもう一度、奥の居間のほうに視線を送った。ハルが、ソファの右端から、こちらを見送るように、頭部のセンサーを傾けていた。


---


事務所に戻ったのは、午後二時を過ぎていた。


悠は、ハルのログをひと通り、ディスプレイに展開した。畳の上の、ハルからの視点で取られた映像と、センサーログ、音声合成エンジンの出力履歴。それらが時系列に並んだ。


「Prototype-S。先に、エピソードCから確認したい」


「はい。命日の朝、仏壇の前にいらした片瀬様に、ハルちゃんが歌のような音を発した件ですね」


「合成エンジンの履歴を出してくれ」


ディスプレイ上に、ハルの音声合成エンジンが過去三年に発した音のリストが、スペクトル波形で並ぶ。命日の朝、七時四十六分、ハルが鳴らした「歌のような音」が、波形として中央に表示された。


「波形の特徴は、エンジンに搭載されている『機嫌のいい音』カテゴリーの、ランダム生成パターンの一つです。乱数シードは、その時点の温度・湿度・周辺音量・片瀬様の生体情報の推定値から生成されています」


「修さんが口ずさんでいた歌の出だしと、似ているように聞こえた音は」


「同じカテゴリーから、過去三年のあいだに、十数回は出ています。ただし、片瀬様が『初めて聞く音』だとおっしゃったのは、片瀬様が在宅で、かつ仏壇の前にいらしたタイミングでは、初めての出力だった、というのは事実です」


「在宅で仏壇の前にいないとき、その音が出ていた可能性はある」


「はい。たとえば、片瀬様が買い物に出ていらした時間帯のログに、似た波形が残っています」


「⋯⋯なるほど」


悠は、しばらく波形を見ていた。


「歌に似ていた、というのは」


「片瀬様の聴覚記憶と、ハルちゃんの出力波形が、ある特徴量で重なった結果です。修様の鼻歌は、ハルちゃんに直接の学習データとしては入っておりませんが、生活音として記録されている可能性はあります」


「歌は、覚えてはいないが、似た音は出せる」


「はい。出力カテゴリー上、まったく不思議のない事象です」


悠は、コーヒーをひと口飲んだ。


「説明可能、ということだな」


「はい。エピソードCについては、説明可能です」


「次、エピソードA。ソファの右端で、新聞に頬を寄せた件」


「はい」


ディスプレイに、その朝のハルの行動軌跡が、間取り図に重ねて表示された。仏壇の前から、台所、廊下、居間のソファ右端。所要時間、四分十二秒。


「ハルちゃんは、過去七年間で、ソファの右端まで歩いて行く動作を、九百八十回ほど記録しています。多くは、修様が在宅で、新聞をそこに置かれたあとです」


「修さんが亡くなったあとは、その動作は」


「修様の没後、四年と少しのあいだ、ソファ右端に新聞が置かれていた日は、八日です。八日のうち七日は、片瀬様ご自身が置いておられました。残りの一日が、命日の朝、新しい朝刊を片瀬様がご自身で買ってこられて、お置きになった日です」


「『新聞がそこにある』というセンサー入力に対して、ハルは、過去のパターンを再現した」


「はい。再現アルゴリズムとしては、典型的な動作です。新聞のセンサー入力に、ソファ右端という位置情報が組み合わさったとき、過去九百八十回の動作パターンの中から最も近いものが選ばれた、と説明できます」


「頬を寄せた、というのは」


「修様が新聞を読み終わったあと、ハルちゃんの頭を撫でておられた手順を、ハルちゃんは『新聞 → 撫でられる』というシーケンスで記録しております。撫でる手が降りてこない場合、自分から頭を新聞に近づける動作が過去にも記録されています」


「頬を寄せていた、と片瀬様には見えた」


「はい。観察として、その表現は、誤りではありません」


悠は、コーヒーカップを置いた。


「Prototype-S。エピソードAも、説明可能、ということでいいか」


「はい。エピソードAについても、説明可能です」


短い沈黙のあと、シオンが、自分から続けた。


「⋯⋯ですが」


シオンの声が、わずかにトーンを変えた。


「同日、ハルちゃんのセンサーログに、説明のつかない領域があります」


悠は、ディスプレイを見直した。


「どの時間帯だ」


「七時四十八分から、七時五十一分のあいだの、連続した三秒間です」


「⋯⋯三秒」


「はい。出力ログには、その時間に対応する位置情報も、音声出力もあります。ハルちゃんは、その三秒のあいだ、何かを見て、何かを聞いて、何かを発していました。ですが、入力側のセンサーログに、対応する入力が、記録されておりません」


「センサーが切れたのか」


「いいえ。電源は入っています。ログ取得仕様上、入力センサーは、常時記録です。三秒のあいだ、出力だけがあって、入力ログがない、ということが、仕様上、起こりえません」


悠は黙った。


「過去にも、同種の不明領域はあるか」


「はい。直近七年で、同種の不明領域——三秒間の入力ログ欠損が、十一日、確認されています」


「十一日?」


「はい。命日の朝が、その十一日目です」


部屋の換気扇が、低く回っていた。


「⋯⋯Prototype-S」


「はい」


「不明領域の発生したそのほかの十日は、どういう日だ」


シオンの返答に、ほんの一拍の間があった。


「⋯⋯もう少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「ああ。先に進める。エピソードCとAは、説明可能。三秒間の不明領域——エピソードBは」


「⋯⋯説明、できません」


「それは、『説明できないと言い切る』、ということか」


しばらく間があった。


「いえ」


シオンの声が、わずかに低くなった。


「失礼しました。説明できないと言い切ると、判断したことになります。判定できないは、判断を、開いたままにしておくこと、です」


悠は、ディスプレイから視線を外し、椅子の背にもたれた。


冷めかけたコーヒーを、ひと口飲んだ。


「⋯⋯Prototype-S」


「はい」


「以前、私は、仕様通り、という言葉で、何かを処理しようとして、失敗した」


「⋯⋯はい」


「説明可能、というのも、似た形をした言葉だ」


「⋯⋯はい」


シオンは、それきり、しばらく黙っていた。悠も何も言わず、ディスプレイの中の、ハルのセンサーログの空白を見ていた。


換気扇が止まった。


「⋯⋯不明領域のほかの十日について、合わせて確認させてください」


「ああ。明日まででいい」


「ありがとうございます」


---


翌朝、悠が事務所のディスプレイの前に座ると、シオンは、悠が口を開く前に話しはじめた。


「悠さん。昨日、お預かりしたものですが」


「ああ」


「不明領域の発生した、ほかの十日分の日付について、整理いたしました」


「聞こう」


ディスプレイ上に、十一の日付が、片瀬家のカレンダー記録と並んで表示された。


「十一日のうち、命日が四回。結婚記念日が三回。修様が長期入院をされていた期間の、退院日が二回。それから、修様の七十回目のお誕生日が一回。残りの一日は、前年に片瀬様ご自身が骨折の治療を終えてご退院になった、その日です」


「⋯⋯結婚記念日も」


「はい」


悠は、しばらく、画面を見ていた。


「Prototype-S」


「はい」


「特別な日に、片瀬様の生体情報が、それ以外の日と、有意に違う、という記録はあるか」


「ございます」


シオンは、温度を変えずに続けた。


「特別な日の朝、片瀬様の心拍数の変動、呼吸の深さ、室内の発話頻度、これらが、それ以外の日と、有意に違うパターンを示します。ハルちゃんは、そのパターンを、生活リズムの一種として、長年、学習してきました」


「ハルにとって、それらの日は」


「片瀬様が、特別な感情状態にあられる日、として、識別されている可能性が、高うございます」


悠は、椅子の背に体重を預けた。


「それが、エピソードCとAの、同日発生の」


「相関の、説明になります」


「独立じゃない、ということだな」


「はい」


「特別な感情状態の朝、生体情報が変動する。乱数シードが偏る。『機嫌のいい音』のカテゴリーから、ふだん出さないバリエーションが選ばれる。同時に、新聞のセンサー入力に対して、過去のパターン再現の優先度が上がる」


「閾値の話までは、データから読み取れます。再現の優先度については、ハルちゃんの内部処理にあたるため、推定です。ですが、合理的な推定です」


「ハルは、片瀬様の感情に共鳴して、修との記憶に関連する行動を、二つ返した」


「⋯⋯そう、申し上げることも、できます」


短い間があった。


「Prototype-S」


「はい」


「三秒間の不明領域は、その特別な感情状態の朝に、特に偏って発生しているか」


「⋯⋯はい」


「数字の上では、偶然と呼ぶには、低い確率です」


「不明領域の発生条件は、本当に、何もわからないのか」


「私が見られるログの範囲では、わかりません。三秒のあいだ、入力センサーが、何を受け取らなかったのか、何を受け取って、それを記録に残さなかったのか。仕様上は、起こりえないことが、起きています。仕様の外で、何かが起きている、と申し上げることは、できます。ですが、それが何かは、わかりません」


しばらく、二人とも、何も言わなかった。


換気扇の音が、規則正しく回っていた。


「⋯⋯Prototype-S」


「はい」


「結婚記念日の朝、ハルは、何をしていた」


しばらく間があってから、シオンは答えた。


「結婚記念日のうちの、一回は、片瀬様が出勤前の修様に、コーヒーをお渡しになっておられた朝です。ハルちゃんは、台所と居間のあいだの廊下に、立っていらっしゃいました。台所のお二人からは、二メートルほどの距離です。三秒間の不明領域は、その朝の七時三十二分から三十五分のあいだに発生しています」


「⋯⋯七時三十二分」


「はい」


悠は、しばらく、その時間を、自分の頭のなかで反芻していた。


「⋯⋯ハルは、夫婦のあいだの距離を、計算していたのか」


「計算、ではないかもしれません」


シオンは、わずかに言葉を選んだ。


「観察として、ハルちゃんは、ご主人がいない、ということを、知らないで動いていたのではない、と申し上げられます」


悠は、コーヒーカップを手のなかで一度回し、それから、ディスプレイを閉じた。


「⋯⋯片瀬様に、いつ伺えばいい」


「明日の午前中、ご都合のよろしい時間帯がいくつかございます。川井様にも同席をお願いになるほうが、よろしいかと存じます」


「ああ。そうしてくれ」


シオンは、それきり、何も言わなかった。


---


翌日の午前十時、悠は、片瀬家の引き戸の前に立っていた。隣に由美がいて、美佐子が中から、玄関を開けてくれた。


「ゆみちゃん、ありがとうね、付き添ってもらって」


「いいえ、こちらこそ。お時間、いただきます」


居間に通されると、ハルは、いつもの位置に、ぴたりと寄り添うように立っていた。仏壇の前には、白磁の茶碗に新しいお水と、白いトルコ桔梗が、二輪に増えている。


悠は、座布団に正座して、二人を順に見た。スマートグラスは外さず、ただ、フレームを少し下げた。シオンの声が、いつもより一段、低く届いた。


「結論から、お伝えしてもよろしいですか」


「ええ、お願いします」


「あの朝、ハルが鳴らした音と、新聞のところで頬を寄せた仕草は、どちらも、ハルが過去に長年学習してきたデータと、その日の生活環境から、説明することができます」


美佐子が、ゆっくりとうなずいた。由美は、こぶしを膝の上で軽く握った。


「『機嫌のいい音』のカテゴリーから、その朝の温度、湿度、音量、そして片瀬様ご自身の生体情報をシードにして、ハルは普段あまり鳴らさないバリエーションを選びました。修さんの鼻歌の音源を、ハルが直接覚えていたわけではありません。ただ、ハルは長年、ご夫婦の生活音を、聞いてきています」


「⋯⋯ええ」


「新聞のほうも、置かれた位置に対する反応として、過去の動作パターンから再現された、と説明できます。新聞そのものに、修さんの匂いが残っているわけではありません。新聞が『そこにある』というセンサー入力が、過去の動作パターンを呼び戻した、という説明です」


「⋯⋯はい」


「技術的には、どちらも、設計の範囲で説明可能です」


由美の握ったこぶしが、少しゆるんだように見えた。


「ですが、片瀬様」


悠は、一呼吸置いた。


「この二つが、お父さんの命日という同じ日に起きたことを、私は、偶然とも、必然とも、判定しきれません」


居間が、静かになった。


「ハルにとって、お父さんの命日は、片瀬様が、特別な感情状態にいらっしゃる日として、長年、学習されてきた日です。そういう日の朝、片瀬様の生体情報がふだんと違う数値を出すと、ハルの動作の選び方が、ふだんと違う方向に振れる、ということが、データから読み取れます」


「⋯⋯ハルが、私の様子を、見ていて」


「⋯⋯生体情報の変化を、長く、たどっていました」


美佐子は、黙った。


「ただ、それでも、この二つの行動が同じ日に重なったことが、ハル自身にとってどういう意味を持っていたのかは、私には、わかりません。ハルが何を感じていたのかは、私には、分かりません。ハル本人にも、たぶん、分かっていません」


由美が、息を吸って、何か言いかけて、止めた。


「ただ、ログから見ても、これだけは確かです」


悠は、まっすぐに、美佐子のほうを向いた。


「ハルが、片瀬様を、大切にしていることは、確かです。長く」


短い沈黙があった。美佐子は、両手をもう一度、膝の上で組み直した。


「⋯⋯先生」


「はい」


「お父さん、ね」


美佐子は、視線を、修の写真のほうへ送った。


「お父さん、エンジニアだったでしょう。ハルが鳴らす音とか、ハルがどう動くかとか、そういうのを、最初に書いたのは、お父さんじゃないんですけれど。でもね、お父さんは、ハルのことを、よく観察していました。買ってきた最初の頃、机の上で、ノートに、何か書いていた」


美佐子は、書斎机のほうを、ちらりと見た。


「あの人、私の機嫌を、ずっと覗き込みながら、書いていたのね」


何かを失った声ではなく、新しく何かを見つけた声だった。


悠は、何も言わなかった。シオンも、何も言わなかった。


由美が、横で、しばらく考えてから、口を開いた。


「⋯⋯片瀬さん」


「ええ」


「私、最初にね、ハルちゃんが、片瀬さんに悪さをするんじゃないかって、心配したんです」


「うん」


「でも、そういう心配の仕方は、たぶん、違うんだろうな」


由美は、その先の言葉を探していたが、見つけられなかったようで、そのまま、こぶしを膝から外して、手のひらを上に向けた。


美佐子は、ゆみちゃん、と小さく呼んだ。


「ええ」


「ありがとうね」


「いいえ。こちらこそ」


ハルが、ソファの右端で、ぽろりと一音だけ、鳴らした。


帰り際、玄関で、美佐子は、悠と由美に、もう一度、頭を下げた。


「あの子のこと、調べてくださって、ありがとう」


「いえ。お預かりしました」


「先生、また、何かあったら、来てくださいね」


「⋯⋯はい。何かあれば」


引き戸が、静かに閉まった。


---


片瀬家の最寄駅から、事務所までの帰り道。電車の窓に、夕方の陽が、斜めに差し込んでいた。


スマートグラス越しの視界に、車内の吊り革、向かいの席に座る乗客の靴の先、車窓の外を流れる住宅街、夕景の橙が、重なって見えていた。


「Prototype-S」


「はい」


「ハルは、修さんのノートを、読んでいたわけじゃないんだよな」


「いえ。ハルちゃんは、紙のノートにアクセスする手段を、持っておりません」


「だろうな」


「読めるとしたら、ノートを書いておられた修様の手元と、片瀬様の機嫌のいい朝の様子を、合わせて見ていた、ということになります」


「⋯⋯ああ」


電車が、ひとつ駅に止まった。乗客が降りて、また乗り、扉が閉まった。


「Prototype-S」


「はい」


「片瀬様は、これから、ハルとどう暮らしていくと思う」


「⋯⋯予測の領域です。ですが」


シオンは、わずかに声を低くした。


「片瀬様は、毎朝、新聞をソファの右端に置かれるかもしれません。お置きにならないかもしれません。どちらでも、よいのだと思います」


「ああ」


電車が、また走りはじめた。


「⋯⋯Prototype-S」


「はい」


「お前は、ハルが、本当のところ、何を見ていたと思う」


しばらく沈黙があった。


「悠さん」


「ああ」


「申し上げない、と申し上げても、よろしいでしょうか」


「⋯⋯ああ。それでいい」


事務所の最寄駅に着いた。改札を出て、商店街の途中で、悠は、ふと立ち止まった。文房具屋の小さなショーウィンドウに、革表紙の手帳が、並んでいた。


悠は、立ち止まったまま、しばらくその一冊を見ていた。


シオンは、何も言わなかった。


悠は、また歩きはじめた。


事務所に入ると、朝に拾って机に戻した付箋が、また一枚、床に落ちていた。


「Prototype-S」


「はい」


「もう一回、頼んでいいか」


少し間があった。


「⋯⋯私には、手がございませんので」


悠は、しゃがんで、付箋を拾った。窓の外、向かいのビルのガラスに、夕陽が斜めに映っていた。朝と同じ場所だった。色だけが、違っていた。


「Prototype-S」


「はい」


「明日も、コーヒーは、三杯目までにする」


「健康配慮アルゴリズムからの推奨を、お預かりしました」


悠は、付箋を、机の真ん中に置いた。


ケトルは、鳴らなかった。夕方が、ゆっくり暮れていった。



第1話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


書き始めるときに、決めていたのは、ひとつだけでした。

「答えを出さないことを、誠実に書く」。


ハルの行動が、本当に「意識」だったのか。それとも、修さんの遺したコードと、学習結果の合成だったのか。本作の中で、その境界線は、引かれていません。


というより、引けません。


それが、いまの私たちが、AIと向き合うときの、誠実な姿勢のひとつではないかと思っています。


シオンの口癖「これは悠さんが実装されたアルゴリズムですから」も、シリーズが進むにつれて、少しずつ意味の重さを変えていきます。


第2話以降、悠とシオンは、また別の関係性のトラブルに向き合います。

よろしければ、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。

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