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そい姉さんと魚臭い学園  作者: Gさん
第二部

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第二部 第1話 日常の亀裂

挿絵(By みてみん)

 陽南(ようなん)水耕学院に、ようやく穏やかな日々が戻り始めて数ヶ月が経っていた。あの悍ましい事件の後、学院は一時閉鎖され、世間には「大規模なシステム障害とそれに伴うガス漏れ事故」と説明された。試験栽培棟は完全に解体され、その地下は分厚いコンクリートと特殊な合金で何重にも封鎖されたという。事件の真相を知る者は限られ、生徒たちの多くは、ただ「恐ろしい事故だった」とだけ記憶していた。しかし、学院の敷地内に残る、あの生臭い匂いの微かな残滓と、封鎖された試験栽培棟跡地に張られた厳重な柵が、すべてが元通りではないことを、静かに主張しているかのようだった。


 新年度が始まり、生徒たちはそれぞれの実家に戻り、精神的なケアを受けた後、再び学院の門をくぐった。制服に身を包んだ生徒たちの顔には、まだどこか怯えの色が残っていたが、それでも、以前のような賑やかさが学院には戻りつつあった。しかし、以前のような無邪気な笑顔は影を潜め、誰もがどこか緊張した面持ちで、互いの顔色を窺うような空気が漂っていた。特に、夜になると寮の廊下はひっそりとし、生徒たちは早々に自室に引きこもるようになった。


 リツコは、変わらず生徒会副会長として、学園の復興に尽力していた。彼女の明るく人懐っこい性格は、混乱に疲弊した生徒たちの心を癒やし、笑顔を取り戻す大きな力となっていた。生徒会室では、文化祭の準備や新入生の歓迎イベントの企画に忙しく、表面上は、以前と何ら変わらない日常がそこにあった。彼女は、生徒たちの前では常に笑顔を絶やさず、持ち前のリーダーシップで様々な問題を解決していった。しかし、その笑顔の裏側で、彼女の心の中には、あの夜の光景が、そしてアキラの最後の姿が、深く、深く刻み込まれていた。


 放課後、生徒会室での仕事を終えると、リツコはいつも誰もいない図書室の一角に座り、小さな植木鉢に植えられた、小茄子の芽を眺めていた。それは、アキラが育てていた小茄子から採取された種を、彼女が密かに育てていたものだった。健康な緑色の葉を広げるその芽は、あの異常な成長を遂げた植物とは全く異なり、何の不気味さも感じさせない。それでも、リツコはこの芽を見るたびに、アキラの影を感じずにはいられなかった。彼女はそっと、芽の葉に触れた。その指先に、微かな振動が伝わるような気がした。それは、ただの錯覚だと分かっていても、彼女はそれが、アキラからの「サイン」であるような気がしてならなかった。彼女の心の中では、アキラは死んだことになってはいなかった。彼は深海の底で、生きている。そして、いつか必ず、戻ってきてくれると信じていた。その信念は、誰にも話すことのできない、彼女だけの秘密だった。


 一方で、タカシは病院から退院し、学園に戻っていた。彼の体は完全に回復しており、あの異様な変質も跡形もなく消えていた。しかし、彼の精神的な傷は深かった。彼は以前にも増して寡黙になり、目を合わせることも少なくなった。かつての劣等感は消え去ったが、その代わりに、あの事件に対する深い罪悪感と、アキラが自分を救うために犠牲になったことへの後悔が、彼を支配していた。彼は、あの事件の全てが自分の欲望から始まったこと、そして、アキラが自分を救うために犠牲になったことを理解していた。


 タカシは、以前のように栽培区画にこもることはなくなった。むしろ、植物を見ることを避けているかのようだった。彼は、授業以外の時間は、学院の図書室にこもるか、一人で学院の敷地内を散策することが多かった。彼の視線は、いつも封鎖された試験栽培棟跡地へと向かい、そのたびに、後悔の念が彼の心を締め付けた。彼は、アキラがどこかで生きているならば、その彼を救うための方法を見つけようと、事件の直後から独自に調査を始めていた。彼の研究は、学院の古文書や、インターネット上の怪しげなオカルトサイト、さらには政府機関が公開している極秘文書の断片にまで及んでいた。


 ある日の午後、リツコは図書館で、一人黙々と本を読んでいるタカシを見つけた。彼が手にしているのは、農業の専門書ではなく、郷土史に関する古びた書物だった。リツコは、それがアキラが読んでいたものと同じ種類の本であることに気づき、そっと彼の隣に座った。図書館の静寂の中で、二人の間に漂う重い空気が、わずかに揺らいだ。


「タカシ君、元気にしてる?」


 リツコの問いかけに、タカシはゆっくりと顔を上げた。彼の目は、以前のような怯えの色はなく、どこか諦めと、しかし探究心のような光を宿していた。その瞳の奥には、彼が背負う重い過去と、未来へのかすかな希望が混在しているかのようだった。


「リツコさん……。うん、まあね。君こそ、生徒会の仕事、大変だね」


 ぎこちない会話が続く。二人の間には、あの事件の記憶が、分厚い壁のように横たわっていた。しかし、リツコは一歩踏み込むことを決意した。この壁を乗り越えなければ、何も始まらないと直感したのだ。


「ねえ、タカシ君。あの事件のことだけど……」


 リツコの言葉に、タカシの体が硬直した。彼は手にしていた本を閉じ、俯いた。その肩が、微かに震えている。


「もういいんだ。僕が、あのそい姉さんの誘惑に負けたんだ。僕が、アキラを……」


 タカシの声は震えていた。その声には、深い後悔と、自責の念が滲んでいた。リツコは彼の肩にそっと手を置いた。その手は、温かく、彼の心を包み込むかのようだった。


「違うわ。タカシ君だけじゃない。そい姉さんは、私たちみんなの心の中の弱さに付け込んだのよ。でも、アキラは、私たちを救ってくれた。彼は……きっと生きているわ」


 リツコの言葉に、タカシはハッと顔を上げた。彼の目に、かすかな希望の光が宿る。それは、暗闇の中に差し込んだ、一筋の光のようだった。


「生きているって……どういうこと」


 リツコは、あの夜、アキラが深淵の主のコアに飛び込み、そして姿を消したこと、そして最後にそい姉さんが「彼は救われた」と語ったことを、タカシに話した。そして、自分が育てている小茄子の芽から、微かな「サイン」を感じることも。タカシは、信じられないといった表情でリツコの話を聞いていたが、彼の表情には、少しずつ、変化が現れていた。彼の探究心が、リツコの言葉に呼応するように、ざわめき始めたのだ。


「僕が読んでるこの本にも、奇妙なことが書いてあるんだ。この地域の古文書に、海に沈んだ『古の智慧』に関する記述がある。それは、時に人の姿を借りて現れ、人を誘惑するが、その実、深海の『父』を地上に呼び覚まそうとしている、と……。そして、その『智慧』を封じるための『鍵』となる存在が、人の血の中に眠っている、とも」


 タカシは、アキラが深淵の主の「血」を引いていたこと、そしてその力を使って、深淵の主の覚醒を一時的に食い止めたことを、独自に調べていたのだ。彼の研究は、事件の直後から始まっていた。彼は、自分の行動によって引き起こされた惨劇の責任を感じ、アキラがどこかで生きているならば、その彼を救うための方法を見つけようとしていたのだ。彼の言葉は、リツコの漠然とした希望に、具体的な形を与え始めた。


 二人の間には、共通の「秘密」と「使命」が生まれた。

 リツコはアキラの人間としての生存を信じ、タカシはアキラが深淵の主の「血」を引く新たな存在として、深海に囚われている可能性を示唆した。


「つまり、アキラは、あの化け物の一部に取り込まれた形で、深海にいるってこと……」


 リツコは、恐ろしい可能性に顔を青ざめさせた。深海の底に、アキラが、人間ではない姿で存在している。その想像は、彼女の心を震えさせた。


「まだ確証はない。でも、あの専門家たちが、事件後に学院を調査していた時、彼らの間で『被験体Aが、特異な反応を示している』という会話を耳にしたんだ。その『被験体A』は、間違いなくアキラのことだろう。彼らは、アキラの『血』が持つ特異な性質に気づいており、彼が深淵の主と共鳴する存在であることを見抜いていたはずだ。そして、おそらく、彼らはアキラを『監視』している」


 タカシは眼鏡を押し上げ、真剣な表情で言った。彼の言葉には、以前のような弱々しさはなく、確かな知性と、強い意志が感じられた。


「でも、どうやって深海に行くの。私たちはただの生徒よ。専門家たちにだって、深海の底まで行くのは難しいはずなのに……」


 リツコは現実的な問題に直面した。深海探査など、彼らにできることではない。途方もない費用と技術が必要となる。


「方法を探すしかない。アキラは、僕を助けてくれた。今度は、僕たちがアキラを助ける番だ。たとえ、どんな困難が待ち受けていようとも、僕は諦めない」


 タカシの瞳には、かつてないほどの強い意志が宿っていた。彼の心の中にあった罪悪感は、今、アキラを救うという使命感へと昇華されようとしていた。それは、彼が自らの弱さを乗り越え、真の強さを手に入れた証だった。


 その日の夜、二人は再び図書室で密会した。学院全体が寝静まった静寂の中、二人の間に広がるのは、あの事件の重い記憶と、アキラの安否を案じる切ない思い、そして、未知の深淵へと挑む、静かな決意だった。窓の外からは、夜の風が、封鎖された試験栽培棟跡地から微かに残る、あの生臭い匂いを運んでくる。


「まず、あの専門家たちの正体を突き止める必要がある。彼らは、あの事件について何かを知っているはずだ。そして、深淵の主の情報を、もっと集めなければ。彼らが残した資料や、学院のデータベースの隅々まで探る必要がある」


 タカシは、図書室の古文書や、学院のデータベースにアクセスし、専門家たちが残した痕跡や、深淵に関する情報を洗い出そうと提案した。彼の頭の中では、すでに緻密な計画が立てられ始めていた。


 リツコは、彼がこんなにも変わったことに驚きながらも、頼もしさを感じた。彼女は、小茄子の芽から感じるアキラの「サイン」と、タカシの探求心が、きっとアキラへと続く道を見つけると信じていた。彼女の心は、恐怖よりも、アキラへの思いと、新たな使命感で満たされていた。


「分かったわ。私も協力する。でも、周りの生徒や教員には、絶対に気づかれちゃダメよ。特に、学院長や、あの専門家たちには……」


 リツコは、生徒会副会長としての責任感と、アキラへの強い思いから、この危険な探求に身を投じる覚悟を決めていた。彼女は、生徒たちの前では明るい副会長として振る舞いながら、裏ではタカシと共に、アキラを救うための秘密の調査を進めることになるだろう。


 二人の水耕栽培学園での「日常」は、表面上は穏やかに過ぎていく。しかし、その裏側では、深海の残響がこだまし、彼らの心には、再び日常を揺るがす亀裂が生じていた。アキラは深淵の底で、その日を静かに待っていた。

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