第六十五話 悪女 ―The malice in which I lie―
蛍光灯の青白い光に差されて目を瞬かせる少年。
微かな薬品臭を鼻腔に感じ、無機質な天井を見つめるカナタは掠れた声を漏らした。
「……み、水、を……」
「――目覚めたのね。待ってて、すぐに持ってくるわ」
彼の声に女性が応じ、ほどなくしてコップになみなみ注がれた水が運ばれてくる。
ベッドから上体を起こそうとするカナタをその女医は制止し、近くの小机にコップを置くと彼が身体を起こすのを介助した。
(……ここは、メディカルルームか。僕は、どうして……)
数床のベッドと薬品棚、机の上に備えられたパソコンといったものがある、病室と診察室を兼ねる『メディカルルーム』。
空挺内の案内を初めにあらかた受けていたので自分がどこにいるかは理解できたが、自分がここに来るまでの経緯が分からない。
壁掛け時計が示す時刻は夜七時。「海越え」作戦が正午過ぎの開始だったので、六時間も何もせずに眠りこけていたことになる。
困惑した様子のカナタの口元にコップを運んでやりながら、陸軍所属の女医は落ち着いた声音で彼に説明した。
「【ラジエル】に記録されていたあなたのバイタルを見たところ、出撃の直前に脳波や心拍数に異常が見られました。先ほど検査したところ生命の危険はない状態だと確認されましたが……念のため、明日以降の出撃も控えてください」
「ま、待ってください。ぼ、僕に出るなって言うんですか? ら、【ラジエル】を動かせるのは、僕しかいないのに……!」
少年のその反応は女医の想定内だった。優秀なパイロットたちは皆そう言う。
「代えが効かない役割をあなたが担っていることは、もちろん理解しています。しかし、あなたは司令の御子息です。『万が一』があってはならないと、御門少将に厳命されていますので」
少年の目を正面から見つめ、切実な口調で訴える。
毅然とした眼差しを返すカナタが次に発した言葉は、女医の予想だにしないものであった。
「ぼ、僕が倒れたのはおそらく、『力』の副作用です。だ、だったら、大丈夫……『力』は僕の脳や他の器官を蝕むかもしれないけど、僕を殺しはしません」
「そ、それは何を根拠に……?」
断言する少年に女医は問いかけた。
当惑する彼女に微笑んでみせ、カナタは明朗な声で言う。
「ちょ、直感です。ぼ、僕にこの力を残した『彼』なら、僕を守ってくれる気がするんです」
『見えざる者』について知らない女医には、彼が何を言っているのか分からなかった。だが、同時に妙に納得してもいた。
少年の揺るぎない決意を宿した瞳は、彼女が尊敬する最年長パイロットのそれとよく似ていた。
ごそごそと布団から抜け出る少年は、そこで自分の身体を見下ろして大事なことに気づくと頬を赤らめる。
「あ、あの……な、何でもいいので服をください」
「あ、それは今出しますが……も、もうどこか行くんですか?」
「え、ええ。し、司令室に、報告することがあるので」
病人用の白いパジャマと下着を棚から出しながら女医は訊ねる。
カナタは彼女へ頷きつつ、頭の中では昨日の記憶を手繰り寄せる作業に入っていた。
倒れた時のことは覚えていないが、それ以前のことはうっすらと覚えている。聞こえてきた見知らぬ誰かの声――それが自分に訴えてきた恐るべき内容も。
(僕はマナカさんを――他人を信じて生きようって決めたんだ。もう、誰も恐れたくなんかない。憎みたくなんか、ない)
知性を持つ【異形】側からの接触。それはつまり、自分たちに近いところに敵が潜んでいることを意味している。
まずはそれについて司令部のミツヒロたちに報告するのだ。自分がこれからどうすべきかは、それを踏まえて上官たちが決める。
女医が渡してくれた衣服を手早く着て、カナタは不自由ない足取りでメディカルルームを後にした。
足早に向かった司令室のドアをノックし、「つ、月居です」と名乗る。
「入りなさい」
そう言ってカナタを迎えたのは夜桜シズル大佐であった。
彼女の他には数名の若い士官がいるのみで、ミツヒロやシオンといった他の【七天使】の面子はいない。
日中は司令官とオペレーターたちがコンソールを前に忙しなく空挺及び部隊全体を指揮している司令室だが、夜間の今は駐在している彼女らもどこか緩んだ雰囲気だ。
普段は厳しい姿勢で部下たちを育てるシズルも、最初の山場を越えられたということもあり、「一杯だけ」とワインを開けている。
「カナタくん、どうかしたの?」
「ご、ご歓談中のところすみません。あ、あの、ほ、報告せねばならないことがあって参りました。そ、その……知性を持つ【異形】に関することです」
カナタが一礼してから目的を述べると、たちまち司令室の空気は緊張を帯びた。
残り少ないワインを一気に呷り、空になったグラスを側近に預けてシズルは問う。
「聞かせて。……それはもしや、昼間にあなたが倒れたことと関係があるの?」
「お、おそらくは」
深刻な面持ちで確認してくるシズルに、カナタは首を縦に振った。
目配せで語るよう促してくる黒髪の女に、少年は「あ、あくまで推測ですが」と前置きしてから話し出す。
「ぼ、僕が倒れる直前、頭の中に声が響いていたんです。『ヒトへの憎しみで世界を変える』だとか、人類に敵対するようなことを言っていました。かっ確認された知性を持つ【異形】の中には、パイロットに精神攻撃を仕掛けてくるものがいました。も、もしかしたら今回のも、そういう類の干渉なのではないかと……」
カナタの発言を受けたシズルは、狼狽えることも声を荒げることもなく、ただ黙考していた。
細い顎に指先を添えて考え込んでいた彼女は、数十秒の間を置いてから側近へ訊ねる。
「ねえ、第一級に相当する【異形】の反応はレーダーで捉えていなかったのよね?」
「え、ええ。海中には大量の【異形】が確認されましたが、どれも第二級のもので……『フラウロス』のような固有名を持つものではありませんでした」
人類にとって最大の脅威となる「第一級」の【異形】ではない。
では海中にいたものが魔法で干渉してきたのか、とも考えられるが、答えはノーだ。戦闘中の空挺には『アイギスシールド』が展開されており、今回も例外ではなかった。海中の第二級以下の【異形】が突破できるほど軟弱なシールドではない。
弾き出しうる回答を脳内で並べるシズルは、認めたくはないが最悪の可能性に目を向けざるを得なかった。
「……この空挺内に【異形】がいる。もしくは、【異形】に通じる何者かが」
部屋にいる者たちを見渡し、シズルはそう結論づけた。
士官たちの顔つきは強張り、互いに思わず距離を取る。無理もない話だった。いま隣にいる者が実は【異形】なのかもしれない――先月の月居カグヤの講義で語られたその危惧が、現実のものとなってしまったのだから。
「皆、疑心暗鬼になってはいけないわ。確かに敵が近くに潜んでいる可能性はある。でも……私たち、ずっと一緒に戦ってきた仲間でしょう? いまはその絆を信じるのよ。でないと、その亀裂に付け込まれてしまいかねない」
彼らの恐れを理解しつつ、シズルは結束の重要性を説いた。決して焦らず、母親が子供に絵本を読み聞かせるように穏やかな口調で。
過剰なほど演出された声音ではあったが、それに違和感を覚える余裕さえも今の彼らにはなく――士官たちの意識は、その言葉だけに引っ張られて立て直された。
夜桜シズルへの彼らの尊崇も良い方に働き、彼らは一様に上官へ頷きを返す。
「カナタくん、報告ありがとう。大事をとって今日は早めに寝ること。いいわね?」
「は、はい。で、では失礼します」
敬礼して去っていく少年を見送り、シズルは憂慮に満ちた瞳を瞼で覆い隠した。
彼女が思いを致すのは、司令と喧嘩別れのような形で組織を去った女のこと。親友だった彼女がこの局面に立ったならどうするだろう――窮地に自らの考えでなく友の考えに縋ってしまうのは、彼女の昔からの悪癖だった。
それを常々親友にも指摘されていたにも拘らず、結局、直せずに大佐の地位まで上り詰めてしまった。
(弱いわ、私。ねえ、ミユキちゃん……ミユキちゃんなら分かるんでしょう? 昔から鼻の鋭かったあなたなら……)
年上の親友が何故『レジスタンス』を去ったのか、シズルは知らない。
彼女からは司令との相性が合わなくなった、とだけ聞いていた。元々異性愛者の司令と女である自分が付き合っても、上手くいかなかったのだと悲しそうに彼女は笑っていた。
叶うことならシズルは慰めてあげたかった。自分なら司令の代わりになれる、そう思った。けれど彼女にとっての司令は唯一無二の存在で、自分は代替にすらなれないのだとも分かりきっていた。
「ごめんなさい……もう一杯、ワインをもらえないかしら。今は、少しだけ……酔っていないと、やってけないの」
ただパイロットとしてやれることをやった。誰からも尊敬されるような公正な振る舞いを心がけた。シズルはとにかく真面目な女だった。だから、多くの兵に慕われた。
本当の夜桜シズルは弱い女なのに。過去に片思いした同性の親友のことを未だに引きずる、未練がましい女なのに。
公明正大な完璧人間というペルソナを、彼女はいつからか被り続けなければならなくなった。次第に彼女は、月居司令が人知れず感じていたであろう苦悩を理解した。私はあなたの最大の理解者になれます――そう告げた時の司令の瞳の奥に覗けた感情は確かな喜びで、それを見たとき、彼女は救われた気がした。
自分には司令という共感者がいる。そう思うだけでシズルはどんなに過酷な任務にも全力で臨めた。
だが、その司令の存在でさえも、彼女の心を支える「唯一無二」にはなりえなかった。
「た、大佐……深酒はお控えになったほうが……」
「いいから、注ぎなさい。これは上官の命令よ」
上官が初めて見せる「弱い顔」に、彼女の側近の男性士官は戸惑いを露にした。
しかし有無を言わせぬ口調で促され、逆らえるわけもなく彼は従う。
酸味と苦味、微かな甘味が混じり合うその味は、現在のシズルの感傷を表すに相応しいものであった。
*
御門ミツヒロが似鳥アキラを連れ込んだのは、男女共用の多目的トイレであった。
トランスジェンダーのアキラに配慮して作られたこのトイレは、ミツヒロにとって都合の良い密室。
強引に腕を引っ張られて連れてこられたアキラは腐れ縁の友を睨み、声を震わせる。
「な、何なんだよ、ミツヒロ。言ったよね、ぼくは男だって。君の気持ちには応えられないって」
心は男でも身体は女だ。ミツヒロに組み伏せられれば抗うことも出来ず、アキラはされるがままになってしまう。
せめてもの抵抗として彼に思いとどまるよう訴えるアキラに対し、ミツヒロは苦渋を滲ませる面持ちで首を横に振った。
「ふふっ……俺が君をこんなところに連れ込んだ目的が、そういう暴行をするためであったならどれだけ良かったか。なぁアキラ、本当のことを言えよ。正直に言ったら許してやる。お前の罪は俺が取り計らって軽くする! だから……アキラ」
ミツヒロはカナタのコックピットに落ちていた飴玉に含まれていたものの正体に思い至ってしまった。
【異形】の血液が放つ特有の臭気――かなり薄められてはいたものの、八年も現場で戦い続けてきた彼がその臭いに気づかないわけがなかった。
アキラが飴に【異形】の血液を混ぜたことの真意は、ミツヒロには分からない。
だが、カナタの『力』が【異形】に起因するものだという噂が真実ならば、【異形】の因子たる血液を摂取したことで何らかの反応がみられてもおかしくはない。
もしアキラがその反応によってカナタを出撃できない状態に陥れようとしたのなら、それは紛れもない妨害行為で軍法違反だ。
ドアを背後に逃げ道を塞ぐミツヒロは、アキラの答えを静かに待っていた。
互いの荒い呼吸音だけが聞こえる静寂を引き裂いて、アキラは笑う。
「もう、おどかさないでよ。罪だの何だの、冗談にしては面白く――」
「ああ、面白くなんかないとも。でもな、月居を苦しめて笑ってる奴はこの艇のどこかにいて、次の好機を狙ってるかもしれないんだ。担架で運ばれてる間も、あいつはうわ言みたいに『傷つけたくない』って繰り返していた。それがあいつの意思表明なら、俺は守ってやりたい。アキラ、お前にこの気持ちが分かるか?」
今にも泣き出しそうにくしゃくしゃになった顔で、ミツヒロは親友へ問いかける。
「当たり前じゃないか。ぼくだって【異形】から人を守りたいよ。人は大切なものだ。価値のあるものだ。だったら当然、保護するよ」
その言い回しにミツヒロは違和感を抱いた。
大切な「もの」。価値ある「もの」。彼にとってはあくまで「もの」で、「保護」すべき対象でしかない――そう言っているように聞こえた。
「アキラ……お前、言ったよな。俺にだから自分の本当のこと言えたって。これまでは告白されてもただ断っただけだったけど、俺には何故だか隠さずに性別のこと伝えられたって。――もう一度、俺のことを信じてくれないか? お前がたとえ【異形】と関わりを持っていても、俺は受け入れるから。お前を尊重するから」
ミツヒロの言葉に嘘はなかった。そこには混じりけのない願望だけがあった。
切実な表情で見つめてくる親友に、アキラは悲しげな笑みを浮かべて言う。
「……ぼくのこと、犯していいよ、ミツヒロ。君がここにぼくを連れ込んだのも、変なことを言ってぼくを困らせたのも、全部そのためだったんだよね。君は親友だから……君なら怖くないよ、ミツヒロ」
眼前で微笑む黒髪の彼が、ミツヒロの瞳には得体の知れない生物のように映った。
理解できない。アキラは男のはずだ。それがどうして、いきなりそんなことを言う。
「ふざけるな、君は女じゃない! そんな娼婦の真似事で俺を黙らせようだなん――」
その瞬間、駆け寄ったアキラの唇がミツヒロの口を塞いだ。
ドアに背中を打ち付ける青年に自分の身体を押し付け、それと並行してアキラは友の口内を舌で責め立てる。
青年の意思に反して反応してしまう股ぐらを見下ろし、アキラは笑みを深めた。
「いいんだよ、もっと続けても」
友としての関係の中でアキラがみせる表情や仕草にミツヒロが意識させられてしまうことは、度々あった。振られてしまったとはいえ一目惚れした人が側にいてくれるというのは、それだけで嬉しかった。もしアキラの心が女で、本当に恋人になれたらという妄想で自慰に耽ったことも、正直あった。
だからだろうか――そう言われて、ミツヒロは抵抗できなかった。
理性が止めろと訴えているのに、男の獣性はそれさえも跳ね除け、手の届く距離にある女体を貪らんとする。
青年のポケットの中で呼び出しの着信音が何度も鳴るが、それももはや彼の耳に入ってはいなかった。
そして彼が果てて行為を終えた後。
衝動が引いて途端に後悔に苛まれるミツヒロの肩を抱いて、アキラはその耳元で囁いた。
「ぼくらのような人間と交わったらどうなるか、君は知っているかい?」
その台詞は自分が【異形】と関わりを持つ人物なのだと暗に認めるものだった。
青年は友の腕を振りほどき、その胸を力任せに突き飛ばす。
よろけて倒れそうになるアキラを助けようともせず、ミツヒロは唇を噛みながら俯いていた。
「ぼくのことは黙っていてくれるね、ミツヒロ? もし言いふらすようなことがあれば、ここで君にレイプされたって公にするから」
「……き、君からしてきたんじゃないか……! 俺は、何も……」
「悪くない、なんて言わせないよ。拒む選択肢を取らなかったのは君なんだからね。こういうことに関しては、男よりも女のほうが庇われる立場なんだよ」
生まれて初めて女であることをありがたく思いつつ、アキラは乱れた服を直していく。
手早くそれを済ませた彼はミツヒロを置いてトイレを出て、廊下を足早に歩いて行った。
(ミツヒロに感づかれたのは失敗だった。『彼女』には怒られてしまうけど……責任は全てぼくにある)
内心で呟くアキラは行為の最中鳴り続けていたスマホを引っ張り出し、届いていたメールに目を通す。
差出人は夜桜シズルで、「最重要の情報共有のために司令室へ赴くべし」とだけ書かれていた。
月居カナタを通して【異形】に通じる者がいることが判明するのは時間の問題だと彼も想定していたため、特に驚きはない。
問題はミツヒロに気づかれてしまったことだけだ。それさえなければ、もう少し準備の時間を稼げたかもしれなかったのに――。
「あ、アキラ」
「呼び捨てかい? せめて大尉と呼んでおくれよ」
と、そこで彼に声をかけたのは瀬那マナカもといマオである。
彼女はどうやら外から戻ってきたところのようで、搭乗口に繋がる廊下からやって来ていた。丁字路で鉢合わせたところですれ違いざま、アキラはマオへ耳打ちする。
「ミツヒロに嗅ぎ付けられた。君も気をつけたほうがいい」
「はっ? あの男が……?」
肩を揺らしてマオは笑った。詰めが甘い――そう憚らず嘲笑してくる彼女に、アキラは何も言い返さない。
「あたしはあたしの、あたしたちのやりたいようにやる。あんたらが邪魔になったらいつでも切り捨ててやるから、そのつもりで」
くすくすくすくす。純真な悪意をもって言葉をぶつけてくるマオ。
振り返ることなく司令室の方向へ歩んでいくアキラを見送り、少女は懐に忍ばせた銃のグリップをそっと握った。




