ヒトノモノ その32 失恋
三十二
「そんなに謝らなくてもいいよ」
藤原は本田に対して申し訳なさそうに頭を下げた。そのとき、本田は藤原の家で酒を飲んだことを思い出した。
「以前、藤原さんの家で飲んだ時、藤原さんは何か嫌なことがあったって言ってませんでしたか?」
「言ったかなあ」
「藤原さんが酒を飲んで、泣き出した時です」
「ああ、あれか。フラれたときのことかい?3年生の時か。もうとっくの昔に解決しているよ」
「フラれたんですか?」
つい本田は好奇心に負けてしまった。
「嫌なことを思い出させるなあ。いろいろあるのさ、男にはねえ」
「どうしてですか?」
「そんな興味あるの?」
「藤原さんって、恋愛するんですね」
「いいだろ。別にねえ」
藤原は話を終わらせようとした。
「全然、そんな話を今まで話してくれなかったじゃないですか?」
「話したくないから、話してないんだよ。もういいだろ」
藤原は再び握り拳をつくった。本田はそれを察した。
「すみません。調子に乗って」
「分かればいいよ」
藤原は洋書を開き始めた。
「すみません。勉強の邪魔をして」
本田はその場から立ち去った。
本田にとって、藤原の失恋は意外だった。あんな人が人を好きになることがあるのか。本田は不思議で仕方がなかった。確かに藤原は酒に酔ったら、猥談をすることがあった。けれども、具体的な恋愛の話などしなかった。だからこそ、藤原のエピソードが聞きたかった。
数日後、本田はまた藤原に会った。その時の藤原の機嫌は良かった。本田はその日以来、藤原のプライベートには触れないことにした。そのおかげで、二人の間に緊張が生じることはなかった。すべてがいつものようにうまく進んだ。けれども、今となってはうまく進んだように本田の目に見えただけだった。おそらく、藤原は何かを抱えていたのだ。それを必死に藤原は本田に見せないようにしていたのだ。
けれども、本田はそれを見抜く目を持っていなかった。自分がもっと気をつけていれば、あんなことは起こらなかった。本田は車を運転しながら、回想から現実の世界に戻った。もう少しで、藤原の実家に着く。本田は後悔の念とともに、最後の日のことを思い出した。本田は昨日のことのように鮮明に覚えていた。




