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かみ・つき  作者: B-POP
1/28

青春? 開始

 忍者のように足音を忍ばせ、暗殺者のように存在を消して廊下を歩く。

「ねぇ? なんでこそこそするのよぅ?」

「うっせ、黙ってろ。カーちゃんにばれたらぶっ殺される」

リビングからテレビの音が聞こえているが、これが消えるとゲームオーバーだ。

「なんでぇ?」

「何でじゃねぇ。あの女は鬼だ」

 決して大げさなんかじゃない。あの女のパンチをまともに食らう勇気なんか、十六になった今でもこれっぽっちも湧いては来ない。こんな時間に外をほっつき歩いていたことなんかがばれた日には、死刑確定だ。

 部屋までの残り数歩を風のように駆け抜け、廊下のきしむ音に心臓まできしませて、ノブに手をかける。最後の最後まで気を緩めるな、そう言い聞かせながら扉を開ける。

 ぎりぎリセーフ。

 部屋に戻ってきたところで緊張の糸が切れた。後ろ手に閉めた扉の音が、今だけはゴールのファンファーレのように聞こえる、というのも決して大げさじゃない。

 ため息を吐き出すと、一緒に体を支える力まで垂れ流しているようで、その場にべったりと尻もちをついてしまった。梅雨も近づく五月の末ともなれば、フローリングの冷たさが尻に心地よい。

 そこで初めて電気をつけていないことに思い至って、俺は手を伸ばして電気のスイッチを探る。が、どうにも高さが足りないらしく、指先はむなしく壁をなでるだけだ。

「これぇ?」

 不意に頭上から降ってきた声とともに、六畳の部屋に蛍光灯の安っぽい光が充満する。

 目を瞑ってもベッドに倒れこめるほどに見知った部屋なのに、吸い込む空気は他人行儀だ。微かに混入した甘い香りは、思春期男子からしてはならない。したら気持ち悪い。

「あぁ、ありがと……って、はぁ?」

 声よりも匂いに反応したのは別に匂いフェチだからでもなんでもない。間違っても、ああいい匂いだできれば鼻を近づけて全力でかぎ続けたい、なんて思ってない。断じて。

「はい?」

 目の前にはきょとんと見開かれた大きな瞳が二つ、こちらを見下ろしている。いや、それはいい。目を見て話すのはコミュニケーションの基本だ。ただ問題なのは、ここが俺の部屋で時刻はすでに十一時少し前で、俺が思春期男子だということだ。

 つまりどういうことかというと、

「何で、ついてきてんだよ!」

 目の前にいるのが美少女だということだ。

「ん。だってぇ、あなたはもう、あたしの下僕なんだよぅ」

 そう言やそんなやり取りをした気もするが、混乱しすぎて記憶を呼び出せない。

 距離が近すぎて全体像は見えないが、真ん丸い目や人懐っこそうに垂れた眉毛は美少女の要素としては十分だ。しかも、瞳は見たこともないほどに透き通った、きれいなガラス細工がそこにはめ込まれているようで、見れば見るほどに吸い込まれそうになる。

 自信なさそうに垂れた目じりと尖らせた唇に、何をしたわけでもないのにこちらが悪いことをした気になってしまう。それでも顔立ちは思わず見とれてしまうほどだ。わずかにピンク色を帯びた肌は、つつかなくてもぷにぷになのが想像できる。

 そういえば廊下を歩いてるときにもずっと声がしていたな、気配を殺すのに夢中だったからすっかり気がつかなかったけど。

「なぁ、聞いていいか?」

「ん?」

「廊下でもずっと、こうやってお話してたよな」

「うん」

「声も殺さずに」

「話してたよぅ。普通にぃ」

「ってことは、リビングまで聞こえててもおっかしくねぇよな、たぶん、おそらく、想像もしたくはないが」

「たぶん、じゃないかなぁ?」

 脂汗が音を立ててうなじを流れている。やけに部屋が暑く感じるのは、自分の体温が下がっているからだ。雪山で凍死する理屈ってこれだよな。

「いい度胸だな」

「は、はひぃ!」

 考えるよりも早く体が動いた。直立不動、絶対服従。これが生き残るための最善の術であることを、本能が知っている。いや、実際何をやっても死ぬんだけど、せめて死ぬなら最低限の苦痛がいいだろ? 無駄な抵抗は苦痛を増やすだけだ。

「夜遊びの上女連れ込むって、どういう了見だ? しかもお前、とうとうロリコンに」

「こ、これには、事情ございまして」

 ゆっくり、上半身を動かさずに振り返ると、何よりもまず怒りのオーラが見えた。そんなものが見えるはずがないと思っているのなら思えばいい、俺には見えたのだ。真紅に燃え盛る怒りの炎が。

「子の不始末は親の不始末。きっちりケジメつけさせてやんよ」

「い、いえ、これ、これこれ、こ」

 掌が振り上げられ、顔面に炸裂するまでの一瞬の映像が、やけにスローモーションに見えたのだが、だからといってアイアンクローの威力までスローになるはずもない。

 こめかみにめり込む圧力を感じながら、俺は少しだけ記憶のねじを巻き戻してみる。今見ているものが走馬灯ではないと信じながら、少しだけ過去に思いをはせる

 どうしてこうなった?

 神がこの世にいるのなら、なぜ俺にだけこんな仕打ちを……いや、違うな。

 神がいるせいでこうなったんだった。畜生。


「シュータロー、今日暇だろう? 放課後付き合いたまえ」

 六時間目の終了のチャイムも鳴らないうちからワイシャツの襟首をひっ捕まえてこんなことを言うのは、クラスに一人しかいない。いや、クラスどころか学校中でも一人だけだ。全国でも片手の指で足りると思いたい。

 振り返っても共犯にされるだけなので、あえて無視。後ろの席だからというよしみでお話してやるのは休み時間だけだ。

「シュータロー、聞こえているのだろう? やばいのだよ。近日中にどうにかしなければならん問題があるのだ」

 大仰な物言いに惑わされてはいけない。無視。

「シュータロー、先週の木曜にコンビニでこっそり買っていたあの本、なんと言ったかな? たしか『ガチベッピン』とか」

「何だー天王寺、水臭いぞ! 用があるならあるとそういってくれれば!」

 なぜ知っている、完璧な隠密行動だったはずだ。何のためにチャリで片道一時間もの道のりを走破したと思っている。

「だから用があると言っている。そんなやましい本なら買わなければよいものを」

 言いながら、天王寺美緒は自慢の胸を両腕で挟み込むようにして、机の上で悩ましげなポーズを取っている。どうしてブラウスの襟がこいつだけタータンチェックで、スカートにスリットが入っていて安全ピンで留められているのか。すべては天王寺美緒だからだ。こんな改造制服、ほかの人間なら絶対に許されない。いや、こいつとて許されているわけではないはずなのに、何故か生活指導につかまっているのを見たことがない。

 本については、買わずに済むものものではないから。否、買わねばならぬ本だからこそだ。と思いながら、おくびにも出さずに冷静に対処する。必要なのは冷静さだ。

「で、何のようだよ」

「青春、したくはないかね?」

「何言ってんだ、いきなり? そりゃ、したいかしたくないかって言われると」

 ちらりと、俺の視線が無意識にそちらを向いてしまう。

 二つ前三つ左の席。ショートカットにセルフレームの眼鏡がトレードマークの、クラス委員。真剣に授業を聞く横顔は、こちらに気づく様子など微塵もない。

「君は想像以上に素直だね」

「うっせぇな。そもそも何だよ、その「青春する」って。そんな動詞ねぇよ」

 ねぇが、心惹かれるかと言われると……じゃない! 何をばかなことを。

 ほんのわずかでも美緒の言葉に耳を貸してしまった自分が、猛烈に恨めしい。そこまで自分が思い詰めていたのだとすると、末期症状だ。何の末期かは知らないが。

「青春、してみないかね?」

「意味わかんねー」

 どうやら俺の後ろの席は、日本語の通じない異次元に通じているらしい。何だよ、いきなり声かけて「青春」って。宗教かっつーの。

「とろけるほどに甘くって、ちょっぴりほろ苦い。プリンのような青春だよ」

「とろけるほどに……ほろ苦い……」

 そんな青春が俺にも訪れる。そう思うと、ごくりと一回では飲み干しきれない生唾が湧きまくる。興味は、ないわけじゃないけど。

「いやいやいや、ないないない。ましてや美緒の誘いで」

「今日の放課後、科学部の部室に来たまえ。そこで話す」

 人の話は最後まで聞けよ。そういえばこいつ科学部だったか。あまりに傍若無人に好き放題するものだから、先輩部員がもてあましているのをこの一学期前半だけでも何度となく見たのを思い出す。

 可愛そうに、晴れて新入部員(しかも女子)が入ったと思ったら歩く爆弾だもんな。同情を禁じえないが助け舟は決して出さない。二次被害をこうむるのは目に見えている。

「なんか嫌な予感しかしないんだが」

「ノープロブレムだ。私が君に迷惑をかけたことがかつてあったかね?」

「この二カ月弱の思い出アルバムはそれ一色だ」

 授業中に話しかけてはへんてこな会話に巻き込み、休み時間にはよくわからん独自理論を語られ、何だかわからん活動を手伝わされたこともあった。迷惑百%だ。

「というわけだ」

「どーいうわけだよ!」

「ん、うん!」

 ひときわ大きな咳払いが会話を断ち切る。六時間目の地理担当、海老沢が気の毒な生き物を見る目でこちらを睨み付けていた。

「あのな、そういうのは普通チャイムが鳴ってから」

 別名ヘビ沢。絡みつくようなねちっこい説教が得意技という、敵にも味方にもしたくない男だ。だから三十五歳独身なのだと言うと説教が倍になるという噂は本当だろうか。

 と、そこにタイミングを計ったようにスピーカーがノイズをこぼし、本日の授業終了のチャイムを盛大に吐き出す。このチャイムが一番心地よく聞こえるのは俺だけじゃないはずだが、今日だけはわけが違う。

「すまん、俺には一秒たりとも無駄にできる時間はない。話なら後日」

「ああ! シュータロー、どこへ!」「こら、話はまだ」

 ヘビ沢の粘着質な声と、美緒のあまり焦りを感じない声が背中を引っ張るが、そんなもの振り切るようにダッシュする。帰宅準備は六時間目が始まった時には完了していた。

「悪いな天王寺、俺は今日も帰って店の手伝いさせられるんだ。サボったら殺される」

 母親の営む小さな喫茶店を手伝う。響きだけは穏やかで良好な親子関係を想像させるが、その実そうではない。主人と奴隷の契約をそう呼ぶ人間がいれば話は別だが。

「驚きだよ」

 背後からの声に「何が?」と半笑いで聞き返したところで、手首に激痛が走った。

 そして、

「私から逃げられると本気で思っているのが、だよ」

 天地がひっくり返った。床がとんでもない速度で頭上を通過し、蛍光灯がつま先を掠めるように高速で流れる。脳みそが偏って、血液が体の末端に音を立てて集まった。

 そして次の瞬間には、スリッパの底が廊下を捉えて元いた位置にに立っているが、三半規管はすっかりバカになっている。まっすぐ歩けずによれよれと壁側に曲がってゆく。

 手首だけが、しっかりと美緒にホールドされたまま。

 うかつだった。完璧な脱出計画だったというのに、美緒の身体能力を計算に入れ忘れていた。人間離れした体力と、常識と理性の欠落した知力、これを兼ね備えた危険人物。それが天王寺美緒だ。普通に走って敵うはずがない。

「失敗だ。殺される」

「どの道逃げ切っていれば私が呪い殺していたよ」

 こいつの場合は本当にやりそうだから笑えない。

「ささ、遠慮はいらない。我が城にご招待だよ、期待のホープ君」

 ずるずると引き摺られる姿に視線が大集合だが、そのどれもが哀れみと好奇心を綯い交ぜにして、好奇心だけ特盛にしたような目で俺を見てやがる。そりゃそうだろう、美緒の奇人変人っぷりを知らない人間は、この満貫寺高校はおろか、一色市を隈なく探してもいないはずだ。いたらもぐりかスパイだ。

「いや、スパイなら真っ先に知ってるか」

「何を言ってるんだい? さあ、ここが今日からの君と私の愛の巣だ」

「おい、お前の辞書に愛なんて言葉あんのか?」

 あったとしたら間違いなく誤植だ、とはあえて言わなかったが、美緒は満面の笑みで自慢のブロンドをばさりと揺らす。もちろん純粋な日本人である美緒のそれは染めているものだが、艶やかさは地毛だといわれても信じられるレベルだ。ストレスがない人間というのは、髪まで健康だとはなんとも皮肉だ。禿でお悩みの全国のお父さんに謝れ、といいたくなる。

「きちんと存在しているよ、失敬な。愛ほど有効な駆け引きの材料はないよ」

 予想通り『愛』の文字が欠落した辞書を持っているようで、安心した。

「で、この……何だこの部屋! カオスみたいになってるぞ。これ、本当に科学準備室か? かき混ぜたら日本列島ができるぞ、これ」

「君はしょーもないところで博学だな。まあ、だから面白いんだが」

 到着した科学部部室は、日中は科学準備室として使われているはずの部屋だったのだが、どう見てもその機能は失われているとしか思えない。少なくとも、科学準備室に曼荼羅や謎の巻物や何やら怪しげな像があってはいけないと思う。

「帰る」

 直感でいろいろと感じ取った上で、見なかったことにするのが最も懸命だと即決する。今帰ったところですでに母親の愛のお仕置き(人間サンドバックの刑)は決定しているのだが、これはさらにやばいにおいがする。何というか、神ならぬ人の身で踏み込んではいけない領域というやつだ。

 はっきり言うと、俺の健全で安全な高校生活を著しく害する何かだ。まぁ、最初っからそんなもんはないけどな。喫茶店で奴隷のように働く人生なんだ。

「何を言う」

 どうやら手遅れだったらしい。

 両肩に万力のような締め付けを感じたが、体は全力で逃走を推奨する。心はすでに逃げ出していて、この場所にはない。

「ようこそ、科学部へ。部活に青春してみようじゃないか、シュータロー」

 目の前に一枚の紙を取り出されたので、うかつにもその内容を読み取ってしまい、がっくりと全身から力が抜けた。部活で青春なんて意外と普通だとかそういうことではない。そんな程度で脱力するような鍛えられ方はしていない。悲しいかな。

 その紙は公式な書類で、タイトルは『入部届』といった。記入日は本日、記入者は俺。ご丁寧に拇印まで押してあるが、アレは間違いなく本物だ。見なくてもそう思えるのは、紙を持っていたのが天王寺美緒だからだ。

「というわけだ。ようこそ、科学部へ」

 偽造の匂いがぷんぷんする入部届けに判子を押した顧問には、末代まで子孫が禿げる呪いをかけることを決意した。今の顧問は禿げているので、効果はなさそうだが。

「何で俺が入部すんだよ? ってか、急ぎの問題があるとか何とか言ってなかったか?」

「ああ、そんなことも言っていたな」

 ぶっ飛ばすぞ、と思いながら眉間に皺を寄せて目を閉じる。ゆっくり深呼吸をして、冷静になれと心の中で三回唱えてから口を開く。そうしないと罵詈雑言しか出てこない。

「そのために呼ばれたのに、なんで入部なんだよ?」

「突然二年生が退部届けを出してしまってね。部員不足で科学部がなくなりかけているのだよ。緊急事態だ」

「そうか」

 朗報だ。このままなくなってしまえば先ほどの失態も帳消しになるどころか俺の高校生活は安泰だ。できれば俺はこの『緊急事態』とやらをバックアップしたくなる。

「ん? 今何か、『朗報だ。このままなくなってしまえば先ほどの失態も帳消しになるどころか俺の高校生活は安泰だ。できれば俺はこの『緊急事態』とやらをバックアップしたくなる』みたいな顔をしなかったか?」

「わぁい、ここまで心が読まれると自分がサトラレになった気分だぜ」

 目の前にいる悪魔が、人の心を読む妖怪『サトリ』であるぐらいなら、俺が妖怪『サトラレ』であることを認めるほうが百倍世界のためだ。

「何を言ってるのかわからないが、あと一人必要なのだよ。部を存続させるには最低三人の部員が必要になる」

「で、俺が入部させられたってわけか。迷惑な話だが良かったな、俺みたいな鴨がいて。これで廃部を免れたじゃないか。クソ、これじゃ俺は青春ボッシュートじゃねぇか」

 まぁでも、これで不足分を補ったということだし、幽霊部員でもかまわないというのなら名前を貸して恩を売っておくのも悪くない。

「何を言ってるんだシュータロー? だから緊急事態だといっているだろう?」

「わかってるよ。だから名前ぐらい貸してやるって言ってんだろ。ってか、もう入部したことになってんだし、かんけいな」

「だから言ってるだろう、あと一人必要なのだと」

 脳みそが軋む音を初めて聞いた。

 確かに頭がいいほうではないが、それなりに十六年生きてきた自負はある。なのに、目の前の展開が全くわからない。目隠しで歩く迷路のようだ。

「ん? だって、二年がやめたんだろ?」

「そうだよ」

「で、部員が足りなくて廃部の危機なんだろ? 少なくとも、三人必要で」

「そう言ったつもりだが?」

「で、俺が入っただろ?」

「だから言ったじゃないか、あと一人、と」

 空恐ろしい想像が頭の中を駆け巡り、それを否定するための要素を必死になってかき集めてみるがどうにもうまくいかない。妙に鼓動が早くなっているのと、足元がおぼつかないのとでふわふわと浮いているようだ。

「さあ、一緒に新入部員を確保する方法を考えようじゃないか、我が科学部、いや」

 あえてそこで一拍おいた美緒は、にやりとほくそ笑んだ。吊り上げられた唇と、細められた切れ長な目が妙に妖艶で、科学者というよりは魔女といった風体だ。部屋のカオスっプリと合わせて雰囲気は完璧だ。何も知らない思春期男子なら、その美貌と驚くべきプロポーションに、一秒で恋に落ちるだろう。

「超科学部に」

 そして、瞬き一回の間にその恋は冷めるだろう。

「つまり、科学部てめぇ一人になったってことじゃねぇか!」

「超科学部だ」

「どっちでもいいわ! んなことより、それだったら先にもう一人探してきて、それから俺を誘えよな。そしたら名前ぐらいは貸してやったぞ」

「何を言ってるんだ? 君はもう科学部、おっと、超科学部員なのだ。ともに人類の最先端である科学を超越し、魔術の域にまで高めるために人生をささげるのだよ」

 信じられないが、これを言っている美緒の顔は百パーセントの本気だ。どこか途中に笑いどころが挟まっているのだろうと愛想笑いを作りかけたが、思いのほか厳しい視線で心を貫かれた。

 本気だからこそのやばさに、今更ながら一度でも首を縦に振ったことを激しく後悔する。もし人生で一度だけタイムマシンが使えるなら、あの瞬間に戻って、ハリウッドアクションばりに窓を突き破って逃げ出すようにアドバイスをすること請け合いだ。

「それに、部員確保は多少なりとも手伝えるとしても、本格的な部活となると難しいぞ」

 全力で後悔してしぼんだ気持ちの向こうで、冷静に事態を考える自分がそう言った。

「と、言うと?」

「俺んちが喫茶店やってんのは前に言ったと思うけど、放課後はそっちの手伝いしなきゃだから、本格的な部活となるとちょっと時間が」

 この時ばかりは、帰宅と同時に始まる奴隷のような労働タイムがありがたかった。これを口実に、超科学部なるよくわからん活動に巻き込まれずに済む、という寸法だ。

「そうか。では、君の母親に許可を取らねばならないということだね」

「そういうこった」

 まあ、百歩譲って部への所属を許しても、あの女がみすみす奴隷を手放すはずがない。というわけで、この駆け引きはおれの勝ちだ。悪いな、天王寺。

「すまんな、俺も部活動そのものはやぶさかでは」

 ポケットから出てきた二枚目の紙切れは書類でも何でもなく、ただのA4コピー用紙だったが、破壊力は先ほどの比ではない。そこにはただ一言、こう書かれていた。

『●やっていい』

「あんのばばぁ!」

 筆跡はまぎれもなく、毎日店のお品書きで見る字だ。紙の右下には、大好きなうさぎの絵が本人の鬼具合とは不釣り合いな、凄まじいかわいらしさで描かれている。ちなみに、『やっていい』の上に失敗したのをごまかすように塗りつぶしている個所があるが、『殺』と書きかけて誤魔化した跡が透けて見えている。

「そんなもん、しかし俺にだって部活選ぶ権利が」

『くちごたえすんな』

 二枚目の紙を突き付け、勝ち誇ったように天王寺が口元と胸もとを釣り上げる。第二ボタンのあいたブラウスから飛び出す、グランドキャニオンの様な谷間に目を奪われる。

「というわけだ。ともに頑張ろうではないか、シュータロー」

 差し出した手が、しばらくは握手を求めているものだとは気付けずに呆けていたが、心の整理がついたところでようやくその手を握り返すことができた。

 簡単な話だ。新しい奴隷契約で、主人が変わっただけだ。

 鬼から、魔女に。


 こうやって、甘ったるいほどに甘くちょっぴりほろ苦い、その上ちょっと黄ばんだ大事件の幕が上がったわけだ。上げるんじゃなかった、とタイムマシンがあればそんな感想も伝えに行けるけど、ないのでどうしようもない

 こうして俺は、青春から最もかけ離れた場所に引きずり込まれたわけだ。ちくしょう。

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