第二十二章 宵待保育園
第二十二章 宵待保育園
宵待保育園が再び開くまで、三週間かかった。
裏山から流れ込んだ土砂を取り除き、倒れた柵を直し、割れた窓を入れ替える。
壊れた家具も多かった。
めめが使っていた机は脚が折れ、きゅうが水遊びに使おうとしていた桶は、土砂の下から潰れた状態で見つかった。
「これ、直せる?」
きゅうが尋ねた。
「無理だろ」
「まだ使えるよ」
「底に穴が開いてる」
「水が抜ける桶」
「それを壊れてるって言うんだよ」
修復には、園児の親たちも加わった。
鬼たちは倒れた木や大きな石を運んだ。
ぬりかべたちは、再び土砂が流れ込まないよう壁を作った。
河童たちは詰まった側溝の泥を流し、百目たちは建物に小さな亀裂がないか調べた。
狐たちは人間の業者に交じり、怪しまれないよう作業を手伝った。
深雪は、壊れた冷蔵庫の代わりに中の食材を凍らせていた。
「母さん、それ食えるの?」
「解凍すれば食べられるわよ」
「牛乳まで凍ってるけど」
「解凍すれば飲めるわ」
「絶対まずいだろ」
悠斗が顔をしかめても、深雪は気にせず次の食材へ手を伸ばした。
*
作業の途中、悠斗は保育室の奥から古い木箱を見つけた。
棚と壁の隙間に挟まり、土に半分埋まっている。
「園長、これ捨てていいですか?」
夜久園長が振り返った。
「何でしょう」
「知りません。だから聞いてるんです」
二人で木箱を引っ張り出す。
蓋を開けると、古い名簿や連絡帳、何冊ものアルバムが入っていた。
「個人情報の管理、雑すぎません?」
「昔は今ほど厳しくありませんでしたから」
「今まで放置してた言い訳にはならないですよ」
悠斗は、一番上のアルバムを開いた。
古い保育室の写真。
今とは違う園児たちが、庭や部屋の中で遊んでいる。
鬼。
河童。
狐。
顔のない子。
大きな頭に小さな体の子。
何枚かめくったところで、悠斗の手が止まった。
保育室の中央に、小さな男の子が立っている。
人間にしか見えない。
両腕を広げ、楽しそうに笑っている。
その周りには、雪が降っていた。
天井から落ちる白い雪を、妖の子どもたちが手を伸ばして追いかけている。
写真の端では、若い深雪が困ったように笑っていた。
「……これ、俺?」
「そうですよ」
夜久園長は、驚きもせず答えた。
「俺、雪を降らせてる?」
「毎晩のように」
「覚えてない」
「小さかったですからね」
悠斗は写真を裏返した。
日付と、園児たちの名前が書かれている。
一番下。
悠斗。
「俺、ここに通ってたんですか?」
「三歳から五歳まで」
「聞いてない」
「深雪さんから?」
「誰からも!」
「そうでしたか」
「そうでしたか、じゃないですよ! 園長も言わなかっただろ!」
「聞かれませんでしたから」
「自分が昔ここの園児だったかなんて、普通は聞かないんだよ!」
悠斗は、もう一度写真を見る。
雪の中にいる幼い自分は、今の自分からは想像できないほど楽しそうに笑っていた。
「毎晩、こんなことを?」
「暑い日には、みんなが悠斗君の周りへ集まりました」
「便利な冷房扱いじゃないですか」
「人気者でしたよ」
「全然覚えてない」
夜久園長は、木箱の中から一冊の連絡帳を取り出した。
表紙には、悠斗の名前がある。
途中までは、深雪と保育園とのやり取りが毎日書かれていた。
雪を降らせすぎて保育室が濡れた。
河童の子と氷を作って遊んだ。
昼は眠ってばかりだが、日が沈むと元気になる。
暑い日は機嫌が悪い。
どれも、今の悠斗と大して変わらない。
しかし、途中から字が途切れていた。
最後のページには、短い記録だけが残っている。
空調設備の故障。
室温上昇。
発熱。
「エアコンが壊れたんですか」
「真夏でした」
夜久園長の声から、いつもの軽さが消えた。
「気づいたときには、保育室の温度がかなり上がっていました。悠斗君は三日三晩、高い熱を出しました」
「それで?」
「熱が下がったあと、雪を降らせなくなりました」
悠斗は自分の手を見る。
「できなくなった?」
「はい」
「だから、ここへ来なくなったのか」
「ご両親が決めたのです」
「何を?」
「悠斗君を、人間の子どもとして育てることを」
悠斗は黙った。
「力がなくなったのなら、妖の世界へ関わらせる必要はない。昼の学校へ通い、人間として暮らした方が幸せになれる。そう考えたのでしょう」
「母さんだけじゃなくて?」
「お父様とも相談した結果です」
「俺は?」
「幼かったあなたには、何も話しませんでした」
「それで全部忘れた?」
「高熱の影響もあったのかもしれません。ここへ来なくなってから、保育園のことを尋ねることもなかったそうです」
悠斗は写真を見つめた。
雪を降らせ、笑っている自分。
その姿が、自分ではないように見えた。
「でも、俺は普通の人間にはならなかった」
「力が見えなくなっただけですから」
夜久園長は穏やかに答えた。
「雪女の息子でなくなったわけではありません」
悠斗は、これまでに辞めた仕事を思い出した。
朝、起きられない。
昼間は頭が働かない。
暑くなると気分が悪くなる。
夜になると目が冴え、眠れなくなる。
どれだけ生活を直そうとしても続かなかった。
周りと同じように働こうとするほど、体がついてこなくなった。
「仕事が続かなかったのも、半妖だから?」
「すべてを、そのせいにはできません」
「そこは全部そうだって言ってくれよ」
「寝坊したことも、連絡せずに休んだこともありますね?」
「何で知ってるんですか」
「深雪さんから聞きました」
「余計なことまで話してるな、あの人」
「ですが、昼の生活が悠斗君の体に合わなかったことは確かです」
夜久園長は、写真の中の悠斗を指した。
「昔から、昼は眠り、夜になると元気な子でした。暑さに弱く、寒い夜ほどよく笑った」
「俺が悪かったわけじゃない?」
「悪くなかった、とは言いません」
「言わないのかよ」
「ただ、努力だけでは変えられない部分まで、ご自分のせいにしていたのではありませんか?」
悠斗は答えなかった。
自分は怠け者だと思っていた。
何を始めても続かない。
ほかの人が普通にできることを、自分だけができない。
そう思って、始めること自体をやめた。
「深雪さんは、大人になったあなたを見て、ここへ戻すことを考えました」
「それで三千万円?」
「普通に頼んでも、悠斗君は来ないだろうと」
「それは来ないけど」
「よく分かっていらっしゃいますね」
「でも、説明くらいしろよ」
「説明したら来ましたか?」
「……来ない」
「深雪さんも、同じことを言っていました」
悠斗は写真をアルバムへ戻した。
「親子で勝手だな」
「似ていますね」
「どこがですか」
「説明せず、自分で何とかしようとするところが」
「似てない」
「そういうことにしておきましょう」
*
木箱を片づけながら、悠斗はふと思った。
「そういえば、園長は何の妖なんですか?」
「今さらですか?」
「今さらです。みんな知ってるみたいだから、聞く機会を逃したんですよ」
「ぬらりひょんです」
「ぬらりひょん?」
「はい」
「妖怪の総大将の?」
「そう呼ぶ方もいますね」
悠斗は夜久園長を見た。
エプロンを着け、泥のついた雑巾を持っている。
「総大将が何で保育園の園長をしてるんですか」
「園長ですから」
「答えになってねえよ」
「妖の子どもが育たなければ、次の妖はいなくなります」
夜久園長は雑巾を絞った。
「親たちが安心して働ける場所も必要です。これより大切な仕事が、ほかにありますか?」
悠斗は少し考えた。
「総大将っぽくないですね」
「よく言われます」
「昔から勝手に人の家へ上がって、茶を飲んで帰る妖怪なんでしょう?」
「勝手には上がりませんよ」
「本当に?」
「最近は、きちんとインターホンを押します」
「入るのは入るんだな」
*
三週間後。
修復された宵待保育園の玄関に、一枚の看板が戻された。
少し古びた木の板に、黒い文字で書かれている。
宵待保育園。
土に汚れていた板を、悠斗と夜久園長で洗った。
端には傷が残り、文字も少しかすれている。
それでも、掛け直された看板は以前と同じ場所に収まった。
日が沈む。
夜久園長が玄関の鍵を開けた。
悠斗は、新しくなった保育室を見回した。
机も棚も、壁の時計も新しい。
窓の外に見える裏山は、以前とは少し形が変わっていた。木々の途切れた斜面には、まだ新しい土の色が残っている。
見るたびに、山崩れの被害の大きさを思い知らされる。
玄関には、あの夜に持ち出した袋が置かれていた。
悠斗は中身を確認する。
名簿。
懐中電灯。
電池。
救急箱。
飲料水。
毛布。
めめの予備の眼鏡。
きゅうの水入り背負い袋。
乾燥昆布。
「これは本当に必要か?」
取り出しかけ、戻した。
「悠斗君」
職員室から夜久園長が呼んだ。
机の上に、一枚の書類が置かれている。
「何ですか、これ」
「正式採用の書類です」
「正式採用?」
「これまでは臨時の保育補助でしたから」
「俺、資格ないですよ」
「働きながら必要なことを学んでください。資格を取るのであれば、園も支援します」
「俺が取るって、いつ言いました?」
「辞めるのですか?」
悠斗は黙った。
辞めると言うために、ここへ来た夜を思い出す。
あのときは、小吉が母親から離れられなかった。
今は、一人で朝まで待てる。
めめは眼鏡をかけ、見えたものを伝えられる。
大河は必要なときに声を出した。
こはくは耳と尻尾を残したまま、誰かを安心させた。
いわおは自分で場所を選び、壁になった。
きゅうは五秒だけ泳いだ。
ことは算数を始めた。
そして悠斗自身も、もう一度雪を降らせた。
「園が直るまでって言ったでしょう」
玄関から深雪の声がした。
振り返ると、手に三千万円の借用書を持っている。
「何で母さんがいるんだよ」
「息子の正式採用を見届けに来たの」
「俺、まだ署名してないけど」
「するでしょう?」
「その前に、その借用書を見せろ」
「嫌よ」
「そもそも、これ借用書じゃなくて生活費の一覧じゃないのか?」
「一番下に借用書と書いてあるわ」
「俺の署名は?」
深雪の手が止まった。
「ないだろ」
「細かいことを気にするようになったのね」
「三千万円は細かくない!」
悠斗が紙へ手を伸ばす。
その直前、深雪の指先から霜が広がった。
借用書が一瞬で凍る。
深雪が軽く力を入れると、紙は細かな欠片になって砕けた。
「あっ!」
白い欠片が床へ落ちる。
「証拠隠滅!」
「何のこと?」
「三千万円はどうなるんだよ!」
「いつまでもしつこいわよ!」
「母さんが始めた話だろ!」
深雪は何事もなかったように、職員室の椅子へ座った。
夜久園長は悠斗へペンを差し出す。
「どうしますか?」
「園長も母さんも、最初からこうするつもりだっただろ」
「さて、どうでしょう」
「ぬらりひょんって、策士なんだな」
「言ったでしょう。総大将と呼ばれることもある、と」
悠斗はペンを受け取った。
正式採用の書類を見る。
職種。
保育補助。
氏名。
その欄に、自分の名前を書いた。
「あとで絶対、話し合うからな」
「その前に、仕事でしょう?」
門の外から声が聞こえた。
「開いてる!」
きゅうが飛び込んでくる。
「キュウリは?」
「開園一言目がそれかよ」
「二本の約束!」
「もう食っただろ」
「今日は今日!」
続いて、めめが赤い眼鏡をかけて入ってくる。
こはくは自分の姿だった。
大河が小さな声で「こんばんは」と言う。
いわおは、新しくなった棚が倒れないか確認している。
小吉は母親へ手を振り、自分の足で玄関を上がった。
最後に、ことがやってくる。
母親に抱かれたことは、悠斗を見ると笑った。
「悠斗先生ぇ」
「何だ」
「さんすう、するぅ?」
「今日は一から十までだ」
「いっぱいまでぇ?」
「いっぱいの手前までだ」
「はぁい」
ことの母親が帰る。
夜久園長が玄関の扉を閉めた。
園児が全員揃う。
悠斗は名簿を開き、一人ずつ名前を呼んだ。
全員いる。
十六連勝の始まりだった。
悠斗が名簿を閉じる。
その瞬間、ことが遠い目をした。
「あしたはぁ――」
「件ちゃんが予言しようとしてる!」
きゅうが叫んだ。
「初日からかよ!」
悠斗は床を蹴った。
新しくなった保育室を滑り、ことの口を両手で塞ぐ。
勢いがつきすぎて、そのまま二人で床へ転がった。
「悠斗先生、失敗!」
きゅうが笑う。
「滑りすぎたんだよ!」
「できてない?」
ことが悠斗の手の下から尋ねる。
「できてない!」
「もう一回するぅ?」
「予言はもう一回するな!」
園児たちの笑い声が、夜の保育園に響いた。
形の変わった裏山の上に、月が静かに昇っている。
月明かりが玄関の古い木の板を照らし、そこに刻まれた文字を、夜の中へ浮かび上がらせていた。
宵待保育園。
日が沈むのを待って、妖の子どもたちを迎える場所。
今夜もまた、いつもの夜が始まった。




