第五章 司郎
1 真夜中の病院
猛烈な風が吹いていた。
砂を巻き、日本海側から砂丘が少しずつ少しずつ出来てゆく。
砂漠は誰も待っていない。
ただ人が、来るだけである。
ケータイの呼び出し音が、さっきからずっと鳴っていた。
長い眠りだった気がする。
今日は十日で、打ち合わせがなくなって……。
ここはどこだ?
司郎は目を覚ました。知らないホテルの、知らない一室だった。さっきから鳴っているケータイに出なければと、体を起こした。随分長く寝た気がする。仕事に行かなきゃ。
「京都の川端警察ですが。風間司郎さんのケータイで間違いないですね?」
「は、はい。……警察?」
司郎の意識はまだ朦朧としている。
俺、なにかしたっけ。
なんでちー坊が横にいないんだ?
「奥様の千恵さんが、事故に遭われて……」
「…………は?」
司郎は飛び起き、身支度を整えた。ここがどこで、今がいつか分らなかった。
ちー坊の走り書きのメモだけが、残されていた。
「らんをたのむ」
「では、ここに手術同意の判子を」
「そんなの持ってきてる訳ねえじゃん! 拇印でいいでしょ!」
「構いません。また、手術中に死亡する可能性についてもご同意ください」
「なんだよこの手続き! はやくちー坊を助けてくれよ!」
神様。神様。神様!
長い間廊下で待たされた。
千恵の手術は成功した。
千恵はICUに入ったままで、麻酔をしたまま寝かされていた。司郎は会社を休み、千恵のベッドの前から動かなかった。隣のソファーで仮眠を取った。彼女が目覚めたとき、自分がいないと心配すると思ったからである。
千恵は一週間目覚めなかった。
人工呼吸器の音がずっとしていて、司郎はコンビニに出かけてもその幻聴がした。
真夜中だった。
司郎は何度も何度も千恵に話しかけていた。こういう時も脳は動いていて、病室で誰か話している事をあとで覚えていた、などと聞いたことがあったからだ。最初は最近の話をして、話題も尽き、話すことがなくなると昔の話をした。
「初めてえっちした時のこと、覚えてる? 京都のベルシャトゥでさ、夜中に俺ふっと目が覚めたのね。慣れてないからだったんだろうね。で、きみの呼吸と自分の呼吸が、無意識に同じリズムになってたのに気づいたんだ。俺が体を膨らましたら君も膨らませ、俺が息を吐いたら君も吐く。無意識にね。それで安心して、深く眠ったんだよ? 知らないでしょ? 今はじめて言ったからね」
千恵は人工呼吸器の規則的な音で、フー、ゴー、とゆっくり言い続ける。
「なあ。早く目覚めてくれよ。目が半開きになって眼球が乾いちゃうからって、看護婦さんにテープ貼られちゃったじゃんよ。これじゃ起きれるものも起きれねえよな? 人工呼吸器だって気管支に入れられてるし」
千恵は人工呼吸器の規則的なリズムで呼吸している。
「ここはさ、ふっ、と目を開けて、『私はどれ位眠っていた?』『ああーちー坊生きてたのか!』『しーちゃん!』『ちー坊! ひしっ! ブチュー! すぱーんすぱーんすぱーん』『ああー看護婦さん来ちゃうううう』の流れの所だろうがよぉ」
千恵が愛した深夜ドラマのDVDを、DVDプレイヤーを買ってきて耳元で流そうと司郎は思っていた。続きが気になれば目覚めるだろうと。どうせ入院生活は長く続くだろうし、退屈を紛らわすにいいだろう。電源コード式じゃなくて乾電池式なら、色々動かせて便利だろうな、とも。
「寝返りも打てなくてむくんでるよ。足揉んだげるよ」
司郎は千恵のむくんだ体を、優しく揉んであげていた。
ぱらぱらと、窓を外の雨が叩きはじめた。昼間の暑かったせいか、今頃になって夕立だろうか。
「嫌だなあ。……雨降ってきたよ。気圧が変わって、そういう時人は調子悪くなるって……。ちー坊? ちー坊!」
心電図が、今まで見たこともないほど乱れ始めた。
「看護婦さん呼んでくる! 頑張るんだちー坊!」
司郎は廊下に飛んでいった。
千恵は、今まで司郎が座っていた固い椅子に座り、管に繋がれたまま寝かされた、自分の体を眺めた。
外は雨が降っていた。
2 カエル
夢を見ていた。白っぽいタイル張りのマンションの前だろうか、都会的な風景がどことなく八十年代のドラマ風だった。ドラマと夢が混ざっているのだろうか。八十年代風のロングコートを着た見知らぬ女が、こちらに向かって手を振っている。
手を伸ばし、大きく手を振る仕草から、あれは千恵だと司郎は分った。ちー坊は体が大きいくせに、いつも大きく手を振る。見つけて欲しいのだろう、と司郎は思っている。声もしないのに、テレパシーのように脳で直接言葉が分った。「らんをたのむ」。
司郎はいつものようにいつもの布団で目を覚まし、いつものように言った。
「おはようちー坊」
いつものように「おはようしーちゃん」と言う、目覚めたばかりの千恵はいない。
代わりに、畳の上の小さな祭壇と、骨壺と、写真があった。
司郎はいつものように布団を畳み、いつものように窓を開けて外の空気を入れた。
「おはようちー坊」
司郎はもう一度言った。
今がいつで、自分がどこにいるのか、ちっとも分らなかった。今が現実なのか、夢の中なのかもはっきりとしなかった。
じっと座ったまま、朝になることもあった。
腹は減るから飯は食うし、眠くなるから寝はする。
しかし、ただそれだけだ。
司郎は千恵といたときと、なるべく同じリズムで生活した。自由が丘にランチに行き、渋谷に映画を見に行った。「それ以外のこと」になるべく外れたくなかった。予告を見て、見たい、見に行こうねと言っていた映画がもうすぐ来る。ドラキュラものだ。京都の学生街を舞台にした小説で、千恵が号泣して「これをいつか読んで」と言っていた小説も読んだ。いつか映画化してくださいということだな、と司郎はコンテをこつこつとかきはじめた。
踏切やホームで、電車に飛びこみたい衝動に駆られたが、「自殺したら生まれ変われなくなる」と千恵が言っていたことを思い出し、来世で会う為に自分を引き留めた。
司郎は今日も銀杏の並木道を、一人で田園調布駅に向かっていた。
「でさ、いつもこの道を二人で話しながら歩いてたからさ、話さないとここで何していいか分んないよね? で、独り言ぶつぶつ言うおじさんに見られるの嫌だから、通行人がいない時だけ君に話しかけてるのさ」
司郎は視線の先の「千恵」に話しかけた。
「アレ? いつもお前、右にいたっけ? 左にいたっけ? どっちでもなかったっけ?」
司郎は自分の右に千恵がいると想定していたが、左に千恵がいるのかもと、左に向いて話し始めた。
千恵の魂は、今まで司郎の右で歩いて話を聞いていたが、慌てて司郎の左に移った。
「あ、でもそっちは車が来るからこっちにおいで。あ、でももう轢かれないのか。……あ、そうそう。四十九日までは、魂がその辺に浮遊してるんだって。だからこれ、聞こえてるよね?」
司郎の言葉に、千恵の魂はうなづいた。
「新婚旅行に行こうよ。行けなかったじゃん俺ら。京都に行こう。いや、そうじゃないな。……約束の地に行こう」
司郎は鳥取砂丘の上で、千恵の写真とともに真赤に沈む夕日を見た。
司郎は京都の鴨川の土手を、レンタサイクルの前かごに千恵の写真を乗せて、号泣しながら走った。
千恵の魂は、その司郎のそばでずっと微笑んでいた。
司郎は千恵が住んでいた、かつて通い慣れた下宿の前に来た。
小さな二階の長屋で、二階の部屋の擦り硝子を見て司郎は言った。
「ああ。まだあとに人入ってないんだね。大家さんが洗剤置きっ放しだね。なんだっけ、これがゴムの木で、この窓のやつが羽衣ジャスミンだよね」
千恵の魂は正解!とゼスチャーし、司郎の頭を撫でたが、さわれなかった。
司郎は向かいの路地の小石を拾い、窓を狙った。
「……知ってる? ここから石を投げるとさ、お前の影が動いて、たたたと走り出すのが分るんだよ。ああ俺に会いたいんだなあって分って、その時俺はけっこう幸せだったんだぜ?」
千恵の魂は拗ねた。
「そういうの、早く言ってよね。全然知らなかったよわたし。わたしから告白したから、わたしの方が余計に愛してるんじゃないかって、いつも心配したり反省したりしてたのに」
その声は、当然だけれど司郎には聞こえない。
司郎は学生時代のときのように、小石を窓にぶつけてみた。
過去の千恵も、現在の千恵もいなくて、誰かがドアを開けることもなかった。
小石は窓にぶつかり、跳ね返って屋根に落ちた。
変な角度で当たったのか、司郎の後ろの電柱まで返ってきた。そこに偶然千恵がいて、その体を小石はすりぬけた。うしろの、電柱に吊るされた小さな段ボールに当たった。
「あれ?」
演劇のチラシが貼られていた。「広瀬弓美・独立後初の一人芝居」。
「広瀬さん! まだ京都で芝居やってたのか……!」
チラシには小さく「クライマックスの三十分は、アドリブで臨機応変に行います」と書いてあった。
「ちー坊、お前だろ? お前が『引いた』な? お前はまだこの辺にいるんだな?」
千恵は苦笑してしまった。
偶然は神の用意した運命。いまだに、千恵はそうだと考えている。
運命は、起こる。
問題は、それをどう意味を取るかだ。
「そうだ。こないだ、君の夢を、見たよ」
と、司郎は再び、隣にいると信じる千恵の魂に話しかけた。
「なんかウチでさ、真夜中なの。水が飲みたいなあって台所行ったらさ、お前が水飲んでんの。で、すげー俺びっくりするんだよ。『ちー坊生きてたのかあっ!』って。で、マグカップ落として割っちゃったよ、夢の中で。あの時のマグカップ、どこ探しても出てこないんだよなあ」
今まで微笑んでいた千恵の、表情が変わった。
「それで俺、喘息の発作起こして、ちー坊が薬取りに行って治してくれて、で、俺夢だなって分って言うのさ。踊り場で踊ろうって! だってさ、引っ越し以来、結局踊り場で踊ってなかったじゃん俺ら!」
司郎は目を瞑り、社交ダンスのふりをした。
千恵はその胸に抱かれるように、腕の中に入ってステップを踏んだ。
あの月の夜と同じだった。
「あ、踊り場ってさ、なんで踊り場って言うか分ったよ。元々お屋敷の階段って九十度曲げてつくるじゃん。そこを曲がるときに裾がヒラッとなって、踊るように見えたからだってさ。つまり、踊るってことは、ぐるぐる回るってことが本質なんだな」
司郎はターンをして見せた。
千恵もターンをして見せた。
「君はいない。人が死ぬってことは、いなくなることなんだね。でもさ。でも。俺は、夢の中で君に会えるよ。夢で会える限り、君には会えるんだ」
千恵は、全てを理解した。
「まさか……まさかだけどさ、しーちゃん」
聞こえない声で司郎に話しかけた。
二人はぐるぐる回りながら踊る。
「しーちゃんは、私を避けて未来に逃げて行ったんじゃなかったの? 逆だったの? ……未来のしーちゃんが、過去に来てたの?」
今日から三日前へ。五日、七日前へ。
千恵の死後から、月の踊り場へ。
晴れの日から雨の日へ。
冬の京都から、あの初夏の田園調布へ。
八十歳から、膝枕へ。
「何度でも何度でも」と、司郎は千恵の目を見て言った。
「何度でも何度でも?」と、千恵は聞いた。
「ぼくは、君の所へカエル」
千恵は、もう触れられない司郎の手を、頬を、唇を触った。
二人はぐるぐる回る。
魂と魂で。
永遠に。
3 その意味
何年かの時が過ぎた。
司郎は部屋中の蘭に、水やりをしていた。
呼び鈴が鳴り、司郎は階下へと走っていった。
「やあ、久しぶり」
「……どうも」
扉を開けると、弓美が立っていた。
司郎は階段を上がりながら弓美に言った。
「こないだの芝居、良かったよ!」
「ありがとう」
「しばらく東京に?」
「あ、でも、公演が終わればまた京都へ」
「そっか。でも季節が春で良かった。見せたかったのさ」
司郎は紅葉柄の細工硝子を開けた。
そこは、六畳二間の、窓の広い光あふれる部屋である。畳の和室が京都みたいだと司郎が気に入り、日当たりを千恵が気に入った部屋である。
「うわあ」と、弓美がため息を漏らした。
古陶器や籠に植えられた、窓を覆い尽くすほどの胡蝶蘭が、一斉に花開いていた。
女らしいピンクの花。少女らしい小さくて桜色の花。割れたマグカップの株からも、ピンクの花。部屋中がまるでピンクの花園だ。
「光の差す方へ、と妻はいつも言っていた。悩んだり死にたいと思ったら、光の差す方へ、って呪文を唱えるって。それは花もそうなんだよね。花芽は太陽の方向に伸びる。向日葵だけじゃないのさ。こいつら全部、光の方へ向かって咲くんだ」
司郎は、千恵が縫い合わせたハイビスカス柄の布の座布団を出した。愛用の急須を出し、ヒヨコ柄のマグカップにハチミツ紅茶を淹れて弓美に出した。コーヒーフレッシュをたらし、二度と描けない模様をしばらく眺めた。
「ありがとう。……しかし壮観ね」
「水やりとか温度とか湿度とか、大変だったよ。ようやく、安定して咲くようになった」
司郎はひとつひとつの花を眺めた。昔千恵は、アレはどこどこで拾い、アレはどこまでわざわざ司郎を連れて買いにいったなどと言っていた。どれがどれかなんて、司郎は覚えていない。しかし千恵にとっては、ひとつひとつが救ったいのちであり、ひとつひとつが司郎との思い出だ。古陶器も古本も植物たちも、この部屋は、千恵の集めたものばかりで溢れている。
花園の真ん中には小さな祭壇があり、千恵の横顔の写真があった。
「俺さ、……どうしてウチの妻が胡蝶蘭にこだわるのか、さっぱり分んなかったんだよ。貧乏の出だから金持ちっぽい花に憧れたのかな、とか、好きなドラマで主人公がガラス温室の花屋で蘭を扱ってたの思い出して、全話借りてその意味を考えたり。あと、イギリス文学に憧れて、イギリス人と付き合ったりしてたから、大英帝国が南米にプラントハンティングして蘭を寒い国に持ち帰って、温室で金のかかる希少花と自分を見立てたりしてた、とか。色々、色々考えたんだ」
花から元気を貰える部屋にしたいの。
千恵がそう言ったときのことを、司郎はまだ覚えている。
「違ったんだ。とてもシンプルに、花言葉だったんじゃないかな、って。ある日俺、花言葉辞典でピンクの胡蝶蘭を見つけて号泣しちゃってさ」
「……それは、なに?」
「『あなたを愛します』」
私たちはまた会える。あのまどろみのような、ずれた時間の中で。
千年の花は、千年の言葉を咲かせた。
作中引用 「亜麻色の髪の乙女」橋本淳