第五章 地球の意志
第5章 地球の意志
1
高坂陽一は、ガイア教における宗教裁判で、死罪という判決を受けた。その執行日は明日に迫っていた。
軟禁されている部屋でも、外部からの銃撃音や爆発音が漏れ聞こえてきた。
その戦いによって、人類肯定派が壊滅したと、陽一を監視している信者から話があった。
否定派の実権は久能が握り、救世主代理であった晴樹も行方不明だという。
そして、大きな地震。甚大な被害が出ているという。
今、日本は混乱の極みにあった。
シナリオは予想よりも最悪な方向へ進んでいるようだった。
彼は、この状況下だからこそ、自分の思想を誰でもいいから伝えなければならない、と切実に感じた。
この数日間、軟禁されている間、ゆっくり内観する時間を得て、彼には一つの結論が生じていた。
監視役の信者を部屋に招じ入れた。
ガイア教徒は若い信者が多い。この信者も二十代前半の若い信者である。
「一体、何の用ですか」
「いや、ただ君と話したいだけなんだ。僕は明日死刑になるのだろう。人と会話するわがままくらい許されてもいいと思うが」
若い信者は、しぶしぶ勧められた椅子に座った。
「君も、人類は地球にとってウイルスのようなものだと考えているのかな」
「もちろんです。人類は地球を破壊しています。我々は神である地球を守る責務があるのです」
「ウイルスにも良性と悪性があると思わないかい。人類もそうだ。オーストラリアのアボリジニのように自然とともに暮らす人々もいる。文明と無縁の人々だ。まさに地球と一体化した生き方だ。地球にとって何の害もない。まさに良性のウイルスだろう。そんな種族まで、一概に敵視することはないと思うのだがね」
「それはほんの一部の話です。大多数の人類が、大気や水を汚染し、大地を砂漠化しています。現に多くの生物が住処を追われて絶滅に瀕しています」
「君は、ウイルスは生物であると思うかい」
唐突な質問に若い信者は面食らった。
「ウイルスは生物か、ですか・・・」
「ああ。風邪のウイルスや、熱病のウイルス。目に見えない微細な存在だ。その一つ一つに命が宿っていると思うかい」
「よくわかりませんが・・・」
「ウイルスには細胞はないが、増殖能力はある。生物学的にみて、不可思議な存在だ。いや、突然変なことを聞いて悪かったね。人間にとって、ウイルスは塵よりも小さく、その存在さえも黙視することはできない。視野を広げて、宇宙を基準として考えたとき、人間の存在など、塵よりも小さく無に近しい存在だ」
「・・・」
「今言いたいことは、生命には多様性があるということだ。だが、どの生命にも共通することが一つある。それは、いずれの生命も生まれる前は何一つ持っていなかった、ということだ。地球から一つの命をただで与えられて、今こうして生きている。そして、やがて与えられた命を地球に返す。命は所有できない。借り物なのだ。目先の欲望を望んでも何の意味もない。僕の命は地球からひととき預かっているに過ぎないからね。だが、地球も、その数十億年の一生を宇宙からひととき預かっているに過ぎない」
若い信者は、沈黙のままである。
「我々は宇宙に目を向ける必要があったのだ。人類は地球に依存して生きてきた。地球は人類にとって確かに神である。そして、その地球は宇宙の大いなるうねりの中で生じた。星々の爆発や衝突により様々な元素が生まれ、地球の元となった。宇宙こそ、全生命の源である」
「・・・」
「君も例外ではない。君も宇宙が生んだのだ。宇宙の一部なのだよ。物質も時間も、宇宙という拠り所がすべてを支えている」
陽一は天を仰ぐ素振りをした。彼の頭上には果てしない大宇宙が広がっている。
「宇宙誕生から現在まで百五十億年と言われている。今も宇宙は急速に膨張し続けている。宇宙の境界の向こうには何があるのか、宇宙自体、一体いくつあるのか、我々にはわからない。わからないこの世の仕組みの中で、しかし我々は確かに存在している。どんな生命も宇宙を構成している一部なのだ。だから、我々は生命を大切にしなければならないのだ」
「・・・」
若い信者は陽一の話を聞いているうちに、話の内容は全部理解できたわけではなかったが、この人を処刑してはならないと感じた。その判断が正しいのか、間違っているのか、彼にはわからなかったが、ただ殺してはならないと直感したのだ。
「お逃げください」
信者は短くそう言った。
「私が、手引きをします。ここから脱出してください」
「いいのかい。君はどうなる?」
「あなたについていきます。ご一緒してよろしいでしょうか」
「ああ。もちろんだよ」
陽一は力強く、愛用の杖を握り締めた。
深夜、二人はガイア教本部からの脱出に成功した。
数日後、陽一は生き残りの肯定派信者たちと合流することができた。その間、監視役だった信者が、体の不自由な陽一に代わり、否定派に見つからないよう彼をかくまい、手足となって尽くしてくれた。古びた空きビルの一室に肯定派の集団は潜伏していた。陽一はそこで小栗正義と再会した。
小栗は、陽一の前に進み出ると、床に額をこすりつけて土下座をした。
「ガイア。申し訳ありません。あなたの言いつけを守らず、肯定派は壊滅いたしました。
私が生き恥をさらしているのはせめてあなたに一目お会いして、お詫びを言いたかったからです。全ての責任は私にあります。たくさんの犠牲になった同胞たちの後を追い、あの世で謝罪してまいります」
「小栗君」
そう呼びかけた陽一の声は低かったが、怒りにも似た響きがこもっていた。
「まだ、わからないのか。生命を尊敬するという教義が。この教義は他の万物の生命を尊敬するという範囲に留まらない。自分の生命をも尊敬するのだ。自分の生命を自分だけの所有物と思ったら大間違いだ。地球、そして宇宙から与えられた生命なのだ」
「・・・」
「自分の生命に感謝するのだ。がんばって動き続けてくれている自分の心臓に感謝するのだ。地球から、宇宙から与えられた預かり物。地球の一部であり、宇宙の一部である自分というたった一つの存在。君の生命も神の一部なのだよ」
「ガイア・・・」
小栗はその場で泣き崩れた。
肯定派は壊滅し、人数は激減した。だが、完全に消滅したわけではなかった。
「人類はまだ戦わねばならない。武器を取って戦うという野蛮で低次元のものではない。
争いやいさかいを繰り返してきた今までの人類から脱皮するための自分自身との戦いである」
その場にいる信者の人数は、百人ほどだった。だが、人数の大小は問題ではなかった。陽一はみんなの前に出て、一人一人をしっかりと見回した。
陽一は、周りの信者たちに力強く宣言した。
「地球神ガイアはここに告げる。この地球上に存在する万物も全て神の一部である。地球で生まれ育った我々人類も神の一部である。我々の存在は決して否定されるべきではない。我々は全ての多種多様な生命の存在を認め、全ての自然の恩恵に感謝し、宇宙の一翼を担う自分自身を誇りにすることができる。我々は存在していいのである」
2
もう、俺にはこいつだけになってしまった。
キャリングケージの中に入っている黒猫を見ながら、晴樹は嘆息した。
襲撃を受けてから、自宅に戻り、クレオを連れ出した。そして、目的もなく、近くの駅に行き、目前の電車に乗った。
その一連の行動を、ほぼ無意識のような状態で、彼はおこなった。
時間が経ち、少し気分が落ち着くと、逃げなければ、という強迫観念が彼を支配した。
都内を離れ、何回か電車を乗り換え、西へと向かった。
猫と宿泊できるホテルを探しながら、あてのない旅を続けた。人ひとりと猫一匹の逃避行の旅だった。
ガイア教の抗争や、東海地震のニュースは九州のある駅のモニターで見た。
世の中はどうなってしまうのだろう。
電車に揺られている時、ひどい疲労から、彼はいつのまにか深い眠りに落ちた。
大きな湖が見えた。その大きさはまるで海のようだった。
まだ幼い自分が、父と母に連れられて旅をしていた。
仕事人間で、家庭を顧みない父だったが、たった一度だけ、三人そろって家族旅行へ行ったことがあった。
あの時は、家族が笑顔に包まれていたような気がする。
父は、古いお寺が好きなようで、何箇所か巡り歩いた。
母は、お寺には興味がないようで、何かわがままを言った幼い自分の世話に手を焼いていたようだった。
自分の右手を父と、左手を母の手とつなぎ、別に理由もなく楽しかった記憶が胸の中にわだかまっている。
あの風景はどこだったのだろう。
またあの頃に行ってみたい。
彼は夢から覚めた。
九州からまた東へ向かう旅を続け、滋賀県の琵琶湖についた。
「やはり、ここだ」
その景色には見覚えがあった。
家族旅行した場所は、間違いなく琵琶湖周辺に違いない。
彼は、琵琶湖の脇にある公園のベンチに腰掛け、湖を飽きずに眺めていた。
水面に陽一や河井、見可子や由良の顔が浮かんでは消えた。
皆、無事だろうか。
久能率いるガイア教は、たくさんの人間の命を奪うだろう。
どうして、こんな結果になったのか。
短い間だったが、救世主代理という立場にあった自分に、できることがあったのではないだろうか。
それとも、これが自分の望んでいた結果だったのだろうか。
いずれにせよ、彼は自分ひとりだけ生きてはいられないと、はっきりと自覚していた。
この思い出のある湖になら、わが身を委ねられそうだった。
突然、ニャア、とクレオが鳴いた。
お腹でもすいたのだろうか。
「もう、お前の面倒は見られそうにない。これからは自分の力で生きていくんだ」
ケージを開けて、クレオを外に出した。
クレオは、晴樹の足にまとわりついて、離れようとしなかった。
そういえば、家族で行ったあのお寺の名前はなんと言ったか。
急にそんなことが気になった。
美しい仏像があったような気がする。
人生の最後にあそこへ行ってみよう。
「クレオ、ここでお別れだ。今までありがとう。元気でな」
晴樹は、そう言って立ち上がると、タクシーを探すため、公園を出た。
タクシーの運転手に話をすると、それらしいお寺の名前をいくつか教えてくれた。
もちろん幼い時代の記憶なので、名前は思い出せなかった。それなら、一番美しい仏像があるお寺に向かいましょう、と運転手は言ってくれた。
三十分ほど走り、その古寺に到着した。
境内に入ると、曖昧な記憶が鮮明に蘇ってきた。間違いない。このお寺だ。
小さなお堂の中に入り、廊下を渡ると、少し背の高い十一面観音菩薩像が安置されていた。
穏やかな顔をしている。彼は、その像をしばらく眺めていた。
「一木造りですよ」
背後から声をかけられた。振り向くと、この寺の住職らしかった。
「一本の木から、仏の姿を生み出しているんです。昔の人は、木に神仏が宿っていると考えていたのでしょう」
「・・・」
「観音様は、世の中に起きる音、つまり人々の声を漏らさず聞いて、救済してくれる仏です。この地方は古来より戦が多く、多くの人が命を落としました。人々は、観音様に永遠の平和と、心の安寧を祈り続けたのでしょう」
晴樹は、飽きずにその仏の形をした木を見つめていた。
お寺を出て、タクシーに戻った。琵琶湖畔の公園に戻るように運転手に告げた。
そういえば、陽一が言っていた。
見可子は動物たちにとって観音様のような存在だと。彼らの声を聞くことができるからだ。
それなら、今の自分の心の叫びも彼女に届くだろうか。
後悔と孤独と寂しさと空しさ。ごちゃまぜになった言葉にならない大きな感情を、彼は必死で叫んでいた。
公園に到着すると、すっかり太陽は西に傾いていた。
ケージは置いたままになっていた。
しかし、クレオの姿はもうどこにも見えなかった。
彼は公園を抜け、水辺にたたずんだ。砂浜に座って、時間の経つのも忘れ、湖を眺め続けた。夕日の眩しい日差しが当たり一面を照らし出していた。
「なんと美しいのだろう・・・」
晴樹は水平線に没しようとするその太陽の残光に目を細めた。光の糸は幾条にも周囲に飛散し、空や湖を橙色に染めた。水面では小さな波濤がその光の糸を分断し、砕け散った光の粒子が無数に転げ落ちている。その輝きは目が痛いほど鮮やかだった。
「なんと美しいのだろう・・・」
その思いのみが、頭の中を何度も行き来した。
自然と涙をこぼしていた。
自分の心の中にも、どうやら感動できる人並の感情はまだ残っていたらしい。
隣に近づいてくる人の気配を感じた。
「ほんとに綺麗だね」
見上げると、見可子の姿がそこにあった。
「この子が教えてくれたの。あなたがここにいるって」
彼女は、黒猫を抱きかかえていた。
由良とともに、ガイア教を抜け出した彼女だったが、その後、二人は別行動を取ることにした。彼女は入院している河井に晴樹が行きそうな場所を聞いた。河井にもわからないようだったが、細い記憶の糸を辿り、幼い時代に家族で琵琶湖に旅行に行ったことがある、ということを教えてくれた。
彼女は自分の勘を信じ、琵琶湖に向かい、駅を出て歩いているところで、聞き覚えのある鳴き声を聞いた。彼女の勘は確信に変わった。
「クレオ、あなたの主人は今どこにいるの」
擦り寄って来る黒猫を、彼女は優しく抱き上げた。
こうして、見可子は、晴樹の目の前に立っているのだ。
「河井は無事だったのか」
「ええ。命に別状はないわ」
「そうか。本当によかった」
晴樹は、深く息を吐いた。
「夕日って、ほんとに綺麗。朝日も綺麗だけど、私は夕日の方が好きだなあ。太陽の最後の輝きっていうか、名残惜しいっていうか、理由はうまく言えないんだけどね」
彼女は、晴樹の涙に気付いたのか、気付かないのか、そのまま隣に腰掛けた。
黙っている晴樹に向かって、見可子はかまわず言葉を続けた。
「私って、こんなに綺麗だと、なんか、ほらお日様に手を合わせて拝みたくなっちゃうんだよね。古臭いのかもね」
そう言って微笑んだ見可子は、猫を抱えながら、目をつむって夕日に向かって手を合わせた。
「ちょっと聞いたことがあるんだけど、昔、仏教で日想観ていう修行があって、夕日を見つめながら遥か西方浄土のことを思い浮かべる人がたくさんいたんだって。そういうのって、厳かで、清廉なイメージがあってなんかいいよね」
晴樹は、年に似合わずそんなことを言う彼女の姿を横目で見ていた。
夕日の光の粒が彼女を照らし出していた。両手を合わせる彼女の姿は、神々しくて美しかった。どこかで見た気がする。つい先刻の女性的な観音菩薩像。姿かたちはまるで違うのだが、なぜかあの像と彼女がだぶった。
彼女は自分を救ってくれる神様の化身なのではないか。
その瞬間、彼の中で少しだけ何かが変わったような気がした。晴樹も目をつむった。そして、遠き落日の温もりに手を合わせた。今彼女が隣にいてくれることの奇跡を感じながら。
3
人類の危機の際にあらわれる地球の代弁者。地球の意志を背負った者。かつて世界が長雨で海に覆われてしまったとき、人類を救ったのは箱舟を作ったノアという一人の老人だった。
彼は地球の意志を感じ、新しい世界の創造のため、種の保存の役割を与えられた。一族の力を借りて多くの動植物を救い、地球を汚した人類の最後の尻拭いをするつもりだった。
ノア一族を残して全ての人類が海の藻屑と化したかと思えた。だが、そうではなかった。ノア一族のほかにも、多くの人間が生き残り、人類は再生することができたのだ。
地球は人類にやりなおせるだけの余地を与えたのだ。
そして現在、地球はまたその意志を、人類に対して示そうとしている。
その意志がどういう答えを導き出すのか、誰も知らない。
だが、人々からガイアと呼ばれる男は、自分のやるべき役割を果たそうとしていた。
人類粛清を目的とするガイア教人類否定派の行動を阻止することである。
高坂陽一は、暴力的手段を廃し、なおかつ否定派の信者の考えを改めさせる必要性を感じた。
ガイア教の象徴ともいえる場所がある。富士山麓の大神殿である。この地は、ガイア教の聖地であり、この地をおさえる者が、自らの正当性を主張することができる。
いわばガイア教にとって、錦の御旗のような役割を果たす地であり、大神殿を制圧すれば、ガイア教の現在の最高責任者である久能の権威も失墜し、彼の求心力も失われるだろう。
陽一は信者たちに、歩こう、と告げた。
東京から、富士山麓までひたすら歩くのだ。
陽一自身、体が不自由で杖がなければうまく歩けない。そんな状況で、彼は歩くことを提案したのだ。その歩みは遅々として進まないことは容易に想像できた。
百人ほどの信者たちは、陽一の体を心配しながらも、その提案に反対しようとはしなかった。
歩きながら人々に訴えるのだ。
命を大切にしよう。地球を大事にしよう。他人を思いやろう。それらは人として当たり前のことだが、だからこそ、ないがしろにされてもきた。
そんな当たり前のことこそ、ガイア教の一番重要な教義なのだ。
みんなが宇宙の一部分で、みんなが宇宙そのものなのだ。
彼らは、大神殿への一歩を踏み出した。
人数は少なかったが、陽一は笑顔だった。
「地球は今、我々人類を試されているのだ」
そう言って杖を突きながら、ゆっくりだが確実に歩を進める。
やがて、その行進の模様が、小さなニュースになり、情報は瞬く間に世界に拡散した。
一人、また一人とその行進に参加するものが現れ始めた。
外見が不良じみた若者たちが、集団で陽一の前に立ちふさがった。警戒した小栗が、陽一を守る盾になろうと前に進み出た。
行進の邪魔をするのかと思いきや、そうではなかった。
公園で遊んでいた友人たちが、ガイア教否定派に殺害されたのだという。
確かにマナーを守らなかった友人たちにも非はあるが、命を奪われることはなかった。
自分たちに何ができるのか、彼らは考え、この行進に参加する、という答えを導き出した。
陽一は来るものを拒まなかった。
女性や、老人、子供。海外からも賛同者があらわれ、人種を問わず列に加わっていった。
大神殿まで半分ほどの行程まで来たとき、数千人の規模の集団が、その行進を待ち構えていた。
その集団を率いる人物が陽一に話しかけた。
「お待ちしていました」
「由良さん」
「我々は全て、あなたと行動を共にします。私は真田先生に、否定派の監視役を仰せつかっていたのです。だが、結果的に久能の行動を止めることはできなかった。そこで、私は久能の思想に反感を持つ信者を集めて、否定派の内部からの切り崩しを画策していたのです。これだけの信者が私に賛同してくれました」
「そうですか。あなたが参加してくれれば、僕もたいへん心強い。共に歩きましょう」
「はい」
こうして、由良和貴も、列の一隅に加わった。
由良の尽力もあって、いつのまにか人数は、数百人から、数千人、数万人にまで膨れ上がった。
大神殿へといたる樹海の入り口は、すでに否定派の武装集団が防備を固めていた。
ガイア教の聖地を失陥することを恐れた久能が、本部から派遣したのだ。
そこへ陽一率いる、数万人の行進がついに到着した。
武装集団は、銃を構えた。
陽一はゆっくりとだが、その語気に強固な意志を込めて言った。
「そこをどきたまえ」
たくさんの銃口が、陽一ひとりに集中して向けられている。
「繰り返してはならない」
陽一は、杖を突きながらゆっくりと前進する。
「一体人類はどれだけの悲しみを繰り返してきたのか。不毛な争いの連続。尽きることのない憎しみの連鎖。その都度、悲劇をもう繰りかえすまじと何度誓ってきたことか。その誓いの記憶はきっと我々の遺伝子に深く刻み込まれている。人類創生から現在までの五百万年の記憶だ。その記憶は今この時代にこそ試される。人類存続をかけたこの時代にこそ。我々は自分自身を乗り越えなければならない。悲しみを乗り越え、憎しみを乗り越える」
「世迷言を言うな!」
武装集団のリーダー格の男が、引き金に指をかけた。
「この世に滅びぬ生命などない。人類も同様に滅ぶのがさだめなのだ」
そう叫んで、引き金を引こうとしたその瞬間、陽一の前に、人々が壁を作るようにして、立ちふさがった。
「ガイアを守れ!」
彼らは、口々にそう言って銃を恐れる様子もなく、進んでその身をさらけ出した。中には女性や子供もいる。
陽一は、彼らに深く感謝しながら、結局また先頭に立った。
「僕は信じているのだ。人類の理性の勝利を」
陽一はどんどん近付いてくる。それに続く数万人の群集は、津波のような圧力を放っている。
気圧されてしまった武装集団は硬直してしまったように、動けない。リーダー格の男が半ばやけくそになって叫んだ。
「ええい、かまわん。撃て、撃てえ!」
そのときである。
「ひかえろ!」
大音声でそう叫んだ一人の男が、突然、武装集団と陽一の間に割って入った。目深にかぶったフードを外し、その顔が白日のもとにさらされた。
「・・・!」
群衆は驚いた。その男は、かつてガイア教を創始した人物、救世主、小山田志郎その人であった。
「撃ってはならん!」
小山田は、武装集団に向かって、鋭い眼光を投げつけ、大きな声で威圧した。そして、陽一の目の前に来ると、突然両手を大地に付き、跪いた。
「今日のガイア教混乱の事態は、全て私を元凶とするもの。にも関わらず、自らの命惜しさのため、身を隠しておりました。恥も外聞も捨てて生き長らえたのは、ひとえにこの世に降臨なさるガイアをお待ち申し上げていたからです。あなたはまさにガイアの生まれ変わり。私は身を潜めている間、今までの自分を振り返っておりました。自らを救世主などと称し、驕り高ぶった結果、世の中を混乱に陥れてしまいました。その罪は決して免れるところではございませんが、もし許されるならば、教祖の地位を捨て、一信者としてあなたに帰依したいと存じます」
そう言って、額を地にすりつけんばかりに低頭した。
陽一はしばらく黙って小山田を見つめていたが、
「共に歩きましょう」
とだけ言った。
「・・・。ありがとうございます」
陽一は、小山田の手を取り、立ち上がらせた。
ガイア教の救世主が陽一の側についた。その事実は、武装集団の戦意を喪失させるのに十分な効果があった。
陽一は再び前進を始めた。大群衆がつき従う。
武装集団は銃を投げ出した。ついに一発も銃弾を発射することはなかった。
大行進は、肩を落とした武装集団の脇を平然と通り抜け、大神殿へと向かい、ついに無血制圧に成功した。
陽一は群衆を見回した。中には達成感に浸り、涙を流している者もいた。陽一は周囲に告げた。
「この世の現実は、確かに怒りや悲しみに満ちている。人には感情を捨て去ることなどできはしないだろう。人は永遠に涙を捨て去ることのできない弱い生き物かもしれない」
「・・・」
「だが、人にはイメージする力がある。自分を他者に置き換える想像力がある。他者の立場に立って、思いやる力。弱肉強食のこの自然の摂理の中、唯一人類に与えられたもの。それが他の生命への思いやりの心。人類は万物を破壊するだけではない。きっと万物を救うことができる」
群衆たちは黙って頷いた。
「我々は、人類五百万年の歴史を無駄にしてはいけないのだ」
陽一は、まるで自分自身に言い聞かすようにそう告げた。
「大神殿が、落とされました」
報告を受けた久能は、怒りに身が震える思いだった。
「我が軍隊は何をしていたのだ!」
「・・・」
本部はもはや閑散としている。
ガイア教の聖地が落とされたとの情報は瞬く間に本部の信者たちに伝播した。救世主、小山田志郎があらわれ、陽一の側についたと知った時、どちらが異端者なのか、信者たちは思い知ることとなった。久能率いるガイア教否定派の正当性は完全に失われた。信者たちは権威失墜した久能を早くも見限り始めていた。
人間は、大義名分に弱い面がある。自分が旗頭では、人はついてこないということか。それならば、人心の納得するような人物を新たに領袖に据えねばなるまい。
久能は不気味にほほ笑んだ。
「俺にはまだパンドラの箱がある」
パンドラの箱とは、ギリシア神話に由来する箱の名前である。蓋を開けた途端、あらゆる災厄が飛び出したという伝説を持つ。
久能はその日、本部から姿を消し、行方もわからなくなった。
4
諏訪晴樹は、ホテルの窓から、夜景をぼんやり見つめていた。
彼は、見可子の登場で自ら命を絶つ機会を失った。
そのときから、彼は生きることを深く考えるようになっていた。
「俺は、結局、死ぬのが怖かっただけなのか」
彼は、部屋の隅のソファーに寝そべるクレオに話しかけた。
一度別れたはずなのに、結局自分とまた一緒にいる。不思議とこの猫とは、縁が切れないらしい。
そのとき、猫が大きなあくびをした。
「ふっ。あくびか。気楽なお前が羨ましいよ」
隣の部屋には、見可子が宿泊している。
直接的な言葉には出さなかったが、彼女が自分のことを心配してくれているのが、手に取るようにわかった。
琵琶湖で一緒になってから、彼らは行動を共にし、近くのホテルに滞在していた。
陽一の行進をニュースで知った。一緒に歩きたかったが、彼はまだ、自分の生き方に迷っていた。
俺は恵まれすぎていた。恵まれすぎると人はだめになる。
いつも思っていた。俺はどうして、このくだらない時代に生を受けてきたのだ、と。生まれないほうがよかった、と。
晴樹は内ポケットからバタフライナイフを取り出した。中学生のときから持っていたものだ。刃の部分を出して、それを首に当ててみた。
「俺には、生きている価値もない」
今までの人生で、衝動的にそう思い、何度、その刃を自分の首に突きたてようとしたことだろう。
今まで生きていたのが奇跡と言えるかもしれないくらいだ。
ドアをノックする音が響いた。
「入っていい?」
ドアを開けると見可子が立っていた。彼女は中に入ると、すぐに晴樹が持っていたナイフに気がついた。
刃は首の皮を切り、薄く血を浮き上がらせていた。
「どうして、自分を傷つけるの」
見可子は、目にいっぱい涙をためて言った。
見可子の言葉に、彼は驚いて、ナイフを両手で握り、切っ先を自分のあごの部分にあてた。
どうしてそんな行動を取ったのか、自分でもわからない。
自分の今までの後ろめたい人生全てを見透かされてしまったような気がしたからかもしれなかった。
「俺には、生きている価値もない」
今まで思ってきたことを、彼は言葉に出して、そう言った。
身の回りに起こった様々な出来事が、彼の経験値の許容範囲を大きく越えてしまった。
いつも冷静沈着な晴樹が、自分で自分を理性的に制御することができなくなっていた。
これが、母に怒られた子供の気持ちなのだろうか。母の愛情をよく知らない晴樹はわけがわからなくなった。
彼女はゆっくりと首を左右に振った。
「あなたにそんなことができるはずもない」
「・・・」
「あなたはクレオを命がけで守ってくれた。小さな動物さえも傷つけることができなかったあなたが、どうして自分の命を傷つけられるというの。命の重さはどんな生物も変わらないはずだわ」
晴樹はナイフを握る手に力を込めた。
見可子は穏やかな表情でじっと晴樹の瞳を見つめた。
「無理よ。あなたにはできない。誰よりも命の尊さを知っているあなたにはできない」
晴樹の手は震えていた。その震えが次第に大きくなり、急にナイフを落とした。そして、両手を床についてぐったりと座り込んだ。
彼は人前で初めて心を裸にした。
「俺が今まで生きてきて、一体いくつの命が犠牲になっただろう。俺の命を生かすために・・・。その命を絶つことは、俺にはできない」
双眸からとめどなく涙が溢れた。
「俺は人類なんか憎んじゃいない。本当は誰も殺したくなんかない。俺はただ、自分が存在している意味がわからなかったんだ・・・。家族の愛情を知らずに孤独に育ってきた。だから、本当にわからなかったんだ・・・。ただ、それだけなんだよ」
「あなたは一人じゃない。あなたは孤独じゃない。どんなことがあっても、私がきっとそばにいる」
見可子は、晴樹に近づき、そっと抱きしめた。
「あなたが好き。私のそばでずっと一緒に生きてほしい」
晴樹は愕然として、目を見開いた。
見可子は、晴樹の頬を両手で触れると、自分の唇を彼の唇に強く押し当てた。
晴樹は唇から彼女のぬくもりを感じて、全身の力が抜け、赤ん坊のように全てを彼女に任せようと思った。
長い口づけの後、晴樹が囁いた。
「俺は、女性を知らない・・・」
「え?」
「女性を知らないんだ」
意外だった。彼の突然の告白に見可子は驚いた。
しかし、考えてみれば、人との深い関わりを嫌う晴樹の性格なら、それも十分ありえることだと理解した。
不思議だが、この時、見可子の心の中で、どんなに女性というものが素晴らしいか、人間というものが素晴らしいか、彼にわからせてあげなければならないという使命感のようなものが生じた。
「安心して。わたしがあなたを包み込んであげるわ」
そう言って、見可子は、彼を強く抱きしめるのだった。
5
ガイア教否定派は、久能の逃走により完全に瓦解した。居場所をなくした武装集団は、雲散霧消し、殺人に関与し、悔い改めた者は自ら警察に出頭した。
一連の混乱は収束した。ガイア教は高坂陽一を指導者として、新たに再出発するかに思えた。しかし、当の本人が日本に留まることを拒んだ。
「僕は世界を旅して、ガイアの教えを広めようと思う」
陽一は、布教の旅に出て、面と向かって多くの人と触れ合うことを望んだのである。行動の人、陽一らしい決断だった。教主ガイアの意思は尊重しなければならない。信者たちに反対する者はいなかった。小山田志郎は、陽一と一緒に布教の旅に随行したいと強く願い出て、行動を共にすることとなった。陽一が出国するに伴い、日本でのガイア教本部を統率する者が必要となったが、陽一は迷わずその役目を諏訪晴樹に頼んだ。
かつてガイア教でも否定派に属していた晴樹であったが、陽一はそんなことを気にも留めなかった。友人として晴樹を信頼しているのに変わりはなかった。
申し出を受けた晴樹は自分に受ける資格はないと思い、難色を示したが、陽一に説得され、引き受けることにした。完全に納得したわけではなかったが、見可子や由良からも説得され、一時的になら、という条件で渋々了承したのであった。
陽一が旅立つ日、空港には二人の人物が見送りに来ていた。
晴樹と見可子だった。
「元気でな、陽一」
「ああ。君もな」
晴樹と陽一は固い握手を交わした。陽一が思いついたように晴樹に語りかけた。
「晴樹。君は、もともと憎しみによって人間の生命を奪うようなことのできる人間ではないのだ」
陽一は、親友としてはじめからわかりきっていたことを告げた。晴樹はそれに対して何も言わず、苦笑で応えた。そして、見可子の方に視線を向けた。
「俺は生きることを考えることにした。彼女のおかげだ」
見詰め合う二人を見て、陽一は全てを理解した。
陽一にとっては、まじまじと落ち着いて見可子の顔を見たのは久しぶりだった。
以前よりも美しくなっている。それが陽一には嬉しかった。
「晴樹。生きることを考えることはいいことだよ。この宇宙に生命を預けてもらったことに僕は感謝している。この生命は宇宙を構成する決して欠けてはならないジグソーパズルのようなもの。全ての生命は、宇宙というジグソーパズルを完成させるための、ひとつのピースなんだ。そのピースは無限にあるけれでも、たった一つなくても、宇宙は成り立たない。だからこそ、全ての生命に敬意を持って接しなければならないのだよ。大地の実りに感謝し、食べ物となった家畜に感謝する。当たり前のことだ」
陽一は、微笑を濃くした。
「晴樹。みんな生命をただでもらった。生命は地球そのものでもあるし、宇宙そのものでもあるんだよ。そんな生命たちが、宗教や思想やナショナリズムで区分けされ、いがみ合うなんてくだらないことだと思わないか」
「・・・」
「人類はまだまだ遅れている。きわめて原始的な種族だ。宇宙へ出て行かなければ何も始まらないのだ。だが、現状のままではダメだ。高度な精神文明を築かなければ、宇宙では適応していけないだろう。人類の進化で最も重要な要素は、外見的なものではない。内面的な進化だ」
「・・・陽一、お前はきっと俺たちより少し進化した人間なんだ。外見は何も変わっちゃいない。だが、心は寛容で公平で無私だ。俺たちの子孫が内面的に進化して、みんないつかお前のような精神を手に入れたら、きっと人類は宇宙でも生きていけるだろう」
親友に褒められたのがこそばゆかったのか、陽一は苦笑すると、言葉を続けた。
「種族の進化には、大きなインパクトが必要だ。その種族を根底から覆すとてつもない影響。その影響はもう始まっている。地球の危機だ。今の地球の危機は、人類の進化を促すチャンスでもある」
日本では最近、地震が頻発し、長く揺れ続けている。あるいは、大きな地震、本震の前触れに過ぎないのかもしれなかった。
本音を言えば、晴樹は陽一に国内に留まってもらいたかった。体の不自由な陽一にとって、布教の旅は、楽なものではなく、艱難辛苦を伴うものになるだろう。だが、彼を止めることはできない。おそらく親友の自分にできることは、彼の行動を信じてあげることだ。
「神はなぜ性別を作ったのか」
陽一は、突然、そう言うと見可子を見つめた。
「天川さん。最後に僕のわがままを許して欲しい」
陽一は杖を突きながら見可子に近付くと、そっと彼女を抱きしめた。
「ほんのひと時でいい。このままでいてくれ」
陽一は、見可子のぬくもりを体全体で感じるように抱きしめた。見可子は少しも抗わなかった。
「どうして、愛する人はこんなにも美しいのだろう。万物の中で女性ほど美しいものはない。長い髪。眉。優しいひとみ。小さな鼻と小振りの唇。柔らかな肌。ぬくもりを持った肉体。だが、やがて人類は進化し、宇宙に適応した宇宙人類となったら、無重力のもと、形態は全く変わってしまうだろう。今の僕の価値観など、今この一瞬でしか成り立たないものだ。だが、美しいと感じるこの気持ちは真実だ。今の女性の造形ほど美しいものはない。我々の子孫にこの気持ちをどうやって伝えよう。宇宙へと飛び立った子孫たちはきっと我々地球人類をサルの仲間のように思うに違いない」
そして、見可子の額にそっとくちづけた。
「この想いは、きっと永遠だ」
「高坂さん・・・」
「君は僕にとって神だ。僕は君のために生きようと思った。君の存在は僕を救ってくれた。生きる支えとなった。それが神でなくて何であろうか。神は人を救い、生きる勇気を与えるというなら、僕にとって、君こそが神だった」
陽一の言葉を聴きながら、晴樹も彼女に対して、全く同じ気持ちを抱いていることを改めて思った。
「天川さん。幸せになって下さい」
そう告げると、陽一は、見可子から離れた。
「それじゃ、もう行くよ」
陽一は、杖を頼りにターミナルへ歩を進めていく。
「陽一!」
晴樹が声をかけた。なぜか、もう二度と会えないような予感が脳裏をよぎった。
陽一は瞬間立ち止まり、振り返らずに言った。
「晴樹、楽しかったよ。中学生のころ、一緒に遊んだこと。二人でつるんでいろんなことをした」
「・・・ああ、そうだな」
「転校してきた僕はいつもいじめられていた。それを助けてくれたのは君だった」
「助けただなんて・・・。俺は何もしていない。お前自身が変えたんだ。お前はあの頃から明るくて、いいやつだったからな」
「いや。君は僕にとって命の恩人なんだよ。学校の屋上ではじめて話しただろう。あのとき僕はクラスのみんなに無視されるのがつらくて、飛び降りて自殺しようとしていたんだ。君に話しかけられていなかったら、僕の人生はあの時点で終わっていたんだよ」
「・・・!」
「振り返ると、二人で遊んだあの頃が一番楽しかった。当たり前のように永遠に続くと思っていた少年時代が、一番楽しくて光り輝いていた」
「そうだ。そのとおりだ」
「晴樹。生命は与えられたもの。ひととき預かって、そして必ず返すものなのだ。どうせ返すなら有意義に返したいのだよ。地球を守る一助となるために。きっと生命は定められた役割を持っている。この地球上に生を受け、今この時代に人間という種族として生きているということ。僕は自分自身の役割を果たすだけだ」
そう言うと陽一は最後に振り返ってくれた。やはり微笑んでいた。その微笑みは限りなく眩しいように晴樹には感じられた。たとえて言えば太陽のように。
陽一は、笑みを深くした。
「預かり物を汚したり、粗末にしたりするわけにはいかないだろう。預かっているこの生命を宇宙に返すそのときまで、綺麗に大切に使いたいのだよ」
それは何の迷いもない決意だった。
「さよなら、晴樹、天川さん。また会おう」
そう言って遠ざかる陽一の後姿を、晴樹と見可子はいつまでも見送っていた。
6
地震は断続的に続いてはいたが、ガイア教の宗派抗争も終結を見、日本に平和が訪れたようだった。
街には人々が行き交い、誰しも笑顔が戻ったようだった。
だが、その平穏はわずか数ヵ月しか続かなかった。
晴樹のもとに、由良から電話があった。ネット上に投稿されたある動画が、驚くべき内容であるという。すぐさま端末で確認すると、それは新しい組織を立ち上げたという宣言と、テロを実行するという予告であった。動画には二人の人物が登場した。
「地球を守るため、地球に被害を及ぼす人類を駆逐せねばならない。よって我々はここに新たな宗教を立ち上げる。ネオガイア教である」
そう高らかに告げた男は、久能涼兵だった。
「横瀬恭介救世主よりお言葉を賜るものとする」
久能は、椅子に深々と腰掛ける男の口元に耳を寄せた。その男は、かつてガイア教の司教であり、一時的にしろ救世主代理の立場にあった横瀬その人であった。横瀬は深いフードをかぶり顔面は傷跡だらけだった。
横瀬がもごもごと何かを囁き、久能が頷いてそれを代わりに告げた。
「救世主はこうおっしゃられた。都内の複数ヶ所に、箱型の爆弾をしかけた。爆発すると、災厄が飛び出る仕組みになっている。この箱の名はパンドラの箱という。」
そこで映像が切り替わり、実験室のような場所で、防護服を着た研究員たちが、怪しげな薬剤を調合している場面になった。
「パンドラの箱の中身は、その伝説にふさわしく、シベリアで発見された新種の殺人ウイルスが納められた箱である。人類は愚かにも地球温暖化を加速させ、永久凍土を溶解させたことにより、決して触れてはならない未開の領域に踏み込んでしまった。氷の中に眠っていた未知のウイルスを目覚めさせてしまったのだ。感染した付近一帯の村は全滅した。死亡率及び感染力の強さは、人類史上かつてないものだった。我々ネオガイア教は、感染者の体内からウイルスを抽出、それを増殖させ、小さな箱に詰めることに成功した。バイオ兵器を作りだしたのである。この箱を爆発させ、ウイルスを拡散させれば、首都は壊滅するだろう」
実はパンドラの箱は、ガイア教で武器の密輸を担当していた久能が、黒田司教が存命のときに、すでに手配していたものだった。
バイオテロを実行し、空気感染によって、社会を混乱に貶めようというのである。
画面には再び久能が現れ、
「救世主はおっしゃられている。人類粛清の我が意志に賛同するものは、直ちに我の下に集えと。ネオガイア教徒のみが、選ばれた民として、地球上に生存することを許されるのである」
そして久能は不敵に微笑み、
「我々は来るものを拒まない。現在、ガイア教徒である者が、改心してネオガイア教に入信することも歓迎する。かつて、横瀬司教に恩を受けて者たちは、率先して参集せよ」
そこで動画は終わった。
晴樹は、暗澹たる思いにとらわれた。久能の言っていることは嘘とは思えない。おそらく彼は、少数ではあるだろうが否定派の残党を再結集させることに成功し、パンドラの箱を各地に設置したのだろう。
かつて黒田との確執で大怪我を負いつつも生きていた横瀬を救世主として担ぎ出し、ネオガイア教の正当性を主張し、実権は自らが握り、本気で人類に対してテロを実行するつもりだろう。
海外に布教の旅に出ている陽一を呼び戻すわけにはいかない。日本のガイア教を預かる身として、晴樹は何としても自分自身で解決しなければならなかった。それに久能をここまで増長させたのは、かつて救世主代理の時に久能を重用した自分の責任である。
命をかけてでも、彼とは決着をつけねばならない。
薄暗い簡素な部屋の中央に、似つかわしくない立派な玉座が置かれている。その玉座に座っている横瀬恭介に、久能涼兵は深々と頭を下げた。
「横瀬救世主。演技は上出来です。よくやって下さいました」
「・・・」
横瀬からは何の返事もない。
久能は冷たい笑みを浮かべた。
「あなたは、爆発事件で頭を打って、何もわからんだろうが、信者を集めるにはあなたが必要だ。ただ玉座に座っているだけでいいのです。
横瀬は首をだらんと傾けた。かぶっていたフードが脱げると、頭には包帯が巻かれていた。目線は定まらず、涎をたらしているようだ。
「やはりあなたこそ、ネオガイア教の救世主だ。横瀬さん。意識などなくても、人集めの立派な旗頭になりえる」
横瀬恭介はかつてガイア教救世主代理にまでなった男だった。黒田との権力争いで生じた爆発事件で瀕死の重傷を負ったが、命を落とさずに生きていた。だが、脳に重い後遺症が残り、自分が誰であるかさえ、わからなくなってしまった。
久能はそれを都合よく利用したのだ。
「横瀬さん。あなたにはずっとこの部屋にいてもらう。監禁することになるが悪く思わないでくれ」
横瀬は一瞬おびえたような表情を浮かべ、奇声を上げながら、フードを目深にかぶり直した。
久能は大きな声で笑いながら、部屋を退出した。彼の手には、パンドラの箱の起爆装置である小型端末が握られていた。
ネオガイア教の予告テロを受けて、人々は不安におののいた。誰もが、都内から離れようとして、下りの交通網は麻痺状態になった。
そんな状況の中で、都内に残り、テロを防ごうとする特異な者もいる。
諏訪晴樹である。彼はガイア教の信者たちに、久能の挑発に乗らず冷静な態度で、できるだけ東京から離れるよう指示した。信者たちが、久能のテロの標的にされる恐れがあったからである。陽一から日本のガイア教本部を任された以上、信者たちに一人の犠牲者も出してはならない。
だが、若い小栗正義を始め、一部の信者たちは首を縦に振らなかった。都内の本部に残り、テロを未然に防ぐため、晴樹に協力したいと申し出た。
由良和貴も、何もせずに東京を離れることに強く反対した。
「我々が都内に残り、これ以上混乱が広がらないよう、事態の収拾に努めます。諏訪さん、あなたは一人ではない。あなただけを残して、どうして我々だけ危険から逃げられるというのです」
由良に強くそう言われて、晴樹は説得を断念した。
パンドラの箱の居場所を突き止める手立てが何かないだろうか。
晴樹、見可子、由良、小栗の四人と、本部に残ることを決めた数十人の教徒たちが、これからどう動くべきか、対応を協議しようとしていた。
「パンドラの箱をどこに設置したのか。闇雲に不審物を捜索しても仕方がない。何か手がかりがあればいいのだが・・・」
晴樹が発言した後、沈黙が周囲を支配した。
その重苦しい沈黙を破ったのは、見可子だった。
「動物たちの力を借りれば、何とかなるかもしれない・・・」
「動物たちの?」
「ええ。私は動物たちの意識を感じることができる。たくさんの動物たちの心の声を聞くことによって、何か手がかりが見つかるかもしれない」
「そんなことができるのか・・・」
周囲の誰もが半信半疑で不安な表情を浮かべたが、見可子は力強くうなずいた。
「今まで不特定多数の声は聞いたことがないけれど、やってみます」
外に出た。晴樹をはじめとして、教徒たちが心配そうに見守る中、見可子は、大空を仰ぎ、瞳を閉じて集中した。動物たちの心の声を受信できるように、精神を研ぎ澄ましていく。
彼女の心の中に様々なビジョンが駆け巡る。
野良犬や、野良猫の視線。野鳥たちの視線。
限りない視線に混乱しそうになりながら、彼女は懸命にこらえた。やがて、瞬間的にカラスたちが、男に追い払われている場面がよぎった。次に、公園の隅から除くネズミたちの視線。空から俯瞰する鳥たちの視線。様々な視線が交錯する。いずれも、男たちが小さな箱を置いていく場面が見えた。
駅、官公庁、ショッピングモール、総合病院。映像が彼女の脳裏を駆け巡る。表札や看板などから、具体的な名前も映像に浮かんでいく。映像が途切れようとする寸前、森の樹木たちが騒いでいるイメージが、瞬間的に大きくはじけた。
ガイア教大神殿の玉座に座る久能。その光景を一瞬だが樹木たちが教えてくれたのだ。
彼女はその場面が消えると同時に、目を開いた。
「ありがとう」
彼女は、映像を送ってくれた動物たち、樹木たちに礼を言った。
集中が切れたのか、彼女はその場に倒れこみそうになった。
晴樹が、素早く近寄り、抱きとめた。
「大丈夫か」
「ええ。動物たちや、木々たちが教えてくれた。パンドラの箱の場所がわかったわ。久能の居場所も・・・」
彼女は、映像で見た具体的な地名の名前を、記憶から消えないうちに矢継ぎ早に列挙した。教徒たちは信じられない思いに捉われながら、小型端末で場所を検索した。彼女は、パンドラの箱が置いてある場所をまるで自分が置いたかのように詳細に説明した。
最後に久能が現在いる場所を口に出し、必要な情報を語り終えると、見可子は意識を失った。
「動物たちの声だけではなく、木々の意識まで読み取れるとは・・・。まさか、ガイアの化身は陽一だけではなかったのか・・・。君もガイアの化身なのか・・・」
晴樹は抱きとめた見可子の体温を感じながら、彼女の能力に対して、驚かずにはいられなかった。
「無差別爆破だけは防がねばならない。由良さんは教徒たちを率いてパンドラの箱の回収に向かってくれ。俺は一人で久能のところへ行き、奴と決着をつける。爆破を止める方法が必ずあるはずだ」
晴樹の指示に、由良は一瞬躊躇したが、
「わかりました。時間がない。みんな、すぐに向かおう」
由良がそう告げ、てきぱきと教徒たちに組分けや向かう場所等の指示を下し、外出していった。
晴樹は決意していた。日本のガイア教本部を陽一から任された以上、久能を止めるのは自分以外にはいない。自分の責任で果たさなければならない。
ガイア教本部のベッドのある医務室で、晴樹は、眠っている見可子に告げた。
「俺が奴を止める。君は、ここで待っていてくれ。これは俺のけじめなんだ。救世主代理などという大層な肩書をもらったが、俺は世界など、地球など救える男ではない」
晴樹は見可子の頬にそっと手を触れた。
「だが、君だけは救いたい。どんなに無力でも、君だけは必ず・・・。必ず戻ってくる。信じてくれ、見可子」
人に愛されるということでも、人生は変わる。だが、人を愛することができれば、もっと人生は変わる。
かつて晴樹は生まれたことに、何の意味も見出せず、全てにしらけていた。
だが、今は違う。
晴樹は、眠っている見可子に口づけをして、一人で医務室を出た。
本部玄関の外には、新車同様に修理の済んだ諏訪家の車が控えていた。もうすっかり怪我の治った河井がキーを晴樹に手渡した。
「本当によろしいのですか」
「ああ。俺一人で行く」
晴樹は、上着の内ポケットに、拳銃を忍ばせていた。
運転席に乗り込んだ後、晴樹は河井に向かい、軽く手をあげた。その顔には心配をかけまいとするかのように微笑が浮かんでいた。
「ぼっちゃん。どうかご無事で」
遠ざかっていく車を見送りながら、河井はそう呟かずにはいられなかった。
富士山麓、ガイア教大神殿。
久能の部下たちが武装して周囲を固めているのかと予想していたが、人の気配はまるでなかった。晴樹は車を降りると、樹海の海をかき分けるようにして、用心しながらも歩を進めた。
地がうなるように、地震が連続して起こっている。
揺れはかなり激しい。森の木々が大きく傾いては、元に戻る。震源地は近いようだ。
玉座に久能は座っていた。身じろぎ一つせず、まるで人形のようだった。
「お越しくださるような予感がしておりました。諏訪救世主代理。待ちくたびれましたよ」
久能の声が辺りに響いた。
「俺はもう救世主代理ではない。ただの人間だ」
その晴樹の言葉に、久能はぴくっとわずかに眉を動かしたが、それ以上の反応は示さなかった。
「これが何かわかるかい?」
久能は急に横柄な態度になって、玉座の傍らに置いてあった物を取り上げて、晴樹に見せた。
「俺は子供のころ、ひどいいじめにあってね。自分の弱さを呪ったもんだ。だが、こいつのおかげで自分が強いんだということを実感することができた。いわば、自分の存在なんて無意味だという認識から脱却し、自己を正当化させることができたのだよ。たくさんの命の生殺与奪を俺はこの手で握っているのだというね」
久能はゆっくり立ち上がり、その物体を両手でかまえ、晴樹に照準を合わせた。
ボーガンだった。
「こいつであらゆる動物を殺したよ。もちろん、人間も。そう、こういうふうにね」
そう言うと、いきなり矢を放った。
矢はうなりを生じて、あっという間に晴樹に迫り、頬をかすって通り過ぎた。血が跳ねた。ほんの一瞬の出来事だ。
「ふっ。こいつであなたを殺すつもりは毛頭ない。これは余興だ」
そう言って久能はボーガンを投げ捨てた。落下した金属が鈍い音を発した。晴樹は冷静な態度のまま手の甲で頬の血を拭った。久能にとって、その晴樹の態度は気に入らなかったようだ。
「諏訪さん。この世に本当に神はいると思うか?」
「・・・」
晴樹はその質問に言葉を発しない。久能はじれ始め、自らの質問に自らで答えた。
「神などいない。地球神たるガイアなどいないのだ。神に願い事をしても、何も叶わない。結局は自分で切り拓いていくしかない。神にいくら幸せにしてくれと頼んでも、幸せを与えてはくれない。幸せは自分から求めていかなければならないものだ。あなたもそう思うだろう」
「そのとおりだ」
晴樹はやっと言葉を返した。久能は、晴樹の賛同を得て大きくうなずいた。
「そう、神はいないのだ。だから、この俺が神になっても、何の問題もないだろう。多くの人類の命を俺は今この手に握っているのだ。その支配者たる俺が神でなくて何であろうか」
久能は小型端末を掲げて、晴樹に見せた。
「この端末のリモートボタン一つで、パンドラの箱の爆破が行われる。都内の広い範囲がウイルスに汚染されることになる」
久能の表情は一変だにしなかった。
「愚かなことはやめろ・・・」
「愚かなことだと。これこそが地球の意志なのだ。まずは手始めに日本から人類の粛清を始めるのだ。やがては全世界がウイルスに汚染され、この地上で生存できる人間は皆無になるだろう」
「・・・」
「この世は醜い。苦しみの連鎖が生じる地獄のようなこの世界のシステムは間違っている。こんな世は全て消し去ったほうがいいんだよ。消し去れば、虐待で苦しむ子供もいなくなる。戦争で親を殺され飢えに苦しむ子供もいなくなる。いじめに苦しんで自殺する子供もいなくなる。こんなにたくさんの苦しみが生まれる世の中なんて、消し去ったほうがいいんだよ」
久能の暴挙を止めるために、晴樹はゆっくりと上着の内ポケットから拳銃を取り出し、両手で構えた。
銃口は小型端末を握った久能の手を捉えている。
「久能、それを今すぐ捨てろ」
「あんたに拳銃が撃てるのか?」
「・・・」
「面白い。撃てるものなら撃ってみるがいい」
久能は余裕の笑みを浮かべた。
「あんたも所詮、嘘で塗り固められた人間なのだ。俺は目の前にひろがる嘘を全部殺してやりたいのだ。ガキの頃からいじめられ、人生なんてクソみたいなもんだと思った。大人になりさえすればいくらかマシになると思った。だが、大人は自己の保身のために自らの悪事や欺瞞を正義の名の下に正当化しようとした。俺は社会に出ても虐げられた。そんなのはもううんざりなんだよ。すべては嘘に塗り固められている。その嘘を消し去るためには、嘘を作り出す元凶である人間そのものを消さねばならない」
「久能、この世に嘘などない。眼前に展開する現実、そのすべてが真実なのだ」
「何を世迷言を・・・」
「久能。どうして、宇宙は人類を創造したのか、どうして自分を創造したのか、考えたことはあるか」
晴樹は拳銃を構える自分の拳を痛くなるほど握りしめ、言葉を続けた。
「俺は救世主代理でも何でもない。ただの普通の人間だ。だが、ただの普通の人間であることを誇りに思う。この宇宙の中で生命を与えられたことを誇りに思う。今ここで俺やおまえが生きているのは、宇宙に認められているということだからな・・・」
「宇宙に認められているだと・・・」
「全ての生命は宇宙に認められてこの世に生まれたのだ。この世に嘘、偽りの生命など一つもない。意味のない生命などないのだ。久能、生きて罪を償え」
「ふっ。ならば、人類を抹殺しようとする我が意志こそ宇宙の意志だ。くだらない話し合いは、ここらで終わりにしよう。あんたとは永遠に分かり合えないだろう」
「久能・・・」
晴樹は首を左右に振った。
「これでおしまいだ!」
そう久能は叫んだ。そのとき、一人は小型端末の爆弾起動ボタンをタッチし、一人はそれを止めるため拳銃の引き金を引いた。
その瞬間である。いや、正確にはそれらの行動を行おうとする直前、激震が襲った。
そのすさまじさに、二人は地に倒れこんだ。
大神殿は倒壊したが、玉座部分は密集した木々が支え合って空洞を作り、晴樹は幸いにも無事だった。
生じた隙間から外へ出ると、上空から、空気を切り裂くプロペラ音が鳴り響いてくる。視界を上げると、ヘリコプターが近づいてきていた。
晴樹は頭がくらくらして、まだ意識が朦朧としている。
やがてホバリングしたヘリから、ロープを伝い、人が降りてきて、晴樹をかかえこんで、ヘリコプターへと運び上げた。
「諏訪さん、諏訪さん、聞こえますか?大丈夫ですか?」
ヘリの中でそう何度も呼びかける声がかすかに聞こえる。どうやら由良の声のようだった。晴樹をかかえこんで救助してくれた若い教徒がすぐ傍らにおり、その隣に由良、他にもヘリの中には数人の教徒がいるようだった。
晴樹は、途切れ途切れになる意識の中で、ぼんやりと呟いた。
「来てくれたのか・・・」
「無事でよかった」
由良はそう言って微笑んだ。
「久能はどうなったんだ・・・」
だが、そう呟いたのは心の中だけで、意識を失った晴樹の声帯からその音声が発せられることはなかった。
「・・・何が起こったんだ」
意識を取り戻した久能は、樹木の中から這いずり出て、ようやくよろよろと立ち上がった。
頭に激痛が走っている。強く打ったらしい。思わず手で頭を押さえると、かなり出血しているようだった。
先程まで相対していた諏訪の姿も見えない。
重い足取りで、真っ暗な樹海の中を歩くと足元に小型端末を見つけた。
「ふっ、ふふふふ・・・。はははははっ!俺の勝ちだ」
彼は運命に満足すると右手で小型端末を拾い起爆ボタンをタッチした。今や都内のあちこちでパンドラの箱が爆発し、ウイルスの汚染により人々は混乱の極みに達するだろう。
「人類よ。思い知るがいい」
そのとき、信じられないことが起こった。森の木たちが意志を持ったようにふるえ出した。周囲の全ての木の枝が急速に伸び、久能の首、手、胴、足などに幾重にも巻きついた。彼の体をおそるべき力で締め上げていく。
「は、はなせ・・・。苦しい」
木にも魂が宿っている。その魂に対して、冒涜するようなことがあれば、祟りがおきる。古来、木に注連縄をして、神木として恐れ敬っていた日本人の信仰心を久能は、ばかげたことだと一笑に付していた。
だが、このとき、おそらく生涯で初めて彼は、本来人間の有する、木や森、自然に対する畏敬の念を本能的に感じ取ったかもしれない。
体が引きちぎられるかに思えた瞬間、目が覚めた。相変わらず、頭が刺すように痛い。彼は森の中に立っていた。周囲の木にも何の異常もない。気づくと、右手に小さな木の破片を持っていた。
なんだ、これは・・・。まさか、さっきのはすべて夢・・・。
背後からすさまじい音響が迫ってきていた。
何だ・・・。久能は、その音に反応して振り返ろうとした。
その一瞬、怒涛のように押し寄せる火砕流に呑み込まれて、彼の体は蒸発した。
富士の噴火によって、空は太陽を消してしまった。
ヘリは急速に富士の麓から離れていった。プロペラの回転音と風を切り裂く振動の中で意識を取り戻しつつあった晴樹は、遠くのほうで富士山の火口から発せられた火砕流が拡大していく光景を見ていた。気のせいか、久能の断末魔の叫びを聞いたような気がした。
小型端末で何事か通話していた由良が、晴樹に向かって笑顔を向けた。
「諏訪さん。東京は無事だそうです。回収したパンドラの箱は何も作動していないようです」
「そうか・・・。それはよかった」
しばらく視線を宙にさまよわせていた晴樹は、自問自答するように呟いた。
「人類は小さな諍いを繰り返し、環境を破壊し、地球の資源を搾取し続けている。この噴火はガイアの怒りの発露なのだろうか」
「・・・」
由良は何も答えられなかった。
「皮肉なことだ。富士の噴火は久能のテロ以上の混乱を市民にもたらすだろう。甚大な被害が生じるに違いない。交通網は麻痺し、首都圏は機能不全に陥るだろう。復興には莫大な金と、長い年月がかかるに違いない。由良さん。あなたなら、ガイア教を正しい方向に導くことができる。俺の全資産をあなたに託そうと思う。災害復興に役立ててほしい。陽一には俺の方から言っておく。勝手な言い分で申し訳ないが、俺は代表から降ろさせてもらいたい」
由良は、しばらく無言で流れ行く景色を眺めていた。
そして、視線を晴樹に向けると、軽い笑みを浮かべた。
「わかりました。あなたは自分の命をかけて十分やってくれた。これ以上、代表を続けろというのも酷でしょう。私が引き継ぎましょう。森を守り、川を守り、そこに住む命たちを守る。もちろん人の命も・・・。教団が災害復興の先頭に立つことをお約束します」
晴樹は、微笑んでかすかに頷いた。
「諏訪さん。あなたはどうするのです」
「俺はもう、二度とあなたがたに会うことはないだろう」
そう言って、彼は視線を遠くに泳がせた。彼には帰るべき場所があったのだ。
7
ネオガイア教の騒動は首謀者の久能がいなくなったことにより、幕を閉じた。救世主にまつりあげられていた横瀬恭介は、閉じ込められていた部屋から救出されたが、廃人のような状態であり、すぐさま病院へ入院となった。
富士山が、永い眠りから覚め、江戸時代以来の噴火を起こした。都内にもたくさんの灰が降った。その影響で、大空は雲に覆われ、異常気象は日本のみならず、東アジア全域にまで及んだ。富士の噴火により、人々はもうネオガイア教のことなど忘れてしまったかのようだった。
ガイア教本部の代表の座を降りた晴樹はすぐに見可子と籍を入れた。十か月後、幸せの瞬間が訪れていた。
「こいつが俺の子か・・・」
晴樹は、小さな命をまざまざと見つめた。
信じられなかった。自分の分身が目の前にいるのだ。
彼は恐る恐る手を伸ばし、赤ん坊の小さく柔らかな頬にそっと触れてみた。赤ん坊は、かすかに微笑んだように見えた。
「笑った。今、笑ったよ」
驚いた晴樹に、見可子も穏やかな顔で頷いた。
「ええ。笑ったわ。父親がわかるのよ」
「俺の子か・・・」
富士の噴火で、大空から太陽が消え、人々は絶望に打ちひしがれた。だが、雲間から陽がさし、その光を浴びたとき、人々は復興の強い意志を蘇らせることができた。
晴樹は、楽観主義者ではない。
生あるものは必ず死ぬ。盛者必衰、諸行無常はこの世の真理だ。
地球はいつか必ず、だめになるだろう。膨張する太陽に飲み込まれる日が必ず来る。
人類に約束された未来など、ありはしないだろう。
明日が来ない日は必ずやってくるのだ。
だが、そんなことは小さな問題だった。
この子が、その一生を幸せに生きてくれれば、それだけでいい。自分は人間なのだ。そして、父親なのだ。
晴樹は、母に抱かれていた赤ん坊を、自分の腕に受け取った。
この子に、この娘に光あふれる人生が待ち受けていますように。
晴樹は、心から祈った。
その思いこそが、正しいことのように感じられた。
そして、その思いこそが、人類が今まで、生存することができた最大の理由ではないだろうか。晴樹はそう感じた。その思いのバトンで人類は何世代も生き続けてきた。その思いは、これからも人類が存続していく理由に、十分になりえるはずに違いなかった。
「名前はもう決めてあるのよ」
見可子は穏やかな表情で晴樹に視線を向けた。
「いつも明日を見ていて欲しい。それに、私の見可子の見の字をつけて、明日見にしたいと思うの。どう?」
彼女が人差し指で宙にゆっくり字を書いた。
「明日見か・・・。いい名だよ」
「人は生きていていいのよ。だって、もし生きていていけないのなら、この世に子供たちは生まれてこないわ・・・。この子がこうして、生まれてきてくれた。それこそ、私たち人が生きていていいということを証明してくれていると思うの」
「・・・」
見可子はまっすぐに晴樹を見つめている。
「・・・そうだな」
彼は、かみしめるようにそうつぶやいた。見可子の言葉は、晴樹の心を優しく包んだ。
晴樹は娘をしばらく抱きかかえていた。
あたたかな温もり。静かにゆっくりと晴樹の体内にしみこんでくる。
これが奇跡でなくて何であろう。神様が与えてくれた大切な生命。
そうか、神はいるのか・・・。
やがて、感情で胸がいっぱいになり、一筋の涙をこぼした。
かつて、人間なんて嫌いだった。生きていることさえ、どうでもいいと思った。でも今は生きていてよかったと思った。人間として生まれて幸せだと思った。
涙を見可子に悟られぬため、晴樹は娘を抱きながら窓際へと移った。
二階の病室の窓のカーテンの隙間から、彼は空を見上げた。
空はすっかり青さを取り戻していた。眩しく滲むのは涙のせいだろう。
彼の精神は、空へ飛び立った。
ぐんぐん高く上昇していき、宇宙へ飛び出し、漆黒の帳へと吸い込まれていく。
精神は急速に拡散し、広く大きく溶けていく。
そして、ひとつとなる。
地上に生きる生命は、地球にとって細胞のようなものだ。生まれ、死んで、絶えず新陳代謝を繰り返している。どんな小さな命も、地球を構成する、地球にとって欠かすことのできない細胞だ。宇宙を構成する惑星や恒星も、絶えず生まれ、死んで新陳代謝を繰り返している。
超新星爆発によって、様々な元素が生成され、それを宇宙空間に飛び散らせている。
我々生命を形作る物質も、恒星の死によって、生み出された物質から成り立っている。死は新たな生の始まりなのだ。
宇宙もビッグバンによって誕生し、やがてビッグクランチにより終焉を迎えるのだろう。
それなら、我々が生きているこの宇宙は、はたして何代目の宇宙であるのか。ましてや、宇宙が一つであるとは限らない。無限に散らばる星や銀河のように、宇宙でさえ、たくさんあるのかもしれない。それなら、我々の宇宙は、どこの宇宙であるのか。太陽系という銀河の一隅に存在する我々には、想像もつかない大きさだ。
我々は学んできた。地球のために何ができるのかを考え、行動する必要がある。そして、人類はやがては宇宙へと生活圏を移動するかもしれない。そのとき宇宙人類は考えるだろう。いや人類とは限らない。他の知的生命かもしれない。機械生命かもしれない。あるいは肉体を持たぬ精神生命かもしれない。その利己的な種族が宇宙さえも食い尽くしてしまうかもしれない。そして瀕死の宇宙を前にして生命は考えるだろう。宇宙のために何ができるのか。多大なる恩恵を与えてくれた宇宙を搾取しつづけた生命は、反省するのだろうか。生命は自らを育んでくれた宇宙を捨てて、どこか違う次元へと旅立つのだろうか。
晴樹には、遠い未来のことはわからない。
だが、そういうことを想う材料をたくさんガイア教からもらった気がする。
晴樹は、空を見ながら、声を見可子に投げかけた。
「自然のたくさんある、田舎で暮らさないか」
見可子は微笑んで頷いた。
「たくさんの動物を飼いたいわ。そして、明日見にたくさんの生命の誕生と死を見せるの。喜びだけではなく、悲しみもちゃんと知った人間に育ってもらいたいから。心情の豊かな子になってもらいたいもの」
「ああ、そうだな」
悠久なる過去。遥かなる未来。その時間をつなぐ大切な現在。
その大切な今を、三人で生きていこう。
エピローグ
二十二世紀、中葉。
人類は、スペースコロニーを経由して、テラフォーミング(地球化)された火星への移住を本格的に開始しようとしていた。
巨大隕石アポフィスの地球衝突が迫っていた。政府は、隕石の軌道を変える様々な作戦を展開したが、成果ははかばかしくなかった。大規模な地下シェルターを建設し、並行して火星移住政策を推し進めた。その移住者のリストに記載されたある役人が、祖母を説得していた。
「おばあちゃん。お願いだから俺と一緒にきてくれ。一人おいていくわけにはいかないよ」
移住者に選ばれた役人の一家は、全員で火星へと旅立たねばならない。しかし、祖母だけが頑なに反対していた。
祖母は、地球と運命を共にしたいと言った。
「お父さん、お母さんの生まれ育ったこの地球に愛着があるの。百歳にもなって、いまさら、地球を離れることなんかできないわ」
彼女は、言いながら両親を思い浮かべた。
不器用だったけど、愛情を注いでくれた父。分け隔てなく生命に愛情を注いだ慈愛に満ちた母。
父は彼女が高校生のころ、肝臓を悪くして若くして亡くなった。祖父と同じ死因だったらしい。母は長生きをして、大好きな動物たちに囲まれながら一生を終えた。
火星へ移住すれば、人類は今のサルのような形状を手放すことになるだろう。火星人類は、軽い重力で筋肉を使わず、華奢な形状になる。体は骨と皮だけの細い体格で、脳だけが発達し、頭でっかちの生物になる。人類は火星の移住に成功すれば、次に木星の衛星、氷と水に覆われたエウロパへの移住をも視野に入れている。
私は進化したくない。進化しない生命は自然界で淘汰されるなら、それでいい。
彼女はそんな風に思っていた。
「私の代わりにこの猫を連れて行っておくれ」
彼女は、抱きかかえていた黒い子猫を孫に手渡した。彼女が物心付く前から、家で飼っていた黒猫がいた。その血を引く猫であった。
「とにかく、この子猫も連れて行くから、おばあちゃんも一緒に行くんだ。出発までにはまだ日もあるし、また説得に来るよ」
孫はそう言って、猫を抱いて去っていった。
彼女は深い眠りに入ろうとしていた。
あれは小学校の低学年の頃だったろうか。学校が終わっての帰り。
彼女は泣いていた。理由は覚えていない。友達と喧嘩でもしたのか、多分些細なことだろう。
その日は、父が車で迎えにきてくれた。
「宇宙の歴史は悠久に続く。だが、人生なんて長くても百年。いわば、今お前が生きている時間というのは、宇宙からみれば、ほんの一瞬の短さなんだよ。生きている時間はちょっとで、後はずっと死んでいる時間さ。人生は決して普通で平凡な時間じゃない。それ自体が奇跡なのさ。だから今を大事に生きて欲しい。友達と喧嘩したり、試験ができなかったり、好きな人にふられたり。そんな悩みはとても小さなことだと思わないかい。生きているということは奇跡なんだということ。そう考えれば、自分も大切に思えるし、隣にいる家族や友達も大切に思える。人間だけじゃない。動物たちや、虫たちや、植物たち、小さな命たちも大切に思える。彼らだって奇跡を生きているのだから」
少女だった私に父が優しい声で語りかけてくれたことを思い出す。
その時は、意味はよくわからなかったが、今はよくわかる。
少女から大人になって、結婚して、子を儲け、やがては孫までも得た。
私は幸せだった。お父さん、お母さん。そして、宇宙の真理を司る神様。この地球上に生を授けてくれて、ほんとうにありがとう。
巨大な隕石がいよいよ大気圏に突入し、空は真っ赤に燃えていた。
杖をついた白髪の老人が、よろよろと地上を歩んでいる。傍らには、一頭の犬がリードもなく慣れたように寄り添い歩いている。
老人は深い皺と長いひげをたくわえており、年齢はゆうに百を越えていると思われたが、頭脳は明朗なようだった。立ち止まり、いつも話し相手にしているのだろう、傍らの犬に語りかけた。
「おまえを拾ってから、こうやって共に旅をしてきたが、それももう仕舞いじゃ。終末のときが来たのかもしれん。だが、それはあらたな始まりじゃ。地球上では繁栄を築いた種族が何度も大量絶滅してきた。宇宙だって、いつかは死ぬ。そしてまた新しい宇宙が産声を上げるのじゃ。子の宇宙、孫の宇宙、ひ孫の宇宙。そう。ずっと繰り返されてきたのだ。何代も何代もな・・・」
利口そうな茶色い犬は、黙って老人の顔を見つめている。
「ノアの箱舟の時代、地球は大洪水を起こしたが、人類を滅ぼしはしなかった。さて、今度の巨大隕石アポフィスの衝突は、どうだろう。人類は生存し続け、地球の遺伝子として、宇宙へ拡散する資格を得ることができるだろうか。果たしてガイアの野望を担うことができるだろうかのう。わしはかつて地球神たるガイアの化身とまで言われた男じゃでな。その結果をこの目で見なければ、あの世に行けんのよ」
老人は、杖を天高く掲げた。
「ガイアよ。我が人類に最後の審判を下したまえ!」
巨大な光が空を斬りさいて、全ては真っ白になった。
了




