4月1日
日付が変わる。
王都の空に浮かぶ月を覆い隠していた分厚い雲が、一斉に引き裂かれた。
姿を現したのは、空を埋め尽くす数百の巨大な飛竜と、黒鋼の鎧を纏った帝国の龍騎兵たち。
彼らは一切の躊躇なく、一直線に王宮の中庭へと急降下した。
地鳴りのような着地音とともに、王宮の美しい庭園が粉砕される。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
「ひぃっ、龍だ! 帝国の龍騎兵だ!!」
昨晩から続く狂騒に酔い潰れていたユーリや悪徳貴族たちは、窓の外の光景を見て悲鳴を上げた。
広間の巨大な扉に殺到する者たち。だが、逃げ道などどこにもない。
アンナたち使用人が外側から完全に封鎖した扉は、大の男たちが束になって体当たりしても微動だにしなかった。
パニックに陥り、絶望の声を上げる愚か者たちを冷ややかに見下ろしながら、私は一人、玉座の前で左手を高く掲げた。
指先に嵌められた銀の指輪。
それは十年前、病床に伏した父が最期に私へ託した、王家の守護の証だった。
『サラ。この結界は、外敵から王宮と民を守るための最後の盾だ。お前が心から愛するものを守るために、使いなさい』
お父様、ごめんなさい。
貴方が愛したこの国は、すでに内側から腐り果てていました。
だから私は、貴方の遺したこの優しい盾を、彼らを逃がさないための冷たい鳥籠として使います。
十年分の憎悪と、私の命そのものとも言える魔力を、最後の一滴まで指輪に注ぎ込む。
銀の指輪が、かつてないほど眩い青白い光を放った。
それはまるで、国を憂う亡き父の嘆きのように悲しく、そして美しい光の奔流となって広間を満たしていく。
父の優しい魔力と、私の真っ黒な殺意が混ざり合った光は、王宮全体をドーム状に包み込み、内からも外からも絶対に破ることのできない完璧な結界を完成させた。
「どこへも行かせないわ。ここは、貴方たちの墓標よ」
私の声は騒音にかき消されたが、その直後、広間の大窓が轟音とともに砕け散った。
舞い散るガラス片と砂埃の中、悠然と歩み入ってくる巨大な黒い影と、帝国の精鋭たち。
圧倒的な死の気配に、広間は水を打ったように静まり返った。
状況が呑み込めず、みっともなく這いつくばったユーリが私に向かって叫ぶ。
「サラ、これはどういうことだ!? ああ、そうか今日はエイプリルフールだからな、帝国の奴らまで巻き込んだ余興か何かだろ!?」
死を目前にしてなお、私が自分に牙を剥くことなどあり得ないと信じ込んでいる滑稽な男。
「……ユーリ様、残念ですが」
私は氷のように冷たい瞳で、かつて愛した夫と、実の母を見下ろした。
「お父様が亡くなってからこの十年間。あなたたちと過ごしたこれまでの日々こそがすべて嘘で、今日だけが真実なのです」
「は? 何を言ってるのよサラ!」
母エリザが金切り声を上げる。私は一切の感情を交えずに、彼らの罪を暴いた。
「十年前のあの日。お父様を毒殺した夜、あなたたちがベッドで交わしていた醜い情事と嘲笑を、私が知らないとでも思いましたか?」
「な……っ」
ユーリの顔から、さぁっと血の気が引いていく。ようやく自分が、十年間ずっと私の手の平の上で踊らされ、自らの手で破滅への階段を登っていたことに気づいたのだ。
「国庫を貪り、民を虐げた罪。そして王を、お父様を弑逆した罪。あなたたちは、このまま処刑台行きです。せいぜい後悔しながら、冷たい地下牢で最後の夜を噛み締めなさい」
私が静かに言い放つと、待機していた帝国の兵士たちが無言で進み出た。そして、有無を言わさずユーリたちを拘束する。
「おい、サラ! 嘘だろ、私を見捨てるつもりか! 私は君の夫だぞ!」
「ちょっと、離しなさい! 私はこの国の王太后ですわよ! 汚い手で触らないで頂戴!」
もはや何の権力も持たない惨めな罪人として床を引きずられながら、二人は見苦しく泣き喚く。
その声が広間の外へと遠ざかり、完全に消えるまで、私はただ冷ややかに彼らを見送った。
(……これで、全てが報われた)
残った悪徳貴族たちも次々と縛り上げられ、広間には死のような静寂だけが残った。
その中で、私は目の前に立つ漆黒の軍服の男へ向き直り、深く頭を下げた。
「お待ちしておりました。皇帝閣下」
血と酒の匂いが入り混じる王宮の広間。
私は玉座の前に跪き、十年間密書だけで繋がり合っていた共犯者へ首を垂れた。
「陛下、この度はありがとうございます……私の役目も終わりましたので、後は煮るなり焼くなり、好きにしていただいて結構です」
私の命は、とうにこの結界と共に燃え尽きる覚悟ができている。
だが、その決意の炎を奥底に秘めた私の瞳を見た瞬間、皇帝ガリウスは雷に打たれたような衝撃を受けていた。
十年。
ただの手紙のやり取りだけで、この狂った隣国の女王にどれほど興味を惹かれてきたか。
だが、実物は想像を遥かに超えていた。
絶望と覚悟を孕み、自分の命すらゴミのように捨て去ろうとしている、冷たく美しい瞳。
(……こいつは、俺の妃にするべきだ)
ガリウスの内で、強烈な独占欲が首をもたげる。
だが、この女は今、死に取り憑かれている。下手に情をちらつかせて手を差し伸べても、頑なな彼女は決してその手を取らないだろう。
だからこそ、ガリウスは一計を案じ、彼女の最大の、そして唯一の弱点を突くことにした。
「見事な手際だ、女王。おかげでこの国を無傷で手に入れることができた。だが……このまま武力で統治すれば、反乱分子も多く出るだろうな。血気盛んな愚か者どものせいで、罪なき民がどれほど死ぬことか」
「……っ」
私の肩が微かに震えた。
父が愛した国。罪のない人々が犠牲になる。
それは、私が己の命を投げ打ってでも避けたかった、この十年越しの計画における唯一の痛切な気がかりだった。
私の揺らぎを絶対に見逃さず、ガリウスはすかさず冷徹な為政者の顔を作って提案する。
「だから……お前は俺と結婚しろ。そうすれば俺がこの国を正当に治める事にも、世間に対して大義名分が立つ」
私は息を呑んだ。
十年間、ありとあらゆるむごたらしい結末を想定してきた。だが、自らの死さえ覚悟していた自分に、こんな生き恥を晒す道が用意されているなど、全く予想していなかった流れだ。
「な、そんなこと……私にそんな資格があるわけ……」
「資格だと? そんなもの、女王の血筋があれば他に何が必要だと言うのだ」
ガリウスはトーンを下げ、私との距離を詰める。
彼の大きな影が、私を完全に覆い隠した。
「それに……俺が見たいのだ。お前がこの国を、人々をどう導いていくのかを」
唐突な甘い告白のような響きに、完全に凍りついていたはずの私の心臓が、大きく跳ね上がった。
国を守るための、大義名分としての契約結婚。
それは私にとって、民を人質に取られたに等しい、最も断ることのできない冷徹な取引のはずなのに。
どうしてこの男の瞳は、こんなにも熱く、私を逃がさないと告げているのだろう。
「……私はもう、心が壊れています。他人を愛する自信など一生ありませんが、それでもよろしいのですか?」
それは、すべてを諦めた悲しい降伏宣言だった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、皇帝は私の腰を強引に抱き寄せ、ニヤリと凶悪な笑みをこぼした。
「ああ、上等だ」
彼は獲物を捕らえた猛禽のように、私の耳元で低く囁く。
「お前の心を溶かすのは俺の仕事だからな。……一生かけて、楽しませてもらうぞ」
その重すぎる言葉に、私はようやく悟った。
私は今日死ぬのではなく、これから一生、この男の甘く恐ろしい鳥籠から逃げられないのだと。
だが不思議と、恐れはなかった。
四月一日。
すべての嘘が終わりを告げたこの日、私と悪魔の、新しい共犯関係が幕を開けた。











