3月30日
王宮の宰相執務室には、うららかな春の陽光が降り注いでいた。
「国境の砦より、本日の定時報告が届きました。『異常なし、鳥一羽飛んでおりません』とのことです」
伝令の騎士が恭しく差し出した羊皮紙を一瞥し、ユーリは満足げに鼻で笑った。
「ご苦労。相変わらず退屈な国境だ。あそこに回す予算など、やはりもっと削ってしまっても構わないな。エリザ様の新しい宝石の足しにでもしよう」
ソファでお茶を淹れていた私は、完璧な笑みを張り付けたまま、カップをユーリのデスクへ運んだ。
「ユーリ様。国境が平和なのは、貴方の素晴らしい手腕があってこそですわ。お父様が亡くなられてからこの十年間、貴方がどれほどこの国を豊かに導いてくださったか」
あえて彼の虚栄心をくすぐるように甘く囁くと、ユーリは自尊心をたっぷりと満たされたように胸を張った。
「当然だ。僕がこの国を根底から支え、導いているのだからね。サラ、君は何も心配せず、明日の夜会のドレスでも選んでいればいい」
「ええ、そうさせていただきますわ」
私は優雅に一礼し、執務室の窓の外へと視線を向けた。
抜けるような青空。平和そのものの王都の風景。
だが、私は知っている。あの羊皮紙に書かれた『異常なし』という文字が、どれほど滑稽な紙切れであるかを。
鳥一羽飛んでいないのは、国境が平和だからではない。
すでに国境の砦が、空の覇者たちによって完全に蹂躙され、物理的に一切の報告を上げられない状態に陥っているからだ。先ほどの伝令も、バロウが裏で手配した私の手駒の一人。ユーリの目を最後まで欺くための、見事な遅延工作だ。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
王都から遥か上空、地上の人間が決して目視できない分厚い雲海の上を、巨大な黒い影の群れが音もなく滑空していた。
帝国が誇る最強の軍事力、最強最速の龍騎兵団。
数百頭もの巨大な飛竜が、太陽の光を遮るように隊列を組み、一直線に王都を目指している。
その先頭を征く、ひと際巨大な黒竜の背。
帝国の若き皇帝ガリウスは、吹き荒れる暴風の中、玉座のような鞍に深く腰掛け、眼下に広がる分厚い雲海を見下ろしていた。
「陛下。国境の突破、完了いたしました。抵抗らしい抵抗は皆無。女王の手引き通り、防衛網は完全に機能不全に陥っておりました」
側近の将軍の報告に、ガリウスは低く喉を鳴らして笑った。
一国の防衛線を、たった一人の女が、内部からの工作だけで完全に腐らせていたのだ。
十年間、彼女が自らの国庫を削って流し込んできた莫大な軍資金。それを喰らい、研ぎ澄まされた龍の爪が、今まさに彼女自身の国を引き裂こうとしている。
「……本当に、恐ろしくも愛おしい女だ」
ガリウスの黄金の瞳が、雲の切れ間から微かに覗く王都の尖塔を捉える。
十年間、文字だけの逢瀬を重ねてきた共犯者。
自分の命を燃やし尽くし、憎悪する者たちを檻に閉じ込めて共に死のうとしている、気高くも狂った女王。
彼女は今頃、明後日訪れるであろう自身の確実な死を想い、氷のように冷たい瞳で空を見上げているはずだ。
だが、ガリウスの内に渦巻くのは、彼女の復讐を成就させてやるというような綺麗な感傷ではない。
「勝手に死なせてたまるか」
吹き荒れる風に掻き消されたその呟きには、底知れない独占欲と、重い執着がねっとりと絡みついていた。
お前が望む地獄は、俺がすべて叶えてやる。
だが、お前の命だけは別だ。その冷え切った魂ごと、力ずくで俺の檻に閉じ込めてやる。
ガリウスは黒竜の鱗を撫でながら、対面の時が迫る極上の獲物を想い、獰猛な牙を剥いた。
◇ ◇ ◇
地上では、そんな空の上の異常事態など知る由もなく、王都の街並みがのどかな春の空気に包まれていた。
だが、執務室の窓際に立つ私の肌は、微かに粟立っていた。
耳を澄ませば、空のずっと高いところから、空気が微かに震えるような、低い地鳴りのような音が聞こえる気がする。
龍の羽ばたき。死神たちの足音。
明日の夜、私が王宮で盛大な夜会を開き、ユーリや母、悪徳貴族たちをすべて一つの広間に集めて酔い潰す。
そして明後日の夜明け、空から彼らが降り立ち、私の指輪の結界がすべてを終わらせる。
「サラ、どうかしたのかい?窓の外ばかり見て」
ユーリの声に、私は振り返って完璧な微笑みを向けた。
「いいえ。とても良いお天気で、明日の夜会が素晴らしいものになりそうだと考えておりましたの」
「ああ、最高の夜になるさ」
ユーリが満足げに笑う。
ええ、最高の夜になりますわ。貴方たちにとって、人生で最後の、最も惨めな夜に。
決行まで、あと二日。
私は再び空を見上げ、来るべき破滅の足音に向けて、胸の中で静かに歓迎の意を示した。











