3月25日
王都から遠く離れた国境の砦。かつて父が精鋭を配置し、「鉄壁」と称されたその場所は、今や見る影もなく腐り落ちていた。
「おい、酒が足りねえぞ!もっと持ってこい!」
見張り塔の最上階で、下品な怒声が響く。
声の主は、ユーリの取り巻きの一人である太った子爵だ。本来なら国境防衛など任されるはずもない無能だが、ユーリに賄賂を贈り、この「安全で退屈な」地位を手に入れた。
彼らが見張るべき深い森の向こうには、軍事国家である帝国の領土が広がっている。だが、子爵も、彼に付き従う兵士たちも、誰一人として外に目を向けていない。
武器庫に保管されているはずの予備の剣や槍は、私が裏で手を回した商人を通じて粗悪品とすり替えられ、すでに赤茶けたサビに覆われている。国境警備の予算はユーリの懐と母のドレス代に消え、砦の修繕すらまともに行われていない。
もし今、帝国の誇る龍騎兵が空を覆い尽くしたとしても、酔いつぶれた彼らが気づくのは、自分たちの首が胴体から離れるその瞬間だろう。
すべては、私がこの十年間、ユーリに「国境は万全です」と甘い嘘を囁き続け、彼の目を曇らせてきた結果だ。
ユーリの執務室で、彼が差し出した国境警備の報告書(もちろん、嘘で固められたものだ)に目を通しながら、私は十年前のあの夜を思い出していた。
父が死に、私が十四歳で玉座に座らされた直後のこと。
◇ ◇ ◇
夜更けに母の寝室を訪ねた私は、ユーリの声を聞いた。
咄嗟に眼の前の棚の影に隠れた私の視線の先で、当時二十一歳だった優しい愛する夫と実の母が、父の死を嘲笑いながら情事を繰り広げていた。
『あの目障りな善王も、まさか自分が最も信頼する宰相と妻に毒を盛られるとは夢にも思わなかったでしょうね』
『ああ。残るはあの馬鹿な小娘だけだ。適当に機嫌を取って飾りにし、この国は我々の好きにさせてもらおう』
ベッドの軋む音と、二人の嬌声。
私は自分の口を両手で塞ぎ、音を殺して泣いた。床を掻きむしる指先から爪が剥がれ、血が滲んでも、痛みなど感じなかった。
父が命を懸けて守った国が、民が、こいつらの欲望の餌食になる。
絶望の底で、私は怪物になることを決めた。
その夜、血の滲む指で私が書き上げたのは、隣国の若き皇帝への密書だ。
『私のすべてと、この国の領土を差し出します。代わりに、私の玉座を簒奪する愚か者どもを、貴方の龍で焼き尽くしていただきたい』
それは、一国の女王としての誇りも何もかもを捨てた、国を売る大罪の証。
数週間後、商人を通じて返ってきた返信は、たった一行だった。
『狂った小娘の戯言か、それとも極上の復讐劇か。見せてみろ。俺を退屈させたら、真っ先に貴様を龍の餌にする』
それが、私と皇帝との、十年にわたる共犯関係の始まりだった。
◇ ◇ ◇
「サラ?どうかしたのかい?報告書を睨みつけて」
執務机の向こうから、ユーリが甘い声をかけてくる。昔と変わらない、優しい笑み。この男は、私が何も知らない愚かな操り人形だと、今でも微塵も疑っていない。
「いいえ、ユーリ様。国境が今日も平和だと知って、安心したのです」
私は報告書にゆっくりと署名し、彼に向かって完璧な微笑みを向けた。
「貴方がいてくだされば、この国は安泰ですね」
「ああ。君とこの国は、僕が必ず守るよ」
ユーリが私の手を取り、その甲に恭しくキスを落とす。
吐き気を飲み込みながら、私は彼を見つめ返した。
「ええ、ユーリ様」
……あと七日。
あと七日で、貴方が食い物にしているこの国境を越えて、私が呼んだ本当の死神がやってくる。
その時、貴方はどんな顔をして泣き叫ぶのかしら。
想像するだけで、黒く濁った私の心臓が、歓喜に甘く痺れた。










