アフターエピソード3
帝国での生活にも慣れ始めた頃、皇宮で他国の使者を招いた大規模な夜会が開かれた。
私は皇妃として、隙のない笑みを張り付けてガリウスの隣に立っていた。
「いやはや、帝国の繁栄は凄まじい。ガリウス陛下の威光、そして……新しき皇妃様の『果断な』手腕があってこそですな」
ふくよかな体型をした小国の使者が、ワイングラスを片手に私へとにやけた視線を向けた。
「実の母君や夫君すらも冷酷に処断し、自国を売り渡したその豪胆さ。我が国の女たちにも見習わせたいものですな。くくっ……」
周囲の貴族たちが息を呑み、音楽が微かに遠のいた気がした。
遠回しな、しかし明確な侮蔑。
親殺しの冷血女、国を売った裏切り者。
それが他国からの私の評価だ。
十年間、ユーリの横暴の盾として民衆から石を投げられ続けてきた私にとって、こんな悪意など痛くも痒くもない。
すべて事実なのだから、反論する理由もない。
私は冷ややかに受け流そうと、完璧な微笑みのまま口を開きかけた。
「ええ、私は……」
だが、私の言葉は、隣から放たれた凄まじい殺気によって遮られた。
「……今、なんと口にした」
ガリウスの声は、地鳴りのように低く、そして氷のように冷たかった。
彼が使者を見下ろす黄金の瞳には、一切の感情が欠落した、純粋な破壊衝動だけが渦巻いている。
「へ、陛下? 私はただ、皇妃様のその、恐れを知らぬご気性を称賛……」
「俺の妃を愚弄する者は、その舌を引っこ抜いて国ごと灰にする。そう条約に書き加えておくべきだったな」
使者の顔から一瞬にして血の気が引いた。グラスを持つ手がガタガタと震え、ワインが絨毯にこぼれ落ちる。
「ひっ……! も、申し訳ございません! 決してそのような意図は……!」
「貴様の国との国境沿いには、我が国の龍騎兵の駐屯地があったな。明日の夜明けまでに、貴様の国の王に伝えろ。その首と引き換えに国を差し出すか、龍の炎で焦土と化すか、どちらかを選べと」
それは単なる脅しではない。ガリウスが本気で、たった一つの暴言のために小国を一つ地図から消し去ろうとしていることが、その場にいる全員に伝わった。
「へ、陛下! お許しを! どうか、どうか……!」
無様に這いつくばる使者を冷酷に見下ろし、ガリウスは私の腰を強く抱き寄せた。
「俺の妻は、誰よりも気高く、己を犠牲にして民を救った誇り高き女王だ。今後、彼女の過去を少しでも侮辱する者がいれば、俺が必ず地獄へ送る」
広間は水を打ったように静まり返り、誰もが恐怖と畏敬に平伏した。
私は息を呑み、隣に立つ彼の横顔を見上げた。
今まで、私が傷つけられても、石を投げられても、誰かが私の前に立って庇ってくれることなど一度もなかった。十年間、たった一人で耐え抜くのが当たり前だったのだ。
なのにこの男は、契約で買われただけの私を、国を一つ滅ぼしてでも守ろうとしている。
抱き寄せられた腰から、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
私の胸の奥で、ずっと分厚い氷に閉ざされていた何かが、ついに音を立てて崩れ落ちるのを感じていた。
◇ ◇ ◇
あの日から数ヶ月。
ガリウスの執拗で、けれどひたすらに甘く重たい愛情を浴び続けるうちに、私の胸の奥にこびりついていた氷は、いつしか跡形もなく溶け去っていた。
ある夜の事。
執務室の長椅子で、ガリウスが深い寝息を立てていた。
帝国と旧王国の統合、そして私を他国の悪意から守るための過激な根回し。彼がどれほど身を粉にして働いているか、隣にいる私が誰よりも知っている。
いつもは猛禽のように鋭い黄金の瞳が閉じられ、年相応の無防備な寝顔がそこにあった。
そっと近づき、彼を見下ろす。
十年間、他人を信じることも、愛することも諦めていた私を、この強引な男は力技で光の当たる場所へ引きずり出した。
私のために怒り、私のために国境を越え、私を鳥籠に閉じ込めながらも、誰よりも自由と誇りを与えてくれた。
気がつけば、私は無意識のうちに手を伸ばしていた。
彼の頬に触れようとした、その瞬間。
ガリウスの大きな手が、私の手首をふわりと、しかし確実に捕らえた。
「……俺に触れようとしたな」
寝起き特有の、低く掠れた声。ゆっくりと開かれた黄金の瞳が、ひどく熱を帯びて私を射抜く。
「ち、違います。お疲れのようでしたから、毛布を……」
「嘘が下手になったな、サラ」
ガリウスは私の手首を強く引き、自分の唇に押し当てた。掌に落ちる熱い吐息に、心臓が大きく跳ね上がる。
「あの初夜の宣言を覚えているか。お前が自ら俺を求めるまで、手は出さないと」
彼はゆっくりと身を起こし、私の腰を抱き寄せて逃げ場を奪う。
「これは、俺を求めたと判断していいんだな?」
意地悪な問いかけ。
だが、その声の微かな震えから、彼がどれほどこの瞬間を待ちわび、限界まで理性を総動員して耐えてきたかが痛いほど伝わってきた。
私は初めて、彼から目を逸らさずに、頬を熱く染めながら小さく頷いた。
「……はい」
そのたった二文字が落ちた瞬間、ガリウスは獣のような低い唸り声を上げ、私の唇を深く塞いだ。
契約でも義務でもない、本当の口づけ。
貪るように激しく、それでいて壊れ物を扱うように優しく、何度も何度も角度を変えて熱が注ぎ込まれていく。
息が詰まり、私が彼の胸元をきつく握りしめると、ガリウスはわずかに唇を離し、蕩けるような甘い声で囁いた。
「サラ……俺の、愛しい女王」
その言葉に、私は彼の広い背中に腕を回し、自らその熱に溺れていった。
四月一日のエイプリルフールから始まった、悪魔との契約。
民を守るための嘘から始まった私たちの関係は、今、この世界で最も甘く、決して逃げられない真実の愛へと変わった。
(完)











