アフターエピソード2
帝国に輿入れして三ヶ月。
皇妃となった私の執務室には、今日も膨大な量の書類が運び込まれていた。
「皇妃様、こちらの税制改革案ですが……」
「第三項の算出基準が甘いわ。国境沿いの関税率と矛盾が生じるから、過去五年の交易データと照らし合わせて修正しなさい。それから、南部の治水工事の予算案は私の承認印を押しておいたわ。すぐに執行を」
「は、はいっ! ただちに!」
文官たちが畏敬の念を込めた眼差しで頭を下げ、足早に退室していく。
かつて隣国で「無能な愚王」と嘲笑われていた私が、帝国の複雑な政務を涼しい顔で捌いていく姿に、当初は侮っていた官僚たちも今では完全に平伏していた。
私にとって、政務をこなすことなど造作もない。十年間、無能を演じながら裏で巨大な資金洗浄と国境崩壊を一人でコントロールしていたのだ。表舞台で正当に知略を振るえる今の環境は、むしろ容易いほどだった。
それに、私には休む理由がない。
ガリウスに国と民を庇護してもらう以上、私は有益な駒として彼に利益をもたらし続けなければならない。契約で買われた命なのだから、倒れるまで働くのは当然の義務だ。
夜の帳が完全に下りた頃。
机の上のランプの灯りだけで、残りの書類に目を通していた私の耳に、乱暴な足音が聞こえた。
重厚な執務室の扉が、躊躇いもなく蹴り開けられる。
「……まだやっているのか、サラ」
腕組みをして扉の前に立っていたのは、漆黒の軍服を着崩したガリウスだった。その黄金の瞳は、明らかな不機嫌さを孕んで細められている。
「陛下。あと少しでこの法案の確認が終わります。明日までには……」
「もういい」
ガリウスは大股で私に歩み寄ると、手から羽ペンを取り上げ、私を軽々と肩に担ぎ上げた。
「ひゃっ!? へ、陛下!? 何を……っ」
「夫の命に従えないのか、サラ」
地を這うような低い声で凄まれ、私は息を呑む。
そのまま私は王宮の廊下を運ばれ、彼と共有している巨大な寝室のベッドへと放り出された。
「政務は終わりだ。今すぐ休め」
「ですが、私は契約として貴方に有益な結果を……っ」
起き上がろうとした私の両手首を、ガリウスの大きな手が押さえ込み、そのままベッドに縫い付けた。
至近距離で見下ろしてくる彼の顔には、怒りとも焦りともつかない熱が浮かんでいる。
「俺はお前を、書類仕事で使い潰すために手に入れたのではない」
ガリウスは忌々しそうに吐き捨てると、私の体を毛布でぐるぐる巻きにして抱き込んだ。
「……温かいスープを持ってこさせろ。俺が直接飲ませてやる」
彼が扉の外の従者に命じると、すぐに湯気を立てるスープが運ばれてきた。
ガリウスは自らスプーンを手に取り、私の口元へ運んでくる。
「口を開けろ」
「わ、私は自分で……」
「開けないなら、俺が口移しで飲ませるが、どちらがいい?」
凶悪な笑みを浮かべて脅され、私は屈辱と混乱に顔を赤くしながら、大人しく口を開いた。
彼の大きな手によって、丁寧に、子供をあやすようにスープが注ぎ込まれていく。
十年間、誰かに甘やかされることなど一度もなかった。常に冷たい計算と復讐心だけで立っていた私に、この底知れない過保護さは劇薬すぎる。
「なぜ……ここまでなさるのですか。私はただの、契約で買われた哀れな女なのに」
私が震える声で零すと、ガリウスは空になった器を置き、私の目を彼の手のひらでそっと塞いだ。
「……いいから眠れ。お前が目を覚ますまで、俺はここを動かん」
視界が暗闇に閉ざされる。だが、不思議と恐怖はなかった。
まぶたに触れる彼の手の熱と、私を包み込む大きな体の重みが、十年間感じたことのない絶対的な安心感を与えてくれる。
自分の胸の奥の、ずっと凍りついていた場所が、微かに温かく溶け出していくのを感じながら……私は彼に腕の中で、泥のような眠りへと落ちていった。











