3月24日
春の生ぬるい風が、王宮のバルコニーを撫でていく。
今日は三月二十四日。
私が心から尊敬し、そしてこの国から理不尽に奪われた偉大な父、前王の命日だ。
眼下の庭園では、私の夫である宰相ユーリと、実母である王太后エリザが、喪に服すどころか色鮮やかな衣装を纏い、茶会という名の逢瀬を楽しんでいる。
二人のテーブルを彩るのは、帝国から取り寄せた希少な茶葉と、見たこともないほど豪奢な砂糖菓子の山。エリザの首元には、この国の国家予算の数パーセントに匹敵する極大の真珠が鈍い光を放っている。
その真珠の輝きの裏で、王都の裏路地では今日も寒さと飢えで子供たちが死んでいるというのに。
この十年間、ユーリは宰相としての実権を完全に掌握した。
彼が私に持ってくる決裁書類は、常に「民のため」「国の発展のため」という美辞麗句で塗り固められていた。だが、その実態は悪徳貴族たちへの利益誘導と、母エリザの異常な浪費を賄うための重税ばかりだ。
私が少しでも署名をためらえば、ユーリはかつての優しい顔を歪め、私の側近や、無実の侍女たちに反逆の罪を着せて次々と処刑台へ送った。
「君が素直に頷いてくれないから、罪のない者が血を流すことになるんだよ、サラ」
そう囁きながら私の頬を撫でる彼の手の冷たさを、私は一生忘れない。
ユーリの思惑通り、私は民衆から「宰相様の諫言にも耳を貸さない、浪費家で残酷な愚王」として憎悪の的となった。視察に出れば石を投げられ、罵声を浴びる日々。その隣で、ユーリは悲痛な顔を作って民を庇い、さらに自らの支持を盤石なものにしていった。
父が愛した豊かな国は、たった十年の間に、彼らの私欲を貪るための巨大な檻へと成り果てたのだ。
二人の笑い声が、風に乗って微かに届く。
十年前のあの夜、母の部屋の片隅で二人の裏切りを知り、自分の爪が剥がれるまで床を掻きむしった時のようには、もう私の心は波立たない。
ただ静かに、指にはめた銀の指輪の冷たさを確かめるだけだ。
王族にのみ受け継がれる、王宮全域を封鎖する絶対の結界の指輪。これを使う日が、ついに来る。
私はバルコニーから部屋に戻り、机の上に広げた羊皮紙に向かった。
宛名のない、しかし確実に一人の狂気じみた男へと届く手紙。
十年間、顔も知らぬ隣国の皇帝と交わし続けた密書の、これが最後の一通となる。
最初は、自暴自棄に近い一か八かの賭けだった。憎きユーリたちを破滅させられるなら、国ごと悪魔に売り渡しても構わない。その一心で、冷酷無比と噂される帝国の若き皇帝に密書を送ったのだ。
返ってきたのは、私の狂気を嘲笑い、同時に深く魅了されたかのような、傲慢で底知れない男からの返信だった。
以来十年間、私は自らを殺し、ユーリの操り人形を演じながら、水面下で国庫の金を帝国へ流し、国境の防衛を内部から崩壊させ続けてきた。すべては、この国の癌であるユーリと母、そして悪徳貴族たちを一網打尽にするために。
『準備はすべて整いました。決行は四月一日の日付をまたぐ時。この国と彼らの命を差し出します』
ただそれだけを書き記し、蝋で封を閉じる。
私に愛や情など、とうの昔に残っていない。あるのは、父の愛した国をこれ以上あの二人の食い物にさせないという冷たい義務感と、氷のように研ぎ澄まされた復讐心だけだ。
手紙を、信頼の置けるただ一人の老執事、バロウに託す。
「……お嬢様。本当に、よろしいのですね」
十年前から私の秘密を共有し、共に地獄を這いつくばってくれた彼だけが、私の本当の顔を知っている。
「ええ、バロウ。この十年の集大成よ」
バロウは深く一礼し、影のように部屋を退出していく。
あと八日……私は私を完全に殺す。
彼らが望む「無能で従順で、何も知らない哀れな飾りの女王」を、最後の一瞬まで完璧に演じ切ってみせる。
これまでの十年に比べたらあっという間だ。
四月一日。
彼らが最も惨めな形で地獄へ堕ちるその時まで。
私は鏡に向かい、冷酷な復讐鬼の顔を奥底へ沈め、完璧で空っぽの笑みを浮かべた。










