親の心子知らず、子の心親知らず
第37話更新です。
実家にたどり着いた西宮ですが……。
——せめて、挨拶ぐらいしたかったな。
矢のように早く走る私鉄の窓から暗いトンネルを眺めながら、西宮は逡巡していた。
酒井に腕を引かれるまま走らされ、潔に別れを伝えられなかったのがどうしても心残りであった。
しかもその酒井は、今電車には乗っていない。駅まで走っている間、ここまで一緒に来たことは覚えている。
酒井はずっと西宮の腕を掴んでいた。シャツの袖を捲れば、左手首にくっきりと赤い手形の跡すら残っていた。
「ちょっと待って。休ませて……」
駅にたどり着いたとき、息を切らしながら西宮はそう言った。酒井の返事はなかったが、何が何でも待ってもらうつもりではあったので、その場から動かずに切れた息を整えた。
酒井はその間に、いなくなっていたのだ。
——家に帰ったのだろうか?
しかし、酒井の家は九段にある。いくら若くて体力と脚力があるとはいえ、本郷からでは相当な距離だ。
駅周辺で名を出して呼びかけたり、「学ランの少年を見なかったか」と駅員などに聞いたりはしたものの、見つからなかった。
結局、西宮は自分の分だけ切符を買い、実家がある築地までの電車に乗り込んだ。
たどり着いた駅を降りて地上に出ると、懐かしの景色が広がっていた。
京橋区、築地。少し歩くと、建物外観の枠組みがむき出しになった「ハーフティンバー様式」と呼ばれる洋館や、アーチ型の入口がついた西洋風の建築物が並ぶ。
築地は明治の時代より、西洋からの宣教師などが移り住んだ外国人居留地となっていた。これだけ異国情緒あふれる景観となってもおかしくはない。
そんな光景を見ながら歩くこと十分。たどり着いた日本家屋だけが異端であった。
「……はあ」
その日、何十回目のため息だった。
入る者を威圧するような、切り欠きを外部に大きく構えた兜門。その前に立っただけで、身がすくんでしまう。
——行くしかない。
すうっと、深く呼吸をしてから一歩踏み入る。本邸玄関まで続く千鳥打ちの飛び石を踏む足はいつになく重かった。
木製の戸を叩くと、ベージュのワンピースを着た女性が出迎える。
「おかえりなさい」
「……ただいま、姉様」
鷹子がふっと微笑むと、胸元まで伸びた長い髪が揺れた。
最近雇われたのか、西宮の知らない若い女中が入れたお茶は恐ろしいぐらい味が良かった。
「随分遅かったじゃない。もう少し早く来ると思ってたんだけど」
玄関からすぐ入っての客間。鷹子が茶をすすりながら西宮に言う。
「来る前に友達と会ってたんだ」
「へえ、学生時代の友達?」
「そうそう……」
「酒井っていうやつなんだけど」と言いかけたとき、廊下から「兄さま!」と声が飛んできた。
「……兄さま! お帰りになったのね!」
佳代が、息を弾ませやってきた。
「もう、佳代ちゃんたら。危ないじゃない、廊下を走ったりして」
鷹子が姉らしくたしなめる。
「ごめんなさ~い」
鷹子の隣にすとんと座った佳代は、卓上の急須から自分の湯呑に早速お茶を入れる。
「そんなに急がなくたって。二人ともこの間、ウイジャボードの降霊会で会ったんでしょう?」
西宮と佳代が同時にぎくりとする。鷹子に知れ渡っていてもおかしくはないだろうが、あまり思い出したくなかった思い出だ。
「私も行ってみたかったわ~」
「そういえば姉さま、占いに目がなかったわね……」
「姉様には悪いけど、それほど良い物ではなかったよ」
「あら、そうだったの。それは残念」
「……それで、父様と母様は」
西宮が言いかけたそのときだった。
「……龍之介さん」
客間にいた全員が、声のする方を見る。
開け放たれた障子の縁に手を添えて立つ、和子が立っていた。
ゴマ塩が目立ってきた髪は、昔の女性らしくきっちりと結われていた。
「母さま!……お久しぶりです」
足を崩していた西宮は、思わず正座した。
「……その、元気にしていた?」
久々に聞いた母の声は相変わらず小さかった。二年会っていないだけだが、背丈も随分と小さくなったように見える。いつかの電話で姉が言った通り、年老いた母たちにとって二年という歳月は大きいのだろう。
「はい、何とか」
西宮の答えに母は「そう」と気まずそうに頷いた。
「龍之介さん」
「はい」
「……あなたが出ていった日から、考えたの」
調子を整えるように和子は、ほう、と息を吐いた。
「ここで暮らす間、あなたは、苦しかったのかしら、と。……いえ、苦しかったわよね。ずっと、ずっと」
苦しくなかったわけがないわ。
ついに母はこらえきれず、その場で泣き崩れた。
「母さま」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。私、あなたが出るとき、酷いことを」
「……もう大丈夫ですから」
ふるふると震えながら涙を流す母の手は、差し出された息子の手を握った。細く折れてしまいそうな指だった。
「龍之介さん」
和子はひとしきり泣いた後、西宮の両手を掴み、言った。
「あの人にね、さっき言ったの。『あの子が来ても、きつく叱らないでやって。あの子は悪い子じゃない』と」
「そうなんですね」
「わかった、とはおっしゃらなかったわ。あの人は私の言うことなんか聞いたことがないものね……」
ふっと自嘲する和子。
「それに、今更こんなこと言ったって遅いわよね。ごめんなさい。もっと早く、あなたが子供のころに言ってあげられていたら……」
和子は嗚咽の後、今度こそ本格的に泣き始めた。
「母様、部屋に戻りましょう」
見かねた鷹子が母の小さな肩を抱く。
弟たちに「待っていて」という目くばせをすると、母を連れて客間から離れていった。
「……本当に心配なのは、母様だわね」
後ろで聞いていた佳代が、ため息をついた。
「父様、寝ているようよ」
障子に耳を当てていた鷹子が密やかな声とともに口を動かすと、くすりと笑った。
西宮邸玄関から真っすぐ続く廊下を少し歩くと、左へ曲がる角にあたる。そこをさらに行くと、障子の部屋がある。そこが西宮家主人、そして西宮龍之介の父である巌の部屋だ。
二年ぶりに帰ったその日も、巌の部屋の障子は汚れ一つなかった。几帳面な巌は、少しでも障子紙が汚れる度にすぐ貼り替えてしまうのだ。
「この間倒れてから、お昼寝をなさるようになったのよね。でも、おかげで調子が良いみたい」
「そうなんだ」
「お目覚めになるまで待ちましょうか。寝起きは絶対に機嫌が悪いもの」
鷹子の返答に思わず胸をなでおろしそうになったが、何とか抑えた。
「龍くんったら~。ほっとした顔をしちゃって」
からかうようににやりと笑う鷹子。顔には出てしまっていたようだ。
「だ、だってさ」
「だって、なあに?」
「何を話せばいいか、わからないし……」
言葉が続かない。もうすぐ父親と顔を合わせて話をするのだと考えると、きゅっと喉が縮む。
「難しく考えないの。最近何をしているかをお話すればいいのよ」
「安宿借りて、毎日日雇いの仕事をしています、って?」
——きっと、情けないと言われるはずだ。
父の望み通りの道を進んでいたら今頃は大日本帝国陸軍の一員になっていたかもしれないのに。最も、西宮としては気乗りはしないことだが。
「十分じゃない。あなたが元気にやっているってことを素直に伝えればいいのよ。自立して生きているってわかれば、父様も少しは嬉しく思われるはずよ」
——そうであればどれだけいいことか。
落ち着きを取り戻そうと、胸元の時計を取り出す。普段から身に着けているためか、金メッキの懐中時計に触れると不思議と心が落ち着くのだ。
時刻はもうすぐ午後の四時を迎えようとしていた。
「あら、それ!」
久しぶりに見たわねえ。
目を瞠った鷹子が、懐かし気に西宮の手元を見る。
「昔から持ってるじゃない? 随分と大事に使ってるのね~」
「まあね、酒井に貰ったものだし」
「酒井?」
「覚えてないかな? 僕の中学時代の友達」
「……覚えてるわよ」
姉は何故かはっとしたように表情を固めた。
「今日もさ、ここに来る途中で会っていたんだけど」
「……会っていた? 酒井くんに?」
姉の眉間に皺が寄る瞬間がはっきりと見えた。
あれ、とは思ったが西宮は話を続ける。
「そうなんだよ! 本郷の駅まで一緒にいたんだけど、急にいなくなって……。家に帰ったのかなあ?」
がばり、と両肩を掴まれる。
「龍くん」
目の前には、かっと目を瞠った姉の顔があった。
上背のある鷹子は西宮とほぼ視線が変わらない。正面にある姉の両目は、衝撃でかっと見開かれているように見えた。
「ど、どうしたんだ姉様」
「……ああ、そうよね。そう。あなたは覚えていなかったんだわ。あの時のことはほとんど忘れてしまったのよね」
そうよ。無理もないわ。私が忘れていただけ。
西宮には脈絡のないように聞こえる短い言葉を繰り返しながら、両肩を掴む鷹子の手はぶるぶると震えていた。
「……来て」
素早く西宮の背後に回った姉は、西宮の腕を引き、来た道へと引っ張っていった。
父の部屋からはどんどん遠ざかっていく。
「え!? と、父様にお会いするんじゃ……」
「まだお眠りだから大丈夫。その前に伝えなくてはいけないことがあるの」
——今、知らなくてはいけないことなんだろうか?
「今よ。父様にお会いする前に知った方が良いわ」
前を見ながら歩いているはずの鷹子は、弟の心中を見透かしたように言った。




