出会い
4 出会い
背中の部分にクッションを山と積み、どうにか楽な体勢をとってはいるが、ルークの顔色は相変わらずよくなかった。沙綾を今か今かと気を揉んで待っていると、ようやくノックの音が聞こえる。
「遅かった――」
乱暴にドアを開け、レオンは思わず絶句した。
美しい娘だと思っていたが、ただそれだけでしかなかった。王宮の華やかさばかり見ていた彼には、初めて出会ったときの印象はみすぼらしく貧相。ただ、その一言だった。それがなんという変わりようだろうか。女は衣装と化粧で化けるというが、これは化けすぎだろうと内心つぶやく。
シンプルな藤色のドレスに身を包んだ沙綾は、神々しいという表現が一番ぴったりくる。スクエア型に開いた胸元には一粒の濃い青。透ける素材で作られた袖はぴったりと腕を覆い、きゅっとしぼった帯はふわりと後ろで大きく結んである。華やか刺繍が施してあるわけでもなく、大きな美しい飾りがついているわけでもないが、逆にそのシンプルさが彼女の美しさを際立たせていた。
さらに、なにやらさわやかな香りが漂ってくるではないか。最初は柑橘系の香りかと思ったが、どやら違う。森のような、夜のような、言葉では表現できない不思議な香りだ。あまり香水というものが好きではないレオンも、沙綾のこの香りは嫌いになれなかった。
「あの……?」
「あ、ああ。悪い」
一向に扉の前から動く気配のないレオンの耳に、困惑の声が飛び込んだ。はっと我に返ると慌ててよける。目の見えない沙綾のために椅子を引き、待つことしばし。リコが何か言う声が聞こえ、沙綾が入ってきた。その姿にフィージもルークも目を見開く。
「大変お待たせして申し訳ございませんでした」
「ルーク様、レオン様。お久しぶりでございます」
沙綾の挨拶に続いてリコも挨拶をし、リコが席に着く。沙綾は琳を従えてまっすぐにベッドまで歩み寄った。
「サーヤ、殿?」
「はい。お初にお目にかかります」
ルークの前でドレスのすそを持ち上げ、誰も見たことない不思議な一礼をする。たぶん、彼女の一族独自のものなのであろう。皆が興味深そうに見つめた。そんな視線も気にせずに、沙綾はただルークがいるであろう方向をじっと見つめる。
「お体の具合はいかがでしょうか?」
「少しだるくて、食欲はあまりないかな」
元気なふりを装ってはいるが、ルークの声には張りがない。沙綾は視線をそらし、床に膝をつく。手探りでその手をとると、脈をはかり腕に触れ、一言断りを入れて首に顔に触れた。
「微熱がありますね。脈も少し乱れています。後で薬を煎じさせていただきますね」
一通りルークの状態を見終わると、ふわりと安心させるように微笑んだ。軽く目礼を残してようやく席に着く。そして改めて言葉をつむいだ。
「大変お待たせしてしまって申し訳ございませんでした。皆様、だいぶお待ちになられたのでは?」
「だって、サーヤ様はほんとにお綺麗なんですもの」
沙綾の心苦しそうな言葉にかぶさるように笑うリコ。どうやら遅くなった原因は彼女にあると見て、フィージがあきれたようにため息をついた。
「リコ。姫君で遊ぶとは何事だ」
「あら、遊ぶだなんてそんな……。ただ、お兄様が用意されたドレスに見合うアクセサリーを捜していただけですわ」
なるほど、確かによくよく見れば沙綾は控えめなアクセサリーをいくつかつけていた。
一番目立つのは首に飾られた深い青のサファイアだが、髪に隠れた耳には小ぶりの花形をしたピアス、髪には真珠の粉がきらめいている。
「……確かに年頃の女性に贈るには物足りないものでしたね。失礼いたしました」
まじまじと沙綾の姿を観察すると、フィージは素直に自分の非をわびた。リコの見立ては正しく、アクセサリーをつけていたほうがより上品に、華やかに彼女を見せる。
「そんな……こんなに上等なドレスを用意していただけただけで十分です」
恐縮したように沙綾が答えれば、フィージはただ柔らかな微笑で返す。そして話題を変えるように声の調子を軽く上げ、不機嫌なレオンをちらりとみた。
「さて……レオンがそろそろ空腹に限界を訴えていることですし、食事にしましょうか」
そういい、自らグラスに水を次いで回る。ルークには気を利かせて白湯を供し、遅い朝食が始まった。和やかな食事の最中、リコは率先して沙綾の世話を焼く。どうやら兄から頼まれた以上に沙綾が気に入ったらしい。あれこれと食事の説明をし、時には手を出して沙綾を喜ばせた。
「お兄様、どうしてサーヤ様を姫君と呼ばれるのですか?」
ふと、リコが何気なく口にした言葉。その瞬間、場が緊張感を帯びる。それに気づいてリコが戸惑うが、穏やかなルークの声が場を和らげた。
「それはね、リコ。彼女が偉大な薬師の一族だからだよ」
「偉大だなんて……そんな……」
かすかに恥じるようにうつむくその姿は愛らしく、知らず緊張していたリコもほっと肩の力を抜く。そして納得したように笑った。
「そうですわね、ルーク様を助けていただいたんですもの。サーヤ様は本当にすばらしい薬師ですわ」
心からの賞賛にさらに頬を染め、それでもうれしそうに礼を言う。ふと、その様子を見ていたレオンが何か思い出したように口を開いた。
「そういや姫さん。無事にルークを助けてもらったことだし、報酬をはらわねぇとな。依頼人は俺だ。俺にできるものならなんでもいってくれ」
「そうですね、正当な代価を支払わないと……。薬師は慈善事業できるほど甘いものではありませんからね」
フィージもレオンの言葉にうなずき沙綾を促す。当の本人は軽く首をかしげ、困ったように笑った。ちらりと足元の狼を見れば、狼も同じように当惑しているのがわかる。
「申し訳ございませんが、報酬は受け取れません」
「何だって?」
思わず聞き返したレオンに、フィージ、ルーク、リコまでが沙綾を凝視した。彼らの中では、正当な報酬を受け取らずに仕事をするという考え方はない。
「私たち薬師の一族は、以前は報酬を受け取っていたらしいのですが……もう、一族も私一人になりました。夕凪と琳と、三人で暮らしていくぶんには、そんなたいそうなお金がかかるわけでもありません。幸い近くの村の方から好意で食料をいただきますし、薬草は畑や山で取れます。なので、お金の必要性があまりないのです」
「そうはいってもなぁ……。一応、契約を交わしたからには何か報酬を支払わないとこっちの都合が悪い」
苦笑とも取れる笑みを浮かべてレオンがいい、それならとフィージが口を開く。
「しばらく滞在していただく間に、何がほしいか考えていただいたらどうでしょう?もちろんお断りになるときは姫君には申し訳ないですが、私たちで決めさせていただきます」
よろしいですか?とフィージが確認を取れば、沙綾よりも先に琳がうなずく。沙綾に物欲があまりないことを知っているためだ。
「それでいいんじゃないか?沙綾は特にほしいものもないだろう?」
「ええ、そうね……。夕凪になにか買っていってあげることくらいかしら?」
愛らしく小首をかしげ、真顔で言う沙綾。その純粋さに皆が思わず微笑んだ。
「そうしたら、ルークの体調がよくなるまでここに滞在してくれ。少し不自由な思いをさせるかもしれないが……」
「ご心配には及びません。お気遣い、ありがとうございます」
「サーヤ様には私が不自由させませんから、ご安心ください」
にっこりと至極楽しそうにリコが続け、笑いを誘った。そんな和やかな雰囲気の中、ただ一人ルークだけはわずかに表情を曇らせている。体調不良というよりも、何か気がかりなことがあるといった風だが、誰にもそれはわからなかった。
朝食が終わり、リコと連れ立って沙綾は部屋に戻る。他愛のないおしゃべりを楽しんでいると、琳が少し不思議そうに問うた。
「リコ、なんで沙綾のことをサーヤって呼ぶんだ?」
「それはですね、都に住む人と発音が違うからですよ。なんていうんでしょう?サーヤ様もリン様も独特の発音というか……私たちには難しいんです」
リコ自身もどう説明していいかわからないらしい。沙綾も琳も、彼女らの名前が自分たちとは違うことに気づいていたので、そう深くは考えなかった。
コン コン
会話の切れ間を狙ったように、控えめなノックが響く。沙綾が立ち上がろうとしたところを制し、リコが応じた。
「はい」
そっと隙間から伺うように扉を開け、相手を確認する。フィージからなるべく人前に沙綾を出さないようにといわれていたことと、この美しい客人と自分の会話を邪魔されるのは嫌だと感じたためだ。
隙間から伺えば、そこにはよく慣れ親しんだ相手の姿が見える。
黒髪なのに、星の光をまぶしたように時折やわらかく輝く髪。ありきたりな自分の蜂蜜色の髪に劣等感を持っているリコにとって、羨ましくもありほんの少しだけ妬ましくもあるが、相手は嫉妬する対象にはならない。なぜなら、尊敬すべき師であり、男性なのだから。
「アンジュ様。どうなされたのですか?」
「あなたがお世話をしている客人にご挨拶をと思いまして」
アンジュに沙綾のことを告げたのは自分だ。フィージから言い付かったことで、しばらく教会に行くことはできないと。ただそれだけを伝えた。それはもちろん、尊敬する師であるこの人に心配をさせたくないという一心で伝えたものだ。フィージの許可はもらっていなかったが、彼に黙って沙綾の世話をするのは難しい。ほんの少しの罪悪感はあったが、彼ならばいいだろうとリコは良心をなだめた。
ふと、何か違和感を感じる。何故兄に黙っていたのだろう?別段兄に話しても構わなかったのではないか。
けれどその疑問はすぐに深いところに沈み込み、リコは一瞬の後に違和感を感じたこと事態を忘れてしまう。
「ご挨拶、ですか」
リコは少しだけ迷ってから、あわせるだけならば問題ないと納得する。何も、彼女の素性を洗いざらい――自分もそこまで知っているわけではないが――話すわけでもない。ただ尊敬する師である神官に紹介するだけだ。
そう言い聞かせ、にこやかに微笑んだ。
「どうぞ、お入りください」
自ら扉を開け、アンジュを招く。アンジュも穏やかな笑みを浮かべて中に入った。そして、その表情が一瞬こわばる。
「アンジュ様?」
「……綺羅……?」
突然立ち止まったアンジュに疑問を投げかけるように名前を呼ぶが、返事は返ってこない。
小さな呟きは誰の耳にも届かずに、ただ驚きとも困惑とも取れる沈黙が落ちているだけだ。
「どうかなさいましたか?」
「……いえ、なんでもありません。ただ少し……そう、日の光がまぶしくて」
自分でも苦しいいい訳だと思いつつも、唇を滑り落ちた言葉は取り消せない。しかし、リコは言葉通りには受け止めずに笑った。
「本当に、沙綾様がいらっしゃると一段と光がまぶしく感じられますね」
無邪気で純粋なリコの性格を、今回ばかりは心底神に感謝する。だが、リコの言葉も一概に間違ってはいない。彼の人も、月光の下では女神のように美しかったのだから。
懐かしさがこみ上げてきて、一瞬目の前の景色が消える。そこは深い森の中。円形の広場で、神の娘が踊る。やわらかく響く竪琴の音と高く澄んだ笛の音が混ざり合い、微かな衣擦れの音と娘の手足についた鈴がなる。なんとも幻想的な空間。その神の娘に、自分は――
「お初にお目にかかります。沙綾と申します。この子は琳。怖そうに見えますが、おとなしいので、どうぞご安心ください」
過去にはせた想いを断ち切ったのは少女の言葉。はっとして陽だまりにたたずむ少女を見る。そんな神官に沙綾は安心させるように微笑んだ。その表情に何かを懐かしむように目をすがめ、彼女の前に立ち止まる。
「初めまして。アンジュと申します。あなたに、神のご加護があらんことを」
深く一礼をしてリコにすすめられるままに席に座る。その足元に琳が近づくが、アンジュは恐れる風もなくその頭をそっとなでた。
「賢い子ですね。銀色の獣は月の神の僕といいます。どうぞ、大切になさってください」
「ありがとうございます。この子は、私の大事な家族です」
琳がおとなしくなでられているなら何も怖いことはないはずだ。なのに、胸がちりちりする感覚がさっきから消えない。
うまく表情に出ないように隠し、リコの気配を探す。その仕草に気づいたのか、リコが声を出した。
「お茶の準備をしてきますね。サーヤ様もアンジュ様も、どうぞおくつろぎになってお待ちください」
にこやかに告げ、足取りも軽く部屋を出る。ためらいのないリコになんともいえない感情が胸に宿るが、それを押し隠してアンジュに声をかけた。
「アンジュ様はカーシャ様をお奉りしていらっしゃるのですか?」
「ええ。昔は銀歌様をお奉りしていたのですが、カーシャ様の恵み深さに改宗いたしまして」
「そうだったのですか……」
何も、おかしいところはないはず。改宗することはそうそうあることではないが、珍しいことでもない。
でも、何かが引っかかる。
「沙綾殿は生まれつきお目が……?」
「いえ、六つのころまではちゃんと見えていました。……事故に、巻き込まれてしまいまして」
「それは……さぞかし大変な思いをされたでしょう。今まで見えていたものが急に見えなくなるのは、とても恐ろしいことです。何事もなく健やかに育ったのは、きっと神のご加護があったからでしょう。……お名前の発音から、銀の信仰をなさっていらっしゃるのでしょう?」
「ええ……。家族が……一族が皆、銀歌様を信仰していますので……」
月の神とあがめられる銀歌は、長い銀の髪と黎明の瞳を持つといわれている。銀の竪琴を持ち、足元に銀色の狼を従えた男性像で描かれ、そのことから銀歌を信仰するものは銀の信仰をしているといわれる。
逆に、金の信仰といわれるのは太陽神カーシャを奉ったものだ。波打つ金の髪に湖の瞳を持つ豊満な女神。金色の杖の上に金色の鷹を従えた姿で描かれ、豊穣を司る神だ。
銀歌とカーシャは双子の兄弟とも恋人とも言われているが、それを確かめるすべは誰にもない。
「そうですか……。一族が銀歌様を奉っていたのですね。あなたのお姿は、銀歌様に愛されたような姿ですね。母君に似られたのですか?」
「母様……も、銀の髪で……父様が、銀歌様と同じ黎明の瞳で……私は、どちらの血も受け継いで、性別以外は……銀歌様に似ていらっしゃると……」
ぼうっとしたような口調で、沙綾は神官の問いに答える。いつもはいさめるはずの琳も何も言わずに、ただおとなしくアンジュの足元に伏せていた。
昼間なのに、なぜか薄暗く感じる気がする。もちろん、闇に閉ざされた沙綾の瞳に光は映らない。いつも見ている闇と、どこか違う感じがぬぐえずに、それでも答えるのが当たり前のような気がして言葉をつむぐ。
「母様は、巫女でした。父様は、覡でした」
「……母君のお名前は?」
「母様の名前は、綺羅。その名前のとおり、子供の私から見ても……とても、とても綺麗な人でした。優しくて、舞と歌がとてもお上手で……父様は、その隣でいつも竪琴を奏でていらっしゃいました」
暗闇に、幼いころの光景が浮かぶ。
深い森の中、月光に照らされた広場で母が踊る。銀歌にささげるための神楽舞を。その横で、父が竪琴を奏でる。母のために、銀歌のために。
幼かった自分は、一番前の特等席でその様子をいつも楽しそうに眺めていた。母の躍る姿は好きだったし、父の奏でる音色は耳に心地よかった。大きくなったら母と一緒にこの広場で踊ると。両親は共に優しく見つめてくれていた。
柔らかな月光が、一転して禍々しい紅に変わる。ちろちろと蛇の舌のような炎が舞い上がり、静かな森に悲鳴と怒声が響いた。わけもわからずに、炎からただ一心に逃げた。琳の銀色がすすと焼け焦げに黒く染まる。
涙でにじむ視界に父と母を捜すが、見つからずに。
何か怖いものが迫ってきた。見たこともない銀色の人間たち。銀色は美しく優しい色のはずなのに、人間たちが見につけている銀色はただ恐ろしかった。炎の照り返しで赤く染まっていたからかもしれない。
「あ……あぁ……」
振り下ろされる刃。
舞い散る血と悲鳴。
銀色の髪。
「母様……!」
そこから途切れた記憶。
気づいたときには暗い闇の中にたった一人で座り込んでいた。
「沙綾殿」
少し低い、聞いたことのない声が自分を呼んでいる。いや、聞いたことのある声。
「あ……」
相変わらずあたりは闇に包まれている。けれども、この闇を自分は知っている。長年慣れ親しんだ、銀歌の住まう闇だ。
「私……?」
「大丈夫ですか?ぼんやりしていたかと思ったら、突然悲鳴を上げまして……」
「……アンジュ、様。……何か、恐ろしいものを見ていたような……」
まだぼんやりする頭で考えるが、永い一瞬の間に見たものが思い出せない。きゅっとこぶしを握り、頭を軽く振る。沙綾が不安なときはいつも安心させてくれる琳も、今ばかりは何の応えもなかった。
「お待たせしました。……アンジュ様?サーヤ様?どうかなさったのですか?」
明るい声と共に扉が開き、元気よくリコが入ってくる。二人のおかしな様子に気づき、茶器を置くと慌てて駆け寄った。
「サーヤ様?大丈夫ですか?顔色が……」
「どうやら白昼夢を見られたらしいです。お加減がかんばしくないようなので、私はこれで失礼します。リコ、沙綾殿を頼みましたよ。どうぞ、お大事に」
軽く一礼を残して部屋を出ると、アンジュは薄く笑う。そうして、間違いないと確信する。
「ようやく見つけた」
まぶたの裏に浮かぶのは、長い銀の髪の女性。いつも微笑みを絶やさずに、誰にでも平等に接してくれた。そう、自分のように穢れた存在にも。彼女こそ、神に愛された女性だ。
「綺羅……」
薄暗い闇の中に、ただ静かに声は消えていった。




