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銀の薬師  作者: 綾月魁夜
3/9

目覚め

3 目覚め


 癖のない黒髪を、誰かがいじっている。少し硬質なまっすぐな黒髪は、昔は姉たちのおもちゃだった。そのせいか、今も誰かに触られるのが嫌いだ。

 うっとうしく思って頭を軽く振るが、指先は一瞬離れただけですぐにまた絡まってくる。その感触を楽しむように。

 姉とは違う、少し無骨な細い指。触られるのは嫌いなはずなのに、なぜか心地よい。そう、昔、まだ自分が本当に小さな少年のときに――

「……誰だ……」

 夢うつつのまま記憶を手繰るが、幾度も髪を引かれる感触に記憶は砂のように零れ落ちる。それは形にならずに、結局眠りを妨げられてレオンは目を開けた。

「おはよう」

「……おは…………おはようじゃねぇだろ、ルーク」

 湖の瞳が、ようやく自分を見つめた。青く、碧いその眼差しは自分が求めてやまなかったもの。今は少し疲れに翳ってはいるが、日の光に当たればきらきらと湖面のように輝くその双眸。ようやく見つけた、自分が仕えるべき主。

 けれどその瞳が自分を映す喜びよりも先に、あまりののんきさに脱力感がレオンを襲う。

「私は、どれくらい眠っていた?」

「一月経つくらいか」

 体を起こそうともがくルークに手を貸し、レオンはその背中に枕をいれて掛布を丸め、彼が楽なように整える。にこやかに礼を述べるが、その顔色は明らかに悪かった。

「待っていろ、今フィージを呼ぶから」

「レオン、待て」

 部屋を出て行こうとするレオンを制し、ルークは思案するようにうつむく。何か言葉を紡ごうとするが唇をなめては飲み込み、言葉は音にならない。そんなルークを訝るように見つめ、レオンは数歩進んだ足をまたベッドに向けなおした。

「ルーク?」

「フィージは……いや……大丈夫、なはずだ……」

「一人で抱え込むなって、何度いえばわかるんだ」

 敬愛する主人であると同時に、弟のような存在だ。悩むルークの頭をぽん、とたたき、レオンはベッドに座りなおした。そして視線で話を促す。

「どうした?何を悩む」

「……私が倒れたのは…………フィージが入れたお茶を飲んだ後だった」

「何?」

 思わぬルークの発言に、レオンは驚きを隠せない。フィージは、レオンの無二の友人であり、ルークの忠実な臣下で教師だ。それに、当の本人からそんな話は一言も聞いていない。普通に考えれば自分が疑われるようなことを他人に話すとは思えないのだが、ことがことなだけにレオンの眉間にしわがよった。

「どういうことだ?」

「あの日……父上の代わりに仕事をしていたのは知っているな?」

 もちろん、とうなずくレオンから視線をそらし、ルークは迷うように唇をなめる。それからしばらく沈黙し、やがてレオンが焦れたころ再び口を開いた。

「その日は、西の地方で洪水があって、人手がすごく少なかった。私とフィージと、数人しかいなかったんだ」

 彼が倒れた日は、レオンもよく覚えていた。確かにその日、連日の豪雨で川が氾濫し、西の地方に大人数が借り出されていた。その中にレオンもいたのだから間違いない。ひどい土砂降りで、前もよく見えない中で懸命に作業をしていたのだ。

 小さな村一つが水没するような大規模な氾濫だった。大勢の人が亡くなり、ようやく水が引いたときには呆然とする人々の姿でいっぱいだった。彼らを叱咤し、どうにか立ち直らせるころにはもう日付が変わっていた。結局宮廷に戻ったのはその翌々日で、その時にはすでにルークは眠りについていた。

「そろそろ日暮れも迫っていて……昼食をとる間もなかったから、フィージが軽食とお茶を持ってきてくれた。フィージはいつも隣でお茶を入れていた。そのときも、隣の部屋にはフィージだけしかいなかったはずだ」

 過去にさかのぼる記憶をルークの言葉が現実に引き戻す。その言葉の意味に気づき、ますます眉間にしわを寄せた。

「……眠ったのは、その直後か?」

「いや、もう少し後だったと思う」

「なら、フィージのお茶とは限らないな。一緒に何か食べたんだろう?それが原因かもしれない」

 しかし、とも思う。自分が帰ってきたときには、すでにルークは眠りについていた。眠りにつく直前の話を聞いたときも、ルークが何か口にしたとはいわなかった。ただ単に忘れていたとも考えられるが――何せルークが目覚めなかったことで一時騒然となったのだから――フィージがそういう「抜け」をするとは思わない。自然、ある仮定が浮かび上がってくる。

「……あいつを疑いたくはねぇが……とりあえず、あいつのことは俺に任せとけ。お前はもう少し休んでろ」

 話し疲れたのかルークの顔色が一段と悪くなったことに気づき、レオンは彼を半ば無理やり横にする。ゆるく抵抗するその体に布団を直すことで押さえ、やがてルークが眠りに落ちるまで穏やかな顔で付き添った。しかし、彼が眠ると一転して表情が険しくなる。何事考え込むが、一つ大きくかぶりを振って隣室の扉を開けた。

 規則正しい寝息を止めないように、レオンは息を殺して歩く。もともと剣をたしなむ身だ。気配を殺すことなど造作ない。そっとナイフを抜くと、フィージの首筋にあてがった。

ナイフの冷たい感触に眠りを妨げられ、紅茶色の双眸が開く。眠りが浅かったのか、すぐに自分の置かれている状況に気づいた。

「何のまねですか。悪ふざけにもほどがありますよ」

 ナイフが首筋に触れているというのに、フィージはいたって冷静に言葉を紡ぐ。相手が顔見知りということと、ナイフを突きつけられる理由が思い浮かばないからかもしれない。

時に自分以上に冷静に状況判断をするフィージに、レオンは無性に腹立たしく思った。もしもここでわめくか何かしてくれれば、もっと自分は冷静になれたのにと八つ当たりめいたことを考える。そんなことを考える自分は、冷静なのかそれとも多少なりとも混乱しているのかわからずに、内心苦笑した。しかし表情には一切出さずに、静かに告げる。

「残念だがふざけているわけじゃぁない。……ルークが目を覚ました」

「本当ですか!」

 今にも飛び起きそうなフィージを、レオンの刃が制する。フィージの眉間にすっとしわがより、いい加減にしろと視線が語った。もちろんそれだけではレオンの刃は離れずに、怒ったような困ったような、どこか泣きそうな情けない顔でつぶやくように問う。

「なぁ、フィージ。どうしていわなかった?」

「何をです?」

「ルークが倒れる前に、お前が持ってきたお茶と食事を取ったことを」

 一瞬、フィージの双眸が見開かれた。そして迷うように視線をさまよわせ、何度か口を開閉させる。が、やがてあきらめのため息をつく。

「それは……王子から話を聞いたのですね?」

「ああ。場合によっちゃぁ、このまま……」

 ぐっと刃を押し当てる手に力をこめれば、ぷつりと皮膚の敗れる感触。そのまま一筋赤い筋が首を汚した。血の流れる感触に顔をしかめ、馬鹿なことを言うなと怒りを表す。

「冗談よしてください。私が王子を裏切るはずがない。王子を殺したいなら、あなたがいない間にさっさと終わらせていましたよ。眠らせるなんて生ぬるいことはせずに、さっさと殺して誰の手も届かないところに逃げますよ。いわなかったのは……いえなかったのは――」

 確かに、何事も完璧を追求するフィージならはこんな中途半端に終わらせることはしないだろう。薬物ならばすぐに足がついてしまう。剣のたしなみはあまりないとはいえ、新米兵士を相手できるほどの腕前だ。油断している丸腰の相手ならば、手間取ることもないだろう。彼の思考回路はある意味わかりやすい。もしも自分で手を下したならば、証拠を残さずにさっさとこの国から姿をくらませているはずだ。

 それならば、答えは一つ。

「誰をかばってた?」

「……巫女を……リコです」

「何?」

 思わず耳を疑った。もっとも容疑者から遠い人物の名前が飛び出してきたからだ。

「本当か?」

「ええ、本当です。嘘を言ってどうなりますか」

 確かに、彼女ならばフィージがかばう理由は十分にある。今は巫女となり神に身をささげたが、もともとは彼の妹だ。その仲のよさは宮中にお墨付きで、フィージが時間を空けてはリコの元を訪れていることは有名だ。しかし、何よりもリコの悪いうわさを聞いたことがない。それに、リコならばレオン自身もよく知っている人物だ。だが、彼女がどういう人物かよりも今は巫女であることが問題だった。

「けど、リコは……巫女だろう?」

「そうです。あなたもご存知のように、巫女は一日の大半を祈りの間で過ごします。巫女は神に身を捧げたもの。俗世の仕事をできるはずがありません。けれど……現に、リコから受け取った料理とお茶で王子は倒れてしまいました。リコから誰からもらったものか問いましたが、なぜかそこだけ記憶が曖昧なのです。それはすなわち――」

 彼女の身を危険にさらすもの。

 それだけは許せるはずもなく、フィージはやむなく隠蔽した。幸い、ルークが食事を取ったことを知っているのは自分だけだ。しかも、食事を取った直後ではない。ならば自分にも妹にも疑いはかからないだろう。

 苦悩に顔をゆがめたフィージに、レオンがため息を漏らした。そのまま無造作にナイフをしまうと苦い顔で告げる。

「お前が妹をかわいがってるのはわかるが……ことがことなだけに、黙っていられるとな。とりあえず、そのお茶は調べさせてもらうぞ」

「あ、レオン。お茶の葉からもあの時王子が食べた食事の中からも薬は見つかりませんでしたよ」

「…………なんだって?」

 あっけらかんとした口調で悪びれもなくいうフィージ。思わずレオンは聞き返すが、フィージの微笑みは何を当たり前なことを、といわんばかりだ。先ほどの苦悩に満ちた声は演技だったのかと疑いたくなるほど飄々と続ける。

「私がそのまま放置しておくと思いますか?いくらリコがかわいくても、あの子が利用されているとわかったなら容赦しません。翌日に調べましたが、何も出ませんでした。……まぁ、それもあったから誰にも言わなかったんですが」

 呆れ果てて脱力し、レオンは疲れたようにベッドの端に腰掛けた。一瞬そのよく動く口を縫ってやりたい衝動に駆られるが、恨みがましい視線でフィージを責めるだけにとどめる。

「お前なぁ……そうならそうと早く言えよ。紛らわしい。口はよく動くくせに、肝心のところはしゃべらないのはいい加減に止めろ」

「そうは言われましても……敵を欺くなら味方からと」

「状況を考えろ、状況を」

 布団の上から一度フィージの腹あたりを半ば本気で殴り、怒りもあらわに立ち上がる。ぶつぶつと文句をつぶやくと、振り返りもせずに部屋を出た。

 残されたフィージはゆっくりと体を起こす。何気なく窓の外を見れば、ぼんやりと輝く淡い月が目に入った。その光から視線をそらし、乾きかけている血を無造作にぬぐう。赤く染まった手の甲を自嘲気味に見つめ、困ったように笑った。硬く閉ざされた扉を見つめながら、ため息のように言葉を紡ぐ。

「レオン。申し訳ありませんが、私は誰も信用していないんです」

 もう、長い長い付き合いであるあなたさえも。

「あの方を守るためであるならば……」

 吐息にまぎれた言葉は、静かに夜の闇に消える。

 言葉は誰にも届かない。ただ、闇だけが聞いていた。



 翌朝、まだ日が昇ったばかりの時間に沙綾は目が覚めた。いつもと違うベッドで寝たせいだろうか。眠りが少し浅く、けだるい感覚が体を支配している。

「もう起きたのか?」

「ええ、なんとなく目が覚めてしまって……」

 空はまだ薄ぼんやりと明るくなったばかりだ。いつもならもう少し眠っているところだが、眠気は訪れない。それならばと起き出し、用意されていた水で手を洗う。

 昨夜はフィージの部屋から戻るなり、緊張と疲れで着替えるまもなく眠ってしまった。頭に触れればところどころで髪がもつれ、顔に触れた感触で肌が汚れていることに気づく。

「琳、私、ひどい格好をしていないかしら?」

「……家にいるときよりは、確かにひどい格好だな」

「やっぱり……。お湯を使わせてもらいたいなんて贅沢は言わないから、水をいただきたいわね」

 自分の目が見えなくてもやはりそこは女心。できる限りの身だしなみは整えたいと思うのは当たり前だろう。

「香りの葉は持ってきていないのか?」

「そういえば……」

 何気なく問われたことにはっとして布袋を探る。天に願いが届いたのか、はたまた沙綾の無意識からか、一瓶だけ香りの葉が入っていた。

「よかった……。琳、ありがとう」

 きゅっと琳の首を抱きしめると、さっそく水差しから新しい水を器に注ぐ。その中に香りの葉といくつかの薬草を混ぜると、昨日切った傷口をもう一度開く。ちり、とした痛みを感じると、ぷくりと赤い玉ができた。それを水の中に入れれば、なんともさわやかな香りがほのかに漂う。その出来ばえに満足して笑い、備え付けてあった化粧箱から櫛を拝借した。

もつれた髪を丁寧にすき流し、香水に浸した手巾で幾度も顔を拭う。それから首筋、腕と順に布を滑らせた。最後に髪を布で包みこめば、艶が増してまるで絹糸のように滑らかになった。

「もう大丈夫かしら」

「大丈夫、いつもの沙綾だよ」

 鏡代わりとなっている琳に尋ねれば、太鼓判を押したような返事が返ってくる。

 ようやく人心地つき、さて着替えようかと服を手にした瞬間、沙綾は思わずため息をついた。用意されていた服は、沙綾の着たことがない形の服だった。着替えの服は持ってきておらず、昨日着たままの服ではさすがに居心地が悪い。

「困ったわ……。まさか琳じゃ手伝えないし……」

「さすがに沙綾に服を着せるのは難しいな。もう少し待ってから、誰か人をよんだらどうだ?」

「そうね、そうするわ」

 あきらめて服を元に戻し、窓を開ける。心地よい風とともに、かすかな雨の香りが部屋を満たした。

「……夕凪は大丈夫かしら」

 今まで近くの町に出たことはあっても、必ずその日のうちに返ってきていた。夕凪一人を残したことはなく、不安が沙綾の胸をふさぐ。

「夕凪だってたまには一人のほうが気楽かも知れないよ?」

「……そうね、ずっと私の面倒を見てもらっているんだものね。たまには羽を伸ばしているかしら」

 くすりと笑った沙綾にほっとし、琳はその足元に擦り寄る。窓辺に押し付けられる形となり、沙綾は笑って琳の頭をなでた。そのまま床に座り込めば、甘えるように琳が顔をなめる。

「くすぐったいよ」

 くすくすと笑うが、なかなか琳は止めようとしない。そういえば、この香りは小さいころから琳の好きな香りだったなと思い出す。昔から、この香りをつけているときはまるで犬のように琳は甘えるのだ。

「琳は……帰りたくないの?」

 琳の頭をぎゅっと抱きしめることでなめるのを止めさせ、沙綾は少しためらってから言葉を紡ぐ。

 琳とであったのはもう大分昔のことになる。いつも自分の傍らに寄り添ってくれる狼は、すでに沙綾の一部といっても過言ではない。けれど、時々思う。琳は、かつて住んでいた場所へ帰りたくないのだろうかと。

「私のいる場所は、沙綾の隣だよ。銀歌様に命じられたことであっても、私は沙綾が好きだ。だから、そばにいる」

 少しだけ怒ったように沙綾の胸に頭を押し付け、白い指先を甘がみする。琳の気持ちがうれしいと同時に疑った自分をわずかに恥じた。

「ごめんなさいね。あなたは私の大切な家族。ずっと、ずっとよ」

 いずれ、自分も琳とともに行くことになるだろう。あのお方の場所へと。けれども、そのときになっても決して自分と琳は今の関係を崩すことはないだろう。

「沙綾、そろそろみんな動き出したみたいだ」

 琳がそういうと同時に、部屋の扉がたたかれる。一瞬迷ってからショールを羽織り、扉を開けた。

「おはようございます、お早いですね。今人を呼びますので、もう少しお待ちください。ああ、王子が目を覚ましました。あなたのおかげです。心から感謝いたします。……まだ少し顔色が悪いですが、食事も取られるとのことなので、よろしければ同席していただけませんか?嫌いなものがなければ同じ食事を用意いたしますが、いかがしますか?」

「おはようございます。えと……殿下が目を覚まされたのですか。薬が効いたようで、本当にようございました。それから……特に好き嫌いはありませんので、失礼に当たらなければご一緒させていただきたいと思います」

 フィージの話し方にも慣れたつもりではいたが、やはりいっぺんに問いかけられると何から答えていいのか戸惑ってしまう。それでもどうにか笑顔で答えた。

「では、お二人の食事を用意いたしますので、もう少々お待ちください。なるべくあなたの姿を人目に触れさせたくはありませんので、不自由をかけてしまいますがお許しください。私の妹を連れてきますので、気兼ねなく世間話でもしていただければ。ああ、それとリン殿は何を食べられますか?」

「人と同じ食事は好まない。ミルクの入ったお茶だけもらえればそれで満足だ」

「わかりました。そうしましたら、リン殿にはそのようにしますので。もうしばらくこちらでお待ちください」

「お心遣い、ありがとうございます」

 では、とフィージが出て行くのにあわせてパタンと扉が閉じた。その後ろでほっと小さく息をつく。

「沙綾はフィージが苦手そうだな」

「苦手というか……何から話していいかわからなくなるわ」

 淡い苦笑を浮かべ、緊張に乾いてしまった喉を冷たい水で潤す。グラスをテーブルに置くと、控えめなノックが聞こえた。

「どうぞ」

「失礼します。お初にお目にかかります、リコと申します。しばらくサーヤ様の身の回りをお世話させていただきますね」

 おっとりとしたしゃべり方は、兄のフィージとはあまり似ていない。けれど、かもしだす雰囲気はよく似ていた。そして、好奇心旺盛な紅茶色の瞳も。フィージよりはやや遠慮がちに、それでも沙綾と琳をじっと見つめる。その視線に淡い口調を混じらせて微笑み、沙綾は軽くお辞儀した。

「はじめまして、リコ様。よろしくお願いいたします」

「まぁ、私のことはリコと呼んでくださってかまいませんわ。敬語も必要ありませんよ」

 沙綾の丁寧な口調に驚いた表情を浮かべるが、次の瞬間笑う。そうすると、兄とそっくりになることに気づいたが、琳は賢くも沈黙を守った。

「ええと……失礼に当たらないかしら?」

「ええ、もちろん」

「それなら……リコ、よろしくね」

 ぎこちないがそれでも砕けた沙綾の口調に安心したのか、リコが笑う。同じ年頃の少女と接した記憶がない沙綾には、少し新鮮な感覚だった。琳に対する愛情とは違う、好ましい感情。うまく名前は付けられないが、心地のいいその感覚は嫌いでない。

「まずは着替えをお手伝いさせていただきますね。昨夜はお着替えにならずに?」

「ええ、ベッドに横たわったらそのまま寝入ったしまったみたいで……」

「森からいらして、すぐに殿下を診て下さったのでしょう?お疲れで無理もありませんわ」

 恥ずかしがるように沙綾が告げるが、リコは別段笑うでもなく真顔でうなずく。

 森までの距離は正確にはわからないが、かなりの距離があると認識していた。しかも、レオンに連れられてきたと聞いている。ということは、彼と同じ速度で駆けたのだろう。手加減されたとはいえ、相当負担がかかっているだろうことは簡単に予測できた。

「サーヤ様は珍しい形の服をお召しになられているのですね」

 興味深そうに沙綾のいでたちを眺め、リコは人形遊びよろしく沙綾をいじる。手を上げさせたり後ろを向かせたりと、何事にも熱心になるところは兄そっくりだ。

「珍しい……かしら?」

 沙綾にとってはごく日常的な服だ。幼いころから大きさは変われど、基本的に形は変わっていない。元々女性は子供にあまり手をかけられない一族であったため、彼女の服は人手のかからないローブのような形だ。

 夕凪はあれこれ世話を焼いてはくれるが、昔から自分のことは自分でする。それが沙綾の信条であるため、服を着るのにいちいち人手がいるのは好まない。そのため、ただ被って腰の辺りを帯でくくるだけの、簡単なものだった。

「珍しいといいますか……もっと華やかな服をお召しにならないのですか?」

「私の仕事は薬草を摘んだり薬を煎じたりすることだから、綺麗な服は必要ではないの」

 別段卑屈になった様子もなく、あるがままのことを当たり前のように言う沙綾。その素直というか純粋さに驚き、まじまじと沙綾を見つめる。

「合理的というか……着飾ることには、あまり興味がありませんの?」

「だって……綺麗なものは、見えないから……」

 少しだけ寂しそうにつぶやかれた言葉。それにはっとして、失言に恥じる。

「ごめんなさい。……でも、こんなにお美しいのに、ものすごくもったいないですわ」

「沙綾は確かに綺麗だけど、リコも十分綺麗だ。それなのに、リコこそ着飾ったりしないのか?」

 不意の言葉にぎょっとして、リコは足元に視線を落とす。不思議そうに自分を見つめる狼は、確かに恐ろしい牙を持っているが、その毛並みの美しさに、澄んだ瞳に恐怖はわいてこない。むしろ、この狼がしゃべることは当たり前のように思えた。

「あなたが『リン殿』ね。兄から聞いていたけれど、驚いたわ」

「あまり驚いていないような感じはするけど?」

 面白がるような琳の言葉にくすりと笑い、リコはかがんで琳と視線を合わせる。深い紅茶色の瞳が琳の姿を映し、琳は一瞬心の中を見透かされるような感覚を味わった。

「私は巫女。神の言葉を聴くものよ。だから、狼のあなたがしゃべることに何の不思議もないわ」

「巫女……それなら、私のそばにいるのに差支えが……」

「お兄様とルーク様のお言葉ですから。それに、お世話といっても夜と朝の着替えのお手伝い、あとはおしゃべりをすることですし、私はぜんぜんかまいませんわ」

 心底沙綾と話せることが嬉しいというその口調に、ようやく不安が消える。ほんのわずかに自分の目が不自由なことを後悔したが、その後悔もリコの笑顔の前では長続きしなかった。

「ありがとう、リコ。改めて、よろしくお願いします」

「こちらこそ。そろそろ支度を整えないと、レオン様の雷が落ちそう」

 くすくすと声を出して笑うと、綺麗にたたまれた藤色の衣装を手に取る。広げて形を見ると、にこりと笑った。

「きっとサーヤ様によく似合いますわ」


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