ユニス・アミエの願いごと
「ねえ、エルネスト……お願い。婚約解消するための方法を、一緒に考えて欲しいの」
幼馴染の魔術師・エルネストに向かって、私はそう頼み込んだ。
たったこれだけのセリフを言うのに、わたしは二日も思い悩んだ。
なぜかと言うと、彼とわたしは仲がとても悪いから。
家ぐるみの付き合いがなければ、顔など合わせたくはなかった。
だけど、今回はそうも言っていられない。この男はわたしを苛立たせることばかり言うけど、魔術師だからか言葉の大事さを理解しているため口は硬い。
そんなことを思いながら返事を待ってると、エルネストは足を組みながら首を傾げた。
「なぜ婚約解消をしたいのか、言わないのですか? それを言ってもらえなければ、私はあなたのワガママに付き合うことになるのですが」
……ほら、この通り。エルネストは綺麗な顔で毒を吐いてきた。
いつもなら言い返しているところだけど、今日は我慢する。エルネストの言う通りだからだ。
私は震える唇を引き結ぶと、ゆっくりと口を開く。
「もちろん言うわ。だから、私のワガママだとか勝手なことを言わないでちょうだい。理由がなければ……こんなこと、言わないのだから」
言って、涙が出そうになった。でも我慢する。だって、こんなところで泣いてなんていられない。
婚約解消ができなければ私は、婚約者の――カルヴィンの人形として生きなければいけなくなる。偽物の愛をもらって喜ぶ、愚かな傀儡になってしまう。それだけは嫌だった。
一度息を吸って、心を落ち着かせる。
弱っている心を奮い立たせるために、私は何度も「大丈夫」と言い聞かせた。
膝の上で手のひらをぎゅっと握り締めながら、私は俯く。事故のせいで動かなくなった足が、ずきずきと痛む気がした。もう痛みなんて感じないはずなのに。
「……この足ね……カルヴィンのせいで動かなくなったの。カルヴィンが私と婚約をするために仕組んだから……私の足は、こうなってしまったんですって」
意を決してつぶやいた言葉は、まるで他人の声みたいに私の耳に響いた。
*
三ヶ月前、私――ユニス・アミエは、馬車の点検不備で外に放り出され、両足が動かせない体になってしまった。
侯爵令嬢という立場の私からしてみたら、それは絶望的なことだ。
だってキズモノになってしまったら、私と婚約を結んでくれる人がいなくなってしまうから。
その予想通り、今までちらほらときていた婚約話はたちまち途切れてしまった。
このときばかりは、自分の平凡な見目を恨む他なかった。だってもっと美人だったら、寄り添ってくれる人がいたかもしれなかったから。
お父様譲りの黒髪も、お母様譲りの碧眼も好きだったけれど、このときばかりはとても憎たらしくて。この日から私は、鏡を見ることがなくなった。
しかもアミエ侯爵家には、男児がいない。そのため、婿養子を入れることになっていた。なのに肝心の私がキズモノで婚約者が見つからないとなれば、両親も焦る。
何より焦ったのは私だった。
周囲からの無言のプレッシャーと、自由に動き回ることができなくなったという制限や二度と立てないということへの絶望感と喪失感。それらに押し潰され、外に出ることができなくなったのだ。昔からずっと一緒にいるメイドのラナ以外は、部屋に入れなかった。入って欲しくなかったのだ。
そんな私の婚約者になりたいとやってきてくれたのが、フォート子爵家の次男カルヴィンだった。
カルヴィンはとても優しかった。車椅子での生活を余儀なくされた私にも寄り添ってくれたし、落ち込みがちな私を何度も励ましてくれた。たくさんの不幸が重なり心がだいぶ乱れていた私は、そんな彼に縋った。
以前数回顔を合わせていたこともあり、両親はすぐにカルヴィンを婚約者にした。私も、彼という婚約者が見つかりすごく喜んだのだ。
それが、どれほどまでに愚かなことなのか、知りもしないで。
私がカルヴィンの本性を目の当たりにしたのは、婚約者として付き合い始めてから三ヶ月くらい経った頃だ。
私はラナと一緒に、フォート子爵家のお屋敷に来ていた。
カルヴィンに内緒でやって来たのだ。今日誕生日だという彼にサプライズをしたくて、フォート子爵家の人たちにも内緒にしておいてくれと頼んであった。だから私とラナは難なく、カルヴィンの部屋の前までやってこれたのだ。
カルヴィン、喜んでくれるかしら。
精神がだいぶ安定してきたからか、私は趣味の一つであるお菓子作りを再開した。今回はカルヴィンのためにケーキを焼いてきた。ぶどうのジュースも持ってきて、誕生日プレゼントの懐中時計も用意して。
ラナに車椅子を引いてもらいながら、私の心は浮き足立っていた。
だから、扉の前で一度呼吸を整えようと止まる。そしてノブをひねろうと手を伸ばしたときだった。
『ユニス・アミエ? ああ、順調だよ』
カルヴィンのそんな声が聞こえてきたのは。
普段の優しい態度とは違い荒っぽい声を聞いた私は、思わず手を止めていた。扉が薄いからか、声は結構聞こえてくる。
……カルヴィン?
ラナも何事だろうという顔をして扉を見つめている。
カルヴィンの声は、さらに聞こえてきた。
『大丈夫だって。足が不自由になったお嬢様なんて、ちょっと優しくしただけでころっと落ちたさ。いやぁ、あんなにうまくいくとは思わなかったよ。侯爵家の令嬢が惨めに縋っちゃってさぁ……愚かすぎて、いったい何度笑いをこらえたか』
……今、この扉の向こう側で話をしているのは……誰?
そうやって現実逃避してしまうくらい、彼の話は私の心を抉ってくる。頭がガンガン揺れて、呼吸が苦しくなってきた。思わず、体をくの字に曲げて胸を掻き抱く。
「お、お嬢様……っ」
ラナが、震えた声で名前を呼びながら私の何度も背中をさすってくれる。
そんな状態でも、カルヴィンの声は私の耳に届いてきた。
『これで俺は侯爵家の金をある程度自由に使えるし、侯爵家の当主にもなれる。成り上がれるんだよ、子爵家の俺が!』
……なんだ、お金のためだったのね。
ぼんやりとした頭で、私は事情を理解する。同時に、笑いがこみ上げてきた。
そう、よね……そうよね。キズモノの私と婚約を結んでくれるモノ好きなんて、それくらいしかいないわよね。
だから、立てないとしても君は綺麗だよと言ってくれたあの言葉も。
ゆっくりとしたペースで車椅子を押してくれたことも。
会うたびに様々な花を持ってきてくれることも。
全部全部、私の気を引くためのお芝居だった。偽物だった。嘘だった。
それを知ったというだけでも、もう十分すぎるくらい苦しいのに、カルヴィンはさらに私を追い込んでくる。
『ほんと、ありがとな。馬車に細工をしてくれて。まさか両足動かなくなるとは思わなかったけど、結果的に一番良かったよ。最高の結末になりそうだ。お前にも謝礼を弾まないとな』
――頭の中が、真っ白になった。
言葉も出すことができない私を見て、ラナは危ないと思ったらしい。できる限り静かに車椅子を引き、出口へと向かった。
そのまま帰宅すると、私はベッドに横たわり泥のように眠った。ラナの話だと、三日くらい寝ていたらしい。
でも、それくらいの衝撃だった。
だってまさか、自分の婚約者になった人が、私から足を奪った犯人だったなんて、思わないでしょう?
すべて謀ってやったことなんて、思わないでしょう?
でも、三日眠ったおかげだろうか。私の頭は妙に醒めていて、今までの状態をすごく冷静に分析することができた。
今思えば、確かにおかしいのよね。カルヴィンが私のところにやってきたタイミングとか、態度とか。
両親も私も、焦りすぎるあまり冷静な判断を下せるだけの思考回路がなくなっていたらしい。本当なら身辺調査とかも入れたのだろうけれど、それすら怠っていた。いや、それすら怠るほど、私たちは冷静でいられない事態に意図的に追い詰められていたのだ。
それが分かった瞬間、私の中にふつふつと何かが込み上げてくる。
……私から足を奪って。さらには侯爵家を乗っ取る? 冗談じゃないわ。
しかもカルヴィンは私のことを、犬か何かだと思っているらしい。優しくしてあげれば簡単に手玉に取れる程度の女。そんなふうにしか見ていないのだ。侯爵家の娘がいったいどれくらい勉強をするかなんて知りもしないで、本当に何を言っているのかと思う。
だけど、一番腹が立っているのは、自分に対してだった。
きつく握り締めた拳で枕を叩きつけてから、私は唇を噛む。血が滲むほど強く噛む。じわりと鉄の味が口に広かった。
「……ちょっときつい状態になったからって、優しくされてころっと落ちるなんて。馬鹿なんじゃないの?」
いつからそんな軽い女になったのだろうと思う。それだけ心がすり減っていたとか、言い訳ならいくらでも思いつくけれど。でもだからこそ、許せなかった。今まで積み重ねてきたものをすべて自分で壊したという暴挙が、許せなかったのだ。
ユニスという馬鹿女と、カルヴィンという犯罪者を憎むだけ憎んだ私は、数日後決心する。
「カルヴィンが罪を犯した証拠を掴んで、婚約を解消してやるわ」
そして、私が負った分の心の傷を、カルヴィンも負えばいい。殺したりなんかしない。傷つけたりなんかしない。でも、同じ分だけ傷ついてもらわなければ、私の気が済まなかった。
これは私の復讐だ。私のすべてを賭けた戦いだ。