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更なる死

 パパゲアの死体からは紐が外されている。だが固まった死体はずっとあのポーズのままだ。両手を体の前で交差させ、白濁した目で宙を睨んでいる。水に浮いている。真っ暗闇の中、水に浮いている。一寸先が見えないほど真っ暗なのに、それが分かる。


 ずるり、ずるりと宙を黒い靄のようなものが蠢いている。空中だというのに、地を這う虫のような動きをして靄はゆっくりと死体に近づいていく。


 靄は死体の目から、鼻から、口から、パパゲアの体に入っていく。侵入していく。靄はすっかりと消える。パパゲアの中に入ってしまう。


 波紋。パパゲアの体を中心に、わずかだが黒い水面に波紋が。


 波紋は大きくなる。どんどんと大きくなる。やがて目に見える。波紋の原因。パパゲアの死体が、震えている。震えは激しくなっていく。


 ちゃぷちゃぷと水が音をたてる。震える死体はとうとうポーズを崩す。その瞬間。


 パパゲアの死体は身を起こす。ベッドの上にいるかのように、水に浮いているのに上半身を起こす。濁った眼が前方を、いや、こちらを向く。そうして、ゆっくりと口が動く。舌が別の生き物、何かの幼虫のように蠢く。何かを、言おうとしている。


 聞いてはダメだ。それが分かる。これは、聞いてはいけない言葉だ。分かっているが、耳を塞ぐことも逃げ出すこともできない。


 パパゲアの死体は白い眼のままで、笑う。


 そうしてついに口から、声が発される。呻き声。うまく言葉にならない。だが何かを繰り返し言っている。少しずつ、明瞭になっていく。ダメだ。聞いてはいけない。理解してはいけない。


 だが、どんどんとその声は言葉として形を成していき。


 ついに、カルコサの言葉が耳に届き――





 飛び起きる。

 体は汗でびしょびしょに濡れている。


「ああ、どうした? 顔色悪いな」


 横からヴァンの声。


「ああ、すいません、嫌な夢を見てしまって――」


 答えながら横を見て絶句する。ヴァンの顔色は、どう考えても僕よりも悪い。あの霧中寮にいた時と同じくらいの顔色をしている。


「……一緒だな。俺もだよ。やたらに、嫌な予感がする。古傷が疼くよ」


 眼帯を指で押さえてヴァンは顔を振る。


「しっかし、どうしていい予感は外れるのに嫌な予感っていうのは当たるんだろう、不思議だよ」


 その軽口に僕は答えられない。なんとなく、僕もその嫌な予感とやらがしてきている。感染してしまったのかもしれない。空気がおかしい気がする。窓を見ると、湖底には光が差し込んできている。朝ではある。


「……朝ですし、パーティールーム行ってみます? 皆さん、集まっているかも」


「だな。このまま部屋に閉じこもっていても仕方ないし」


 そう答えながらも、明らかにヴァンはベッドから降りるのを嫌がっている。まるで、パーティールームに行くと嫌なことがあるのが確定しているかのように。そして、僕も同じ感じがしている。空気がおかしい。


 とはいえ、じゃあこのままベッドに転がり続けるわけにもいかない。


「――ん?」


 かすかな音。あるいは声、か?


「ああ、ドアの前に誰かいるな。ノックしてるのか。防音のせいで分かりにくいね」


 呟きながらヴァンがベッドを降りてドアを一切躊躇することなく開ける。僕だったら怯えて慎重になってしまうところだが。


「おはようございます、ヴァン様、ココア様。お目覚めでしたか」


 ドアの前にいたのは、多少やつれている感のあるエジソンだ。ひそかに犯人扱いしていたこともあって、何となく目と目を合わせづらい。


「さっそくですが、来ていただけますか?」





 パーティールームに集まると、既に面々は集合していた。彼らの顔色を見て、僕は即座に僕とヴァンの予感が当たったことを確信する。そして、すぐに何に対して全員の顔色が悪いのかも分かる。一人、足りない。クロードがいない。


「朝でしたので皆様を起こして回っていたのですが――さきほど、クロード様の部屋のドアをノックしたのですが、反応がありませんでした。もちろん、鍵はかかっておりました」


「聞こえていないってことは? 部屋がしっかりしているから、あたしたちのところもノックやエジソンさんの声は聞こえにくかったわよ。あたしたちは起きていたから気付けたけど、熟睡していたら気付かなくても無理ないと思うけど」


 ひょこひょこと痛めた片足を庇い歩き回りながらライカがそう言うが、言葉とは裏腹に楽観的な顔をしていない。強張っている。自分で言いながら、その言葉を信じていないようだ。


「普通ならともかく、この状況下でそこまで熟睡することありますかね? 多少の物音で跳ね起きそうなものですが」


「アオ様の言うことももっともですが、例えば恐怖のあまりに深酒をしてしまって眠ってしまっているというケースも考えられます。考えられます、が」


 エジソンは一度言葉を切って、


「しかし、気がかりは気がかりです。どうでしょう? 皆様の同意さえいただければ、マスターキーを使ってクロード様の部屋のドアを開けようかと思うのですが」


 そうか。マスターキーはエジソンが保管していたな。


 静かな声で、ヴァンが喋り始める。静かなのによく響き、重苦しい声。


「ちょっと、確認をいいか? エジソンさん、そのマスターキーはどういう風に保管してたの?」


「あまりスマートではないのですが、状況が状況ですのでずっと握っておりました。睡眠をとっている間ですら、です」


「つまり、マスターキーを他の誰かが使うことは不可能だったと?」


 念を押しながら、ヴァンは全員を威圧するように見回す。


 ヴァンらしくないな、と妙に思う。


「はい」


「ということはさ、エジソンさん」


 ゆっくりと、全員に言い聞かせるようにヴァンは、


「これでもしも、鍵のかかった部屋の中でクロードが殺されていたりしたら、一番怪しいのはエジソンさんってことになるよね」


 かち、と固くなっていく空気の中、


「――確かに、その通りです」


 と、冷静さを崩すことなくエジソンは答える。


 固まった空気の中、緊張が高まっていくのをひしひしと感じる。だが、


「ですが、それを理由にマスターキーを出さないわけにもいきません。何よりもわたくしは犯人ではありませんので。それに、クロード様が亡くなっているなど、不謹慎なことを言うべきではありませんよ」


 そうエジソンが続けることで、ほう、と誰かのため息が聞こえる。緊張から解放されたため息だ。固まっていて空気がゆっくりとだが流れ出すのを感じる。


 山を越えた、感じがする。雰囲気が緩む。

 さっきのヴァンは、空気が険悪になって下手をしたらエジソンをリンチにする流れにならないかと最大限に警戒し、それを防ぎつつ確認をしたかったのだと今更気付く。


「そりゃ、そうだね。よし、それじゃあ、クロードの部屋を見に行くメンバーを――」


「よろしいかしら、ヴァン様」


 ところが予想外に、かなり強張った顔のままで、何とティアが口を開く。


「もう、事ここに至っては、全員で動くべきではないかしら?」


 彼女の言うことはもっともだ。用心のためにも、犯人だと疑われないためにも、これからは全員が常に一緒に動く必要がある。だが。


「……それをすれば、装置に竜玉が戻らない、んじゃ、なかったですっけ」


 僕は遠慮がちに口に出す。


「いや」


 だがそれに、ティアではなくヴァンが反論してくる。


「だとしても、だな。結局、一日置いても館は浮上していない。装置に戻す余裕は夜の間に絶対にあったにも関わらず、だ。どうやら、犯人との交渉は失敗だ」


 ヴァンが疲弊しきった声でそう答える。


 確かに、そうか。未だに館が浮上していない。まだ、浮上させられない理由がある、ということだ。少なくとも、これからクロードの部屋を確認しにいく間に誰かがこっそりと竜玉を戻すとは考えにくい。


「いいでしょう、ティアさん。そうしましょう。全員で、クロードさんの部屋に向かいましょう……にしても、そういうことを言うようなタイプとは思ってませんでしたよ」


 疲労のせいか、かなり直截的にヴァンが内心を吐露する。


 それに対してティアは少しだけ、疲れた苦笑をして、


「いえ、もうこの状況では、黙って少人数でここに残る人間はいないだろうというだけです。いれば、その方が犯人と疑われるか、もしくは」


 そこで僅かに身震いして、


「被害者になるかもしれない。そうでしょう?」


「ま、確かに……全員、それでいいですか?」


 ヴァンの問いかけに異論は出ない。どうやら「自分は残る」という人間はいないらしい。


「あの、ちょっといいですか? 実は――」


 と、どこか落ち着かない様子のディーコンがヴァンに話しかける。


「はい?」


「ちょっと、お時間頂けませんか?」


「ちょっとちょっとディーコン。何か知らないけど、今じゃなくていいでしょ」


 ライカが呆れた様子で突っ込む。それきり、ディーコンは黙り込む。

 何だろう?


 ともかく、全員で、クロードの部屋に向かう。濡れて滑りやすい床なのでかなり慎重に歩かなければならないが、足取りが重いのはそれだけが理由ではないだろう。誰も喋らない。きっと誰もが、最悪の結末を予想しているのだ。


「クロード様、クロード様、お開けください。クロード様」


 かなり大声で呼びながら、エジソンがドアをノックする。反応はない。


「失礼いたします」


 エジソンがマスターキーを取り出し、鍵穴に差し込む。がちゃりと音がして開錠される。


 ドアが開かれる。


「――」


 エジソンの後ろに広がるようにして、部屋の中を覗き込んだ僕たち全員は言葉を失う。エジソンですら硬直して時間が停止しているかのようだ。


「――クロード!」


 いち早く動き出したのは、ティアだ。ティアが硬直していた状態から、弾けるように周囲を押しのけて走り出す。部屋の中、ベッドの横にある椅子に腰かけている『それ』に向かって。


 クロード。いや、クロードだったもの。顔を俯かせて椅子に座り込んでいる。だから顔は見えない。顔は見えないが、そのあちらこちらからのぞく肌の色、座っているその姿勢の不自然さから、既に命がないことが分かる。それに、なりよりも。


 赤黒く染まった腹部。それはクロードの腹部にとどまらず、椅子、そして床までも赤黒く染めている。


「クロードっ」


 ティアがそのクロードに縋りつきわあわあと泣き出す。


 そのあまりにも予想外な姿と泣き声で呪縛が解けたように、僕たちはいっせいに動き出す。


「奥様っ」


 エジソンがティアをクロードの死体から引きはがす。子どものようにティアはクロードから離されるのを嫌がり暴れ、首をぶんぶんと振る。


 その様を、メアリが唖然として眺めているのがやけに印象的に映る。


「――待った。全員部屋に入るなよ」


 ヴァンがくぎを刺し、エジソンに続いて部屋に踏み込もうとしていた数人の足が止まる。


「エジソンさん、ティアさんを部屋の外に。それから申し訳ないけど、クロードさんを調べてもらえる?」


「――分かりました。さ、奥様、こちらへ」


 泣き止んだ途端、今度は糸の切れた人形のように呆然と座り込んでしまったティアを引きずるようにしてエジソンが外に連れ出す。廊下で、そのティアに肩を貸そうと一歩前に出たのは驚くことにメアリだ。娘に肩を貸されて、ティアは呆然自失の体でかろうじて立っている。


「これ、は」


 ティアを外に出して部屋に引き返したエジソンが、何かを発見して顔を強張らせる。


「……遺書、でしょうか?」


 え、遺書?


「自殺ということですか?」


 青白い顔でディーコンが確認する。


「いえ、ともかく、そう思われる紙がテーブルの上にあります。これは、後で皆様にも……」


 そう言いながらエジソンはクロードを調べ出す。


「腹部に深い刺し傷。おそらくこれが致命傷です。しかし、腹部を突き刺して死ぬなど、そんな自殺の方法が……」


「イスウのハラキリじゃあるまいし」


 ライカは皮肉げに呟き、


「そもそも凶器は? 自殺ならその辺に転がってなきゃいけないでしょ」


「ああ、クロード様の足元に短刀が転がっています。おそらくはこれが凶器でしょう。クロード様の持ち物のはずです。かなり高価な、観賞用としての武具だと紹介された覚えが――」


 そこで、エジソンの言葉が止まり、クロードのポケットからゆっくりと手を出す。

 あれは。


「鍵です。この部屋の、鍵。クロード様がお持ちでした」


 ということはやっぱり、自殺? だけど、妙だ。こんな妙な。


「やっぱり、こうなったか。くそっ」


 僕にだけかろうじて聞こえるくらいの声で、ヴァンが吐き捨て、


「エジソンさん、遺書の内容だけど、ひょっとして、自分が犯人だとか書いていない?」


 その確認に全員がぎょっとする。


「――ええ、確かに、そのような、ことが」


 そして、遠慮がちなエジソンの答えに、場の混乱は酷くなる。クロードが犯人?


「やっぱりか。だとすると――エジソンさん、徹底的に部屋を探索して欲しいんだけど。多分、竜玉があるはずだよ」


 そのヴァンの言葉で、ようやく分かる。ヴァンが危惧していたこと。犯人を他の人間になすりつけながら、館を浮上させる方法。それをされたら敗北だと言っていた、その方法がこれか。犯人をなすりつけ、自殺させる。そうして、その死体の付近から竜玉を発見させる。そうか、これなら、犯人は安心して館を浮上させることができる。


 ヴァンは、打ちひしがれた顔をしている。恐れていたことが現実になり、そして終わったのだ。





 だが。

 数十分の後。


「――どういうことだよ?」


 ヴァンはあからさまに狼狽えている。


 僕も同じだし、僕以外の人たちも全員狼狽え、混乱し、そして絶望している。こんなはずがない。意味が分からない。


「いえ、間違いありません。こんな」


 エジソンは首を振りながら、


「徹底的に探してたのです。間違いありません。少なくともこの部屋に、竜玉はございません」


 そして、代わりに見つかったのは、椅子の下。血で書かれた、文字。クロードが自らの血液で書いたと思われる文字だ。見たこともない文字。ただ、それだけ。


「古代文字ですね」


 アオが言う。一応は専門家ということになっているから、こういうことには詳しいようだ。


「なんて書いてあるの?」


 ヴァンの質問にアオは、


「カルコサ、と」





 クロードを『殺害』した犯人は叫び出したい衝動に耐える。こんなはずはない。こんなはずではないのだ。

 一体どうして?

 答えは出ない。ただ一つ、分かっていることは。


 自分はまだ、人を殺し続けなくてはならない。カルコサとして。

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