第1話「目覚め」
前作を完結できず申し訳ございません。
心機一転、沢山のストックを携えて書き始めました。
引き続き拙作ではございますが、何卒お付き合いいただけますと幸いです。
人は死ぬ間際、これまでの人生が走馬灯のように流れるらしい。
でも俺の場合、それは嘘だった。
走馬灯どころかヘッドライトの光が視界いっぱいに広がった瞬間
頭にあったのは、ただ一つの平坦な感想だけだった。
―――ああ、間に合わなかったな。
コンビニのバイトのシフトにではない。人生に、だ。
二十六年間、思い返せば何一つ本気になったことがなかった。
史学科に入ったのも、それらしい理由があったわけではない。
ただ、他に何をすればいいか分からなかったから、たまたま小さな頃から好きだった歴史の延長線上にある学部を選んだだけだ。
講義は受けたし、テストの前は真面目に勉強もした。
だが、それ以上のことは何もしなかった。
教授に「筋がいい」と言われた時も素直に喜ぶこともできず、「そんなことないですよ」とボソボソ呟くだけだった。
本当は嬉しかったんだけどな。
嬉しいと認めてしまえば、次はその期待に応えなければならなくなる。
応えられなかった時のことを考えるのが怖くて、最初から期待を受け取らないことを選んだんだ。
それが俺という人間の生き方、ほとんど全てだった。
本気になる前に、失敗した時の言い訳を先に用意しておく。
何かを成し遂げる前に、成し遂げられなかった時のための虚勢を張っておく。
友人との飲み会では、実際には持っていない仕事の話や、架空の儲け話を、さも当然のように語った。
誰も本気にしていなかったのかもしれない。だが俺はどうしても見栄を手放せなかった。
手放してしまえば、そこに残るのはただの空っぽの二十六歳だけだったから。
―――結局、何者にもなれなかったな。
最後の思考は、それだった。
何かになりたいと願うことすら、途中で諦めてしまった二十六年間へのあまりに簡潔な総括だった。
だから、次に「何か」を自覚した瞬間、彼はそれが自分の死後の世界だとは、すぐには気づかなかった。
――保元元年(1156年)七月 洛中・源氏館 乙若丸――
最初にあったのは、音だった。
布擦れの音。
誰かの衣の裾が畳を掃く、乾いた音。
次に匂い。木材の匂い、油の匂い、そして焚きしめた香の、甘く重い匂い。
視界はひどく狭く、焦点が合わない。天井の梁が、異様に近くにあるように見えた。
(これは……)
自分の手だと思って見下ろしたものは、驚くほど小さく、しわだらけで
握ろうとしても指に力が入らなかった。
(どう見ても赤ちゃんの手なんだよな)
その理解が降りてくると、俺の意識は――正確には、もう何と呼ぶべきかも定かではないその意識は
――奇妙なことに、恐怖よりも先に乾いた笑いのようなものを覚えた。
だが、その感慨は、すぐに周囲の空気の異様さに塗り替えられる。
どこからか、女の忍び泣くような声がする。
廊下を行き交う足音は、慌ただしく、それでいて音を殺そうとする不自然な緊張を孕んでいた。
誰かが小声で早口に何かを告げ、また別の誰かが押し殺した声で応じる。
灯明の炎が、風もないのに小刻みに揺れているように見えた。
「――卿の禅師様が、崇徳院様のお味方をなされたとのこと」
「馬鹿な。それでは……」
言葉は途切れ、続きは聞こえない。
ただ、その場にいる誰もが、何かとても大きく、取り返しのつかないものの気配に竦んでいることだけが伝わってくる。
乳児の耳と、乳児の脳が拾える情報量には限りがある。
だが、その内側に宿った意識だけは、断片的な情報から、恐ろしいほど正確に事態を組み立て始めていた。
(保元の乱……)
史学科崩れの記憶が、ようやく像を結ぶ。
近衛天皇が十七歳の若さで崩御した。
その後継を巡り、崇徳上皇の院政再開を望む一派と
それを阻止したい美福門院・藤原忠通の一派とが、水面下で睨み合いを続けている。
そして確か――保元元年七月、鳥羽法皇が崩御したことで、その均衡は一気に崩れる。
崇徳上皇方と後白河天皇方が激突する政変。
その中で、河内源氏の棟梁・源義朝と伊勢平氏の棟梁・平清盛は後白河方につき、親族は崇徳方についてしまう。
つまり、これから起きるのは――。
(血で血を洗う戦争だ)
鳥肌が立った、はずだった。だが乳児の体は、感情の昂りを表現する術を持たない。
ただ小さな喉から、意味を持たない呻き声が漏れただけだった。
その無力さに、前世で幾度となく味わった、あの感覚を思い出していた。
分かっているのに、動けない。知っているのに、何も変えられない。
ただ今回は、その理由が「動く気になれない」からではなく、「物理的に動けない」からだという違いだけがあった。
「おお、乙若丸様、お目覚めになりましたか」
乳母の声が、初めてはっきりと届いた。
乙若丸。
それが、今の自分の名らしい。
となると源義朝の八男。母は常盤という、この時は都から上がったばかりの若い女房のはずだ。
(乙若丸……)
記憶の底から、もう一つの符号が浮かび上がってくる。
乙若丸は、後に出家して「義円」と名乗り、二十七歳の若さで、平家との合戦の最中に討死する武将だ。
墨俣川という地名が、記憶の隅で微かに疼いた。そしてその同母弟には、あの源義経がいる。
(俺は、源義経の兄に転生したのか)
驚愕よりも先に浮かんだのは、奇妙なほど冷静な、乾いた感慨だった。
前世で本気で愛した時代の、その渦中に自分がいる。
しかもよりによって、歴史書にたった数行、「討死」とだけ記されて終わる男として。
その数行の裏側には、こうして呼吸し、乳母の腕の温もりを感じ
恐怖と共に目を開けている一人の人間がいるのだと、初めて、頭ではなく肌でそれを理解した。
前世で読み流していた歴史書の一行一行の重さが、今になって、遅すぎるほど遅く、腹の底に落ちてきた。
几帳の向こうで、再び声が上がった。
「殿は、いかがなさるおつもりか」
「……お館様は、後白河帝のお味方をすると、既に腹を固めておられます」
しばしの沈黙。灯明の油が爆ぜる小さな音だけが、部屋に響いた。
それから、絞り出すような声。
「では、為義様は――」
言葉は続かなかった。誰も、その先を口にする勇気がなかったのだろう。
乙若丸の体は、まだ首も据わらぬほど幼い。
だが、その内なる意識だけは、この館の空気が何を意味するのか、恐ろしいほど正確に理解していた。
源義朝は、勝利する。
そして敗軍の将である実の父と兄弟たちを、自らの手で裁かねばならなくなる。
(知ってる。知ってるんだ、俺は。この先に何が起きるか)
その事実に、生まれて初めて――否、二度目の生を受けて初めて――前世では感じたことのない感情が湧き上がった。
恐怖でも、他人事のような興味でもない。
もっと切実な、腹の底が冷えるような感覚。
それは同時に、これまで一度も味わったことのない種類の焦燥でもあった。
前世では、何かを「知っていながら動けない」ことに
これほどまでの痛みを覚えたことは一度もなかった。
動かない理由はいつも、自分で選んだ怠惰だったからだ。
だが今は違う。動きたくても、動けない。
その違いだけで、同じ「無力」という言葉が、まるで別の重さを持つように感じられた。
「大事ございませんよ、乙若丸様。この乱世でも、御館様がついておられます限り、この館は安泰にございます」
安泰。その言葉の軽さに、乙若丸は胸の奥が微かに軋むのを感じた。
(安泰なわけ、あるか。あんたらが安泰だと思ってる
その"御館様"は、これから自分の父親を斬ることになるんだぞ)
だが、その叫びは声にならない。
乳児の喉からは、ただ弱々しい呻きが漏れるだけだ。
几帳の外で、また誰かが足早に廊下を渡っていく。
ざわめきは夜が更けるほどに強くなり、館全体が、まるで巨大な獣が息を潜めているかのような、重く張り詰めた沈黙に包まれていった。
乙若丸は、闇の中で目だけを開けたまま、ただその気配を全身で聞いていた。
(これから何が起きるか、俺は知っている。知っているのに、何もできない。……いや)
ふと、前世ではついぞ持てなかった感情が芽生える。
それは、前世で「どうせ自分には無理だ」と先回りして諦めてきた、あの諦めとはまるで違う質のものだった。
今度は、諦める理由すらない。ただ、体が小さすぎるだけだ。
(今はまだ、何もできなくても構わない。
今はまだ、赤ん坊なんだから。……でも、いつか。いつか動けるようになったら)
その先の言葉は、まだ形を成さなかった。ただ、乳母の腕の温もりの中で、乙若丸の小さな心臓だけが、やけにはっきりとした鼓動を刻んでいた。
――同日未明 白河北殿へ向かう道中 源義朝――
都では、既に軍勢が動き始めている。白河北殿へ向かう松明の列が、闇の中に長く伸びていた。
源義朝は、馬上で唇を固く結んでいた。傍らには、平清盛の軍勢もある。今宵中に決着はつくだろう、と誰もが囁いていた。
だが、決着がついたその先に何が待っているかを知る者は――この時代、この館の中にただ一人、乳母の腕に抱かれた赤子だけだった。
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