灰殻とステッキ
午前二時十五分。
繁華街の喧騒から一枚壁を隔てただけの裏路地は、嘘のように静まり返っていた。
換気扇の低いうなり声と、遠くで鳴るパトカーのサイレン。泥水が跳ねたコンクリートの壁に背を預け、工藤圭介は重い溜息とともにセブンスターに火をつけた。
「……あー、クソ」
ジッポライターの硬質な音が路地裏に響く。肺の奥まで紫煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
三日連続の終電逃し。
デスマーチに突入したプロジェクトの尻拭いにより、工藤の眼下には刺青のようなドス黒いクマが定着していた。ヨレヨレになったスーツのネクタイを乱暴に引き下げると、首の周りにへばりついていた脂汗の冷たさがようやく風に触れる。
スマホの画面を無意識にタップすると、ニュースアプリの通知が並んでいた。
『本日21時頃、渋谷区にてB級指定の怪人が出現。魔法少女アミュレットの活躍により被害は最小限に——』
「魔法少女、ねえ……」
世間に怪人が現れるようになり、それに対抗する『魔法少女』がニュースを賑わすようになって久しい。だが、工藤からすればそれは「今日は台風が来ました」程度の天気予報と同じだった。
彼女たちがどれだけ世界を救おうと、自分の納期は延びないし、残業代も出ない。
二本目のタバコに手を伸ばそうとした、その時だった。
——パァァァンッ!
突如、工藤の頭上の空間が、悪趣味なほど極彩色に歪んだ。
ピンクとイエローの眩い光の粒子が路地裏を満たし、星屑のような過剰なエフェクトが舞い散る。工藤が目を細め、タバコを取り落としそうになった次の瞬間。
ドサッ。
ゴミ袋の山に、何かが頭から突っ込んだ。
「…………」
光が収まる。そこには、泥と擦り傷だらけのエンジ色のジャージを着た少女が、ゴミ袋に埋もれるようにしてへたり込んでいた。
年の頃は高校生くらいだろうか。肩で息をしており、ボロボロのジャージの袖からは、うっすらと血が滲んでいる。
工藤は無言でタバコの煙を細く吐き出した。
そして、回れ右をして路地裏の出口へと足を向けた。見なかった。何も見ていない。限界を超えた脳が見せた幻覚だ。
早くカプセルホテルに戻って寝よう。
「……おっさん。見なかったことにする気、でしょ」
背後から、ひどく掠れた、感情の起伏が一切ないダウナーな声が引き留めた。
工藤が渋々振り返ると、少女はゴミ袋に寄りかかったまま、半ば開かないようなジト目でこちらを睨んでいた。彼女の目の下にも、工藤に負けず劣らずの立派なクマがある。
「……未成年がこんな時間にこんな場所にいるのが悪い。俺は疲れてるんだ」
「奇遇。あたしも、死ぬほど疲れてる……全身痛いし、もう一歩も動きたくない……」
少女が力なく呟いたその時、彼女のジャージのポケットから、甲高い電子音が鳴り響いた。
光の球が飛び出し、空中でウサギのような、だがひどく無機質な目をしたマスコットの姿を形成する。
『お疲れ様、ヨォイちゃん! いやー、今回の討伐タイム、シミュレーションより15%も遅れてるヨ?』
「……出たよ、クソ端末」
『これじゃあ来月のエリア防衛査定に響いちゃうナ〜。次は明朝4時からCエリアでパトロール任務が入ってるからね! 代わりの魔法少女はいくらでもいるんだから、選ばれた名誉を噛み締めて頑張らないと!』
その甲高く事務的な声を聞いた瞬間、工藤の足はピタリと止まった。
脳裏に、自社の部長の顔がフラッシュバックする。
『工藤くん、今回の進捗遅れてるよ? 代わりのベンダーはいくらでもあるんだから、やりがいを持ってやってもらわないとねぇ』
「……ッ」
工藤は舌打ちをすると、踵を返し、路地裏の入り口にある自動販売機に向かった。小銭を乱暴に叩き込み、ボタンを二つ押す。
ガコン、と音を立てて落ちてきたそれを掴み、少女の元へ歩み寄った。
「ほら」
工藤が放り投げた温かい缶を、少女は鈍い動きでなんとかキャッチした。
「……なに、これ」
「糖分だ。お前みたいなクソガキには甘すぎるくらいがちょうどいい」
それは、あまったるいココアの缶だった。工藤自身は、見慣れたブラックコーヒーのプルタブを開ける。
「……タバコ、臭い」
「ならさっさと家に帰れ。……と言いたいところだが、お前も『クソみたいな上司』に当たって苦労してるみたいだな」
工藤がマスコット――キュウを顎でしゃくると、少女は缶ココアのプルタブを開け、一口すすってから、深く、重い溜息をついた。
「……あたし、七瀬 宵」
「工藤だ」
「ニュースでやってるでしょ。愛と希望の魔法少女、ってやつ。……バカみたい。実際はただの深夜の肉体労働じゃん。有給も労災も出ないし、辞めるって言ったらこのポンコツが『違約金ガー』ってうるさいし」
「俺の業界も似たようなもんだ。愛と希望を謳って、終電までPCの前に縛り付ける。辞めたくても、引き継ぎの脅しをかけられる」
泥だらけのジャージ姿の魔法少女と、ヨレヨレのスーツ姿のサラリーマン。
抱えている世界の規模も、戦っている相手も全く違う。だが、この薄暗い路地裏で缶の飲み物を握りしめる二人の間には、不思議なほどの『連帯感』が生まれていた。
『ヨォイちゃん! そろそろ移動しないと、次の発生予測ポイントに間に合わないヨ!』
空気を読まないキュウの急かす声に、宵は「あー、マジで鬱」と吐き捨てながら、よろよろと立ち上がった。
「……行く。行けばいいんでしょ。あーあ、マジで世界とかどうでもいいから、一生布団に沈んでいたい……」
「死なない程度にやれよ、女子高生」
工藤が短くなったタバコを携帯灰皿に押し込むと、宵は空になったココアの缶をゴミ箱に放り投げ、ほんの少しだけ口角を上げた。
「おっさんこそ、過労死しないでね」
路地裏の奥、再びチープな光の粒子が舞い、宵の姿が闇に溶けるように消えた。
後には、微かな甘いココアの匂いと、タバコの煙だけが残された。
工藤は残りのブラックコーヒーを一気に流し込み、大きく首を鳴らす。
「……さて、俺も戻るか。地獄にな」
深夜二時半。明けない夜の底で、灰殻とステッキはそれぞれの戦場へと戻っていった。次に二人がこの吹き溜まりで顔を合わせるのは、そう遠い未来のことではない。




