さよなら、
「お前、変わったな」
変わったのは私だと、本当にそう思うのだろうか。
珍しく私しかいない時、いつもの女は私の正面に座ってワインを弄んでいた。私はいつもの席。会話が聞こえるほどの距離には誰も座っていない、そんな席。いつもと違うのは、初めてこの女が私に話しかけてきたときと同じように、皆がいないということ。今思えばこの時から既にその違和感に気づくべきだったのかもしれない。
「ねェ、アタのその髪って、親譲りなの? それとも遺伝とは関係ないのかしら? 母親や父親はどんな髪色をしてるの?」
「なんでそんなこと聞くわけ」
「だって気になるじゃない」
何がだ。
その言葉を言う前に、私は目の前の女の目がいつもと違うことに気づいた。否、前と同じだ。初めて私に話しかけてきた時と同じ。いつもは皆と一緒だったから素を見せなかったこの猫被りが、何故今ここでそんな目をしていたのか。気づいていれば、この時席を立っていれば、未来は違っていただろうか。
「ノトは勿論、ロームやレイバンも格好良いけと……やっぱり黒髪は目立つでしょう? もしあの中の誰かと結婚して、いつか子供が出来た時……もしその子供が黒髪だったら、」
にたり、笑う顔に、
「私だったら耐えられない。自殺ものだもの」
バチーン!
血が一瞬で頭にのぼった。ビンタとは思えない威力で吹っ飛んだ彼女も、まさかそこまでするとは思わなかったらしく、余裕をなくして呆然としていた。勢いよく飛んだ先の机に座っていた人達が、慌てて立ち上がる。そしてその場にいた全員が何事かと視線を集めた。全員が見るのは手を振り下ろした私、その先にいる女。その視線には背を向け私と向き合うように座り込んんだ女は、茫然とした表情から一転。何かを見つけたように目を見開き、歪に笑った。私にしかその表情が見えていないこと、その時丁度店のドアが空いたこと。肩を上下して振り下ろした手を握りしめた私は、目の前でわざとらしくボロボロ涙を流す女をもう一度殴ってやろうかいう気持ちでいっぱいで、聞き覚えのあるその声がかかるまでそのことには気づかなかった。
「なに、してんだ……アタ」
やられたと、気づいた時にはもう遅かった。
きっと全部計算ずくだったのだろう。私が彼女の暴言で手を出すことは。その時みんなが酒場に来ることは。全部全部計算した上でこうしたんだろう。だけどそんなことを言った上で、信じてくれるひ人が一体どこにいただろう。とっくに破綻してしまったこの中で。
「殴ったのか……それも、本気で。いつもとは違うぞ、女だ……。お前、なんで、そんなことを」
「……侮辱されたんだ。母を。それだけは許さない。分かるだろ。何を言われても、父に捨てられても、村八分にされようとも、最期まで私を愛してくれた母を侮辱されるのだけは絶対に我慢出来ない」
「ちが……! 私はただ、髪色が親譲りなのか知りたかっただけで……」
「自分の生まれた子供が黒髪なら自殺すると言ったのはどこのどいつだ?」
「そんなこと言ってないわ! どうしてアタはいつも、そうして卑屈になって、周りが全員敵に見えるというの! 私が何をしたの? ただ、貴方と仲良くなりたかっただけじゃない…! それなのに貴方はいつも、私を悪者にしたがるのね。そんなに人が信じられないの? 私は貴方に、今のアタには他にも味方がいるんだと、教えたかっただけなのに……!」
わっと泣き出す彼女と、殺しかねない視線で見下ろす私。誰がどうみても私が悪役に見えるのだろう。とんだ役者だ。私は漸く落ち着いてきた頭でそんなことを、未だに泣きながら必死に言葉を紡ぐフリをする女を見下ろした。零れた赤いワインが血のように白い服に染みて、余計に痛々しさを演出する。絶対に吹っ飛んだ時にぶつけた腰や頭の方が痛いだろうに、あくまでも私に殴られた頬が痛いと手を抑えて泣きじゃくる。この馬鹿女、今度はその高い鼻を頬と同じ高さにしてやろうか。
「アタ、メディに謝れ」
「冗談でしょ」
「手を出したのはお前だろう」
「手を出さなければ人を傷つけられないとでも? 治る傷より深い傷を負わされたよ私は。可愛い女の子は泣けば同情されるからいいものだね。そこにどんな理由があろうと泣いた方が勝ちで泣かせたら悪だもんね。簡単でいいよ」
「っそんなことを言ってるんじゃない! 俺たちは忌み嫌われ、不幸を呼ぶ黒髪持ちだと言われ、世間からは馬鹿にされ、蔑まれてきた! でもいいか、もう、俺たちはあの頃とは違うんだ!」
その言葉に、強く強く押し出された肩に、彼の表情に、
「俺たちはもう、英雄なんだ!」
意地だけで立っていた足から力が抜けた。いつもなら踏ん張る足が馬鹿になって地面に簡単に倒れていく。無様に膝をつく私は、他人事のように近づいてくる地面を見つめていた。
何が変わったというのだろう。立場が? 万年下級パーティーと言われた私たちがS級パーティーになって、ギルドで最も強いと言われるようになったこと? 皆の私たちを見る目? 黒髪だと恐れられ忌み嫌われ侮辱されていたのが、今では英雄の証だと褒めたたえられるようになったこと? それとも単に称号? 地位? お金使いがよくなって、欲しかったものを買えるようになって、やりたいことを我慢しなくてもよくなって、当たり前に人並みの生活が出来るようになったこと? 誰も私たちを笑わないこと? 嫌わないで、仲間に入れて、尊敬されて、そんな、夢物語みたいに思い描いた未来を手に入れたこと? だけど、こんな風になってしまうと知っていたら、
「何が英雄だよ、馬鹿みたい。私たちの髪の色が変わったわけじゃないのに。いきなり強くなったわけじゃないのに。何も変わってなんていないはずなのに、周囲が変わっただけで皆も変わっちゃうんだ? だったら、」
英雄になんて、ならなければよかった。
呟いた言葉に誰かが息を飲む音が聞こえた。遠くの方から聞こえた、これで誰も私たちを馬鹿にしないね! と言う少女の笑い声を耳に、私はずっと言いたかった言葉を紡ぎ出す。
あの日、当たり前のように討伐に向かうのではなく、死ぬまで閉じこもって臆病者として死ねば良かったね。周りの誰もがそういうように、私たちには無理だって、そういって諦めて、逃げ出してしまえばよかったね。そうすればきっと、私達は何も変わってなんていなかった。本当に、一切足りとも! 変わることなんてなかった! そしたら今頃、私がその女の言葉に激怒して手を出しても、皆は私を背に庇ってくれたはずなのにね。
なのに今は全く逆なんだ。ねぇ、笑えるでしょ? ねぇ、
「私たちが英雄でなくても、その女が今と同じ顔をしていたと、本当に思うわけ……?」
どこまでめでたいんだよ。脳みそスライムかよ。
いつの間にか頬を流れていた涙と一緒に垂れ流した言葉は、どうやら嘗ての仲間たちには響かなかったらしい。いつもなら汚い袖で私の顔を乱暴に拭くロームは気がついたら未だに啜り泣く女の方を抱いて頭を撫でていたし、何も言わずにいつも側に居て話を聞いてくれたノトは自分たちを馬鹿にしてきた人達に向けるような眼差しで私を睨みつけいて、過保護に私を可愛がりいつでも味方でいてくれたレイバンは厳しい目で私を見下ろして、私を突き飛ばした両手を握りしめた。
「アタ、お前少し、頭で冷やせ」
「大丈夫。もうとっくに冷えたよ。同じ境遇だからと身を寄せあっただけの"お仲間ごっこ"からはね」
「……そんな風に思ってたのか」
「私のせいだと思ってるの? 全部自分たちで蒔いた種じゃんか」
3年だ。3年逆境を共にした仲間だった。馬鹿にされ、爪弾きにされ、指をさされても。共に明日を生き抜こうと手を取り合った仲間だった。例え剣を握れなくなり呪文を唱えられなくなり歩くことがなくなっても友でいようと、そう誓い合った仲だった。
それが終わる時はこんなに一瞬だなんて。
「お前がそんな奴だったなんて思わなかったよ」
「奇遇だね、私も今、丁度そう思っていたところだよ」
「……そうか」
不思議と怒りは湧いてこなかった。勿論そこには悲しみもなく、あるのは馬鹿みたいに溢れ出た嫌悪感。あぁ、私なんでずっとここでやっていけると思ってたんだろう。所詮は獣の傷の舐め合い。傷が治ればそれぞれの道に行くまでだ。
「もうお前とはこれっきりだ。二度と顔を見せないでくれ」
「……誰が、」
そんな顔二度も見たいものか。
鏡見てから言えよオーク顔。聞こえたかどうかは知らないが、私はガラガラになった喉から捻り出して最後にそう言い捨て、人混みを掻き分け外に出た。騒ぎを聞きつけた人で煩いこの街に居場所なんてもうない。まだ日は高い、さっさと街から出ていくとしよう。そして出ていったら最期、2度と戻ることはない。
「さよなら」
さよなら王都。私たちの夢。それぞれの田舎から出てきて、組んでくれるパーティーもなく逃げ帰るしかないと思っていた矢先、運命の出会いを果たした場所よ。恥も苦痛も一緒くたにして生きた。どんなに笑われたって、今夜宿に泊まる金もなく、草を食んで生き凌いだって、逃げることだけはしなかった。そしてついに叶った夢。それは儚く、脆く……。
「は、最後が悪態だなんていかにも私達らしいや」
確かパーティーを組んだ時も、どうせ忌み嫌われる黒髪同士、これ以上不幸があるならいっそ笑おうぜと言って組んだっけ。
楽しかった思い出は沢山あるのに、ここを出る今となっては最後の数日の嫌な思い出しかないだなんて皮肉だ。あんなに長く過ごして築き上げた信頼がたったの数日で崩れ落ちてしまうように。
(……あぁ、だけど、)
これだけ長年一緒にいたのだ。せめてあんな別れであっても、最後はせめて「達者でな」がよかったな、なんて。