十四
大山の前妻、沢子の喪が明けてすぐの婚儀を望んでいたふたりだったが、ことはそううまくは運ばなかった。
七月に政府の重鎮、岩倉具視が、九月には齢三つの第三皇女と、生まれたばかりの第四皇女がそれぞれに薨去した。
このため、陸軍卿である大山の婚儀は晩秋まで延期と相成った。
十月末に提出された結婚願いには、五日後、十月のうちに許可が下りた。天皇への奏上も無事に終え、十一月八日には、日本式での結婚式が執り行われた。
こうして、帰朝して一年経たぬうちに、日本初の女子官費留学生のひとりであった捨松は、大山巌夫人と成った。
大山と捨松の結婚から二十日経った明治十六年十一月二十八日は、日本の欧化政策における重要な転換点である。
この日、とある場所で、盛大な夜会が開かれた。
夜会の会場である白い煉瓦づくりの建物は、アーケードのあるベランダや窓にルネッサンス調のアーチが施され、柱にはイスラム風で、とっくり型のくびれがある。エキゾチックで、目にも新しい洋風建築だった。お雇い外国人の若き建築家ジョサイア・コンドル設計のその建物は、外国人接待所──通称「鹿鳴館」と名付けられていた。
当夜は、ここで、この鹿鳴館の落成を祝う夜会が催されるのだ。
夜会には、外務卿井上馨とその妻、武子の名で約千二百人が招待された。日本人ばかりではない。外国人の姿も多く見られた。いずれも政府高官や政界、経済界などの名士ばかりが夫婦そろって続々と現れた。
招待客のなかに、捨松たちの姿もあった。
その夜の捨松は、いつにもましてうつくしく装っていた。高々と結い上げた髪には、星形のダイヤの髪飾りをいくつも挿し、ワインカラーの天鵞絨のドレスに身を包み、捨松は高揚する気持ちを抑えようと、深く息を吸った。この場に集まったどの女性よりも堂々と振る舞える自信はあったが、扇を持つ手は小刻みに震え、手袋のなかの指は緊張で汗ばみ、冷えていた。
「武者震いですか」
捨松の震えは、その手を取る大山にも当然伝わっている。耳元でいじわるく言う大山を軽くにらんでたしなめ、捨松は二階の舞踏室への階段を慎重にあがった。
手袋に隠した指には、大山からもらった指輪がある。ドレス生地のとろりとした光沢のある天鵞絨は、大山が捨松のためにと、遠くフランスから取り寄せたものだ。そうしたものを身につけていることが、どれだけこころの支えとなることか。極めつけに夫である大山本人が隣にいて、自分の手を取ってくれることが、捨松にとっては何よりこころ強かった。
三つ折れの階段を前の客に続いて登りきると、広い舞踏室の全容が見えた。
板張りの舞踏室の床は、鏡のように磨かれて白く光ってさえおり、まだだれもそのうえで踊ったことがないのは、目にも明らかだった。白い漆喰の天井から床を照らすシャンデリアのなんとまぶしくうつくしいことか! ルネッサンス調にS字のカーブを描く腕木の先には、可憐なスズラン型のガラスシェードがあり、その灯りは舞踏室全体を明るくきらめかせている。
ほうっと見とれている捨松の右手を支えながら、大山が下から軽く指を握った。捨松は彼を見上げ、彼が自分ではなく、舞踏室でもない遙か先を見つめているような気がした。彼と同じものが見たいと思った。
「さあ、行きましょう。あなたが思い描いた夢は、自分の手でつかみとりなさい」
前をむいたまま、つぶやくように大山は言った。踏みだして、捨松もまた前へとむきなおった。舞踏室に入ったとたん、通る声で名が呼ばれる。
「大山巌参議、陸軍卿、陸軍中将。並びに大山夫人!」
居並ぶひとびとは、大山が娶ったばかりの年の離れた後妻に興味を抱いて、次々にふりむいた。捨松を女子留学生と知っている者もあるだろう。
好奇と期待に満ちた視線にさらされながら、捨松は大山に手を引かれて微笑む。胸を張り、歩きだす。
ここから、すべてがはじまるのだ。
鹿鳴館時代の幕開けとともに、捨松は大きな希望を抱いて、舞踏室の床を踏みしめた。




