2‐8 任務完了?
「まあ、時々全部投げ出してしまいたい、なんて言ってもね、転職する勇気なんかないし、離婚を持ち出すなんてとんでもない」
「はあ……」
「だから、例えば、僕が仕事の上で、もうどうしようもないような失敗をする。もちろん犯罪になるようなものはまずいけれど、会社には大損害を与えてクビになるような失敗をね。もちろん僕はもう捨て身なんだから、今まで僕を馬鹿にしたり振り回したりして気に食わなかった上司なんかも、みんな引き摺り込んで破滅させる。そうして、おもいっきりたんかを切って会社を飛び出す」
「………」
「まあ、これ自体はそれこそドラマによくある話かもしれないけどね。でも、そうやって僕が会社での地位を失えば、今までひたすら堅実に生きて来た女房も、呆れて逃げて行くことになるだろう。そこで僕は、君は僕には構わずに新しい人生を見付けてくれ、とかなんとか言って世の中の不幸を一人で抱え込んだような振りをする。そうして初めて絶対の自由を獲得して、僕は自分の人生をこの手に取り戻す………」
「………」
「ははは、そんなに深刻な顔をしないでくれよ。冗談だよ、冗談。家のローンだってあるし、慰謝料だ子供の養育費だなんてことになったら、もう生きていけないよ。まあ、そんな夢みたいなことは本当に胸のうちにしまっておいて、淡々と毎日を積み重ねていくしかないんだな。しかし、こんな話を誰かにしたのは初めてだ。いくらそれが冗談で、相手も見ず知らずの人であっても、やっぱりこういう話をするときは多少の興奮があるもんだな。正直なところ貴重な体験をしたような気がするよ。さてと、あ、もうこんな時間だ。君は学生なんだから、何か食べたらどうだい? お茶漬けか焼きおにぎりくらいしかないけど……」
ここで飯まで御馳走になるのはなんだか気が引けたけど、男がそう言ってくれたのは彼の満足度の表われのような気がして、僕はなんとなくうれしかった。そんなふうに単純に喜んでいる自分がずいぶん新鮮に感じられておもわず苦笑したくなったけれど、まあとりあえずこのバイトの初仕事を無事に終われたのだから、素直に喜んでおいてもいいだろう。
「どうしたんだい? 僕は、そうだな、焼きおにぎりを頼むけど、君も一緒でいいかい?」
「あ、はい、じゃあご馳走になります」
男は追加の注文をすると、ちょっとぬるくなったビールを自分のコップと僕のコップに注ぎ分けて、乾杯の仕種をしてから一息に飲み干した。彼にとっても、若干の緊張感と高揚感のあるひとときであったのだろう。でも、最初に会ったときよりはずいぶん明るくなったように見えた。それに、初めの頃の訥々とした分かりにくい話が、後半はなかなか説得的になってきていて、もしかしたら彼は話のコツをつかんだのではないかと思うほどだった。
まあそこまでいうのは思い過ごしとしても、僕は一仕事終えたばかりのような彼の横顔を見ながら、これはなかなか面白いバイトなのではないかと思った。