2-4 クライアント登場
六時五分になった。入り口のガラスドアのところにスーツを着た人影が見えた。彼は大きく左手を延ばしてからその腕を顔の前に持ってきて腕時計を見て、ネクタイをちょっと直してから店に入ってくると、誰にともなく軽く会釈をした。
僕は、この男がクライアントなのだと確信を抱いた。おそらく彼は、メンバーが六時に店に入るから五分くらい後に行ってくれと言われたのを忠実に守ってやってきたのだろう。こっちが学生と知ってはいるのだろうけれど、長年のサラリーマン生活で染み付いた身のこなしは変わることがない。
彼も緊張しているのだろうか、近づいていったウェイトレスには目もくれず、あたりを舐めるように見回し始めた。僕はこちらから声を掛けるべきかとも思ったが、あまり主導権を握ってしまってもいけないし万一人違いだとややこしいことになると思い、三十度くらい顔の向きをずらせながら視界の隅のほうで彼に注目していた。
彼はようやく僕のテーブルの上のステッカーを見付け、ハンカチで汗を拭きながら近付いてくると、「うさぎさんですか?」と言った。僕は、いくら初対面で緊張しているとはいってもそれはないんじゃないかと思いながら彼を見ると、「あ、えーと、クラブの方ですね」と言った。僕は吹き出したいのをこらえながら、それにしても松井という男は怪しげな名前を考え出したものだと思った。
僕は立ち上がると、「うさぎ倶楽部のものです。お互いに名乗らないことになっているようですが、よろしくお願い致します」と言って会釈をした。敵失に乗じたとはいえ、我ながらまずまずの滑り出しだと満足した。
彼は、「あ、どうも。ここじゃあなんだから、ビールでも飲みながらということにしませんか」と言うと、僕の伝票を取り上げてレジに向かった。普段ならコーヒー一杯で一時間は粘るのが習慣というか一つの信念になっている人間から見れば、彼はいかに冴えない風情でも住む世界が違うようだ。それにしても早めに来てコーヒーを全部飲んでおいてよかったなどとくだらぬことを考えながら、僕は外で彼が出てくるのを待った。最初に見たときには少し老けて見えたのだが、年は四十前後だろうか。まあそんなにばりばりのタイプではない。
「あんまりきれいな店じゃないけど、まあ気軽なところなんで勘弁してください」
彼はそう言うと高層ビルの隙間を少し歩いていって、こんな町並みの中によく残っていたものだと思うような古い造りの飲み屋に入っていった。僕は一瞬ふだん食べたことも飲んだこともないようなものを口にできるかと期待していたが、そこは生ビールの他に酎ハイやホッピーまであって、煮込みや焼き鳥といったつまみも大学の近くにある店とほとんど変わりがなかった。が、考えようによってはこれは仕事なのだから、勝手が分からずに緊張してしまうような店よりは少なくとも今日のところはいいのだろう。
そんなことを思いながらカウンターのがたがたする椅子に座り、穴があいたおしぼりを顔にあてた。見ると男は眼鏡を外し、額から耳の後ろや襟元まで丁寧におしぼりで拭いてから、そのおしぼりを二人の間に無造作に置いて、やや考え込むように目を伏せた。僕は、その惨めに投げ出された布切れを不愉快な思いで見ながら、さてどうしたものかと考えた。男はじっと黙ったままだ。
注文を取りにきた女がその苦境を救った。男は「何がいいですか?」と聞いたけれど、僕は「お任せします」としか言いようがない気がして、結局彼は生ビールと安そうなつまみをいくつか頼むとまた黙り込んだ。