目が合うと、失くす
噂が本当になる街で、呪いの噂に「一行」書き足して無害にする男の話です。
『篠宮澪と目が合うと、大事なものをひとつ失くす』
その書き込みが学校裏の匿名掲示板に流れたのは、二か月前のことだった。
最初は誰も信じていなかった。当たり前だ。目が合っただけで物が失くなるなら、世界中の落とし物は全部わたしのせいになる。
でも、三日後に隣の席の子が消しゴムを失くした。一週間後に、廊下ですれ違った先輩が家の鍵を失くした。偶然だ。偶然に決まってる。そう言えたのは、バスケ部の水島くんが──わたしと目が合った翌朝──**声**を失くすまでだった。
医者は原因不明のストレス性失声と言ったらしい。掲示板は、そうは言わなかった。
それから、誰もわたしと目を合わせなくなった。
教室でわたしの半径一メートルだけ、いつも空いている。先生ですら出席を取るとき、名簿から顔を上げない。わたしは透明になった。透明のくせに、全員がわたしの位置だけは正確に把握している。
だから、これは最後の手段だった。
「──で? 君は僕に、いくら払えるの」
雑居ビル四階。「口入れ屋」とだけ札の出た事務所で、脚を組んだ男はそう言った。
乾千秋。この街で"そっち側"の困りごとを抱えた人間が最後に辿り着く男。仕事は確かだが、性格は最悪で、報酬は法外。中学生の噂話にすら名前が出てくるくらいには、有名だった。
「……三万円、あります。お年玉の残りで」
「三万」
乾は繰り返して、心底楽しそうに笑った。
「僕はね、コンビニの棚の位置を教えるだけで十万取る男だよ。三万で君の人生を扱えって? 舐められたものだ」
「じゃあ、いくらなら」
「金の話はしていない。**払えるものがあるか**と訊いている」
男の目は笑ったまま、温度だけがなかった。
「──貸しをひとつ。期限なし、内容不問、拒否権なし。将来、僕が一度だけ、君に『頼みごと』をする。それが報酬だ」
断るべきだった。たぶん、まともな人生を送りたいなら。
でもまともな人生は、二か月前に掲示板の書き込み一つで終わっている。
「……わかりました」
「交渉成立」
乾は満足そうに指を鳴らし、メモ用紙に住所を走り書きした。
「僕は仲介屋であって、現場仕事はしない。君の案件に合う専門家を紹介する。──常盤湊。ここから二本裏の通り、潰れた時計屋の二階」
「その人は、信用できるんですか」
「できない」乾は即答した。「が、腕は確かだ。それとひとつ、忠告」
メモを差し出しながら、男は初めて、値踏みするようにわたしの顔を見た。
「会えばわかるが──**よく似てるよ、君たちは**。ああ、顔の話じゃない」
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潰れた時計屋の二階は、時計屋よりも時が止まって見えた。
ドアを開けた先は、物、物、物。傘立てに刺さった何本ものビニール傘。壁一面の棚に、古い補聴器、片方だけの手袋、鍵のない南京錠、割れていない方の合わせ鏡。どれも値札の代わりに、荷札みたいな紙が紐で結ばれて、細かい字で何か書き込まれている。
その奥に、その人は座っていた。
わたしと同じくらいの歳に見えた。高校生か、せいぜい大学生。色素の薄い髪に、着古したシャツ。年齢よりも目立ったのは、その目つきだ。若い顔の中で、目だけが妙に、古かった。
「篠宮澪。十五歳。相談内容は──『自分の噂が、本当になり始めた』」
こちらが名乗る前に、彼は乾のメモらしき紙を読み上げた。
「あの、常盤さん、ですか」
「湊でいい。さん付けされると調子が狂う」
彼は立ち上がり、無造作にこちらへ歩いてきた。距離を詰められて、わたしは反射的に目を伏せる。この二か月で身についた、癖。
「顔を上げて」
「だめです。目が合うと、失くします。大事なものを」
「知ってる。だから確かめる」
「──は?」
顔を上げた。上げてしまった。
目が、合った。
薄い茶色の瞳。古い目。数秒、世界からわたしたち以外の音が抜け落ちたような気がして──
かちゃん、と乾いた音がした。
彼の胸ポケットから、銀色のオイルライターが**消えた**。落ちたんじゃない。床には何もない。ただ、さっきまで確かにあった膨らみが、シャツから失われていた。
「ご、ごめんなさい、わたし──」
「なるほど。**本物だ**」
謝罪を遮った声は、怯えても、怒ってもいなかった。むしろ、どこか満足そうですらあった。彼は空になった胸ポケットを一度だけ叩いて、平然と続けた。
「安心しろ。今のは実験だ。それに──俺には、失くして困るものがもうほとんど残ってない」
「……どういう、意味ですか」
「そのままの意味」
湊は棚から荷札付きのビニール傘を一本引き抜き、無造作に机へ放った。それから、荷札の紐を指に巻きつけて、こう言った。
「本題だ、篠宮澪。あんたの噂は──**天然物じゃない**」
「てん、ねん……?」
「噂ってのは生き物だ。自然に湧いたやつには、湧いたなりの形がある。だがあんたのは違う。『目が合うと』という**条件**、『大事なもの』という**曖昧で怖い範囲**、『ひとつ』という**数の限定**。……広まるように、信じられるように、**設計**されてる」
彼は机の上で、指を三本立てた。
「つまり誰かが、あんたを選んで、この噂を書いた。──俺の仕事は二つ。噂をほどくこと。それと」
三本目の指が折られる。
「書いた奴を、見つけることだ」
窓の外で、夕方のチャイムが鳴った。この街のどこにでもある、なんでもない音。
その、なんでもない日常のどこかに、わたしの人生を書き換えた"誰か"がいる。
「……あの。最後に、ひとつだけ訊いていいですか」
「手短にな」
「湊さんって、何歳なんですか」
彼は一瞬だけ黙って、それから、初めて笑った。若い顔で、ひどく古い笑い方だった。
「**四十七**」




