〈 十一 〉声の主
夕陽が庭の池面に淡く反射していた。
その頃李飛凛は玄冥殿の広大な庭をひとり、静かに散策していたのだ。
吹き抜ける風が花々を揺らし、その香りがほんのりと鼻をかすめる。
李飛凛は何か違和感を感じ足を止めた。
その瞬間、めまいのような感覚がこめかみを揺らし、視界がかすみ足元がふらつく。
(……何かおかしい……足が)
李飛凛の膝が崩れ、石畳に倒れ込んだ。
遠くで誰かの声がした気がしたが、もうはっきりとは聞こえなかった。
「春霞! どうした、しっかりしろ!」
駆け寄ってきたのはあの霍明蕨だった。
彼は咄嗟にその身体を抱きとめる。
冷たい指先が、彼の手のひらに触れた。
その温度差に、霍明蕨の表情が一瞬にして険しくなる。
「手が、氷のように冷たい……。誰か、大医を呼んでくれ!」
「は、はい!」
護衛が走り去る音が庭に響く。
霍明蕨は腕に力を込め、胸が締め付けられるのを感じていた。
「大丈夫だ。もう少しで医者が来る。それまで頑張るんだぞ」
返事はない。ただ、微かに唇が震えたように見えた。
霍明蕨は迷うことなく彼女を抱えたまま自室の中へと歩みを進める。
李飛凛を寝台に横たえると、その傍の椅子に腰を下ろした。
夕陽はいつの間にか沈みかけていて、庭は淡い橙の光がゆるやかに染めている。
部屋には沈香の匂いが、ほのかに漂い静寂だけが満ちていた。
やがて、戸の外から控えめな女性の声が響いた。
「陛下、お待たせいたしました。霍家専属大医・張白硯様でございます」
張白硯は部屋に入ってくるや否や颯爽と香を焚き、袖を整えて膝をつく。
その動きは流れるようで、何一つ無駄がなかった。
「張白硯、彼女の容態は問題ないだろうな」
「陛下、どうかお心を鎮めくださいませ。すぐに診ますゆえ」
張白硯の声は低くどこか静かで、なぜか安心するような声だった。
彼は李飛凛の手首に軽く指をあて、ゆるやかに脈を探る。
数息の間、沈黙が続いた。
焚かれた沈香の香りがほのかに揺れ、その煙が、薄暮の光と交わって揺らめく。
「呼吸は浅い。けれど、魂は離れてはいない。
……とても奇妙ですね。気を失っているというのにまるで内側で何かが脈動しているかのようです」
「どういうことだ」
霍明蕨の声が鋭く響く。
張白硯は目を細め、李飛凛の顔を見つめた。
「命は確かにここにある。けれど……この身に宿る『気』の流れが、今の時に属していないとでも申しましょうか」
「……それは夢の中にいる、ということか?」
「あるいは……別の世界で生きているとでもいわねば説明がつきません」
霍明蕨は息を呑んだ。
張白硯はそれ以上何も言わず、静かに手を離し香炉の火を見つめながら、深く息を吐い た。
「しばし安静に。今は夢の底にいるだけです。目覚めた時、彼女の言葉が……全てを決めましょう」
霍明蕨は無言のまま頷いた。
◇
庭に静寂が降りる頃、夜風が李飛凛の頬をかすめていた。
知らないはずの甘い香りが胸を締め付ける。
(……誰?……誰かいるの?)
次の瞬間、景色が溶けて、薄桃色の霞が広がった。
真っ白な光の中で誰かが笑ってる。
女の人の声だった。
『李飛凛、私はあなたを知っている。
——けれどあなたは私を知らない』
(誰……誰なの?)
『……どうかお願い。二人のこと、助けて……』
(二人……? 一体誰のこと)
いくら問いかけても返事はない。
眩しくて見えない一点の光。その中から女性の声だけが響いていた。
その瞬間だった。身体が宙から落ちる感覚がして、李飛凛はハッと目を覚ました。
(夢……?)
身体を起こすと、傍で霍明蕨がうとうとと眠っていた。
安らかな寝息がまだ夢の続きのように思えた。
「……霍明蕨、霍明蕨」
そっと名を呼ぶと、まつ毛がわずかに揺れ、彼はゆっくりと目を開けた。
彼はハッと身を起こし、驚いたように見つめてくる。
「阿月!いや、春霞……大丈夫なのか?」
思わず彼女の肩に手が触れる。
「私は大丈夫です……きっと疲れていたんです」
「本当に? 顔色が……さっきまで気を失ってたんだぞ」
その声には焦りと安堵の気持ちが入り混じっていた。
李飛凛は静かに肩にかかる彼の手をとった。
「大丈夫です。でも……、
——何か大切な夢を見ていた気がして」
「夢?」
霍明蕨の眉がかすかに動く。
李飛凛は目を伏せ、指先を見つめた。
「誰かが『二人を助けて』って、そう言ってた気がするんです」
「二人……?」
霍明蕨の表情が一瞬だけ曇る。
その沈黙の奥に何かを隠しているようで、李飛凛の胸に不安が広がっていく。
「……なにかまずいことでも?」
問いかけに、霍明蕨は視線を逸らした。
「いや、なんでもない。気にしなくていい、それに夢なのだから」
いつもと変わらない口調。
けれど、その微笑みの奥に小さな痛みが滲んでいるように思えた。
それを問う勇気は、まだ持てなかった。
「もう休め、今夜は冷える」
霍明蕨は優しく微笑むと、部屋を去っていった。
戸が静かに閉まり、部屋には夜の気配だけが残った。
李飛凛はしばらく座ったままぼんやりと天井を見上げる。
霍明蕨の穏やかな笑顔が、なぜか胸に焼き付いて離れない。
『夢なのだから』
けれど李飛凛にはただの夢に思えなかった。
(……どうして私の名を知っていたの?)
あの言葉が何度も心の中で繰り返される。
——『二人を助けて……』
誰の声なのか、わからない聞いたことのない声。
李飛凛はそっと胸に手を当て、静かに目を閉じた。
胸の奥に誰か息づいている、そんな気がした。




