〈 十二 〉影
昨夜まで吹いていた風が止み、屋敷の回廊に薄い朝日が射し込んでいた。
霍雨軒はその光の中に立ち、長い沈黙を置いたまま、奥の部屋を見つめていた。
その先に、春霞がいる。
昨夜、『思い出したことがある』と彼女から報告があったのだ。
霍雨軒はひとつ深く息を吐き、静かに歩みを進めた。
使い古された回廊が、微かにその重みを拾って軋む。
彼女の部屋の前に辿り着くと、彼はわずかに指先を掛け、一拍置いてから戸を開いた
「失礼する」
彼女の部屋に立ち入ると、ほんのり甘い香りともに、部屋に緊張が満ちた。
彼女は布団の上に座り、目を伏せていた。
初めて会った時よりも顔色は良い。
だがその瞳には、消えぬ疲労と静かな警戒の色が残っていた。
「体の具合はどうだ」
「……はい。もう、痛みはありません」
腕を気にしたように摩っていた。
霍雨軒は短く頷き、机の前に腰を下ろした。
「単刀直入に問う、何を思い出したのだ。聞こう」
彼女の指が膝の上で強く結ばれている。
「……あの屋敷には、侍女がいたんです。
翡翠色の衣を纏った、名は確か〝姚燕〟。
そう名乗っていました。
彼女は私のことを知っているかもしれません。
そして仁麗のこともきっと」
その名が落ちた瞬間、霍雨軒の瞳が鋭く揺れた。
一拍の沈黙が流れる。
「……その名は、確かか?」
声が低く沈む。
霍雨軒には一つの可能性がよぎっていたのだ。
李飛凛はわずかに怯えながらも、静かに頷いた。
「……わかった、また来る」
そう言うと、霍雨軒はすっと立ち上がり、戸口に歩み寄った。
戸口の前で一瞬だけ立ち止まり李飛凛の方へ振り返る。
その眼差しには、言葉にならない感情が宿っていた。
玄冥殿を出ると同時に、霍雨軒は宋明に言った。
「宋明、姚燕という名に聞き覚えはないか?」
「……まさか、あの妖女」
「そうだ、宮中で有名なあの侍女頭の名と同じだ。
たった五年で上り詰めた——変幻自在な出世魚、姚燕」
「……あの女と何か関係が?」
「彼女が仁麗の屋敷の侍女として仕えていたというのだ」
「そんな、あり得ない」
「そうだあり得ない。同名ということも考えられるが、だがもし事実だとしたらかなり面倒な話だ」
「しかし彼女は……」
「そうだな。勿論その侍女が嘘をついてる可能性も高い。
今はどんな些細なことも放任できない」
「では私は悟られぬよう、周辺の聞き込みに」
「頼む。それと引き続き寺院の調査と仁麗の屋敷の捜索も続けてくれ」
「はっ」
宋明が立ち去ると、霍雨軒は自分の屋敷へと向かった。
◇ ◇
霍雨軒の命を受け、記録にも存在しない〝仁麗〟の行方を追って、すでに三日。
宋明は灯の落ちた廊下を静かに歩いていた。
手がかりは一つもなく、焦燥だけが胸の内を焼いている。
(あとは、本人から事情を聞くのみ……)
殿下から聞いたあの言葉——
〝姚燕という侍女が、仁麗の屋敷にいた〟という証言を脳裏に思い返す。
宮中では知らぬ者のいない侍女。
容姿は華やかで蛇のように変幻自在な女。
侍女とは思えぬほどの影響力を持つとされている。
仕えているのは、丞相・盧双善の屋敷だ。
(おかしい、盧家の侍女が何故あのようなところに?)
あたりは薄暗く、不気味にも静かな余韻をはらんでいた。
疑念を胸に盧双善の屋敷の前に立つ。
(はぁ……)
門をくぐると、あらかじめ知らされていたかのように、一人の女が灯を手に現れた。
赤い衣を纏った派手な女だった。
(まさかこいつが姚燕? いや人違いか?
しかしこの女、只者ではないな)
薄暗い闇の中で、手元の灯だけが静かに揺れていた。
「あなたは殿下の護衛、宋明様でございますね」
「お前が、まさか姚燕なのか……」
「えぇ。このような時間に殿下よりお遣いとは……何事でしょうか。どのようなご用件で?」
「近頃、この屋敷で何か変わったことはなかったか」
「……特にはありません。そういえば——裏山の寺院で殺人未遂があったという噂ならお聞きしました。今、屋敷中その噂でもちきりで」
「……そうか」
短く返す宋明の視線の先で、姚燕が目を伏せた。
その時だった。
背後で何かの気配が動いたのを感じたのだ。
宋明はすぐさま姚燕を背にかばい、腰の刀に手をかける。
「誰だ!」
返事はないが、闇の奥に〝何か〟いる。
銀の刃をゆっくりと抜くと、金属音が夜気を震わせた。
次の瞬間、闇の中で空気が揺れ、気がついた時には影と刃が交錯し火花が散っていた。
「姚燕、下がっていろ」
月明かりが影の刃を照らす。
「宋明様……お伝えしなければならないことがあります」
「後にしてくれ」
「……お許しを。奴を引きずり出すには、貴方様という極上の餌が必要だったのです」
「……やはり何か、知っているのか」
一瞬宋明の手が止まり、その隙を影の刃が頬をかすめた。
「よくも……。私を誰の駒だと思っている!」
その一言に空気が変わる。
宋明の剣筋は冷静で正確だった。
次の一閃で影の左肩を深く切り裂き、肉を断つ鈍い音を響かせた。
その影は息が漏れ、数歩後退する。
だが殺気は消えることなく宋明の目を見据えていた。
背後から姚燕の気配が——消えた。
その次の瞬間、影は地に崩れ落ちていたのだ。
「お前…!」
影が苦悶の声を漏らす間もなく、糸が切れた人形のように地に伏していた。
傍に立つその人影は、あの〝姚燕〟だった。
(……っ!いつの間に! 殿下をお護りするこの私が気配すらも捉えられないとは)
宋明が驚愕に目を見開いた瞬間、背後の空気が揺らぎ、吸い付くような細い腕が彼の首を絡めとった。
喉元に冷たい銀光が這う。
「あなたを殺すつもりはありません」
先ほどまで目の前にいたはずの女が、今は死神のように背後に立っている。
「……っ、お前は一体何者だ」
首にかけていた腕を解くと、月の影から姿を現す。
姚燕はその問いには答えず、薄く微笑みを浮かべただけ。
「宋明様はこの紋章をご存知ですか?」
影が持っていたと思われる短剣を差し出してきたのだ。
その剣を見ると、柄には二つの円が重なる刻印があった。
一つは白月、もう一つはその影──双月紋。
「この紋章……」
どこかで見た覚えがあるが、よく思い出せない。
夜風が血の匂いを運び、沈黙がふたりの間を満たす。
「光と闇の狭間に生きる者……
どちらにせよ厄介な連中」
「さすがです」
剣を収め、宋明は正面の女を見据える。
「かなり腕が立つようだが、お前は一体……」
姚燕は乱れた衣を治し、深く息を吸った。
「私は、古より影に仕えし密偵の名家、十六代目宗主、姚燕と申します」
「……姚と名がつくのでまさかとは思っていたが」
二人の間に風が吹いた。
「昨日、陛下に匿名の通達を送ったのは私です」
「君が……? でもなぜ」
「私はあの日——仁麗の屋敷におりました。もちろん犯人も知っております。
……ですが私は真の黒幕を暴きたいのです。
真の犯人を捉えない限りこの一件は続くでしょう。
私に考えがあります。……宋明様、どうか協力していただけませんでしょうか」
宋明は息をのんだ。
灯が揺れ、彼女の頬を淡く照らした。
その笑みは、美しくも——どこか冷酷さを纏っていた。




