麻に連るる蓬
――見せたいものがある。
そう切り出した芽依菜の誘いに応じる形で、翌日金曜日の夕刻、俺たちは高幡の住宅地にある児童公園に待ち合わせた。十年前に、芽依菜と俺、そして兄貴が邂逅した公園だ。
公園の一角、板張りの屋根があるだけの談話スペースに俺たちはいた。丸太のような見かけの簡素な丸椅子に腰かけ、備え付けのテーブルを挟んで、俺と芽依菜は向かい合っている。
「なんだこれ?」
芽依菜が待ち合わせにこの公園を指定した理由は、件の『見せたいもの』に関係があるからという理由だった。それを聞いた時点で俺は薄々と、この用件があまり色っぽいものじゃないなということに気づいていた。浮かれていた自分が馬鹿みたいで、恥ずかしかった。
神妙な顔をした芽依菜に手渡されたのは、一枚の紙切れである。大学ノートか何かの切れ端だろうが、とても丁寧に裁断されている。大きさは長型四号の封筒にちょうどおさまるくらいだろう。
肝心の書面には、ひらがな五文字を一節とする十一行の詩らしきものが書かれていた。几帳面さがありあり現れたかっちりとした字体で、書き崩した丸みなどはまったくない。字と体裁は綺麗なのだが、紙自体は砂のような泥のようなものが掠れ付いて汚れていた。
どこかで見たことある字だな、と思ったが詳しくは思い出せなかった。少なくとも芽依菜の字ではない。芽依菜はもう少し質素な字を書く。眼前にある字は、ペンに引かれた線の処理が、いちいち仰々しい。小学校の国語の授業で、書き取りをやらされるときくらいにしか書かないような字だ。
くるりと紙切れを裏返してみて、目を見張った。そこにあったのは、たった一行の文章と、署名だった。
《求めよ。ヒントはすでに与えられている 寿秋慶秀》
どおりで見覚えがあるはずだった。これは兄貴の字だ。
「これは、わたしたちが埋めたタイムカプセルに入ってた紙なの」
「タイムカプセル?」
「うん。正確に言えば、わたしたちが埋めたってのは間違いになるんだけど」
「お前、掘ったのか」
公園の隅にある、一本の常緑樹に目を向けた。確か、楠だと兄貴に教えられた。
何年前だったろうか、俺たちがクッキーの缶に手紙を入れて埋めたのは、あの木の西側の根元だ。掘り返された跡があるのかどうかは、ここからじゃよくわからない。
「本当にごめんなさい。勝手に一人で……」
別段そのことに腹を立てたりはしない。どうせほとんど忘れかけていたような代物だったのだ。頭を垂れて申し訳なさそうにする芽依菜に向けて手をひらひらと振る。
「そんなこと別にいいよ。ただ、訊きたいことはいくつかあるけど」
俺の興味は大別して二つある。芽依菜が言った「わたしたちが埋めたってのは間違いになる」という言葉の意味、そしてなぜ芽依菜が一人でタイムカプセルを掘ったのかということについてだ。俺はそれを芽依菜に問うた。
頭を上げた芽依菜は、まっすぐに俺を見据える。きりりと細い眉が涼やかである。
「まず後者の疑問に答えるね。わたしは――けいくんの死に疑問を持ってる」
「疑問?」
「死そのものに、というよりは死ぬ直前のけいくんの行動に、だけど。ねえ、わたしの考え過ぎかな? けいくんはなんだか、自分が死ぬことをわかっていたような気がするの」
言葉を吐くごとに、芽依菜が弱気になっているのが見て取れる。こんな芽依菜の姿を見るのは初めてかもしれない。芽依菜は本当に、自分の考えに自信を持てていないようだ。
気持ちはわからなくもない。芽依菜の言っていることが当たっているとすると、それはつまり――
「兄貴は自殺したってことか……?」
芽依菜の言う、死ぬ直前の兄貴の不自然な行動には俺も思いあたるところがある。唐突に始めたアルバイト、脈絡もなく話した座右の銘、そして一人旅――旅先で、兄貴は帰らぬ人となった。
「自殺したかどうかはわからない。一人旅だってバイトだって、もう高校生だったんだから、そういうことに興味があったんだと考えるべきなのかもしれない。でもなんとなく気になったの。一度気になり始めると、もう止められなかった。なにか些細なことでもいいから、手がかりになるようなものが欲しかった」
「それでタイムカプセル、か」
芽依菜は頷く。感情の高ぶりからだろうか、その目に宿る光はゆらゆらと揺れている。
「高校に入学して、ちょっとしたくらいだったかな。わたしはここに来て、あの楠の根元を掘り返した。その頃はまだ、ほとんど手がかりなんて期待してなかったんだけどね。けいくんが書いた『未来の自分への手紙』を見て、安心したかったんだ。けいくんは死ぬつもりなんかなかったんだって思いたかった。わたしたちがあれ書いたのって確か七年くらい前だったはずだから、当時けいくんは中学三年生。そこからけいくんが死ぬまでの期間に、なにかしらの心変わりがあったかもしれないっていうのは、十分にわかってたんだけど……まあ、気慰め程度にはなるかなって。でも」
テーブルの上に乗せられた、芽依菜の拳に力が籠もった。
「楠の根元に埋まってたのは、わたしたちが埋めたタイムカプセルじゃなかった。代わりに埋められてたお菓子の缶の中にあったのは、茶封筒に入ったその紙切れだけだった」
俺は手元にある一枚の紙片に目を落とす。端々についた砂汚れは、芽依菜が掘り返したときに付着したものだろう。
「けいくんはわざわざこんなことまでして、わたしたちになにかメッセージを残してた。わたしの疑念はむしろ強くなったよ。なんとかして、そのメッセージを読み解こうと思ったんだ」
芽依菜は俺の疑問に対する答えを二つとも終えた。しかし俺には、また訊くべきことができた。兄貴の残した意味不明の十一行詩――これを暗号だと考えるなら、芽依菜はそれを解くことができたのか。
俺の問いに、芽依菜は首を横に振った。
「手がかりが足りなかった」
「手がかり?」
「それが暗号なら、なにか解読の手がかりがあるはず。ヒントはすでに与えられてるって書いてある。ねえ、たいくんはけいくんから何か手がかりを聞いてない?」
ここに来てようやく、芽依菜が俺にこのメッセージを見せた意図が分かった。
芽依菜は、俺に何かしらのヒントが授けられてはいないかと考えたのだ。
頭を捻り、兄貴が死んだ前後の頃を思い出す。思い当る節は一つあった。それを口にする前に芽依菜が俺に訊いた。
「座右の銘がどうとかって話、されたことない?」
「……どうして知ってるんだ?」
俺の返答を聞いて、芽依菜は「やっぱり」と呟いた。
「わたしにもそういう話をしたことがあったから。けいくんが一人旅に出る数日前のことだったかな」
「なんて言葉だった?」
芽依菜は噛みしめるように、その句を口にした。
「『高みにのぼる人は、皆螺旋階段を使う』――それともう一つ。『我々は皆、螺旋状の道の上にいる。直線的な成長などありはしない』」
芽依菜に授けられた座右の銘は、俺に伝えられたものとは違っていた。
「俺が聞いたのと違うな」
芽依菜は無言で、俺が二の句を継ぐのを促した。表情に、期待と苛立ちが混在して滲んでいる。あまり焦らしてもしょうがない。
「『文章は、用いる言葉の選択で決まる』――だったかな、確か」
俺の言葉を聞いた芽依菜の反応は、予想していたものと少し違った。
新たなる手がかりを得て、何かを思いついた様子ではない。考え込んでいて、眉根を寄せているわけでもない。ただ何も言わず、身じろぎひとつしない。
無言のままに、芽依菜は俺のほうに手を伸ばした。なにを促されているのかはすぐに分かった。兄貴の暗号文を見せろということだろう。彼女に見やすいよう天地を合わせ、石造りのテーブルの上に紙切れを置いた。
紙片への視線はそのままに、芽依菜は持参したキルト生地のバッグから、ノートとボールペンを取り出した。テーブルの上にノートを広げて、そこに何事かを書き込んでいる。それはアルファベットだったりひらがなだったり、漢字だったりしたのだが、なにを書くにもその筆運びは遅い。暗号解読を試みているのだろうが、確信めいた考えに基づいてそれを行っているというわけではなさそうだ。
芽依菜がそっちに集中している傍らでただ漫然と過ごしているのも居心地が悪いので、俺も兄貴の暗号文について考えてみることにした。
暗号はすべてひらがなで書かれているが、漢字も交えて読み易く書き直してみれば、それはこういった具合だろう。
『唐の史話 山越えて 国は五十 身を返し ふと去りて 後ずさる
其は知らぬ 眠るる日 げにこの世 そのままに 夜鷹の哭』
それぞれの節は意味ある句だが、集合的な文章としては意味不明だ。大学帰りなのでちょうど持参していたノートにこれを書いてはみたものの、どうすれば読み解けるのかは一切わからなかった。『唐』を『空』や『加羅』に、『日』を『陽』に変えてみたりもしたが、やはりどうにも立ち行かない。
――文章は、言葉の選択で決まる
――高みにのぼる人は皆、螺旋階段を使う
――我々は皆、螺旋状の道の上にいる。直線的な成長などありはしない
この言葉を、どう暗号に絡めて考えればよいのかもわからない。考え始めてものの十分で、俺は匙を投げてしまった。
ふと芽依菜を見やると、その手は完全に止まっていた。沈痛な面持ちで、兄貴の直筆を見つめている。思わず俺は声をかけた。
「なにか分かったか?」
「……分かんない」
それは暗くて低い、呟きのような声だった。この段になって俺はようやく、芽依菜が絶望していることに気づいた。いや、失望と言うべきかもしれない。頼みの綱であった俺からの手がかりを聞いても、芽依菜は暗号を解くことができないでいるのだ。
「この文章、意味がある言葉に直すとこんな感じになると思うんだけど」
芽依菜の痛々しい姿を見ていられなくて、それでもなんという言葉をかけていいのか分からなくて、俺は自分のノートを芽依菜に差し出しながら言った。
「……いらない」
芽依菜は俺のノートを一瞥して、ふさぎ込むように言った。
「でも」
「そんなの役に立たないよっ!!」
唐突に芽依菜が上げた甲高い声に、俺は思わず首を引っ込めた。
俺が思っている以上に、芽依菜は苛立っていた。
そんな芽依菜の様子を見て、俺は物悲しくなった。ここ二ヶ月ほど、脳裏を過ぎっては必死に考えないようにしていたことを、考えてしまった。芽依菜と過ごした二ヶ月が、本当に楽しくて浮き足立つような二ヶ月が、水泡に帰してしまったかのような錯覚を覚えた。あるいはそれは、錯覚ではなかったのかもしれない。
「わたしは…………わたし、こんなの……これじゃあ、なんのために――――」
大声を上げたその興奮に引きずられたのだろう。悲痛な声で芽依菜はそんなことを口にした。それは本当に、無意識から出た言葉だったはずだ。
夢から覚めたように芽依菜ははっとした。自分が何を口走ろうとしていたのか、認識したようだった。しかしもう遅い。芽依菜の苛立ちにあてられて、俺の心にも余裕がなくなっていた。
俺は、目の泳いでいる芽依菜を見据えて、静かに聞いた。
「これじゃあなんのために――なんなんだよ?」
「それは……」
芽依菜は口を噤む。仕方ないので、その先を俺が続けることにする。
「これじゃあなんのために、偶然を装って俺と再会したか分からない……か?」
芽依菜が息を呑む音がした。この反応は、一番見たくなかった反応だ。
聞くべきではなかった。言うべきではなかった。いや、こんな可能性は端から、考え付くべきですらなかったのだ。しかし、誰が俺を責められようか。思考の浮沈は当事者の知るところに拠らない。見ないふりをすることはできても、初めから見ないことはできない。
「…………どうして? いつから?」
芽依菜は俺の言葉を否定しなかった。一気に心が締め付けられる。
「別に確信があったわけじゃない。ただ不自然なことはあった。お前が俺の通っている大学を当てたときだ」
芽依菜が俺を見る目は、これから母親に叱られることが分かっている子供のような目だった。芽依菜にこんな目をさせているのは、他ならぬこの俺だ。だが、そこに罪悪感はなかった。芽依菜はずっと、俺を欺いていたのだから。
「塾講師の勤務配属校が生活圏内から外されるって原則、よく知ってたな。驚いた。なあ、なんでお前、俺にその原則が適用されてるって前提で推理できたんだ? あの時点で俺は、お前に言ってなかったはずだよな。俺が前に大手の学習塾で働いてたってこと。永井ゼミには、分校も支校もない。そんな原則関係ない。それなのにお前は、俺にその原則を当てはめて考えてた。俺の前の職場を知らなければそんなことはできないはずだ」
俺の言葉を黙って聞く芽依菜の態度は、俺の推測を確信的にしていく。
「もう一つある。永井塾長から聞いた話だ。お前入塾申し込みの電話口でこう言ったらしいな。『寿秋先生の授業を受けたい』って。お前は俺があの塾で働いてることを知ってたんだ。どうやって見つけられたのかは知らないけど、すべてはお前の計画だった」
もう楽観視はできない。
再会は偶然ではなかったのだ。芽依菜の企みによるものだったのだ。
芽依菜はなんのためにそんなことを企図したのか。
決まっている。
兄貴の暗号を解くためだ。それ以上の意味はない。
この二ヶ月間、その考えにまったく行き当たらなかったわけではない。ただ俺はその想像を、無意識のうちに頭から追いやって過ごしていた。芽依菜が俺を欺いているかもしれないという結論が浮かんだときには、もう手遅れだった。再会した当初ならいざ知らず、最近の俺は、芽依菜と過ごす時間を最上の楽しみであると感じるようになっていたからだ。芽依菜が俺を騙しているなんて信じたくなかった。俺に向けられた芽依菜の笑顔が、俺に掛けられた芽依菜の声が、俺に触れた芽依菜の体温が、全部虚構として消えていってしまうことに耐えられなかった。
しかし芽依菜の中にあったのはそんな想いではなかった。
俺は芽依菜と再会してからの短い期間に、人間のさまざまな感情に触れた。その表面をなぞるだけでは到底気づきえなかった複雑な感情に触れてきた。
戸惑い交じりの歩み寄りも、
板挟みの感傷も、
後ろめたさゆえの互助精神も。
それらの下敷きには、いたわりと愛があった。形こそ違えど、表現方法ほど違えど、そこには確かな愛情があったのだ。
父さんと母さんと、雨宮と八雲と、遼さんと老人と香織さんと――
一見しただけでは見逃してしまう、彼らの人間味を解いて俺に見せてくれたのは、芽依菜である。彼らの間にある複雑な感情が解き明かされるのを見るたび、俺はそこから何かを学んでいくことができた。授業内では学ぶことのできない貴重で大切なものを、一つ一つ教えられているようにすら感じていたのだ。
俺がそんなことを思っている傍らで、芽依菜が考えていたことは――
俺から如何にして兄貴の暗号の手がかりを引き出すか、ということだけだった。
出来るだけ自然に、出来るだけ俺を刺激しないように、それをやってのける必要があった。芽依菜がわざわざこんな風に回りくどい方法で俺に接触したのには、当然理由がある。
俺は思い出す。再会後、芽依菜と行動を共にするようになった成り行きを。
「どうやって俺を見つけたんだよ。俺にはそれを訊く権利がある」
その言葉に、さらに芽依菜は俯いてしまう。どんな表情をしているのか、ここからではもう良く見えない。暗澹たる声色で、芽依菜は訥々と語る。
「……東京に戻ってきてしばらくした後、わたしはここのタイムカプセルを掘り起こした。暗号を見つけて、それを解こうとしばらく頑張ってたんだけど、無理だった。ここまではさっきも言ったよね。そのときわたしは、それを解くことを一旦諦めたの。これはわたし一人で解けるように作られてはいないって思ったから」
もともとタイムカプセルを埋めたのは、俺と芽依菜と兄貴の三人だ。暗号を解くヒントは、芽依菜と同様に俺にも分け与えられているだろうと推測したのだろう。
「たいくんに連絡を取る方法はいくらかあったよ。実家の場所は変わってなかったみたいだし、そもそもたいくんはそのときまだ高幡不動にいた。でも、物理的に連絡が取れるからといって、それを難なく実行できるかは別問題で……えと、その」
その先を芽依菜がどう考えたのかは聞かずとも分かる。
芽依菜と再会した直後の俺の気持ちを自分に問えばそれは明白だ。
「そんな分かりきったことは別にいい。俺は、どうやって俺の職場を見つけるに至ったかということだけ聞いてるんだ」
塾で芽依菜を窘めたときよりも数段低く冷たい声に、芽依菜はさらに委縮する。かわいそうだと思ってしまう自分の気持ちを戒めて、俺は強硬な態度を保つ。
「電車内の広告でたいくんを見つけたの」
それがなんのことを言っているのか、すぐに思い当った。中央線や山手線の電車内に設置されている、アドディスプレイのことだ。
主要な路線を走る電車の中には、広告用の液晶画面が設置されている車体が多くある。乗降口の上部に、乗り換え案内などを表示するディスプレイとは別に、広告やニュースを流すための液晶画面が備えられているのだ。前に働いていた学習塾のコマーシャルが、そのディスプレイにて表示されるのを俺は何度も見たことがあった。
その塾は、春季講習や夏季講習の時期を迎えるたびに新しい広告を打つのだが、あるとき俺の担当していた授業の風景がそのコマーシャル映像に使われたことがあった。広告映像用のカメラが立川校に来たことを覚えている。実際にコマーシャルに採用されていた映像に俺が映っているのはほんの一瞬で、顔もよく分からないようなものだったはずだが、芽依菜はそれを見て、俺がそこで働いていると知ることができたのだ。
あんな映像でよくも俺だと分かったものだ。そう思ったが、俺は立川駅での芽依菜の言葉を思い出す。
――だって、わたしだよ。たいくんがどんな格好してても、わかるよ
女装していても俺だとバレてしまうくらいなのだ。それならあの映像で、俺を認識することも不可能ではないのだろう。
「それでたいくんが、大手の塾で働いてたことが分かった。どこの校舎で働いてるかまでは、CM見ただけじゃ分かんなかったから、そこからが結構大変だったかな。高幡のある日野市を含めたその近辺、立川とか八王子とかかなって検討はついたけどそこから絞り込むのがね……ホームページにある教室の写真とかから推測しようともしたんだけど、結局最後は塾に電話して聞いちゃった。あまり迷惑がかかるといけないから、避けたかったんだけどね。でもわたしが立川校にたどり着いたときには、たいくんはその塾を辞めてたの」
芽依菜は失望しただろう。せっかく俺に連絡を取れる方法を思いついたのに、それが空振りに終わりそうだったというのだから当然だ。
「塾講師と生徒という関係なら、否が応でも関わりを持つことができる。たいくんがわたしと顔を合わせたくなくても、喋りたくなくても。それを拒否することはできないはずだって」
俺が芽依菜と兄貴に対して抱いていたどうしようもない劣等感は、芽依菜にとって相当の懸念材料になっていたらしい。思春期を経て、人の感情により敏くなった芽依菜はこう考えた。たいくんは、もしかしたらわたしと話をすることすら嫌がるかもしれない、と。それが芽依菜にこういう回りくどい策を練らせた。
この話は、芽依菜が俺の内情を気取っていたという前提のもとに成り立っている。思えば芽依菜は俺に再会した当初、不自然なくらいに明るく俺に接してきた。そして、兄貴の話に自分から触れようとしなかった。すべては、俺の劣等感を刺激しないためだ。どうにか俺を懐柔して、情報を引き出さなくてはならなかったからだ。俺は芽依菜の手のひらの上で、踊っていたようなものだ。
「わたしはたいくんが塾講師を続けている可能性に賭けたよ。立川とか八王子とか国立とか、いろんな塾のホームページを見た。今度は意外と簡単に見つかった。永井英語ゼミナールのページには、勤務講師の名前がリストされてたから」
この経緯があったからこそ、芽依菜は塾長との電話口で俺の名を指定することができたのだ。そして、そこから先は俺もすでに知っている通りだ。ある程度、俺との仲が深まったと見た芽依菜は、頃合いだと思って、俺に兄貴の暗号を見せた。
結局、芽依菜は兄貴のことだけを目的にしていたのだ。俺を必死になって探し当てたのも、俺にまとわりついてくれたのも、全部兄貴のためだったのだ。
俺は浮き足立つ自分を、馬鹿みたいだと評した。訂正せねばなるまい。馬鹿みたい、ではなく、馬鹿だったのだ。
「わかった」
やっとの思いで、それだけ口にすることができた。それ以上の声をかけてやる余裕は俺になかった。
緩慢にノートを片づけて、丸椅子を立つ。これ以上、芽依菜に協力してやる気にはとてもなれなかった。そもそも、すでに手がかりのことは話したのだ。俺はもう用済みだろう。あとは勝手に、暗号解読でもなんでもやればいい。
肩掛けのカバンを背負って、芽依菜に背を向ける。ふと、兄貴の死を芽依菜に告げたときのことを思いだした。
今芽依菜は、どんな顔をしているだろう。知ろうとも思えなかった。
そして次の木曜日、芽依菜は授業を休んだ。
◆
体調不良なので休みます、という芽依菜からの電話を受け取ったのは俺ではなく飯田先生だった。授業準備と書類まとめを片づけるつもりで一コマ分早く出勤していた俺の傍らに来て、飯田先生が告げる。
「綿谷さん、熱っぽいのでお休みするそうです」
「あ……そうですか」
思い出したように、飯田先生がクスリと笑ったのが気になって俺は訊いた。
「なにか可笑しいことでもあったんですか?」
「ああ、いえ。綿谷さんて、体調不良の電話するときでもはきはきと喋るんだなあって」
そういうことか。確かにそういう生徒は少し珍しいかもしれない。
生徒自身が体調不良の電話をしてくる場合、その声色は不自然に苦しそうなものが多い。それが仮病であるにしろそうでないにしろ、とにかく身体の不調を原因として休むのだから、それに相応しい声色を出さなければならないという意識が働くのだろう。
「はきはきと、ですか」
「はい。ほんと、しっかりした子ですよね」
飯田先生が芽依菜の仮病を疑っているということはないだろう。ただでさえ普段真面目で通っている芽依菜である。授業に来るときはいつも十五分前には塾に到着しているのだ。仮病を使ってまで、塾を休みたがるような生徒ではない。
「私、授業行ってきますね」
「雨宮ですか」
「そろそろ中間期のテスト結果が返ってきてる頃なんで、楽しみです」
「雨宮って数学できるんですか?」
俺の問いを飯田先生は曖昧な笑みで濁した。考えてみれば、数学が得意な人間は、個別指導で数学を履修したりはしない。
「文系科目はなかなかなんですけど」
そう言い置いて、飯田先生は担当生徒ファイルを右手に個別指導教室の方へと消えた。
講師用のデスクに座ったまま、手元の書類をまとめながら俺は思案する。
芽依菜は本当に、体調不良なのだろうか。
先日、ああいった形で決別したきりなのだ。俺と顔を合わせるのを忌避したと考えても、なんら不思議はない。
冷静になってみると、俺の行動は少し大人げなかったかもしれない。大人げないどころか、逆恨みと言ってもいい。
俺が芽依菜のことを好きになってしまったのは、俺の問題だ。その責任の一端も芽依菜にはない。そして俺が芽依菜を好きでいなければ、芽依菜は俺を騙す必要すらなかったのだ。俺が芽依菜に惚れている故に、芽依菜は自分の目的をまっすぐに達成することができなかった。考え様によっては芽依菜は被害者ですらある。
だが、だからと言って。
それで俺がすべてを割り切れるかと言えば、これはもうまったく、土台無理な話なのだった。理屈で恋が片づけられるなら、そもそもこんなことにはなっていない。自分の未熟さに辟易する。それでも俺は、芽依菜に憤りを感じざるをえない。
無様だな、とつくづく思う。
俺がこんなにも芽依菜を許し難く思うのも、つまりは、芽依菜のことを好きだからである。騙し欺かれていたことを知った今もなお、あんな目にあって今もなお、俺は芽依菜を好きでいる。こんなざまでよくも、芽依菜を拒絶することなど考えていたものだ。あるいは、こうなることが怖くて、そんなことを思っていたのかもしれなかった。今はもう、よくわからない。
兄貴――
兄貴は芽依菜のこと、どう思ってたんだ?
あいつ、めちゃくちゃかわいいじゃないか。
芽依菜みたいな女の子に慕われてて、どんな気分だった?
この二ヶ月俺が体験したような、浮き足立つような気分だったのか?
兄貴がいないって状況で、芽依菜と二人で過ごしてて俺はこう思ったよ。
兄貴が死んでて良かった、って。
最低だな。
◆
俺が中学生になったくらいの頃だったろうか。
うちに遊びに来た芽依菜は、どこか暗い顔をしていた。俺の部屋に三人で集まって談笑しているときにもずっとそんな雰囲気でいるので、訝しく思った兄貴と俺は、何かあったのかと聞いた。
今にも泣きそうな声で芽依菜は言った。「生理になった」と。
それを聞いた兄貴は頬を掻きながら「あー……」と声を上げた。
「おめでとう、芽依菜」
兄貴が優しい声で芽依菜に言う。
「おめでとう、なの? お母さんも言ってた……」
突如として起きた身体の変化について、芽依菜は母親からすでに説明を受けていたようだった。それに加えて、学校の授業でもすでに学んでいたかもしれない。それでも芽依菜の出す声は、強い不安の色を帯びていた。
「芽依菜が大人の仲間入りをしたってことだからね。めでたい以外に、ないよ」
そう言って兄貴が笑いかけると、幾分か芽依菜は安堵したようだった。
その様子を傍らで見ていた俺はというと、少し面白くないという心持ちだった。
母親からも、教師からも、兄貴が言ったような言葉は受けていると想像がついた。それでも不安を打ち消せなかった芽依菜が、兄貴のたった一言で安心する。きっと芽依菜は、兄貴に言って欲しかったのだ。周囲と代わり映えのしない言葉でも、兄貴が言えば、芽依菜には違って聞こえるのだ。それが、面白くなかった。
「わたしはどんな大人になるのかなあ」
ふと、芽依菜が言った。
「たいくんとけいくんはどんな大人になる?」
「俺? わかんねーよ」
「俺も泰慶と一緒だな。まだよくわからない」
「ふうん……未来のわたしに聞けたらいいのにな」
その言葉を聞いて、何かを思いついたように兄貴はにやりと笑った。
「それじゃ聞いてみよう」
「え?」
兄貴に対して声を上げたのは俺と芽依菜の両方である。
「タイムカプセルを埋めればいいんだ。未来の自分へ向けた手紙を入れて」
芽依菜に初めての生理が来て、タイムカプセルを埋めたあの頃から、俺と芽依菜の接し方は微妙に変わっていった。べたべたと俺にくっついてきていた芽依菜は、あまり俺に触れなくなった。俺はというと、そんなことはついぞ思ったことはなかったのに、芽依菜に意味もなく触れたいと思うようになった。膨らみ始めた芽依菜の胸を前に、なにやらよくわからない気持ちを抱くようになった。一緒に風呂に入ることなど、とてもじゃないが考えられなくなった。芽依菜のTシャツの襟ぐりから紐のようなものが見えた日は、夜になると、そのことばかり考えてしまうようになった。その癖俺は芽依菜の前に立つと、上手く言葉を紡げなくなってしまっていた。たとえ口を開いてもそこから出てくる言葉は、ともすれば芽依菜を傷つけてしまうような言葉ばかりだった。
変わらず芽依菜と接することができている兄貴を見ると、どうにもやりきれない気分になることが多々あった。芽依菜の頭をかいぐるようにして細い黒髪をかき回す兄貴と、されるがままにして目を細める芽依菜を見ると、その日はもう食事も喉を通らないほどだった。そしてそういう光景を見るたび、俺はどんどん芽依菜と上手く喋れなくなっていった。
俺は男に、芽依菜は女になっていったという話だ。
兄貴だけが、いつまでも兄貴のままだった。最期まで。
◆
担当生徒の近況報告という体で保護者たちに何件か電話を掛け終えたあたりで、そろそろ今やっている授業のコマが終わる時間になっていた。いつもならば芽依菜が来塾してデスクに向かう俺に声をかけてくる時分なのだが、今日はその姿を見ることはない。飯田先生が俺に芽依菜の言伝を預け、しばらく後にそれを雨宮が追ってから、一時間半が経過しようとしていた。
いい加減雑務も終えたのでそろそろ帰ろうとかと思っているところに、雨宮と飯田先生が個別指導教室から出てきた。背の丈がほとんど同じ二人は、まるで仲の良い姉妹のようだ。仮初の姉妹は何事かを談笑しながら通路を歩いて、講師デスクの密集する一角へと差し掛かる。塾長は中学生の集団授業へと向かうべく、数分ほど前に上階の教室へと発っていたので、講師スペースにいるのは俺だけだった。
と、雨宮がデスクに座った俺を見とめて声をかけてきた。通路と講師スペースの間にある長カウンターに両手をかけて俺の名を呼ぶ。
「寿秋先生!」
「んー、なに?」
デスクに座ったまま、頭だけを雨宮に向けて応える。
「今日わたちゃんお休み?」
先ほど芽依菜についてごちゃごちゃと考えてしまっていたので思わず動揺しそうになるが、なんとか平静を保った声を出すことができた。
「らしいな」
「大丈夫かな?」
「さあ、わからんが……大丈夫じゃないか。季節の変わり目だし、風邪とかだろ」
「本当にそうかな?」
顔全体で薄く笑みを浮かべながら雨宮が言う。
「なんだ? 一体」
んふふ、と喉を鳴らすようにしてから、雨宮は少し顔を寄せてきた。カウンターを挟んでいるので、それでも俺と雨宮の間にはちょっと距離がある。ポニーテールを揺らしながら、潜めた声で雨宮はささやく。
「今週ずっとわたちゃん元気なかったんだよ」
「へえ?」
その原因が俺にあるかもしれないことは、黙っておく。
「やけに小食だったり、ぼんやりしてたり、授業中当てられて超焦ってたり」
「授業中当てられて焦るのは別に……」
「いやいやわたちゃんに限ってそれは珍しいことですよ」
おどけて雨宮が指を振る。妙に納得してしまった。
「あたしが思うにあれは恋だよ」
「はあ」
気のない返事になってしまったのは、苦笑を押し殺したからだ。雨宮の推察は当たっているような、そうでないような。
途端に雨宮が声のトーンを落とした。
「わたちゃんに彼氏出来たら、あたしと遊んでくれなくなっちゃう」
妙に神妙な顔をしてそんなことを言うので、思わず吹き出してしまった。
「お前そんなにあいつのこと好きか」
「え、うん。好きだよ」
一二もなく雨宮は即答する。そんな風に簡単に芽依菜を好きだと言えてしまう雨宮が、少しだけ羨ましかった。それは、俺には許されないことだったから。
「お前ら、恋愛の話とかしないの?」
文芸誌にまつわる一件があるまで雨宮の事情を芽依菜が知らなかったように、芽依菜の恋愛事情について何かしらを雨宮が知っている様子はなかった。そのことを少し不思議に思ったので訊いてみる。
「したことないかな」
「なんで?」
「なんでって……恥ずかしいじゃん」
それを聞いて俺は少なからず驚いた。
「女同士ってのは寄り集まれば恋愛の話をするものだと思ってたけど」
「うわ、ステレオタイプ的決めつけだ」
雨宮はからからと笑う。
「そういうのも、もちろんあるとこにはあるけどね。世間話的な恋愛話っていうのかな。でもあたしはあれをするくらいなら、明日の天気を話した方が有意義だと思う」
遼さんが言っていたことを思いだした。「こんなの世間話じゃねえか」
「自分の恋愛を客観的に見て、わかったようにあれこれ言うような真似をあたしはしたくないってだけ。持論だけどね。どうせ恋愛について吐露するんだったら、話している最中にも顔から火を噴いちゃうような、そんな話じゃないと意味はない……と思うんだ」
「意味はない、とまで言うか」
「意味がないと言うのも易しいくらいだよ。本当は害悪だって言いたいくらい。最中に、自分のことを冷静に振り返って述べることができるような恋愛はまがい物だよ。そうでないなら、口にしている言葉の根幹部分に嘘が混じってる。ああ、なんか上手く言えないなあ」
きっと雨宮はこう言いたいのだ。恋愛の話をするなら、そこに恥じらいが伴って然るべきである。そうでない恋愛話は、その話、あるいはその恋そのものが虚構である、と。
「なんかいろいろ難しく考えてんだな、お前」
「こんなことを考えてられるのも今のうちだけだと思ってるからね。自身を俯瞰で眺めるのは、それが得意な大人たちに任せることにします」
今ある時間を今ある価値観で、ということだろうか。
「そんなわけでわたちゃんを元気づける役回りは寿秋先生にお譲りします」
「なんで俺なんだよ」
「幼なじみなんでしょ?」
「今はただの講師だよ」
俺の言葉に雨宮は眉根を寄せる。
「わたちゃんが不憫だ」
「なんでそうなる」
「寿秋先生と再会できてからのわたちゃんは、いつもご機嫌だったからねえ」
言葉に詰まる。
芽依菜にとって俺との再会は、単なる手段であり、それ以上の意味を持たないはずだ。
先週末の苦い思い出が脳内にフラッシュバックする。
「それは気のせいだろ」
興味のない風を装って、素っ気なく言う。
「でも木曜日とかさ、明らかにそわそわしてんだもん。あたし後ろの方の席だからよく見えるんだけど、終業のホームルームの最中なんかずっと時計ちらちら気にしちゃって」
そんな時計ばっかり見ても塾の時間が早まるわけじゃないのにね、と雨宮は笑う。
「相談に乗ってあげるくらいしてよ、寿秋先生。あたし幼なじみってのいないからわかんないんだけど、家族みたいなもんなんでしょ? 家族にも友達にも話せないような恥ずかしい話でも、家族っぽい人には言えるかもしれないよね――なんて、お節介言い過ぎかな」
そこで雨宮は話を切り上げた。受付の付近で、雨宮を見送るために待っていた飯田先生を気にするように見やって、俺に暇を告げる。
去っていく雨宮を見ながら俺は考える。雨宮はおそらく、最後の一言を言いたいがために俺に話しかけてきたのだろうな、と。
雨宮の勧めは的外れなものだった。今の芽依菜の相談相手として、俺ほどに適当でない人間は他にいないだろう。ここ一週間ほど芽依菜の様子がおかしいというのなら、その原因はほぼ間違いなく俺にあるのだ。
雨宮が去った後俺の心を支配したのは、的外れな雨宮に対するあざけりでも、芽依菜に対する申し訳なさでもなかった。ただ俺は、嬉しかった。自然とにやけてしまう口元を、手で抑えつけなければいけないほどに嬉しかった。
雨宮から聞いた、学校での芽依菜の様子が嬉しかった。
やばい、と感じたがどうしようもなかった。
本当に俺の心はどうなっているのか。
あんな風に騙され、利用されたというのに、この感情は一体どうしたことか。
混沌とした心持ちだった。芽依菜に対する憎しみと畏怖と恋心がごちゃごちゃになって、もうなにがなんだかよくわからなくなっていた。
そんな気持ちを戒めようと試みるも、それが上手くいっているのかどうかの判断すら、俺にはできなかった。
◆
芽依菜との私的な連絡を何も取らないままに一週間が過ぎ、再び木曜日がやってきた。
雨宮の話を聞いてからのこの一週間、俺はどこか悶々とした日々を過ごした。鬱々とした日々でもあった。大学で講義を受けているとき、食事を摂っているとき、果てはバイトで中学生の指導に当たっているときでさえも、俺はなにかしら芽依菜のことを考えて過ごしていた。芽依菜が塾を楽しみにして落ち着きなく学習机に座っているところを想像しては嬉しくなり、芽依菜が俺を欺くために無理やり俺に笑いかけていたのを思い出しては苦しくなった。
しかしこの木曜日、俺はそれらの苦悩がいかに呑気なものであったかということを知った。先週に引き続き今週も、芽依菜は塾を休むという連絡を入れてきたのである。
その電話をとって俺に伝言してくれたのは、先週と同じく飯田先生だった。
「大丈夫でしょうか?」
先週とほとんど変わらない内容の伝言を口にした飯田先生の声色は、どこか訝しげだ。単純に体調を慮っての「大丈夫でしょうか」という発言ではないように聞こえる。
飯田先生の言葉に曖昧に首を傾げて「後でフォロー入れときます」とだけ返した。
学校でも塾でもそうであるが、休んだ生徒の家庭には後々に担任が電話を入れることになっている。保護者から、子供の体調加減を聞いたり、宿題内容を伝言してもらったりする。集団授業を休んだ生徒の家庭には、その日に行われた授業の概要を伝えたりもする。
俺は先週芽依菜が休んだ際、その電話を入れなかった。怠慢ゆえにではない。芽依菜の生活環境を考慮に入れた末での判断である。
寮暮らしをしている芽依菜は、保護者と一緒に住んでいるわけではない。出席簿に登録された電話番号は、寮に引かれた固定電話のものである。そこに電話が掛かってくれば、その応対をしなくてはならないのは芽依菜だ。体調不良で休んでいるという生徒を、わざわざ電話口に呼び出して付き合わせることもないだろうと、先週の俺は芽依菜に電話をしなかった。実際に体調不良であったかどうかは疑わしいところだが、体面上はそうなっているのだから仕方ない。永井塾長も特に異は唱えなかった。
だが二週連続となると少し事情が違う。塾講師にとって、こういう状況は芳しくない。生徒が授業を休みがちになるというのは、その子が塾を辞めてしまう兆候である可能性が高いからだ。
俺は頭を掻いた。これはどうにもまずい事態だ。俺のせいで、芽依菜が塾を辞めてしまうかもしれない。そもそもにして私的な付き合いが禁じられている環境下であったのに、あろうことか、その私情が業務にこの上ない悪影響を及ぼしている。
俺は自分の内心や苦悩にばかりかかずらわっていて、こういった事態を想定していなかった。なんとも間抜けで、呑気なことだ。
担当生徒から収集した成績データをシステムに入力しながら、さてどうしたものかと頭を悩ませる。
けじめをつける、厳格に接するなどと言っておきながら、みすみすこういった事態を招いたのは単に俺の失態である。結局のところ俺は口ばかりで、その場の雰囲気と自分の感情に基づいた態度でしか芽依菜と接して来なかった。何も我慢せず、何も矯正しなかった。
考えれば考えるほど情けなくなるばかりだ。しかし今は、これからのことを考えねばならないのもまた事実だ。仕事として、講師として、芽依菜にどう対応するべきか。
まず現実問題として、本日芽依菜にフォローの電話を入れるべきか。
事務的な連絡に関してはほとんどないが、しかし休みが二週続いたとなればこれはもう、電話するべきだろう。ここで放置しておくのは、いよいよ怠慢と取られかねない。
そうと決まればそのタイミングは早いほうがいいだろうということで、さっさと目の前の事務仕事を片づけた。密集した四つの講師デスクの真ん中にある電話機へ手を伸ばす。
その時ふと、斜向かいのデスクで参考書とにらめっこしていた永井塾長と目が合った。
そうだ。塾長に、芽依菜へ電話することを報告しておいたほうがいいかもしれない。
「あの」
「どこかけんの?」
俺が口を開くや否や、塾長が聞いた。
「綿谷芽依菜にフォロー電話を」
「ああ」
四六版の参考書を閉じてデスクに置きながら、なんでもないことのように塾長は言った。
「いいよ。かけなくて」
「え、でも二週連続で休みですし」
「かけて意味のない電話はかけるなって言ってんの」
口調こそいつもの通りだが、想像もしていなかったきっぱりとした物言いに俺はたじろいだ。少し言いにくいことだが、俺はこう切り返す。
「このままずっと休みがちになっていくと、そのうち辞めるかもしれません」
「それはそうかもな」
「だったら」
「寿秋が電話一本するだけで綿谷の問題が解決するならそれでいい。一応訊くが、綿谷は単なる体調不良で休んでるだけじゃなかったか?」
俺は思わず口を噤む。
「意地悪いことを言ったな。で、寿秋よ。お前綿谷に電話してなんて言うつもりだったんだ?」
塾長は、デスクの棚から新しい四六版を取り出して開きながら言う。
「体調の具合を聞いて、それから……今の授業に関してなにか不満がないかをそれとなく探って、要望なんかもあれば聞いて」
塾長が相好を崩す。可笑しくて仕方がないという顔だ。
「マニュアル通りだな、優秀だよ寿秋。本気でそんなことをしようとしてたんなら、やっぱり止めてよかった」
「どうしてですか。前に、綿谷芽依菜を辞めさせたくないって言ったのは塾長でしょう」
「うん、だからだよ――いいか寿秋、上司の立場から頼ませてもらう。本気で綿谷のことを対応してくれ」
「本気で?」
塾長の言わんとするところが読めなくて聞き返す。
「綿谷が塾に来たくないって思ってるとしよう。そうだとしたら、その原因は本当に寿秋の授業にあるのか? 寿秋、塾外で起こった問題を塾講師として対応しようとするな」
塾長の言葉は、プライベートで俺と芽依菜が会っているということを前提としたものだ。それゆえに、俺は一気に居心地が悪くなった。それを察しているのかいないのか、塾長は変わらぬ調子で続ける。
「塾講師としてかける電話には意味がない。綿谷を塾に連れ戻せるとしたら、講師としてのお前じゃなくて、一人の人間としてのお前だよ。そういうことが言いたかった」
「……すみません」
言われてみれば当たり前のことだった。侘びの言葉が口をついてでたのは、察しの悪さを恥じたからというわけではない。塾長は、俺と芽依菜の過剰な接触を不問にした上でこういうことを言ってくれているのだ。
「彼女泣かすなよ」
笑いながら塾長が言うので、さすがに否定せざるをえない。
「か、彼女じゃありませんよ!」
「ん、そうなのか? 俺はてっきりそういうことになっているもんだと」
塾長は平然としている。慌てているのは俺ばかりだ。
「まあ寿秋と綿谷の間柄がどうかは知らんけどな」
「さすがに無頓着過ぎでしょう」
「俺が頓着するのは生徒の数と、生徒の成績だけだよ。それのために利用できるものは全部利用しろ、寿秋。綿谷を引き留めるのに色恋が要るならそれもまあ、上手く使え」
そもそも芽依菜に恋をしているのは俺のほうなので、それを引き留める手段に使えるかはまた別の話なのだが。しかしそれにしても――
「それでもやり方ってものを考えるべきでしょう。生徒と講師で色恋とか、口にするのも危険なくらいですよ」
「そこを含めて上手くやってくれるとありがたいな。社会問題にならんよう気を付けてな」
「手段を選ばなさ過ぎです」
俺の言葉に、塾長ははたはたと手を振って答える。こちらを一瞥もしない。
「手段や過程なんてどうでもいいよ。それを考慮して動くのは学校の教員だ。俺たちは塾講師だぞ? 最終的にはじき出される数字だけ見て動けばいい」
外部に聞かれれば、すぐにやり玉に挙げられるであろう言い草だ。呆れて息を吐くも、どこか清々しいその割り切り方には憧れてしまうところもなくはない。
「場合によっては、塾ごと潰れるような問題なんですけど」
「そんときはそんときだ。そういうリスクも承知で、お前ら講師採用してるんだから。お前らがなんかやらかして塾が危うくなっても、それをやらかしたのが俺の選んだお前たちであるなら、俺は後悔しないよ」
「……信用し過ぎですよ」
無頓着過ぎ、手段を選ばなさ過ぎ、信用し過ぎと三拍子揃った塾長に向かって、少し感動してしまったことを隠すように言う。
「信用もするさ。講師たちにとって俺は、学生時代アルバイトやってたときの上司ってだけだろう。高々三年ほどの付き合いの人間だ。だけど俺からしたら講師たちはそうじゃない」
「そうなんですか?」
「そうだよ。俺はこの塾業で食っていってるからな。アルバイトじゃない。俺とこの塾は生死を共にしてる。そして今この塾は、俺以外の講師たちがいなきゃ成り立たん。俺はお前たち講師に助けられて生きてるんだよ。そう思ったら、一人ひとりが命の恩人みたいなもんだ。そりゃ信用もするだろう」
俺たち講師は所詮アルバイトである。ここを辞めたところで、別段死にはしない。だけど塾長はそうではないのだ。所詮アルバイトの身に、自分の命を乗せてくれているのだ。
「綿谷のこと頼んだぞ」
改めて塾長は言った。いつもの調子、なんら変わったところのない声色だったが、俺にはそれが、今までと少し違って聞こえた。
「はい」
それだけ答えて、俺はデスクを立った。
◆
二週連続で芽依菜が塾を休んだことによって、俺は通常よりも早くに仕事を上がることができた。生徒が休んだからといって講師に仕事がなくなるわけではないが、それでも空いた九十分ほどを丸々フォローの仕事に当てなければならないほどにやることがあるわけでもない。
退勤の際に塾長の顔が半分笑っていたのは、俺がこの後どういう行動を取るか予測がついていたからかもしれない。
立川駅南口からコンコースを北に向けて抜ける俺の足は、自然と早まっていた。
塾を出てからすぐに芽依菜の携帯に電話を入れてみたのだが、案の定それは取られなかった。自宅に向かうまでの間に折り返してくればいいなと考えたが、それも恐らくは望み薄だ。やむを得ない事情で電話に出られないのか、それとも意図的に連絡を拒絶しているのか――なんとなく、後者なのではないかと思う。
現在時刻は午後七時半。いくら芽依菜が優等生だからといって、この時間まで学校に残っていたり、すでに就寝しているということはないだろう。電話を取れない状況を他に考えるならば、食事をしているか入浴をしているか、そんなところか。
二十分ほどで自宅のアパートへと帰り着く。その間に俺の携帯が鳴ることはなかった。
別にいい。電話なんて、一応かけてみただけだ。俺は端から直接芽依菜に会いに行く心づもりだったのだ。塾講師としての俺ではなく綿谷芽依菜の幼なじみの俺として、彼女と顔を合わせると決めていた。
ベッドの上にスーツを脱ぎ捨てて浴室に入る。シャワーを浴びている間中ずっと、芽依菜に会ったときのことをシミュレートしていた。しかしそれはまったくもって、上手くいかないのだった。第一声にどんなことを言おうか、そんな段階からつまづいてしまって答えが出なかった。
髪を乾かしながら、クローゼットを開けて衣装を見繕う。ウィッグは大人しい色合いのものから選ばなくてはならない。これから行く場所に、派手な髪色をした人間はいない。服装はあまり大人びたものにならないようにしなくてはならない。これから行く場所に、高校生以外の人間はいない。
倖月学園学生寮女子棟は倖月学園の敷地内にある。八雲宗一に会うため学園に潜入した際、俺は芽依菜からその建物を示されていた。だから芽依菜がどこで暮らしているのか、場所は分かる。ただ、そこに行けば芽依菜に会えるという保証はない。そもそも倖月学園のセキュリティ的に、部外者の俺がどこまで立ち入ることができるのか分からない。それでも俺はそこへ向かう決心をした。
いつもより念入りに、しかし手早く女装を終えて家を出る。
男の姿で女子寮の周りをうろつくよりは、女装をしていたほうが幾分かはマシだろうという考えなのだが、果たしてどうだろうか。
立川駅へ近づいていくにつれて、身体が固くなっていく。自分が緊張しているのだと気付いたのは、中央線快速東京行に乗車してからのことだった。
結局俺は芽依菜に会って、どうしようというのだろう。なにを話そうとしているのだろう。すんなりと言葉が出てくるほど、心の整理がついているわけではない。もしかしたら会うことすらできないかもしれない。仮に会えても、何も言葉を紡ぐことはできないかもしれない。
それにも関わらず、俺がこうして芽依菜の住む場所へ向かっている理由はなんだ?
中央線車内入口付近、頭上の液晶ディスプレイに流れるコマーシャルを眺めながら、そんなことを考えていた。昔働いていた塾のCMが流れるかもしれないと思ったが、それを確認する前に電車は国立駅に着いてしまった。
国立駅からまっすぐに伸びる大学通りを歩いていく。国立はいわゆる学園都市だ。大きな通りに沿って多数植えられた桜の木の下には、所狭しと自転車が停められている。あちこちに停められたおびただしい数の自転車は、いかにこの街に学生が多いかを表している。
進むに比例して大きくなっていく緊張を押し込めながら、足早に一橋大学の前を通り過ぎる。そうしてしばらく歩いていると、倖月学園の校舎が見えてきた。
通りに面した校門の前で、俺は舌打ちした。時間帯を鑑みれば当然のことなのだが、やはり校門は閉まっていた。ここからでは、芽依菜の住む女子寮の姿を拝むことさえ叶わない。講堂やら校舎やらに視界を阻まれているのだ。女子寮は敷地内の隅の方にあったはずだ。大体の場所は分かる。
広大な長方形の敷地を回るようにして、俺は壁やフェンスに沿って歩いた。途中、運動部員たちによって引かれた歪な白線が横切るグラウンドを目にした。日が落ちて随分経っているというのに、白線はいやにはっきりと自分を主張していて、俺の目に焼き付いた。
レンガ積みの壁に嫌気が差してきたころになってようやく、俺は通用門らしきものを見つけた。正門よりも小さく簡素な造りだった。胸の高さほどある可動式の鉄柵によって封鎖されている。鉄柵を横に引いて開門するという仕組みのようだ。
藁にもすがる思いで鉄柵に近寄る。駄目でもともと、開いていなければ最悪乗り越えてでも侵入しようと考えていたくせに、いざその鉄柵に手を掛けてみると、不安が一気に込み上げてきた。こんな犯罪めいた真似をしていていいものか。巡回中の警察に見つかって職務質問されようものならなにも言い訳できない。高等学校の敷地に無断侵入しようとしているだけでもまずいのに、それに加えて俺は女装中なのだ。背筋が寒くなる。
通用門は学校の敷地を挟んで反対側にある。大きな通りからは離れた場所なのだが、それでもいくらかの人通りがある。あまりもたもたとしているわけにもいかない。俺は肚を括って、鉄柵に手をかけた。力を込めてそれを左に引くと、重い手ごたえと共に鉄柵は動いた。思わず息を呑む。怪しまれるような行動は慎むべきだと分かっていても、周囲を確認せずにはいられない。数十メートル離れたところから大学生らしき一団が歩いてくるが、幸いにもこちらを気にしている様子はない。
鉄柵を人一人通れるくらいに押しのけて、身体を滑り込ませる。素早く元通りに門を閉鎖して、門柱の影に身体を隠して息をついた。少し足が震えている。
夜の学校はまるで異世界のように感じられた。教師も生徒もいない学校は、その役割を忘れてしまったかのように静まり返っていた。たまに聞こえてくる音はすべて、壁の外の世界から響くものである。石畳のない部分に植えられた名も知らぬ大きな木に、貴様の悪行は全部見ているぞと言われているようで怖かった。
校舎や講堂、グラウンドのあたりは真っ暗なのだが、そう遠くないところに見えるコンクリート製の一棟には明かりが灯っていた。どの部屋にもカーテンが引かれていて中の様子は窺えない。確かあれが女子寮だったはずだ。
横隔膜がひっくり返るんじゃないかというほどに緊張した身体に鞭打って、俺は女子寮の方へと足を踏み出した。歩きながら考える。俺が侵入に使った通用門は、もしかしたら寮生が夜間外出をする際に使われるものなのかもしれない、と。鍵がかかっていなかったことや、位置関係から推察するに、ありそうな話だった。
女子寮のエントランスにたどり着いたところで、再び俺は途方に暮れてしまった。コンクリート製の石段を三つ上った先、女子寮の入口である両開きのドアには鍵が掛かっていた。脇の壁にはそれを開くための装置が備え付けられている。見たところ、カード式のロックだろう。俺はため息をついた。
とりあえず他に入口がないかと建物の周りを一周してみたが、通用門を見つけたときのように上手くはいかなかった。周囲を歩いているうちに分かったことなのだが、どうやらこの寮の一階には、個人用の居室はないようだ。色とりどりのカーテンに遮られた窓とベランダは全部俺の頭よりも高い所に並んでいた。一階にある窓やガラス戸も軒並みカーテンが閉められていたが、そこにベランダはなかった。おそらく食堂やロビーにある窓なのだろう。この時間帯だからか、一階の窓から光が見えるような場所はなかった。
しかしそんなことが分かったところで、どうしようもない。これにはさすがにお手上げだ。エントランスの扉の脇にもたれかかるようにして、俺は頭を垂れた。
スニーカーを選んだのは正解だった。思いのほかあっちこっちと歩き回ることになったので、もしヒールを履いていたら今頃つま先が痛くなっていたかもしれない。
日を改めるべきだろうか。そう思いはしたものの、帰る方向になんとなく足が向かなかったのはきっと、ここに芽依菜がいるからだろう。
芽依菜に会いたいな、と思った。もう、何を話すべきかなんてどうでも良くなっていた。いや、ここに向かうと決めたときから、そんなものはもうどうだって良かったのかもしれない。
俺はただ、芽依菜に会いたかったのだ。あんな風に突き放すように芽依菜の前から去っておいて、芽依菜に会えない十日間ほどを、物足りない期間として捉えていた自分がいた。雨宮から学校での芽依菜の様子を聞かされただけで、その想いは大きく膨れ上がった。
今この場でこんなことを考えてしまう原因は分かっている。もう、誤魔化しなく受け入れねばならないのだ。俺は失恋しているのだということを。
俺はずっと期待していた。芽依菜からなにかしら連絡が入らないかと、ずっと期待していたのだ。まるで子供である。殊更に芽依菜の前で拗ねた態度を取って、彼女の気を引こうとしていたのだ。自分が嵌められたことを逆手にとって、彼女の罪悪感に付け込もうとしたのだ。そんな自分を恥じ入るばかりである。
携帯を取り出して、眺める。誰からの着信もない。
芽依菜に会いに来たことを、こちらから伝えようか。考えてみるが、そんなことはとてもできない。俺は、怖くて怖くて仕方がない。これ以上、自分の心が軋む音を聞くのは辛い。何度思い知ったって、何度折れたって、それに慣れることができないのはどうしてなのだろうか。
俯いて見つめていた自分の手に、冷たい雫が触れた。星の見えぬ曇天から、雨が降ってきた。強い雨ではなく、しっとりと降る六月の雨だった。エントランスには申し訳程度の軒下があって直接雨を被ることはなかったが、優しく降る雨は弱く吹く風に乗って、少しずつ俺の身体を濡らしていった。
しとしとと降る雨の音を聞きながら、泣きっ面に蜂だなとぼんやり思う。
俺は膝を合わせてエントランスの壁にもたれてしゃがみ込んだ。ちょうどいいや、と開きなおる。落ちるところまで落ち込んだ気持ちに、おあつらえ向きの雨。どうせ落ち込むならいっそ思いっきり落ち込んだほうがすっきりすると、誰かが言っていた。鬱々とした気持ちに歯止めが聞かないなら、もうそれに浸ってやる。
そうして俺は顔を伏せた。ふさぎ込んで、自分の身体を抱いた。瞼の裏にある闇に浮かぶのは、芽依菜と兄貴ばかりだ。辛かったことよりも、楽しかったことや嬉しかったことを思いだすほうがはるかに苦しいのだということに気づいてからは、延々と芽依菜が笑顔だったときのことばかり思い出していた。そんな想い出は数えきれないほどたくさんあって、わざとらしい回想をするのに困ることはなかった。
斜めに振る雨は靴を濡らし、服を濡らし、ウィッグを濡らした。俯いているので顔に雨はかからない。だから、頬が濡れているのは雨のせいではない。
メイク酷いことになってるんだろうなあとか、ウィッグ干さなきゃいけないなあなんてことを頭の片隅で心配しながらも、芽依菜との思い出を再生する作業は止まらない。熱を伴って溢れてくる涙も止まることはない。だからちょっと今は顔を上げられそうにはない。
どれくらいそうしていただろう。身体がだいぶ冷えてきて、軽く震えが出始めたころだった。伏せた頭の右側の方から、小さく機械音のようなものが聞こえた。
どっぷりと記憶に陶酔していたせいで、反応が遅れてしまう。その音がロックの解除される音だと気付いたのは、開いたドアによって動いた空気を身体に感じた後のことだった。
まずい、と思ったがどうすることもできなかった。ひどい有様になっているであろう顔を上げることもできず、俺は固まった。怪しまれても仕方ないが、できれば無視して通り過ぎてくれることに期待するしかない。視認することはできないので、ドアから出てきた人物が通り過ぎる気配を聞き漏らすまいと、俺は聴覚に集中した。
ざ、と地面と擦れた靴が音を立てた。
そのまま通り過ぎてくれ、と必死になって願う。
五秒、十秒と数えたが、最初の足音以外になにか音が聞こえてくることはなかった。
闇の中で俺はある異変に気付く。雨の音は依然として聞こえているのに、身体が雨を感じなくなっていた。
ゆっくりと顔を上げる。しゃがみ込む俺に、傘が差しかけられていた。それを持つ手は白く綺麗で、少し震えている。付き合わせられた膝には、小さい頃自転車で転んだときについてしまった傷跡が残っている。さらに視線を上げて、傘の持ち主の顔を見る。
俺と同じく膝を折って、泣きそうな顔をしている芽依菜がいた。
カーキ色の短パンを履いて、Tシャツの上から灰色のパーカーを羽織っている。ラフな服装を見るに、これからちょっとコンビニにでも行くところだったのかもしれない。
「――夜に一人歩きは駄目だろう」
突然現れた芽依菜を前になんと言っていいのか分からず、そんな間抜けな言葉しか出なかった。
「ごめん、なさい」
独り言の呟きかと思うほどに小さな声を詰まらせて、芽依菜はそう言った。声は震えていた。
「ごめ、んなさ、い」
少しの沈黙のあと、芽依菜が繰り返す。先ほどよりも聞き取りづらかったのは、言葉に涙が混じっていたからだ。
あ、これはまずいな、と思う間もなく、みるみるうちに芽依菜がしゃくり上げ始めた。目尻からは涙がボロボロと零れ、押し殺した声が口から漏れ、それに合わせて肩が上下した。傘を持つ手は震え、反対の手で涙を拭おうとパーカーの袖で顔を擦るも、どんどん溢れる涙と鼻水に追いつかない。
ごめんなさい、と再び芽依菜が言った。泣きながら無理矢理に発した言葉だったので、とても聞き取りづらかった。
夜に出歩こうとしたのを窘められた件について謝っているわけではない、ということは明白だった。涙ながらに繰り返す芽依菜の謝罪は、何に宛てられたものなのか考えずとも分かる。
俺を騙していたことについて。
俺を利用していたことについて。
俺の気持ちを知りつつも無理に接触したことについて。
そのことについて、ただただ芽依菜は謝罪を繰り返した。顔をぐしゃぐしゃに歪めて、みっともなく泣きながら、それでも俺に謝り続けた。
その様子を見て俺は、自分が勘違いをしていたことに気づく。
俺と再会して過ごした期間に、芽依菜が俺に向けた表情や態度は、虚構などではなかったのだと知った。俺が一緒に過ごしていた芽依菜は、作り物なんかではなかったのだと知った。俺が、必要以上に芽依菜を恐れていただけだと知った。
目の前で泣きじゃくるこの女の子が、そんなに器用に振る舞えるわけがないのだ。
兄貴の暗号を解くという目的はあっただろう。俺を懐柔して手がかりを見つけなければならないという思いはあっただろう。
だが、それでも、すべてがそのためにあったわけではないのだ。
親と子の心を融かし、巫山の夢を守り、同悪たちの真実を見通したあの日々は、嘘として消えてしまったわけではないのだ。
芽依菜は、楽しくないのに笑ったりはしない。苦しくないのに、顔を顰めたりはしない。憂鬱でもないのに、溜息を吐いたりはしない。辛くないのに、泣いたりはしない。
芽依菜がこうして泣いているということは、彼女は今とても辛いということだ。
俺と過ごした二ヶ月半ほどが、全部彼女にとって演じたものだったとするなら、こうして涙を流すことなどあるものか。
たった今、そのことを思い知った。
「許さないよ」
だからこそ、そう言った。多分、笑えていたんじゃないかと思う。
「許さないけど、でも好きだよ」
言いながら、予感した。
俺はもう二度と、新しい恋をすることはないのだろうな、と。
芽依菜の想いは兄貴にある。兄貴が死んで時間が経った今も、少なからず兄貴を想っている。俺は芽依菜が兄貴を想ってしたことを、許すことはできない。芽依菜が好きだから。
ずっと一緒にいたいから、俺はそう言った。
俺の言葉を聞いて少し驚いたような顔をした後、芽依菜はさらにたくさんの涙を流した。その口から合間に聞こえてくる言葉は、「ごめんなさい」ではない。ありがとう、ありがとう、と芽依菜は繰り返した。多分、伝わったと思う。俺がどう芽依菜を想っているのか、それさえ伝わっているなら、俺たちの仲直りは完了しているはずだ。
俺が今日芽依菜に会いに来たのは、塾講師としてではない。女の格好をしたのは、その表れだ。女装をしている俺は芽依菜の『先生』ではない。女子寮に潜入する可能性があったからというのは、単なる手段の問題だ。
幼なじみって家族みたいなものなんでしょ、と雨宮は言った。
全然違うよ、と俺は心で雨宮に向けて言う。
芽依菜を家族のように見たことは一度だってない。これからもないだろう。
芽依菜に対して、男としての気持ちを伝えた俺は、女の格好をしている。
それが俺のひねくれっぷりを表しているようで、少しだけ可笑しかった。
◆
わんわんと泣く芽依菜を、たっぷり時間をかけて落ち着かせてから、俺は暇を告げた。すっかり夜も遅くなっていたし、あまりにも長く外にいたので身体が冷えていた。
そんな俺を引き留めて、腕を引っ張ったのは芽依菜だ。とりあえず部屋に上がっていけということだった。
「だってそのまま帰ったら、風邪ひいちゃう」
「いやでもここ女子寮だし、まずいだろ」
少し前まで潜入を考えていた人間の言葉とは思えないほどに殊勝な態度で芽依菜の申し入れを断ろうとしたのだが、結局強引に屋内へと引っ張り込まれてしまった。
今にも部外者の立ち入りがバレて大目玉を食らうんじゃないかとびくびくしていたのだが、消灯されたロビーを抜けて芽依菜の部屋にたどり着くまでに、誰かとすれ違うということはなかった。
「意外と寮って自由そうなんだな」
「そうかな?」
「普通の一人暮らしとあんまり変わらない気がする」
一度、大学寮で生活している友人を訪ねて遊びに行ったときも、寮内は大体似たような造りになっていた。少し他人との距離が近いアパートみたいな感覚だ。大学生ならこんなものかと納得したのだが、高校生の寮で同じような造りになっているところを見ると意外な感じがする。
「高校在学中から社会性に富んだ生活をなんとかかんとかって、入寮の時に聞いたっけ」
未だ少し鼻声の芽依菜はそう言いながら扉を開けて俺を部屋に通した。
玄関を開けてすぐ左手に簡易的なキッチンがあって、その奥のドアを開けると六畳の洋室があった。綺麗に片付いている。ベッドとデスクと本棚があり、部屋の中央にはパステルカラーのラグが敷かれていて、その上に小さな丸いテーブルがあった。
どちらかというと生活感のない部屋だったが、それでもあちこちから芽依菜の良い匂いがするようで、俺はなんだか落ち着かない気分になった。
「適当にしてて。あ、お風呂入る?」
なんでもないことのように言われたが、それは全力で断った。芽依菜が普段使っている浴室で湯を浴びるなど、考えただけでも卒倒してしまいそうだ。
濡れた体を拭くためのタオルを俺に渡して、芽依菜はキッチンへと消えた。お茶を入れてくれるらしい。
丸テーブルの傍らに座って、部屋を見回す。机の脇に手鏡があったので、少し拝借して覗き込んでみると、見るも無残に化粧の崩れた顔が映った。俺は今こんな顔をしているのか、と著しく気が塞いだが、しかし今更どうしようもない。手鏡を元の場所に戻す。
その際にふと、デスクの上にあるものが気になった。きちんと整頓された参考書類の前に、シンプルなデザインの写真立てがあった。飾られている写真に写る顔ぶれには見覚えがある。カメラ目線で無邪気に二本の指を立てている幼い少女と、傍らでつまらなさそうに目を背けている小学校高学年くらいの男子、後ろから二人の肩に手を置いている少年は中学校の制服を着ている。
芽依菜と俺と兄貴だった。場所は俺の実家の前だ。
懐かしい写真だ。これを撮ったのは確か俺の母親だった。新しくデジタルカメラを買ったとはしゃぎ、練習台にと、俺たちを並ばせて撮影したものだ。思わず手にとってしげしげと眺める。
「うわあ!」
いつの間にか戻ってきていた芽依菜が、部屋の入口で俺を見とめて声を上げた。
「あああ、それの存在忘れてた………」
手にした二つのマグカップをテーブルに置きながら、そのまま芽依菜はへたり込むように座る。
「もしかして見ちゃまずかったか?」
予想外の反応に驚きつつ、写真立てを置きながら問う。
「まずいってことはないけど……ないけどー」
身悶えするように頭を振って、芽依菜はぽつりと言った。
「未だにそんな写真飾ってるの、なんか恥ずかしいじゃん……」
複雑な表情を浮かべる芽依菜に対して、俺は軽く笑って「そんなことないよ」とだけ言った。年頃の女の子の照れポイントは良くわからない。俺としては、少し微笑ましく思ったくらいだ。そんな思いから、俺はふと気になって芽依菜に聞いた。
「そういえば、兄貴の暗号は解けたのか?」
出来るだけ何気なく聞いたつもりだったのだが、俺の問いに対して芽依菜はびくんと身体を震わせた。両手で持ったマグカップの中で、紅茶が揺れる。
「そんな過剰に反応しなくても――」
「捨てちゃった」
俺の言葉を遮るようにして、芽依菜は言った。
「え?」
「あの暗号、捨てちゃったんだ」
寂しそうに笑って芽依菜が紅茶を一口啜る。
「冗談だろ?」
「ううん、ほんと。ごめんね、また勝手に」
にわかには信じがたい言葉だった。芽依菜はずっと、その暗号のことを考えて過ごしていたはずなのだ。それを今になって、捨ててしまうなど――
「どうして……?」
俺の疑問を受けて、芽依菜はしばらくなにも言わなかった。俺から視線を外して、じっとしている。なにかを悩んでいるようにも見えた。
「あのね」
十秒ほどの沈黙の後、芽依菜は目を逸らしたまま話し始めた。
「わたしは過去にとらわれ過ぎてると思ったんだ」
過去にとらわれ過ぎている――つい最近、俺は自身をそう評したことがあったのを思い出した。
「今更言うことじゃないけど、けいくんが好きだからね。どうしても子供のときのことばかり思い出しちゃう」
好きだった、と過去形で語らない芽依菜の言葉に少し胸が痛くなったが、表情には出さずに続きを促す。
「えっとね……こんなこと言ったら、都合がいいって思われるかな。わたしね、けいくんのことを忘れようと思って、あの暗号を解こうと思ってたんだ」
「忘れる……?」
芽依菜は神妙に頷く。相変わらず、視線はこちらに向かない。
「さすがにね、もう整理しなくちゃいけないなあと思ったの。あれから四年も経つしね。でもほらずっと昔からの仲だったし、いきなりそんな風に『忘れるぞ!』って意気込んでも忘れられるものじゃなかったから……なんか、きっかけというかけじめというか、そんなのが欲しかったんだ」
「それで暗号を解こうと思ったの?」
「そもそも最初は暗号じゃなくて、タイムカプセルの手紙を読んで……って考えてたんだけどね。いざカプセルを開けてみたら暗号だったから、ちょっと話がややこしくなった」
兄貴の死に不自然なところがある――それをはっきりとさせるために暗号を解きたい、と芽依菜は言っていた。それを達成する目的は、兄貴のことを忘れるため。
「その人のことを忘れるために、その人のことを知りたいってなんか逆説的だね。でもまさにそういう心境だったの。気になることを解き明かした上で、それを一つの区切りにしようとした……でも」
芽依菜がさらに深く目を伏せる。
「その過程でわたしは、たいくんにひどいことをした……あんな風にたいくんを怒らせちゃうまで、わたしは気づかなかったよ。自分のことを片づけようとするだけだった……わたしは死に去った人を追い求めて、生きて傍にいてくれる人をないがしろにしてた」
淡々と言葉を紡ぐ芽依菜の語り口の裏に、もやのかかった感情を見た気がした。芽依菜がこの決意をするまでに犠牲にした想いの大きさを、俺はしっかりと理解している。
「昔にこだわって今が苦しいなら、そんなものは捨てちゃおうって。だからあの暗号は捨て――っ!」
俺は思わず芽依菜の手を取っていた。芽依菜の身体が驚きに跳ね上がる。
「俺はね、芽依菜」
握られた手をそのままに、芽依菜が頭を上げて俺を見た。芽依菜の目を見つめ返しながら、ゆっくりとした口調で言う。
「兄貴のことを忘れて欲しかったんじゃないよ」
俺の言葉を聞いて、芽依菜ははっと目を見開いた。そして次の瞬間には、もうその目が潤んでいる。
俺は兄貴が憎かったわけじゃない。
ただただ、嫉妬していただけだ。
嫉妬は、どうも『真実の愛』とやらには付き物らしいから。
兄貴を羨ましく思うのは、仕方がない。
「なあ、芽依菜。お前は知らないかもしれないけど、俺結構兄貴のこと好きだったんだぞ」
そう言ってやると、芽依菜はくすりと笑った。その弾みで、目尻から一粒だけ涙が零れる。芽依菜は、なにかとすぐ泣いてしまうのだ。
「知ってるよ、そんなの」
あの暗号は、俺にとっても兄貴が残した最後の言葉だ。それなら、その内容を俺も知りたい。メッセージを受け取りたい。出来る限りの優しい声で、俺は言った。
「解こう、暗号」
答える芽依菜の声は明るく、表情からは先ほどの憂いが消えていた。
「うん」
これが本来なのだと思う。これが正解なのだと思う。
忘れがたいことを無理して忘れる必要はない。
今もなお、芽依菜が兄貴を想っているというのならそれも仕方ない。それを全部受け入れた上で、俺は芽依菜の傍に居よう。そうして、兄貴に占められた芽依菜の心を俺が奪い返してやる。そう息巻くくらいは、許されるだろう。
兄貴が羨ましいけど、兄貴には散々嫉妬したけど。
こうして芽依菜の傍に居られるのが俺ならば、俺は兄貴じゃなくて良かったなと思う。
俺は俺に生まれてきて、本当に良かったなと思う。
◆
暗号文そのものは、捨てられていてもなんとかなる。
俺は高幡の児童公園でそれを芽依菜に見せられた時、原文を大学ノートに書き写していたし、そもそも芽依菜はあの暗号文を丸暗記してしまっていた。だから芽依菜にとって暗号文を捨てるという行為は、実質的には意味を持たないものだった。それでも芽依菜がそれを実行したのは、決意の程を形式的に表明し、自分に言い聞かせるためだ。けじめのために、ということらしい。
木曜日の夜、きっと暗号を解き明かそうと誓ったその後、俺は割とすぐに芽依菜の部屋を出て自宅に帰った。本格的に夜も更けてきて、さすがにこれ以上は終電も心配だというのを表向きの理由にした。口には出さなかったが、女子寮に潜入しているという後ろめたさからいい加減解放されたかったというのが一番の理由である。
「泊まっていけばいいのに」
部屋を出る間際、口に手を当てながら意味深に笑って芽依菜は言った。
明らかにからかわれているというのが分かったので、その額を軽く小突いてやった。それでも芽依菜は、何が嬉しいのかにこにことしたままだった。
からかうのなら、もうちょっとスマートにやっていただきたい。少し照れ混じりにそんなことを言われると、本当に帰りたくなくなってしまう。
駅まで送っていくと主張する芽依菜を件の通用門あたりで押しとどめて、俺は一人帰路に着いた。芽依菜から借りた傘はいかにも女の子が持つような明るい色彩のもので、差して歩くのが少々恥ずかしかった。化粧が崩れていたとはいえ、女装をしていたことはせめてもの救いだった。
そして本日土曜日、俺と芽依菜は高幡の住宅地にある児童公園にいた。以前にもそうしていたように、簡素な談話スペースの屋根で陽光を避けつつ、向かい合って座っている。
暗号解読など、どこでやろうともさしたる変化があるとは思えなかったが、ブツが見つかった現場になにかしら手がかりがあるかもしれないと芽依菜は主張した。
すでに手がかりを提供し終えた俺に、暗号解読の力添えが出来るかと言えば微妙なところだとは思うのだが、しかしこの件をすべて芽依菜の思考力任せにしてしまうのも気が引ける。そもそも今回芽依菜はこの暗号解読をすでに二度諦めている。ヒントが足りないと悟った時、ヒントを手に入れてもそれを解けなかった時――暗号を捨ててまで諦めようとしていた芽依菜を、再度焚き付けたのは他ならぬ俺自身だ。「暗号解読会を開きましょう」と芽依菜に誘われれば、四の五の言わずに了承するのが筋である。筋ではあるのだが――
「芽依菜」
「んー?」
俺の声に一応返事はするものの、視線は自分の前の大学ノートに落とされたままだ。変則的な持ち方で鉛筆を握った右手は、縦横無尽にすいすいと動いている。
「そろそろ恥ずかしくなってきたんだけど」
「もうちょっとで出来上がるから」
「暗号は?」
「考えてる考えてる」
「ほんとに?」
「ううん、嘘」
足をぶらぶらさせながら、芽依菜はあははと自分の言葉に笑う。
俺は今、芽依菜のスケッチモデルをしていた。
公園についてから、芽依菜が真面目に暗号に取り組んでいたのはほんの十数分のことである。俺が提供した大学ノートに書いてある暗号文を自分のノートに書き写し、その下に手がかりとなるであろう兄貴の遺言を三つ書き記すと、もう気が抜けたように遊び始めた。
例えるなら、勉強会をするために友人の家に集まった学生たちのような有様だった。本来の目的に集中している時間よりも、関係のない雑談に興じ、なにかしら遊んでいる時間のほうが長い。
思いついたように始めた芽依菜の写生遊びに付き合っているのだが、モデルというのはやってみるとなかなかに辛いものだった。芽依菜の無遠慮な視線に晒されている間中ずっと、自分は今日どんなメイクをしてきたっけ、というのが気になって仕方ない。
たまに芽依菜の手元を覗いてみるのだが、そこに描かれているのは思いっきりデフォルメを施されたイラストだ。ふわふわと可愛らしい女の子の絵である。なかなかに上手いとは思うが、それを描くのにモデルが必要なのかは果たして疑問だ。
「考えなくていいのか?」
「だってわかんないんだもーん」
「でも一応そのためにここに来たんだろ」
俺のその言葉に、芽依菜は少しむっとして答えた。
「たいくんは、なにか理由がないとわたしと遊んでくれないの?」
わざとらしく渋面を作った芽依菜が可愛くて、思わず頬が緩む。
「そういうわけじゃないんだけど」
「けど?」
「いや、なんでもないけど」
「ふうん」
芽依菜なりに俺に気を使ってくれているのかもしれないな、と思った。先日までの芽依菜は、ある目的意識を持って俺に接していた。理由なき逢瀬はなかった。だが、今は違うと言ってくれている。なにを狙っているわけでもなく、企んでいるわけでもなく、こうして一緒にいてくれる。そのことが純粋に嬉しかった。
ただ、芽依菜が続けた一言にはさすがに肝を潰された。
「わたしのこと、す、好きだって言ったくせに」
尻すぼみに小さくなる声でそう言って、芽依菜は俯いた。顔を窺えば、その頬には赤みが差している。俺は、なんと言っていいか分からず言葉を返せなかった。
「うあ! い、今のなし! なしね!」
沈黙に耐えかねて、芽依菜が手を振りながら声を上げた。その様子を見て俺は苦く笑う。
「そういえばさ……えっと、兄貴が残したヒントの言葉って全部偉人かなにかの名言なの?」
気恥ずかしい空気に耐えかねて、強引に話題を変えようとそんなことを言う。あまりにも下手くそな切り出し方だったが、同様の気持ちだったであろう芽依菜はあっさりとその言葉に乗ってきた。
「あ…………うん、そうみたい」
俺に残されたヒント、『文章は、言葉の選択で決まる』というのも、兄貴オリジナルの格言ではないと彼から聞いていた。芽依菜に残された『高みにのぼる人は皆、螺旋階段を使う』『我々は皆、螺旋状の道の上にいる。直線的な成長などありはしない』という二つの言葉にも、何かしらの元ネタがあるということだ。
「わたしの聞いたヒントは、フランシス・ベーコンの名言と、クリスティン・ザンブカって作家の格言なの。たいくんの聞いてた座右の銘は、ユリウス・カエサルの格言だね。改めて考えてみると、全然統一感ないね。哲学者に作家に政治家だもん」
クリスティン・ザンブカはともかく、フランシス・ベーコンやユリウス・カエサルの名は、世界史の参考書で何度かお目にかかっている。しかし俺は芽依菜の言葉にどことなく違和感を覚えた。記憶を辿ると、その正体はすぐに浮き彫りになる。
ユリウス・カエサルだって?
「俺が聞いてたヒント、カエサルの名言だったのか?」
「そうだと思うよ。一応ちゃんと調べてみたし、間違いないと思う」
「兄貴は確か、ジュリア……なんとかの言葉だって言ってた気がするんだけど」
俺の疑問に、芽依菜は「ああ」と納得した。
「ジュリアス・シーザー?」
「そう! それだ!」
「ユリウス・カエサルって名前はラテン語だからね。英語の発音に直すとジュリアス・シーザーになるの。カエサル、って名前が圧倒的に有名だけど――」
ふと――
話の途中で、すっ、と芽依菜の頬から赤みが引いた。
その変化があまりにも唐突で、俺は少し面食らう。
「芽依菜?」
俺の呼びかけに対して、返事はない。
先ほどまで表情をころころと変えていたその顔には今、無表情が張り付いている。
遠い目線と、引き結ばれた唇。
そして芽依菜は、ゆっくりと腕を組んだ。
あ―――
状況を、一瞬で把握できた。
何が引き金になったかわからない。わからないのだが、確かな予感がした。
今、謎は謎ではなくなる。兄貴の暗号は、ここに解かれるだろう。
思考の渦へと沈み込んだ、芽依菜の頭脳によって。
「シーザー暗号!」
弾けるように声を上げて、芽依菜が動き出した。手元の鉛筆を握り返し、血相を変えて目の前の大学ノートに何かを書き始める。
「ああ! もう! なんでこんなことに気づかなかったのかな!」
芽依菜の手元を覗き込む。
《きりはすを》《ゆみさおと》《けぬひうた》……
五文字一行の文字列を、すごい速度で書き殴っている。それを十一行ほど書き、手を止めて眺める。
「シフト1じゃない――か」
意味不明の言葉を呟くように言って、また新たな文字列を記述し始める。
《くるひせん》《よむしかな》……
「なにか、分かったのか?」
鬼気迫る様子の芽依菜にたじろぎながらも、俺は問う。
「シーザー暗号だよ」
「シーザー暗号?」
手を止めないまま、芽依菜は俺に向けて説明する。
「有名な暗号方式でね、暗号文とシフトキーから成るものなの。ユリウス・カエサルが考案して、主に私信に使ってたらしいよ」
けいくんの受け売りなんだけどね、と芽依菜はつけ加える。
「解読方法は単純で、暗号文をシフトキーに示された文字数送ってから読むだけ。たとえば『A』という文字をシフトキー+1で変換すれば『B』になる。シフトキー+2なら『C』に、3なら『D』にって具合に」
芽依菜の説明を受けて、俺はもう一度暗号の原文を見直した。
なるほど、と納得する。
五十音表に従って『か』という文字をシフトキー+1で変換すれば『き』になる。『ら』は『り』になる。《からのしわ》《やまこえて》は《きりはすを》《ゆみさおと》に変換される。同様に、シフトキー+2で考えれば、暗号文最初の二行は《くるひせん》《よむしかな》といった具合になる。
「シーザー暗号は、カエサル暗号とも言うんだけどあまり一般的じゃないの。シーザー暗号って名前の方が定着してる。逆にユリウス・カエサルとジュリアス・シーザーでは、前者の名前のほうが定着してるよね」
「人口に膾炙してる読みが逆になってるってことか」
「……じんこうにかいしゃ?」
「あ、えーと、人々の間で定着してるって意味だ」
「なるほどね。うん、そういうこと」
五文字十一行の文字列を三種類ほど書き終えたところで、芽依菜はようやく俺のほうを向いた。
「けいくんにまんまとひっかけられた形だよ。『文章は、言葉の選択で決まる』なんて、いかにもその言葉そのものが暗号文解読に使われそうな名言を選んでくれちゃって。これが『賽は投げられた』だとか『来た、見た、勝った』とかだったらもうちょっと早く気づいたのに。名言そのものは全く関係なくて、それが誰の言葉であるかだけが重要だったんだ。だからわざわざたいくんに『ジュリアス・シーザーの言葉だよ』って伝えたんだね。人口に膾炙してないほうの名前を選んで、伝えた」
ひっかけられたと言いながらも、芽依菜は実に楽しそうな口調だった。俺がたった今教えたことわざを口にして、うふふと笑う。
「けいくんが残したかった文面は、多分これ。シフトキーは+3だった。もともとオリジナルのシーザー暗号はシフト+3で運用されてたみたいだから、それをなぞったのかな」
そう言って、芽依菜は大学ノートを俺の前に置いた。変換済みの暗号文が何種類か書かれており、そのうちの一つに大きく丸がついていた。
「……なんだこれ?」
すでに変換済みだという文字列を見ても、まったくピンとくるものがなかった。むしろ、原文よりも不可解な文章群になっている。
「わたしがこれを正解だと思う理由はここから。フランシス・ベーコンとクリスティン・ザンブカの名言に共通する『螺旋』というキーワードに従ってこういう風に文字を繋ぐ……螺旋階段を昇る人を、真横から二次元的に見るイメージね。こういう風にジグザグに見えるでしょう?」
右手に持った鉛筆で、芽依菜はさらさらと二通りの文章図を描いた。
「この二通りのどちらかが正解だと思う」
芽依菜に示された二つの図を順番に見比べる。やはり不可解な文字列にしか見えない。シフト+1やシフト+2ではなく、このシフト+3が意図された正答であるという証拠は、どうにも見えてこない。
芽依菜のほうにも特に焦らす気持ちがあるわけではないらしく、続けて暗号文の説明をしてくれる。
「この螺旋で繋がれた道中には、わたしたちがいるの。クリスティン・ザンブカが《我々は皆、螺旋状の道の上にいる》と言ってたように」
芽依菜は一文字ずつ、引かれた線の真ん中に位置する文字を指さした。
「上から『す』『け』『た』『わ』『め』――すあきけいしゅう、たいけい、わたやめいな」
重要な文字を強調しながら芽依菜は言った。俺は思わず感嘆の声を上げる。
「ね? さすがに偶然こんな文字の並びにはならない。だからわたしは、シフト+3がこの暗号の正答だと思う……でも」
そこで一瞬芽依菜の表情が曇った。
「ここから先が、ちょっとわたしにはわからない……フランシス・ベーコンはザンブカと違って、螺旋階段をのぼるっていう表現をしてる。だからこれは下から上に読むものなんだと思う。そうじゃなきゃ、わたしにヒントとして残す言葉はザンブカのものだけで事足りるはずだから。ベーコンの言い回しにも相応の意味があると考えるなら、そうなるの」
二種類の暗号を線に沿って下から読む。
《るめるわつたにけさすあ》
《ひめしわはたまけつすけ》
「そこから、わたしたちの名前を示す文字を除くと《るるつにさあ》と《ひしはまつけ》だね。わたしにわかるのは、これくらい――」
そこまで言って、芽依菜は口を噤む。その視線は俺へと向いている。
わたしにわかるのはこれくらい――つまり芽依菜はこう言っているのだ。俺にならなにかわかることがないか、と。
兄貴はおそらく、ここまでを想定していたのだ。
この暗号は徹頭徹尾、芽依菜と俺が力を合わせないと解けないようになっていた。国語が好きで、ひがな一日ことわざ辞典を読んで過ごすような少年だった俺には、その六文字のひらがなにピンと来るものがあった。
「ひじはまつげ、だ」
期待の視線で俺を見ていた芽依菜の目が、大きく見開かれる。
「秘事は睫毛――探しているもの、秘密になっているものは案外近くにあるって意味だ。もっと有名なことわざに置き換えるなら、灯台もと暗し」
それを聞いた芽依菜は矢庭に立ち上がり、クリーム色のマキシスカートを翻して駆け出した。少し遅れて俺もその後を追う。目指すは児童公園の隅、昔三人でタイムカプセルを埋めた楠だ。
二人で大きな楠の周囲をぐるりと周る。俺たちがタイムカプセルを埋め、その後に兄貴が暗号を埋めなおしたであろう場所から樹木を挟んでちょうど反対側に、不自然に雑草が少ないところがあった。
スカートが汚れるのも厭わず、膝をついて素手で土に手を入れんとする芽依菜を見て、俺は慌ててそれを押しとどめた。固い土を道具も無しに掘り返そうとすれば、きっと芽依菜の柔肌は傷を負ってしまう。
すぐにシャベルを持ってくるからと芽依菜を説得し、その場に彼女を残して俺は児童公園を出て走り始めた。俺の実家はすぐそこにあるし、帰れば園芸用スコップの一つや二つは見つかるだろう。芽依菜の気が急くのは十分に理解できる。そしてそれは、俺とて同じなのだ。
俺たちが探し求めていた兄貴の言葉は、すぐ傍にある。もともと暗号が埋まっていたところから、一メートルと離れていない場所に埋まっていたのだ。
◆
「芽依菜と喧嘩でもしてるのか?」
兄貴は俺にそう訊いた。
なんだそれ、と思った記憶がある。
「そういうわけじゃないのか?」
「そもそも喧嘩になるほど最近話してねえよ」
さも鬱陶しそうな声を作って兄貴に答える。
「ふうん。なるほどなあ」
なにかに納得するように兄貴が頷いたのが、なぜだか無性に気に入らなかった。
俺は正常だと思った。
なにかにつけておかしいのは兄貴のほうだと信じていた。
兄貴は高校生、俺は中学生、芽依菜は小学生。
三人とも小学生だったときならいざ知らず、高校生になってまで、未だ小学生の芽依菜を相手に、楽しそうにあれこれ言葉を交わせる兄貴はどこか異常なのだと信じていた。
こんな年になって、小学生の女の子と仲良くしているなんて知られたらそれはもう大変なことになる。
その頃の俺は、そんな与太を普遍的真理だと思っていた。だって、しょうがなかったのだ。小学生の頃からの友達も、中学校に入って知り合った連中も、男子はみんな、とかく自分たちのコミュニティから女子を徹底的に排除しようとしていたし、その例から外れるような素行をすれば、即座に『女好き』のレッテルを張られるような年頃だった。もう一年もして髭でも生えてくるような時期になれば、彼らは手のひらを返して、女子の尻ばかりを眺めて過ごす学校生活を送ることになるというのに、だ。
中学一年生というのは、まことに勝手な年頃である。ことによると、人生で一番低俗な時期かもしれない。急速に形成されていく自意識と、それに伴う不安定と、一向に身に付かない責任感。小学六年生は、最高学年という立場を与えられる。教師たちには「もうお兄さん、お姉さんなんだから」と言われる。
そのちゃちな誇りをはぎ取られた中学一年生は、一気に子供へと成り下がる。もうお兄さんでもお姉さんでもない。模範を示すべき誰かもいない。そして、未だおつむの中身は小学生と大差ないのである。
中学一年生というのは、まことに勝手な年頃である。こんな年になってなお、好きな女の子とは、理性的な言葉一つ交わせやしないのだ。あからさまに無視をして、罵って、排除するのだ。そして俺はそんな自分を、やはり他の男子たちと同じく、正常だと信じていたのだ。
◆
《二人がこれを見つけたということは、力を合わせて暗号を解くことができたってことだね。よくできました》
そんな文面から始まる兄貴の手紙を、一字と漏らさないように集中して目を通す。
《まずはこれを言わないといけないね。泰慶、そして芽依菜、二人とも進学おめでとう。泰慶は高校生に、芽依菜は中学生になるね。そんな二人へとなにかお祝いを贈ろうと考えたんだ。ただ普通にプレゼントしたんじゃつまらないから、こんな回りくどいゲームを考えたんだけど、さてさて楽しんでもらえただろうか》
結論から先に言うならば、俺と芽依菜が考えてたような兄貴の意図は存在しなかった。兄貴は自殺したんじゃないだろうか――そんな推測をしていたのが馬鹿馬鹿しくなるほどに、手紙の文面は明るく、そして未来を見据えたものだった。
『宝探し』の景品は、もともとタイムカプセルが埋まっていた場所から楠を挟んだ真裏、そう深くない地中に埋められていた。見覚えのあるクッキーの缶から出てきたのは、俺たちが書いた『未来の自分への手紙』が二通、兄貴の手紙、そして電車のチケットと旅行券だった。チケットの有効期限は、とうの昔に切れてしまっている。
《俺から二人に送るのは、卒業旅行だよ。バイト先の人に聞くには、山梨の温泉地がおすすめらしい。海外とかに連れてってやれたらそれもそれでいいかと思ったんだけど、高校生の俺が出来るのは関東地方の観光スポットに連れてってやるくらいのものでさ。まあそれでも楽しい旅にできるよう頑張るから、三人で羽を伸ばそう》
生前兄貴がとった不可解な行動群に隠された意図は、ここまでの文面で一気に明らかになった。兄貴は、俺と芽依菜の卒業祝いをしようとしてくれていただけなのだ。
唐突に口走った座右の銘たちは、『宝探し』のヒントだった。バイトを始めたのは、三人分の旅行費を稼ぐため。そして一人旅に出たのは、旅行の下見のためだ。
《三人で過ごす時間は、俺にとって一番好きな時間だよ。だけど、そんな時間もずっとこの先あるとは限らない。俺も泰慶も芽依菜も大人になって、今までとは違った人間になっていく。それは喜ばしいことだけど、すこし物悲しくもある。卒業祝いなんて言ってるけど、この旅行を一番楽しみにしてるのは俺かもしれない。まあ、万障繰り合わせて付き合ってくれると嬉しい。それじゃ、帰っておいで》
回りくどい真似をするもんだ、という感想が浮かんだ。しかし一瞬で俺は思い直す。
兄貴がこの『宝探し』を企画した頃、俺は中学三年生、芽依菜は小学六年生だった。俺が芽依菜を一人の女として意識してしまい、上手く喋れなくなってしまった時期だ。『俺も泰慶も芽依菜も大人になって』という文面に心を打たれる。きっと兄貴は、俺のもどかしい想いを敏く感じ取っていたに違いない。だからこそこの『宝探し』は、俺と芽依菜が向き合って、関わり合わなくては解けない仕組みになっていたのだ。
まったく、お節介だなあと笑わずにはいられない。
ついにやけてしまう口元を誤魔化すように、俺は芽依菜に向かって言う。
「どんなこと書いてたんだ?」
先に兄貴の手紙を読み終えた芽依菜は今、彼女自身が書いた『未来への自分の手紙』に目を落としている。
「恥ずかしいから、ないしょ」
悪戯っぽく笑って、手紙で口元を隠す芽依菜がこの上なく愛しい。
そんな心中を気取られないよう、呆れた顔で息を吐くポーズを芽依菜に見せて、俺は再度兄貴の手紙に目を向ける。今は亡き兄貴に向かって、口には出さない言葉を送る。
なあ兄貴
俺と芽依菜は今も二人でいるよ
二人とも、大人になったよ
芽依菜はそろそろ、兄貴の歳に追いつく
俺なんてもうすぐ成人するんだぜ。兄貴の歳、追い越しちゃったよ
それでも――俺はいつまでも兄貴の弟のままなんだなあ、って
そう思わずにはいられない
俺たちはその日、三人が出会った児童公園の一角で、兄貴からの手紙を何度も何度も読み返した。そしてふと、気の赴くままに思い出話を口にしては、それをきっかけにひとしきり盛り上がった。陽が西に傾くまで、俺たちはそうやって、噛みしめるように時間を過ごしたのだった。
◆
山道の運転に疲れたこともあって、俺は少し休憩したいと芽依菜に提案した。見渡す限り川と山しか見えぬような道が続いていた。うねうねと曲がりくねった坂道は、空の果てにまで続いているのではないかと思うくらいだ。
そんな坂道の脇に、砂利で敷き詰められた空地があったのでそこに駐車する。エンジンを切って運転席から降り立つと、走ってきた道の向こうに一面の緑が広がっていた。
六月も末になるというのに山の空気は肌寒いくらいに冷えていて、それが強張った身体には清々しく気持ち良い。国道に設置されたガードレールの向こうはすぐに切り立った崖になっていて、眼下には、木々が生い茂る中進む清流を眺むことができる。
「すごい! 綺麗!」
小学生並みに簡潔な感想を口にして、芽依菜が飛び跳ねるようにはしゃぐ。今にもガードレールを飛び越えてしまうのではないかと、後ろで見ている俺ははらはらする。
「秋くらいになると、この辺は紅葉観賞の穴場になるらしい」
「へえー!」
カーナビに表示されていた住所によると、この辺はもう山梨県内であるはずだった。
山梨県は南都留郡国道沿い、名もなき眺望絶佳を前にして、芽依菜のテンションは著しく上がったようだ。無理もない。時期的に紅葉は望むべくもないが、それでもこの景色は、日常離れしていて実に美しい。
この景色も、兄貴が俺たちに見せたかったものに入っているのかな、と考えた。
「来てよかったね」
無邪気に声を上げる芽依菜に、同意せずにはいられない。肩甲骨に届くまでに伸びた芽依菜の黒髪が、踊るように揺れる様を見ていると特にそう思う。
できればずっとこうして二人で、いろいろなものを見て生きていけたらいい。
俺は兄貴の暗号文を思い出していた。
《るるつにさあ》
暗号解読には関係ないとして、見落とされた一文である。
芽依菜、逆だよ。
口には出さない。
これは『あさにつるる』――『麻に連るる』と読むんだ。その後に続く言葉は、蓬。
『麻に連るる蓬』――これはきっと、俺と芽依菜のことだろう。少なくとも兄貴はそのつもりだったはずだ。曲がって伸びる蓬も、まっすぐ伸びる麻と一緒に成長するならばまっすぐに育つ。ひねくれた人間も、まっすぐな人間と育つならきっと道を間違えない。
――お前が蓬だとばかり思っていたけど案外蓬はあの子のほうで、お前が麻なのかもな
それはわからないよ、兄貴。
目的のために、時として他者を傷つけてしまうような危うさを持つ芽依菜と、
自己保身のために、気持ちを隠して心を偽りつづけていた俺と――
どちらが蓬であるかなんて、俺にはわからない。わからないけど、そんなの関係なく二人で生きていけるなら、それはとても素敵なことだ。
夏が来る。山間に見える大袈裟な雲がそう言っている。
夏が来たら俺は二十歳になって、芽依菜は十七歳になる。
それでも兄貴は、いつまでたっても十七歳のままなのだ。
気分転換を終えて、車に乗り込む。
この絶景は惜しいが、同じように心躍らせてくれるものが、この旅路にはまだまだある気がする。
エンジンを始動して、サイドブレーキを解除する。ギアシフトのレバーをドライブに入れようとしてそちらを確認した。
シフトレバーの上に、芽依菜の白い手が乗っていた。
思わず芽依菜の顔を見る。困っているような、照れているような、そんな顔の芽依菜と目があった。多分、ほんの悪戯心だったのだろう。
レバーの上に差し出されていた芽依菜の手をぎゅっと握ってやる。顔などは、恥ずかしくて見れたものではない。
少し間があって、芽依菜は握られた手を返して、俺の手を握り返してきた。その手は少し冷たく、汗ばんでいた。
浮かれた心持ちになって、車を発進させる。互いの頬から赤みが消えるまでの十数分、俺と芽依菜は言葉を交わすことができなかった。
完結話です。
大体文庫本一冊くらいの分量でしたが、最後まで楽しんで読んでいただけましたでしょうか。わたしの考えたお話が、あなたに楽しんでいただけたならとても嬉しいです。
感想、指摘、批評などもぜひぜひ。
ご覧いただき、ありがとうございました。