05 - 海辺の街、出発
牧歌的な平野広がる道を、がらがらと馬車が走る。
さわさわと風がふいている。
歌を歌いたくなるような陽気。
わたしは窓に寄りかかり、ぐっと腕を突き出した。よい子のみんなは、車の走行中は腕を出しちゃいけません。これは馬車だからいいんだよ!
「自由ってスバラシイ! アイアムフリーダムッ!」
「お疲れ様でした。チカ」
「ありがとうございます、ジャンさん。すっごーく疲れましたぁっ」
すう、はあ、と深呼吸し、馬車の座席に座り直す。
拘束されてたせいか、無駄にぷらぷら足を上げ下げしたりしてみちゃう。自由を感じるっていいよね。うんうん。
素足の拘束されていた部分が少し擦れているけれど、かすり傷だし、すぐ治るだろう。
それよりっ。
「ジャンさん、今回の事件について、解説頼んでもいいですか?」
「おい……解説って何だ、疲れてると言っていただろう。休めばよかろう」
ジャンさんが答える前に、オルフェ・イン・寝袋が言った。例のごとく、わたしの目の前の座席に転がっているわけだ。
潜入でも使える偉大なる寝袋だったんだよねー、その寝袋。愛用しすぎ、酷使しすぎです。
「疲れてますよ。疲れてますけど、それより大事なことがあるんです」
「俺様の睡眠時間を削ってもか?」
「はい! もちろん!」
「なっ……」
「チカ、何もそんなに力強く肯定しなくともよかったんじゃないです? オルフェ様がショックを受けてらっしゃいますが」
「だって、ジャンさん。なーんにも知らない状態で、いきなり巻きこまれてすっごいびっくりしたんですよ? 危ないかもしれないから気をつけるように、くらい言ってくれてもよかったと思います。事件を未然に防ぐための情報。これ、今わたしが欲しいものなんです。オルフェ様の睡眠時間より!」
「ぐっ……二回肯定……」
寝袋野郎はかなりのショックを受けたみたいだった。オルフェの中でそんなに寝るのが大事だったのか。あはは、ごめんね。口に出しては謝らないけど。
ジャンさんはしばらく困ったみたいに首を傾げていたが、オルフェが頷いて合図をしたことで、話し出してくれた。
「チカ、今回の件は本当に申し訳ありませんでした。私のミスです。『詳しいことを教えない』というのは殿下のご意向だったのですが――、私も納得しましてね。もしもの話ではありますが、よからぬことを企む人間があなたに接触し、殿下のことをよく知っていると判断すれば、あなたの命が脅かされるのではと思ったのですよ」
「知っていたら、もっと危なかった、ってことですか?」
「はい。ルイ殿下は、正妃様の名を聞けばおそらくあのように――」
「……そっか。すごく必死でしたもんね。ルイ……」
わたし、別にルイのことそんなに嫌いじゃないよ。勝手に盛り上がって楽しそうに笑っている顔は、同年代の男子っぽいって思うし。やー、すんごいヤバい奴だな、ってほうが大きいけど。
ルイにもルイなりの事情があったんだよね。きっと。
でも、パンツを見たのは許さない。
「だから、知るばかりが益ではないと分かっただろう。俺様の睡眠時間をこれ以上妨げるんじゃない」
これ以上って、何よ。ぐーたらしてて、ずっと寝てるじゃん。わたしがルイのとこに監禁されてたときに心配で心配で夜も眠れなかったって言うんだったら謝るけど。絶対そんなんじゃないでしょ。
「でも、知らないことでルイについていっちゃったわけですし、わたし知ってたらもっと警戒しましたよ。そこはどうお考えですか?」
「……」
あ、目を逸らした。言い返せないじゃないかっ。
ジャンさんはわたしとオルフェのやりとりのどこが面白かったのか、くすくすとおかしそうに笑っている。
「お教えしてもよろしいでしょう、殿下?」
「……ああ。好きにしろ」
オルフェのお許しも出たし、ジャンさんの『講義』開講! よっ、待ってました!
「さて、チカ。何が知りたいですか?」
「ぜーんぶです」
「全部ですか。さて……私にも分からないことがありましてね。全てが分かっていたなら、もうオルフェ様が逃げる必要などないのですから」
「……もしかして、オルフェを『陥れた』犯人――ルイのお母さんを手に掛けた犯人って、分かっていないんですか?」
「ええ、残念ながら」
えええ!?
じゃあ、フレデリクは敢えて教えなかったんじゃなくて、知らなかったから教えられなかったのか。それならそうと言ってくれればいいのに……。気遣わせたのかな。
じゃあ、講義を受ける前に、整理をしてみよう。
フレデリクが教えてくれたのは、大きく分けてみっつだった。
・オルフェは王太子だったが、誰かの策略によって、その地位を失った。
・王子の位は守ったが、代わりに命が狙われたので、逃げた。
・ルイがオルフェを捕まえようとしているのは、誰かに唆されて勲功を得ようとしているのでは?
ルイの言い分から分かったことは、次の通り。
・オルフェの王太子の地位が剥奪されたのは、ルイの母親殺人事件の主犯だと断定されたため。
・ルイはオルフェが、ルイの母親(現国王の正妃様)を殺した犯人自身だと思っている。
・ルイは唆されたんじゃなくて、自分からオルフェを捕まえようとしていた。
これ、ルイの言い分だけ聞くとすっごい、オルフェ嫌な奴だね。
フレデリクがあのときオルフェに殺人容疑がかかってることを教えてくれなかったのは、気遣いみたいなものだったのかな。
あのときわたし、泣いてぐちゃぐちゃだったしね。ルイにも同情して、オルフェにも同情して、板挟みになって苦しんだかもしれない。
こんなことができるフレデリクさん、マジいい奴。ずっと親友でいような。
以上、色々わかんないところもあるけど、大体の事件のあらましはわかった。
『オルフェを陥れた犯人』と『ルイの母親を殺した犯人』はほとんどイコールと言っていいんじゃないかな。ルイの母親を殺害した実行犯が別にいるにしても、根っこのところは一緒に違いないもの。
動機から考えれば――オルフェが王太子でなくなって、得をする人間、なのかな、って思うけど……。
犯人捜しは、オルフェやジャンさん、フレデリクがずっとしていて、それで見つかっていないんだから、事情を知ったばかりのわたしが考えたところであまり力になれないか。
それなら、今回のわたし誘拐事件のところだけ、聞いてみようかな。けっこう謎が多いし。
「ねえ、ジャンさん。じゃあ、今回の事件で、ルイにオルフェがこの街にいるって情報を与えた人は誰なの?」
「……我々の逃亡生活を援助してくれている協力者たちから漏れたのでは、と考えています。これ以上は言えません」
ジャンさんは苦々しい顔で、教えてくれた。うーん、今まで仲間だと思ってた人も疑わなきゃいけないって、すっごい辛いな。わたし、食費でけっこう使いこんじゃってるから、今度アルバイトとか探すべきかな? 自立心大事だよね。
「じゃあ、筋肉オヤジ……あの館のご主人は、ルイの協力者だよね。どんな人? 悪い奴なの?」
「あの館の主人はデーメル卿、名をマティアス様。ミグミルの最有力者です。大地主、いや大海主とでも言うのか」
「海?」
「昔からあの地域で漁業の有力者だったのです。ほら、街名の由来の話をしたでしょう? 敢えて『海辺の村』という意味の『ミグミル』を街の名前として名づけた代表者がいると」
「あ! そーいえば!」
「それが、マティアス様の三代前のデーメル卿です。デーメル卿家は代々変わった方が多く、先祖はわざわざ王都の地を離れ、漁業に勤しんだといいます」
「へえー。そういう人、こっちの世界にもいるんですねー。スローライフ主義者っていうか」
「マティアス様は、――善悪で言うなら、そうですね。私の視点からは、やや悪、でしょうか」
「ジャンさんの視点? やや?」
どの程度の『やや』なんだろう。なんだか歯切れの悪い答えだ。
「何を悪とするか、ということによるんです。もちろん、チカを監禁したという点では、私たちから見れば悪。ですが、チカの身分のほうが下ですから、我が国の『刑法では』裁かれません。裁かれなければ悪ではない。ここまではわかりますか?」
「……うーん……刑法では、っていうのは?」
「例外があるのです。簡単なのが『報復』ですね。身分の低い者が報復を行えば罪、身分の高い者が、代わりに報復を行えば、多くは認められます」
「なにそれ、野蛮じゃないですか」
「身分の低い者の代わりに身分の高い者が行う報復例が多くないのですよ」
「あー、まあ、頑張らないよねえ。かなりのお節介だもん」
「今回の場合、殿下がチカの代わりにマティアス様に何かしらの報復を与えたなら、認められるでしょう。ただし、殿下が王子の位をより危うくする可能性はありました」
む、難しい……。
「そして、ルイ殿下への協力のこと」
「その善悪はつかないですよね。歴史をどの視点から見るか、って話になっちゃう」
「はい、その通りです。我々とルイ王子殿下側、視点を変えれば善悪が逆転します。『裁く側』がどちらかによって、判決は逆転するでしょう。そして、客観的に見てみますと、現在の殿下は、王子の位すら危ういお立場。必ず王太子の地位を回復できるとは限らないわけです。どちらかというと、我々のほうが不利な立場でしょうね。ですから――私からしてみれば、やや悪、としか言えないのです」
うーん、なるほど。どういう視点に立つかで、善悪っていうのは変わっちゃうものなんだ。
ルイが使った、わたしを監禁するって手段は、現代日本では罪だし、こっちの世界でも本当のところは罪みたい。どっからどーみても卑怯だもんね。
でも、こっちは身分っていうのがあるんだ。『王子』は、余程のことじゃないと裁かれない。
悪即罪であり、罪は裁かれるもの、って考え方をしちゃうのは危険だ。裁く基準や、裁く人間のことだって忘れちゃいけない。
自分が正しい、っていうのは、すっごくすっごく『見えてない』ってことなのかも。他の人にとっては正しくないかもしれないもの。
でも、ルイにとっては見えてなくても正しい。だって『王子』だから……。俺様にもなるかなぁ。うーん。
「ジャンさん。裁かれていない今は、どちらが善でも悪でもないんですよね」
「はい。どちらが正しいというわけでもありません。客観的に見れば、ですが。私にとっては、オルフェ殿下がいつでも正しいですよ」
「あはは……それはもちろんです。じゃあ、今回の行為がなかったら――いつものマティアス様は、どんな感じなんですか? 罪や悪を考える上で、『その人がいつもどんな人か、更生の余地があるか』っていう考え方を、わたしの世界ではするんです」
「……そうですね。マティアス様が行う事業は、主に漁業。貧しい者も、年若い者も、一律に働いています。多くの船を持ち、工場を持ち、我が国に大きな益をもたらしています。もちろん、デーメル卿家の歴史が作りあげてきた事業ではありますが、マティアス様でなかったら、他国との取り決めも上手くいかなかったのでは、という話も聞きますね」
マティアスには、メリーさんっていう、裏切らない侍女の鑑のような人が部下としてついていた。
わたしが失礼なことを聞いても、マティアスの立場が悪くならないように、って感じの立ち居振る舞いだったもん。
きっとマティアス自身はいい人なんだと思う。
ただ、わたしたち『オルフェ側』じゃなかった、ってだけ。
敵のような、そうでないような、なんだか不思議な関係。
政治ってよくわからない。どっかの味方についた時点で、対立する派閥からは敵扱いにされてしまうんだ。どちらが悪でも、どちらが善でもないのにね。
でも、『オルフェ』か『ルイ』か、他の二人の王子か、一人しか王になれない。言わばそこで勝敗――善悪が決まる、ってことなのかも。こわいな……。
「わたし、マティアス様自身は、すごくいい人だと思うんです。だからこそ、マティアス様には、いつかきっとオルフェ側に入って欲しいな、なんて思ったりします」
「ふふふ。そうですね。――それにしても、『本人そのもの』を見るなんて、面白い考え方をするものですね、チカの国は」
くすり、とジャンさんが笑った。
「そうですか? でもジャンさんたちは『わたし』を見てくれたと思いますけど」
蹴られはしたけど、不敬だからとりあえず死んどけ、なんて言われなかったもん。……わたしの基準、だいぶ緩くなってるとは思うけど。
「お前そのものを見なければ話がすすまないだろう。なにせ、他の世界から来たとかいう、突飛なことを言う、前例のない女だ」
「な、なあによー。ジャンさんの講義中は黙ってて、こういうときだけ口出ししてー」
オルフェはふんと鼻を鳴らしてまた寝袋の中に顔を突っ込んだ。どんだけ寝るんだよ。
もし、オルフェが寝袋登場じゃなくって、そのまま来るって言ったら、礼服で来たのかな。見てみたかったかも。
ルイがあんなにキラキラしてたからさー。もう、目が潰れるくらいじゃない? 感動できたかは分かんないけどさ。心のゆとりなかったし。たぶん泣いてただろーなあ、あはは……。
そういえば、わたし、ドレス着たまんまだ。ええと、魚河岸さんのところで買ってもらった服を、と。……あれ? わたし、なんか忘れてるような。
「あ!そういえば魚河岸さんに挨拶するの忘れました!」
「魚河岸さん?」
「オルフェとわたしが買い物をした店です!」
ああ、とジャンさんは合点がいった、と言うように頷いた。
「あの店の主人なら大丈夫ですよ」
「えっ?」
「こちらの身分は伏せ、チカが誘拐されたと事情を話しましてね。詳しく話を聞いたところ、あの方の常連であるパックという少年がマティアスに情報を渡していたようです。なんでも、『チカのような見た目の少女を探していた血縁者がいるらしい』と言う話だったようで。ご主人は……ふふ」
な、何笑ってんだ?
「殿下とチカを、駆け落ちした恋人同士だと思ったようですよ」
「えっ!?」
「初めは断っていたのに、探しに来た血縁者がお爺さんですごく泣いていたらしい、と聞いて同情して、つい話してしまったと」
魚河岸さん、やっぱり騙されてたぁー! っていうか、わたしとオルフェそんなに恋人同士に見える!? ……あ、魚河岸さんのところではちょっとバカップルっぽかったか……反省。
「それにしても、『パック』かあー、確かに聞いたなあ、そんな名前……」
「マティアス様の工場で、病弱な母のために働いているそうですよ。よく作業着のボタンを無くすそうで、ご主人がつけてあげているとか」
ううっ、なんでちょっといい話なの!
ちょっと涙目になりながら、服を探す。そういえばオルフェが選んでくれて一発目に着たワンピース、ルイのところで貝汁まみれにしちゃったな……。あれは申し訳なかった。せっかくオルフェがぴったりサイズのを選んでくれ……、
ん?
「そういえばジャンさん。よく、わたしの服のサイズ分かりましたよね?」
「ああ。あれですか」
「なんであんなに正確にわかったんですかねぇ」
「いやー、あれは」
じとっとした目つきで睨むと、ジャンさんは目を泳がせた。代わりにオルフェが寝袋から顔を出して言う。
「お前の裸を見たからな」
「……はっ!?」
ちょっ、ちょっと待ってよ。裸って、全裸!? 下着無しってこと!? セクハラどころか痴漢じゃん! 痴漢しましたごめんね、って新しいね、面白いから無罪、ってそんなのあるかぁ!
「いつ!? どこで!?」
「おまえが初めて出会った頃に転がっただろう」
蹴られた事件ですか。なるほど。あそこらへん記憶曖昧です、確かに。風邪引いたし。
アチャー、な顔をしているジャンさん、あなたも同罪なんですね。絶対に許さない。
「着替えをさせたのはジャンだ」
「……」
「……すみません、チカ」
じゃあなぜお前が見ているんだオルフェ。千歩くらい譲って、着替えさせなければならなかったジャンさんのことは許したとしよう。だがお前はなぜ見ているのだ。おまえなにもしてねえだろうぐうたら野郎。蹴っただけじゃねーか。
「へっ、変態!! このっ、暴力系変態クソ俺様ぐーたら王子!」
「あと三廻りで王子ではなくなる」
「ツッコむべきはそっちじゃないです! っていうか、王になるんなら王子の位を死守しないといけないんでしょうがっ!!」
「お前はあれだな、着痩せするタイプなんだな。思ったよりもあって驚いた」
「セクハラ! 死すべし!」
悪だな。こいつらが悪だ。間違いない。
「フレデリク! わたしの味方はやっぱりフレデリクだけだよ、助けてっ」
「うわっ、来んな。殿下のご機嫌を損ねたらどうしてくれんだっ。揺らすなっ! 馬が怯えるだろうがっ!」
御者席に転がりこむようにしてフレデリクに援軍を頼む。が、我が味方は今任務中なのでありました。大事な、馬車を運転するっていう役目がね……フフ。はあ。
もういいよ、さらばフレデリク。君は任務を続行せよ。
「今から着替えますけど、ぜっっったいに、覗かないでくださいね」
「そもそも俺様はお前の着替えなど覗いてなどいない」
「うるさいっ、スケベ寝袋野郎!」
服の入った袋をひっつかみ、馬車の荷室のドアをばしーんと盛大に閉めて閉じこもる。
そりゃ、旅の間だもん。色々あるさ。涎垂らしてるところを見られたりね、寝起きで名前をどう書くのか解説させられたりね。でもさあ、でもさあ、そんな初期に裸見られた相手とわたし一ヶ月も一緒に平然と過ごしてたんだよ!? あり得ないっつーの。
「あー、もう、ムカつくっ」
フツー付き合って、好きだよって告白して、キスして、それからでしょ!?
いやそういう話でもないんだけどっ! 知らないうちにオルフェに見られてたとか、恥ずかしすぎる。死ねる。腹出てなかったかな……太ももたぷたぷだった気がするし……。
じゃ、なくて。自分が納得できる身体だったらあいつに見られてもいいとかそういう話ではまったくなくて!
「落ち着け、落ち着け」
深呼吸して心臓のどきどきを静める。ちくちくと痛いのは、きっと気のせいだ。
袋をつかんで、ちょうど良さそうな服を探していると、カサリ、と紙が落ちた。
なんだろ?
「あ、メリーさんにもらったやつだ」
屋敷を出るときに、忘れ物、って言って渡されたんだった。
でも紙だよね? わたし、紙なんて持っていってなかったのにな。
あ、もしかしてメリーさんからの手紙かな? ウフフ。お姉さまったら、忘れ物だなんて言わないで、お手紙って言ってくれればよかったのに。
「どれどれ……」
果たしてそれは手紙だった。
手紙、だったのだけど。
「……んん? んんー」
なんか読めない、と思ったら、わたしこの世界の文字ちゃんと覚えてないんだった。あっはっは。虚しい。
がくっと目線を落としたわたしは、それでも、あるひとつの行だけ、読めることに気がついた。
「『オルフェ』……『千夏』?」
オルフェ、はこの世界の文字で。千夏、はなぜか漢字で書いてある。なんで?
待って。メリーさんはわたしの漢字知らないはずだよね? でもこの手紙には書いてある。ってことは、メリーさんからの手紙じゃないってこと? じゃあこれは誰からの手紙なの?
「……わたしの漢字を知ってる人なんて」
――ひとりしかいないんですけど。
ジャンさんとフレデリクには、意味があるんだよ、としか教えていないもの。
詳しく教えろって言って、わたしが漢字を書いたのはただ一回きりなんだよ。
「うそ、なんで?」
ぽたっと、涙が落ちた。うわ、ヤバっ、恥ずかしい。
何泣いてんだ、わたし。
そんな。
オルフェが漢字を覚えててくれたってだけでなんで泣いてんのよ。
ていうか、あいつの記憶力いいのって、マジだったんだ。あはは。すごすぎるんだけど。イケメンで頭いいとか、羨ましすぎ。性格に難ありだけど。暴力振るわれたけど。
でも、わたし、もしかしたら。
「わたし、もしかしてオルフェのことが、好きなのかも」
どきどきとさっきから自分の心臓が超うるさい。
マジ、なんでわたしあんな奴、好きなんだ。
訳分かんないよ。
でも、でも、顔を思い浮かべるだけでどきどきするんだ。自覚しただけでこれって、ヤバくねーか?
前は俺様理論唱えられただけで、ムカつく、としか思ってなかったのに。
今は、好き、だからムカつく、になってる。
なんか、悔しい。許せちゃう自分とか、好きになっちゃった自分とか。
……何より、わたしだけがこんなにどきどきしているのが、腹立つ!
適当に選んだ服をばばっと身につけて、涙をきっちり拭いて、バーンッとドアを開け放った。
びくりっとジャンさんと寝袋野郎が身体を震わせてこちらを見た。
ふふん、驚いた? わたしはもっと驚いたんだから。お前が漢字を書いたせいで。
「オルフェ様! これ何ですか。メモじゃなかったんですか?」
「ん? ああ、フレデリクに持たせた手紙か」
「手紙? フレデリクは、なんかメモもらってきたとか言って、読んでくれただけだったんですけど。メリーさんが渡してくれなかったら、絶対わたし見てなかったと思いますよーっ?」
「なっ!? フレデリク、貴様、渡せと言っただろう。お前が読んでどうする」
「ぎゃあっ、殿下、申し訳ございませんっ! ちーっと、ちーっと忘れちまったみたいでっ」
「まあまあ、殿下。ただ渡されたとしても、チカは読めなかったと思いますよ」
「何っ!?」
「あ、う、うん。わたし、この国の文字知らないんです……よ……って」
フレデリクにつっかかるオルフェ、をなだめるジャンさん。
あれっ、なぜわたしの識字の話に?
そして、わたしが文字を知らないと聞いて、あのこわあい顔をするオルフェ。
ひっ、なんでその顔するのっ! 暴力反対っ! DVダメゼッタイ!
「おい。チカ。お前今まで何をやっていた。『講義』とやらを受けていたんじゃなかったのか」
「ひぃっ、だってオルフェ様。わたし英語……じゃない、外国語は苦手なんですよぉっ、単語が覚えられないんです」
「俺様とともにいる気ならば習得しろっ、俺様のために死ぬ気でやれっ、習得せぬなら馬車を降りろっ」
「ええええっ、嫌だああ、どっちも嫌だああ」
ガタゴトと揺れる馬車の中。
次の街に着くまで、わたしはジャンさんとオルフェによるスパルタ式クインス王国国字講座を受講させられるのだった。
お し ま い