001 遺留品
聖母にはもう会えないだろう。
聖母の従者には背負う必要はないと言われた。
けれどティブルは夢を見る。
美しいと感じた、聖母の姿を求めている。
叶わぬ初恋であることは解っていても、その思いは未だ薄れはしない。
今はそれでいいと、そう思い、ティブルは深く夢に溺れていく。
■
「ティブルくん、パラスト先生が呼んでるよ」
鶏がらのような貧相な身体の小柄な少女が、ノックへの返事を待たずに部屋の扉を開けて入ってくる。ところどころはねたショートカットの赤い髪に、質素な白いワンピースが鮮やかに映る。小さな身体だが、その全身で朝であることを伝えるようなエネルギーを発している。
備え付けのシングルベッドと書斎机でおおよそ埋まってしまう狭い部屋だ。ゲントレー術法学院の学徒寮、オウカ寮の一室は、快適さを生贄に捧げて個室空間を提供していた。
「よぉマルさん、いらっしゃい」
部屋の主は窓際で紙煙草をふかして、無礼な客人であり同回生でもある少女マルマットを出迎えた。
10代後半から20代前半ほどの青年。紺青の髪を坊主に刈り上げ、目は剃刀のように切れ長で、こめかみには傷が残る、一見してチンピラとしか表現できない男。寝巻き代わりのトレーニングウェアの下には細いながらも鍛えられた身体が覗く。
カーテン代わりに取り付けられた簀垂れは半分ほど上げられ、冬の名残りの寒風と春のやわらかな光の中で青年ティブルは一服していた。
「また煙草だけ? 低燃費だね、お腹空かない?」
煙草を吸うと腹が空かないというティブルの言い分を、喫煙者ではないマルマットはあまり信じていない。同じく同回生で喫煙者のカプーが毎食ばくばくと結構な量を食べている気がするからだ。
「昼は暮屋でバイトだかんな、まかない食べるよ」
「バイトなんだ、午後空いてないならすぐに行ったほうがいいね。パラスト先生、急ぎみたいだったし」
マルマットは脱ぎ散らかした服を集めながら言う。
「おう、わかった。煙草吸ったら行くわ」
「よろしくねー」
汚れた服をひとまとめに抱えたマルマットが部屋から出ていく。華奢な背中を見送りながら、ティブルはまだ十分に残る煙草を楽しむのだった。
■
まだ寒い春の午前、赤地に大きな亀の刺繍を背負ったスカジャンの男、ティブルが通りを歩いていく。通りと並行して川が流れている。北西のビャクシン山の雪どけ水か、豊富な水量で春の光を反射している。
川を背に、古い診療所が建っている。玄関には休診の札がかかっているが、呼び出されたティブルはそれを無視して扉を開けた。
木造二階建ての診療所は築数十年が経過したもので、白塗りだった壁もあらかた剥げ落ちている。屋内は昼間でも暗く、ランプを灯さなければ廊下の先が見えないほどだ。
もちろんランプも、最近出回る流行りの応具ランプではなく油を燃料とする古めかしいものだ。
ティブルはずかずかと奥の診察室へ向かう。書斎机と患者用の椅子に診察台、書類と医学書と薬瓶が詰まった本棚、そして日に焼けた人体模型が狭い部屋に並んでいる。
「パラストさーん、来ましたよ」
「おう、こっちや」
診察室には誰もおらず、併設された手術室から返事が返る。手術室には三十路近い白衣の男が寝台に置かれた何かをいじくりながら、メモを書き込んでいた。
ティブルより頭一つ分は高い身長で、雑な髪型と無精髭は徹夜明けだろう。いつもはニタニタと軽薄そうに嗤う顔は今はいくらか真剣味を帯びている。
「なんですかそれ、腕?」
それはヒトの腕のようなものだった。
二の腕あたりから先が一本、手から判断して左腕のようだ。
指輪や腕輪などの装飾品、タトゥーなどの刻印はない。
爪は力任せにかきむしったかのように剥がれ、肉のような赤黒い破片がこびりついている。
二の腕の断片からは骨と肉と脂肪が見えるが、赤や白ではなく、一様に鈍色に変色している。
「単に斬り落とされたんじゃねえな。歪だが千切ったにしては断面周りがまとまっている。腕の表面よりも、骨に近くなるほどに凹んでいるやろ。外から引き千切ろうとしたら肌の方に力が入った痕が残るだろうし、中心に向かって物が残るだろ」
医者のような男、パラストはペンで断面を指しながら診察内容を口にする。実際に町医者で地域住民には話の分かるいい先生という評判だが、後輩であるティブルらは、このヒトに医者としての仁的な感性はないと確信している。
「外からではないとしたら、内から?」
「そうだな、骨辺りから何かが膨らんで弾けたなら、こんな感じになるやろ。元がヒトの腕とするなら、男で十代後半から四十前くらい。筋肉が少ないから内仕事だな。んで、断面の金のアトマに対して肉に近い方は赤黒い。肉の方も焦げてるから腕の持ち主の火のアトマが対抗していたようだ。てめえの身を焼く程とは、暴走しているとはいえ、なかなかの術士や」
この世界はすべてがアトマで出来ている。アトマとは世界を構成する最小の要素であり、空も大地も、木々も動物も、そしてヒトもアトマで出来ている。
アトマは大別して木火土金水の五系統に分けられる。この腕の場合、腕の持ち主のアトマの系統が火であり、弾け飛んだ断面から蜘蛛の巣のように伸びている金属侵食は金のアトマである。
説明を終えたパラストがティブルを見る。眼鏡の奥の、ニヤついた目がギラついて見える。この目を見て、パラストに医者にかかろうと思うことはなかなか難しい。
「町医者ではこの程度や。専門家だとどうや」
「誰の腕とかわからんですよ。俺がわかるのは残った意志くらいです」
そう断りを入れ、ティブルは寝台の上の腕、その断面に手を伸ばす。ティブルの手に紺青の光が宿り、粒子となって周囲に霧散していく。紺青の光がすべて消えるが、ティブルの手の周りは陽炎のように光が屈折しており、空間が歪むように見える。続けて、千切れた腕の断面が鈍い光を放ち始める。
ティブルが広げた手を何かを掴むように少し閉じていくとそれに合わせて断面の発光が収束し、赤と白が混じり合った光球が手に引き寄せられる。やがて断面から離れた光をティブルは掌握する。
握りつぶされた光は霧散し、寝台の上の腕もまた、光を失った。
「なにが残っていた?」
見守っていたパラストが尋ねる。
「好奇心、探す、どこだ、辿る、どこへ、見回す、ここは、把握する、見えた…...」
拳を見つめながら、ティブルは断面から流れ込んできた意志を反芻する。
アトマは意志に染まりやすい性質を持つ。
世界を作った創世の六客人は無色透明のアトマを、空は空、大地は大地、ヒトはヒトであると強い意志で定めた。
六客人に作られ、しかし自ら意志を持つヒトは体内外のアトマに意志を通す術を獲得した。それは術法と呼ばれる、世界を一時でも書き換える奇跡を発現する。
世界を作り、今なお世界を保ち続ける六客人の意志、すなわち世界意志は強大で絶対だ。それに一瞬でも迫る程の強い意志、感情を込めて奇跡を起こすのが術法である。
ティブルはその残滓を感じ取る。
「探索、知りたいという好奇心。わずかでも強力な、狂神の意志です」
「なんだ,何か調べ物でもしていたのか? 腕のほうは?」
「静止、停止、断固たる否定の意志。あとは怒り、許せないという憤怒」
「狂神の意志への抵抗か? 長時間の接触は避けるべき創具やろ。どう取り込んだかは分からんが、体内に入れば抵抗も何もないやろうに」
創具とは世界中に残された、六客人の遺産ともいえる道具類の総称である。それぞれが六客人の意志を核としており、接触し続ければその強すぎる意志が精神に影響する。その意志が自分のものなのか、創具によるものか、区別を無くし、身を滅ぼしたという例は古来より溢れていた。
特に六客人の一人、狂神は残した創具の数の多さとそこに込められた意志、すなわち司る好奇心と栄枯盛衰の危険性で広く知られている。
ありがとうよ、とパラストは言い、ティブルの証言をメモに追記した。
役目を終えたティブルは一旦用済みなのだが、目の前にある腕という非日常性には好奇心と疑問と懸念が残る。
「それで、どうしたんですかこれ?」
「ああ、昨夜呼び出されてな、現場に行ったら落ちてたんや。一応鑑識を依頼されてな」
「持ち主は? この様子だとそっちも狂神の意志に侵されてますよ」
「現場に残っていたのは腕だけだ。本体のほうは警察で探してるよ」
やれやれといった感じで、パラストは顔を上げる。ゲントレー術法学院の卒業生であるパラストの元には学徒時代からの関係などで度々こういった非日常的な事件の調査協力の依頼が舞い込む。パラストはオウカ寮の先輩でもあり、ティブルは実働として雇われ、こき使われている。
「わざわざすまんな、今度焼き肉連れてってやるよ」
「いいですけど、気をつけてくださいね」
「あ? 何が」
「いや、狂神の意志には探すがありました。本体のほうが、失くした腕を探してるかもしれませんから」
「なるほどな、わかった、追記しておく」
■
TIPS
アトマ
世界を構成する最小の要素。無色透明で意志に染まりやすい性質があり、強い意志で染め上げられたアトマは術法という奇跡を発現する。
ファリタ・デ・アトマ
アトマで作られたこの世界の名前。空も大地も、木々も動物も、ヒトもモンスターもすべてアトマで作られている。
創具
術法はより強い普遍的な世界の意志、すなわち世界意志によってそのアトマを上書き修正され、術法を発現した意志は揮発する。
世界を凌駕した意志はアトマを染め上げ続け、世界に残り続ける。意志を具現化したそれは創具と呼ばれる伝説である。
六客人
ファリタ・デ・アトマの世界を作った創世の六人。
聖母、竜王、英雄、狂神、美姫、開拓者の六人は海と山、火と獣、ヒトと文明を作った。
世界中に存在する創具のほぼ全てが六客人によって作られたものである。
世界もまた、六客人によって作られた創具といえる。




