第14話
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「谷岡先生…………寺島沙希は、どうしたんですか?」
助手席や後部座席に人影はなく、そう尋ねる。すると谷岡は「ん?」と怪訝そうな顔をし、「それより免許を見せろ」と強く言った。
「はい、もちろん。どうぞ」
胸ポケットから学生証を取り出すと、それを裏返して手渡す。透明のカード入れになっているそこには普通二輪の免許証が差し込まれている。
「ふむ。ちゃんと期限内だな。だがうちは通学に使うのと制服で乗るのは校則で禁止されてる。日が浅いから今回は見逃すが、次からはせめて着替えるように」
お叱りと共に免許証が返される。健は「申し訳ありませんでした」と頭を下げると、それを受け取った。
「うん。それで寺島だが、お前ら彼女とは仲が良いのか?」
片眉を上げ、谷岡が尋ねてくる。健は「えぇ、まぁ」と曖昧に頷くと、なんだか印籠めいた役割が多くなってきた巾着を「こういったものをもらうくらいには」と掲げてみせた。
「お前…………随分と手が早いやつだな。あんまりうるさく言うつもりはないが、学生らしい付き合い方を常に意識するように」
「はい、ありがとうございます。それで沙希なんですが、体調がえらく悪いらしいと聞いて、それで心配になって」
「あぁ、そういう事か。確かに酷い顔色だったな…………実は途中で降ろしてくれと言うんでそうしたんだが、先生心配になってな。念のためご家族に知らせておこうと思って来たんだが、留守だったんだ」
「あぁ、そうなんですか。僕らも電話したんですが繋がらなくて。携帯の方も充電が切れてるんだか何だか、駄目ですね。しかしそうなると、行っても無駄足か」
家にいないだろう事など知っていたが、一応初耳だという事にしておく。健は考え込む振りをして視線をずらすと、ハンドルを握る谷岡の手元を見た。
「しっかり歩けていたし大丈夫だとは思うが、万が一何かあれば先生にも連絡をくれな。番号、渡しておくから」
谷岡はダッシュボードを開けると小さなメモ帳を取り出し、番号を書いて千切ってよこしてきた。健はそれを受け取ると、「了解しました」と頷いた。
「ちなみに、どのあたりで降ろしたんですか?」
健が尋ねる。それに谷岡は「土手より手前の交差点あたりだ」と答えた。「そうですか」と健。
「ん。それじゃあ先生もうひと回りしてから帰るから、お前らも遅くならないうちに帰れよ。心配なのはわかるがな。また明日」
谷岡はそう言うと、車をゆっくりと発進させていった。健はその場で車のテールランプが見えなくなるまで見送ると、「見たか?」と独り言のように言った。
「ん? これ?」
狐狸丸が能天気な顔で足元を指差す。谷岡の車が泊まっていたそこに、人間の指で出来た草がうねうねと生え、揺れていた。
「それもあるが、それだけじゃない。谷岡先生、指輪をしていたな」
健はヘルメットをかぶると、目的地を変えるべくバイクをターンさせた。しかしいざ発進という時にヘルメットの後頭部がぱしぱしと叩かれる。
「ねぇねぇ、たける。こりまるさぁ、谷岡せんせーが呪の元だと思ってたよ」
無邪気な狐狸丸の声。健は少しだけ後ろを振り返ると、「まぁ」と前置きをした。そして「似たようなものさ」と続けると、今度こそバイクを加速させていった。
「さきちゃん、さきちゃん」
歌うような声。かすれ、ひび割れ、温かみなどまったく感じない声が、同じ調子で続けた。
「わたしの、かわいい、さきちゃん。ほら、もうすぐだよ」
床は肉。空はなく、壁も天井も固められた血と肉で出来ている。声の主はゆらりゆらりと歩みを進め、時折頭だけを振り返っては、背負った少女を見てにやにやと笑った。
「もうすぐ、もうすぐ。げんきに、うまれようね」
そいつは目を閉じてぐったりとしている寺島沙希の髪をそっとすくと、再び前を向いて進みだした。道は入り組んでおり、目的地はとても遠かったが、構うことはなかった。どこへ行くべきかは知っているのだから。
「さきちゃん、さきちゃん」
そいつはご機嫌だった。ご機嫌だから、心地よい音楽を奏でるように、錆び付いた喉を鳴らした。時には血がからまってごぼごぼと汚い音もしたが、それでも困ることはなかった。
自分が何を言いたいのか。それがわかっているのなら、十分じゃないかと。
「さきちゃん、さきちゃん。もうすぐだよ」
歌うように名前をつむぐと、ふと自分の指に長い髪が数本、からまっている事に気付いた。きっとさきほど後ろの少女の髪をすいた際に抜けたものだろう。
それがわかったので、そいつは、それをうまそうに食べた。
「…………ふむ。降ろしたのはこの辺りだろうが、いったいどこへ向かったんだ。見当がつかんぞ」
通勤ラッシュから普段以上に交通量の多くなった交差点付近にて、健はバイザーを上げてそうぼやいた。
「人が多すぎるねぇ。何人か食べてもわかんないくらい。やっぱあきらめる?」
同じようにバイザーを開けた狐狸丸が、くりくりとした目を輝かせている。健は狐狸丸の言葉を頭の中で反芻させると、「いや」と首を振って否定した。
「せっかくわざわざ挑発してまで急いだんだ。ここで諦めたら徒労に終わっちまう」
状況をもう少し整えてから行動を起こすことも出来た。これは確かであり、そして確実に呪の元を断つにはそうするのが一番だった。しかし今健が選んでいるのは、数ある手段の内の、あまり取りたくはないと考えていたリスクを含む選択肢だった。
「へー、君らしくないねぇ。やっぱり沙希ちゃん、気に入った?」
狐狸丸のいたずらっぽい顔に浮かぶ挑発気な笑み。健は「しつこいぞ」とそれを流すと、しかしバイクのサイドバッグの方をちらりと見た。中には学生鞄が押し込まれている。
「返さなきゃいけないもんがあるしな。まぁ、程々にはやるさ」
健はそう言ってバイザーを下ろすと、バイクを発進させた。行き先が不明な場合はこうすると決めていた、それを実行するために。
「……………………」
無言でバイクを走らせ、その間も頭は思考を続ける。いくらもしないうちに目的地へと到着するが、今ならまだ引き返すことができる。そして狐狸丸が言うように、別の選択肢を選ぶことも。
ただしその場合、寺島沙希は助からない。
確実な方法は、呪の元が願いを成就させたまさにその時を狙う形だった。これは何度も経験があるし、健達は比較的安全に事を成すことが出来る。呪の元が誰かを知る必要があるが、それに関しては問題ない。
しかし呪が成就するということは、寺島沙希の体か、脳か、それとも運命か、いずれかに破滅的な結果をもたらす可能性が高い。運良く大した被害もなく済むケースもあるにはあるが、稀だ。
健が現在採っているのは、呪の成就前に事を成す方法。言葉だけを見ればこれが最も良い選択肢に思えるが、実際にはかなりのリスクを伴うものだった。常世への入り口を探し、そこに身を投じる必要があるからだ。
入り口の場所はケースによってまちまちだが、今回の場合は恐らく寺島沙希が消えた場所にあるだろうと健は考えていた。物理的に堂々と拉致されたというのならともかく、そうでないなら常世を通して連れ去られた形となる。
常世へ入るのであれば、入り口がなければおかしい。当たり前の事だ。
そしてつまるところ健はいま、寺島沙希本人ではなく、その入り口の方を探しているという事になる。見つからなければ最初の選択しを選ぶ事になるだろう。もちろん最悪なのは神祇院が結界を張ってしまう事で、その場合は彼女に確実な死が約束される。
「どこかをほっつき歩いてるだけという可能性もなくはないが…………あぁいや、そいつはなさそうだな。随分と怒っていらっしゃる」
目指す地に近付くにつれ、周囲に強烈な気配のようなものを感じ始める。肌にぴりぴりと突き刺さるそれは、例えるなら怒気を孕んだ視線。健は路肩にバイクを停めて降りると、目的地であるそこをざっと眺め見た。
赤い鳥居と、それを挟む2匹の狛犬。奥には社が佇んでおり、気配はそこから発せられていた。
「峯川神社かぁ。ひさしぶりだね。あ、こりまるは入らないからね?」
バイクから下りる事なく、またがったままの姿勢でひらひらと手を振ってくる狐狸丸。健は「あぁそうかい」とうんざりした声を返すと、彼女にヘルメットを放った。
「祓い給え、清め給え」
いつものようにハラエキヨメと略さず、しっかりと唱える。相手が相手なので気休めでしかないが、やらないよりはずっとましだった。
中央を避けて鳥居をくぐる間、左右の狛犬からは絶えず視線が向けられていた。




