第7話
月も星も見えない真っ暗闇。山の中には街灯もなく、街の明かりも届かない。あるのはたった一つ、なんとも頼りない小さなランタンの灯だけ。冬の冷たい風、そして揺れる草木のざわめきが満たされた場所で、黒い影はゆったりと立ち上がった。
「んんぅ――――ッ! 〜〜〜〜ぅッ!」
呻き声が木々の合間に溶けて消える。両手両足を拘束され口を塞がれた男が4人、地面に転がっていた。彼等の目は憤怒に燃えていた。だが彼等は気付かないのだろうか。彼等の憤怒よりもずっと深く、淀み、ドロドロとした物が彼等を見下ろす影の瞳を満たしている事に。
影がバリっと一人のガムテープを外す。
「痛ッ……クソが! この野郎! ふざけやがって! ぶっ殺すぞオラぁッ!? んなことして、どうなんのかわかってんのかあぁ――ぶッ!?」
影は無言でその横っ面を殴り飛ばした。
「ぅ……っ痛ぇだろうがこ――ぐぎっ!?」
影はもう一度殴った。
「痛ぇ……痛ぇええええ!? オイ、お前……あの野郎だろ? なにが目的だよ。なんだ、お前あの女と知り合いだったのかよ? それとも他の女かぁ? ……ひひッ!」
目元をヘアバンドで隠したその影は、ただ男を殴り飛ばした。
「どうなっても知らねぇぞ? お前、絶対に殺してやるッ……! お前の家族も恋人も、全員ファックして殺してや」
影が殴る。
「お前、マジで」
殴る。
「ふざ」
殴る。
「……ぅぅ」
殴る。
殴る。殴る。殴る。殴る殴る殴る。やがて音にピチャッピチャッという水音が混じるようになる。いつの間にか男の顔はぐちゃぐちゃに崩れ、あるいはパンパンに膨れ上がり、歯が何本かなくなっていた。
そしてそれと同じくらい、男を殴っていた影の手からも血が流れていた。ぱっくり割れた拳からだくだくと血が流れ続け、歯が突き刺さっていた。それでも、殴るのをやめない。
男がついに涙を流して懇願を始めた。媚びへつらうように影へ笑いかける。
「わ、わひゃった……もう、わひゃった……すまなかった。あぁ、そうだ! お前の事、特別にオレらの仲間に入れてやるよ!」
「……仲間?」
影はぴくりと震え殴るのをやめた。男の顔に喜色が浮かぶ。
「あぁ、そうひゃ……仲間ひゃ! ひょんな女が好みひゃ? あぁ、そうひゃった、女子高生ひゃったよなぁ! 女子高生はいいじょ? 世の中を舐めくひゃっているのが特にいい。ひひゃひゃっ、あいひゅらと来たら、自分が世界の中心ひゃと思ってんひゃぜ? そうひゃなかったって気付く瞬間の顔、たまんねぇひょなぁ、ゾクゾクするっ……! ほんと、馬鹿だひょなぁあいつら、世界の中心はオレらなのにひょぉッ!」
それを聞いて、影が笑った。呻くような、低く、鈍い笑い声だった。
「あぁ、そうだな。俺はお前等のお仲間だ。お前等と同じ、悪だ」
影が男に背を向ける。次に振り返った時、その手には金槌が握られていた。
「おい……何の、つもりひゃ……?」
影が近付いてくる。
「やめっ……やめひょ! おい、ひゃめよよ!? オイ!? お前、マジでやったら殺すからひゃ……? おい、オイぃいいいいいッ!」
男の制止も虚しく、影は金槌を振り下ろした。
「――――――――ッ!?!?!?!?!?!?」
声にならない絶叫が森に響く。男が過呼吸をするかのように荒い息を吐き、身体をうねらせる。金槌を叩きつけられたズボンの股間部に赤黒い、あるいは黄色や茶色の染みが広がっていく。
「いひゃい……いひゃ、い……助けへ、助けへ……!」
逃げようと芋虫のように這う男。影は男を蹴り上げて仰向けにすると、再び金槌を振り下ろした。少し狙いが逸れ、足の付け根に当たる。バキンっと澄んだ音が森に響いた。
男の絶叫が響く。影は男の口を押さえ、そして再び股間に金槌を振り下ろす。何度も、何度も振り下ろす。やがて水音しかしなくなった所で、ようやく影は止まった。
いつの間にか男は静かになっていた。白目を剥き、泡を吐いて意識を失っている。時折、身体がピクピクと痙攣していた。
影の瞳がすぅっと他の男達へと向いた。その目は返り血が入ったのか、真っ赤に染まっていた。影は淡々と次の男のガムテープを外した。
「も、もう十分だろ……すまなかった。本当に悪かったよ……。だから、反省してるから、だから許してくれよ。なぁ、頼むよ……」
男がへらへらと、恐怖と媚びの混ざった目を浮かべすり寄る。影は拳を振りかぶり、その男の顔を殴った。殴打の音が延々と続く。やがて男の顔はパンパンに腫れ上がり、真っ赤に染まっていた。
続いて影は金槌を取り出した。それを見た男が、涙を流して懇願を始める。
「ご、ごめな、ひゃい……ごめんなひゃい……すいません、でした……許し、て……ごめんなひゃい、ごめんなひゃい……」
血塗れの顔を地面に擦り付けて許しを請う。何度も何度も謝罪を繰り返す。
影はただ一言答えた。
「駄目だ」
何かが破裂するような音が鳴った。絶叫が男の口から放たれる。その口を押さえて、金槌を股間へと繰り返し振り下ろす。
「俺は勘違いしていたんだ。人を守るのがヒーローの役目だと。正義を為すのがヒーローの仕事だと」
金槌を振り下ろす。
「でもそうじゃない。ヒーローの仕事はそんな生温い事じゃなかった」
金槌を振り下ろす。
「ヒーローが本当にやるべき事、それは――悪を滅ぼす事だ」
金槌を振り下ろす。
「俺は甘かったんだ。正義を為せば人を守れるって、そう思ってた。でも違う。必要だったのはそんな優しさじゃない、圧倒的な力と……そして、非道だ」
金槌を振り下ろす。
「悪に鉄槌を。悪に裁きを。悪を徹底的に叩き潰す事だけが、唯一、俺がヒーローになりうる方法だったんだ。……慈悲や容赦が齎すのは災厄だけだった」
金槌を振り下ろす。
男は静かになっていた。
「だから俺は正義を諦めた」
影がすぅと次の男を見た。あと二人。
「正義は動機で、悪は結果だ。だからこの世には悪しか残らない。だったら俺は、自分が悪になってでも、悪を為してでも、誰かが守られたという結果さえ残ればそれでいい」
彼等を見る影の瞳にはどこまでも、ドロドロとした黒い物だけが湛えられていた。
「俺はもう二度と、自分が善でありたいなんていう甘い幻想は抱かない」
影が金槌を振り上げる。
その腕に壊れた腕時計が巻かれている事に、男達は今更気付いた――。
* * *
ヒロミは真っ暗な山道を下っていく。
「……ぅっ!」
胃に込み上げる物。木にしがみ付くようにして、口から吐き出した。びちゃびちゃびちゃと吐瀉物が跳ねる。おかしな物だ、さっきまではあんなに平気だったのに。
彼等に痛みを与えている時、ヒロミには興奮も怒りも憎しみも罪悪感も何もなかった。ただ使命感だけがあった。ただ、そうしなければならないという、あるいはそうする必要があるという感覚だけがあった。
「……はぁ、……はぁ」
ひとしきり吐き終えてからフラフラと、再び山を下りていく。
いくつかの監視カメラにはヒロミ達の事が映ってしまっただろう。レイプ殺人犯共は夜遊びを繰り返していたようだが、それでも何日も帰ってこず連絡もつかなければ、やがては捜索が始まるだろう。
それにヒロミの格好は返り血で酷い事になっていた。誰かに見られればどうしようもない。朝になる前にここから離れないと。そう必死に足を動かし、山道を下りきった。
その瞬間だった。
バッとライトがヒロミを照らし出した。ライトは連続した。バッ、バッと次々にライトが灯り、ヒロミを包囲する。腕を翳しライトの奥に目を凝らす。いくつもの人影。
「――倉谷ヒロミさん、ですね?」
ライトの向こう。車から誰かが降り、こちらへと歩み寄ってくる。ここまでか、とヒロミは息を吐いた。しかしその女性はまるで予想外のセリフを吐いた。
「貴方をお待ちしておりました」
よく見ればその女性は随分と若い。ヒロミと同年代にさえ思える。一つに纏め肩に流された黒髪に白いシュシュ。落ち着いた色合いのワンピースとカーディガン。上品にケープを肩に掛け、穏やかな笑みを浮かべている。
そのすぐ側に、見知った男の顔があった。
「……申し訳ないっス。バレちゃったみたいで」
逃げないようにだろうか、大男に両脇を固められていたのはヒロミがレイプ殺人犯共を探す為に脅し、協力を強要したあの警備員だった。
「結論から言います。倉谷ヒロミさん」
そして彼女は、問うた。
「――私と契約してヒーローになりませんか?」
まるで少女アニメのワンシーンのようだった。しかし、
「ヒーローだと? ふざけるなァアアッ!」
ヒロミは激怒した。他者が、俺にヒーローを語るというのか。この俺に。
「別にふざけてませんよ。私は本気です。というより、貴方のおかげで現実味が出てきた、というのが適切ですけれど」
彼女はそう肩を竦めた。それから居住まいを正し、優雅に礼をする。
「私は小春ツバキと申します。日本パブリックカメラ株式会社が社長、小春アキカズの一人娘です」
「お前が……あぁ、そうか」
瞬間、ヒロミは地面を蹴っていた。
「お前がぁああああッ!」
「ッ!」
ツバキを守ろうと大男が何人も立ち塞がる。しかしヒロミを捕らえる事はできない。ヒロミには彼等が止まって見えた。彼女の元まで辿り着く。押し倒し、彼女の首元を締め上げた。
「ぐっ……!」
「悪の一味が、一体何のつもりだッ!? 自ら罰を受けに来たかッ」
「……ははっ。すご、い。やっぱり貴方、普通の人間じゃ、ない」
ツバキは笑っていた。
「お嬢!」
「ダメで、す……手を、出さないでください」
彼女は、自身を助けようとする大男達を制止する。
「何が目的だ、答えろッ! さもなくばこのまま絞め殺してやるッ……!」
「ふふっ、貴方、は……私を殺したりしません、よ」
「殺すさ」
「殺しま、せん」
「殺してやる!」
「殺せません、よ……だって、あのレイプ魔共ですら殺さなかったんです、から。貴方は、本質的にヒーロー、なんです、よ」
「ヒーローが人を殺さないなんて誰が決めた」
「私です。貴方は、私にとってのヒーロー、なんです、か、ら……」
彼女の声から段々と力が抜けていく。このまま締め続ければ本当に死ぬだろう。ヒロミは止むなく手を緩めた。
「ごほっ、ごほっ……ほら、やっぱり殺せない」
「殺さないのは、まだ聞いていない事がある今だけだ」
「ふふっ、やっぱり貴方は私の思い描いた通りのヒーローです」
「お前とは趣味が合わないな」
「私はそうは思いません」
「俺にはお前が悪魔や妖怪に見える」
「天使や妖精の間違いでしょう?」
ヒロミは牙を剥き、ツバキは微笑む。
「それで理由、でしたか。私達だからこそ、ですよ。貴方の協力を求めるのは」
「どういう意味だ?」
「……こんなはずじゃ、なかったんです。私はカメラの普及が、私のような被害者を減らせると、そう思っていたんです」
「私のような……?」
自虐的にツバキは言った。
「――私も、レイプ被害者です」
ヒロミは思わず、動きを止める。彼女は「中学生の時でした」と、まるで懐かしみさえするかのように笑っている。ヒロミは気付いた。無垢に思えていた彼女の笑みの奥に、暗くドロドロした物がある事に。
「そういうのを、無くせるはずだったんです。小春アキカズを利用して、日本パブリックカメラを利用して、警察との提携にも漕ぎ着け、全てがうまくいったと、そう思ったんです。でもそれは、幻想でした」
ツバキから表情が消えた。
「ある時、一件の強姦事件が起こりました。私達はその映像を証拠として警察に提供しました。そうしたら、言われたんですよ。『今回の件に関するデータを全て削除しろ』って。市民を守る筈の警察が、犯罪者を守るって言うんですよ。お笑い種です」
ツバキは無表情のままに、しかし声に怒りを滲ませて言う。
「私はもちろん抵抗しました。でも、ダメでした。待っていたのは脅しでした。私は、私が会社を作り上げたと、私がいなければ会社は成り立たないと、私が会社を操っていると、そうどこかで思い上がっていたんです。でも、違いました。……私は力を手に入れたつもりで、実際は、他の、もっと大きな力の一部になっていただけだったんです」
ツバキは諦めたようにゆっくりと首を振った。
「そこから先はあっという間でした。力のある者達にとって、防犯システムは非常に都合が良かったんです。お金や権力があれば無実を作れるんですから。防犯システムはいつしか犯罪を取り締まると同時に、犯罪を揉み消す道具と成り下がっていました。私の思いは潰えたと、そう思っていました――貴方を見つけるまでは」
諦念に満ちていたツバキの瞳の奥。ドロドロとした物の奥に強い光が存在する事に気付く。
「最初はただの不審者だと思ってマークしていました。でも、次第に貴方が人助けをしている事がわかりました。そして、貴方の動きが常人離れしている事も」
ツバキは「というかあれで隠してるつもりだったんですか?」と馬鹿にするように言う。
「私は貴方を追うと同時に、犯罪の揉み消しにも使っているシステムを用いて貴方の存在を隠匿しました。実は今までずっと、貴方が知らなかっただけで、貴方は私に助けられていたわけです。感謝してくださって構いませんよ?」
「……はッ、よく言う」
ようやくヒロミはツバキの言葉に答えた。ツバキはどこかにっこりと笑みを浮かべた。
「私達には警察から下された命令に背く事ができません。だから貴方に、私達が手を出せない悪を下して欲しいのです。これが、私達の目的の全てです。そしてここにいるのは、そんな私に同調してくれた仲間です。わかって頂けましたか? 私達の目的が、貴方と同じ正義を為す事だと」
「……ふぅ」
ヒロミは押さえつけていたツバキを解放した。彼女は「痛たた……乱暴ですね、もう」と洋服を叩いてシワを伸ばしながら、立ち上がる。
「それでは改めて問います。倉谷ヒロミさん、私と契約してヒーローになりませんか?」
「断ったら?」
「その時は、仕方ありませんね。貴方のデータをぜーんぶ警察に渡しちゃいます。刑務所行きですねっ。あるいは研究所ですかね?」
ツバキは手を合わせてきゃっきゃと笑った。
「はっ、これは協力じゃないな」
「はい、そうです。だから今、貴方を迎えに来ました。今なら断れないでしょう? 加えて私達と強調すれば、住居や食事、治療や仕事道具も用意できます。……あぁ、ちなみに。もしかするとご存じないかも知れませんが、貴方のお顔、ついにネットに出回り始めたようですよ」
「そりゃ、ご丁寧にどうも」
「いいえ、お気になさらず。私、契約には誠実な人間なので」
「誠実ぅ? あぁ、そうだな」
「でしょう? 相手の求める物を、相手が最も欲している瞬間に提示する……それが交渉の基本ですから」
実際、彼女の提示したものは全て、今となってはヒロミには入手の難しい者ばかりだ。つくづく思う。選択肢などないのだ、と。
「……協力はしない」
「貴方、」
「――だが。お前等の掴んだ犯罪者の情報を偶々俺が聞いて、そいつらに罰を与えに行く事はあるかもしれない」
「まったく、素直ではありませんね。ともかく契約成立です。これからよろしくお願いします、ヒロミさん」
「馴れ馴れしく呼ぶな。俺はお前のオトモダチでも仲間でも同志でもない」
握手を求めてツバキが伸ばした手を、ヒロミは払った。ツバキはそれに目をぱちくりとさせてから、「そうですね」と頷いた。
「これから……いいえ、これから”も”よろしくお願いしますね――倉谷ヒロミさん」
「勝手にしろ」
「ふふっ……私、交友関係は広いんですけれど、契約関係は初めてです」
言って、ツバキはふっと笑った。それはこれまでの、彼女のどの笑みとも違った。一瞬だけヒロミはそれに見惚れ、視線を逸らした。今更ながらに、彼女がまだ、少なくとも表面上では少女でしかない事に気付く。
「……あと一つだけ。お前は勘違いしてる」
「なんでしょうか?」
「俺が正義を為す事は、ない。俺が為すのは、悪行だ」
そうして、この街にヒーローが誕生する。
今はまだ、名もないヒーローが――。




