第7話
「しかし、気づかれてないと思ってたのは驚きっすね」
無人の村を、姫は気分転換にネズミを連れて歩いていた。降り注ぐ雪をかぶらぬよう頭巾を身につけ、その中からネズミがちょこんと顔を出している。
姫の風邪は、もうすっかり治っていた。
「まあ、ダンナやオレっち、山の動物と話せるなんて、普通のお嬢さんじゃないなとは思ってたっすけど。いやはや、まさか、冬の姫さまだったとは、おみそれしやした」
「もう、それは言わないでって、約束しましたよね?」
ふくれっ面となって姫はネズミに文句を言ったが、お調子者の彼にはたいした効果はないようだった。
狼に素顔を見られて、冬の姫という素性を見破られた。というよりも、さきほどネズミも言ったが、狼は言葉を交わすことのできる姫のことを、最初から不審には思っていたらしい。
普通の人間には、動物たちと会話することなどできない。それができる人間は限られている。
たとえば、かつて四季を司っていた女王もそうだった。
四季の恩恵を受けるのは、何も人間だけではない。この国に生きるものたちの声を広く聞くために、そうした魔法のような能力が存在するのである。
素性を隠していたことの後ろめたさから、姫は今度こそ狼に見限られるのではないかと、心が頼りなく震えた。けれど、狼はそれ以上のことは追求してこなかった。
あれからもう一週間は経つが、今朝も食料を調達するために、でかけている最中である。
「いや、でもっすねえ……。姫さま、ここだけの話。なんで外に出てきたのか教えてはもらえないっすか?」
「…………」
「ダンナは何も言わねえし、聞くなとも言われてるっすけど、お姫さまは、季節を廻らせるのがお仕事なんっすよね? だったら……」
「ごめんなさい、ネズミさん。今は、言えないのです」
「う~ん、その顔はずるいっすよ~。オレっち、何も言えなくなるじゃないっすかぁ」
うなだれる姫を見て、ネズミも申し訳なさそうに口をつぐむ。姫も隠し事をしたいわけではなかったが、仕方のないことだった。
まさか、ネズミも姫が狼に食べられたくて塔を抜け出したなどとは思うまい。風邪で倒れてしまった自分のために行動してくれた彼に対して、そんなことを姫も言う気にはなれなかった。
「本当に、ごめんなさいね」
「いいっすよ。しっかし、早いところ、この雪ともおさらばしたいもんっすねえ」
さくさくと、積もった雪に刻まれた足跡は、降り続ける雪にすぐに隠されてしまう。ここ数日、ますます雪は強くなっているようなのだった。山奥に見えていた塔も、白くかすんで薄い影がほんのりと見える程度である。
「そうですね……」
狼とネズミが野草や木の実を探してくれてきたおかげで、姫の食事は多少ではあるが、改善の兆しを見せていた。
村には井戸水と放置された調理具があったため、魚と合わせてスープのようなものをつくることができた。とはいっても、姫自身に料理の心得はないため、ほとんど材料をそのまま突っ込んで煮ただけのものだ。試しに狼に食べてみてもらったが、「生魚のほうがウマい」と言われた出来である。
しかし、そんな料理と言うにはほど遠い代物ではあったが、少なくとも姫にとって生焼けの魚よりかは、はるかに人間らしい食事ができたのは久しぶりのことだった。
そして、そんな生活をしばらく続けていることに安心感を覚えている自分に、姫は同時に罪悪感も抱いていた。
(いつまでも、こんなことを続けていいはずがないわ)
塔から抜け出したことは、とっくにばれているに決まっている。もしかすると、国のお城の方にも伝わっているかもしれない。となれば、捜索だって始まっているだろう。時間が経てば経つほどに、見つかる可能性は高まっていく。
「そういやぁ、姫さまのことは置いとくにしても、ダンナの事情も気になるところっすよね」
「狼さんの……?」
暗い顔をしている姫を見かねたネズミが、声を潜めて別の話題を口にする。思いがけず、この場にいない狼のことだっため、姫は瞳を上向けた。
「そうっすよ。狼ってのは普通は群れで行動するもんなんっす。けど、ダンナは姫さまと会ったときから一匹なんでしょ? しかもひどい怪我までしてたとありゃ、何か訳ありに決まってるっす」
確かに、その通りだった。詮索を避けていたところはあったが、姫は狼の事情をこれまで一言だって聞いてはいなかったのである。
あの怪我――少なくとも後ろ足に刺さっていた矢に関しては、人間の手によって行われたものに違いがない。
同じ人間である姫は、狼から恨まれてもおかしくはないはずだった。それなのに、彼は姫に食べ物を与え、ともにいることを許してくれていた。
姫はそれを思うと、いかに自分が身勝手に彼につきまとっているのかを思い知らされて、恥ずかしさにいたたまれなくなるのだった。
(狼さんの、事情……)
狼が何を思って自分のそばにいてくれているのかは分からない。けれど、彼は決して姫を食べないし、ずっと一緒にいられるというのが甘い幻想であることには、いい加減に姫だって気づいている。
彼には彼の事情がある。いずれは別れのときはくるだろう。
そうなれば、残された自分がどうなるか。
どれだけ言い繕ったとしても、逃げ出してしまった自分に、もはや帰る場所などあるはずもない。
「姫さまぁ、さっきから浮かない顔ばっかりっすね。一人で話してるみたいで、オレっちは悲しいっすよ」
「あ! ご、ごめんなさい……。そんなつもりじゃなかったのですが」
物思いにふけっているうちに、ネズミの話を聞き流していたみたいだった。姫は無理に取り繕った笑みを見せて、ネズミが苦笑ぎみに息をこぼす。
「もういいっすよ。それより、ぼちぼち戻りましょう。このままじゃ、オレっち姫さまの頭で冬眠しちゃいやすよ……」
「ふふ、そうですね。狼さんが帰ってくる前に戻らないと、怒られてしまいますね」
どうやら間借りしている家からもだいぶ離れて、村の外れまで来てしまったようである。暖炉が恋しいと弱音をはくネズミに微笑み、姫はもと来た道を引き返そうと踵を返そうとした。
そのときである。
「ニンゲンだ。ニンゲンのにおいがするぞ」
村を囲む雪に染まった草藪の一角が、ガサリと揺れる。姫は、「ひっ」とネズミが本能から喉をひきつらせる声を聞いた。
「ネズミのにおいもするぞ。エモノのにおいだ」
藪の奥から黒い毛並みの痩せた狼が二頭、姫とネズミの前に現れたのである。二頭は姫を挟むように素早く左右に分かれて、体勢を低くしてうなり声をあげ始めた。
姫と同じくらいの大きさで、白い狼ほどではない。薄い茶色の瞳はギラギラと飢えた欲望を放っており、にらまれただけで姫は立ちすくんでいた。
「あなた方は……」
「姫さま! 逃げるっすよ!」
目の前の光景を即座に認識できず、うわごとを言うように口を開きかけた姫をネズミが叱責した。姫の感覚は強制的に引き戻されて、瞳は迫る恐ろしい現実をとらえ、耳はうるさいくらいに風の音を聴いたのである。
「走ってっ!!」
言われるままに、姫は足がもつれるのもかまわず全力で逃げ出した。しかし、当然のように背中からは二頭の吠えたける声が追いかけてくる。
「ネ、ネズミさん……! 話し合えば、なんとかなりませんか!?」
「無茶っすっ! 話し合ってわかるような相手とは思えないっす!」
本能の領域で分かるのだろう。ネズミは全身を総毛立たせて姫の言葉を頭から否定した。駄目元で言ってみただけで、姫にだってそれくらいの危機意識はある。
捕まれば食われる。それだけだ。
「ひさしぶりのニク、にがさない。ぜったい、くう……!」
「オレがさきにくうぞ。つかまえたほうが、たくさんくえる!」
二頭の狼の目は完全に獲物を見るそれだった。姫は懸命に逃げようとした。だが、すぐに背中に強い衝撃を受けて、雪の上に押し倒されてしまう。人間の、しかも小娘の足ごときでは到底逃げ切ることなど不可能なのだった。
首筋に唾液に濡れた生温い息がかかる。両肩には鋭い爪が食い込んでおり、姫はもがくこともできない。
「姫さまあ!」
「ネズミさん……! あなたは逃げて!」
姫の頭から転がり落ちたネズミが悲鳴をあげる。せめて彼だけは逃げて欲しいと、姫は今度こそ終わりを実感した。
「……ん?」
だが、姫を押さえつけている狼が、彼女にすぐちかくまで牙を近づけたところで動きを止めた。もう一頭が近づき、急かすように吠え立てる。
「どうした? はやくとどめさせ。はやくくいたい」
「まて。このニンゲンから、においする。ほかのオオカミ……ボスのにおい」
「ほんとうか?」
疑問を口にする一頭が、姫に鼻を寄せる。しばらく臭いをかぐと、その一頭は首を振ってうなった。
「……これ、ルーのにおい。ルーはまえのボス。ボス、ちがう。いまはロー。ルーちがう」
「ルー? どうしてルーのにおいがニンゲンからする?」
「わからない。けど、ボスのものじゃないならくってもダイジョウブだろ」
「……そうか。ルーはまえのボスだから、オレたちがくってもモンダイないな」
「あるに決まっているだろう、馬鹿どもが」
刹那、突風のようにその巨体が姫の上を横切ったかと思うと、ギャンと悲鳴をあげて二頭の黒い狼は瞬く間に吹き飛んだ。
背中が軽くなって、姫は痛む全身を引きずって上体を起こす。彼女の前に背を向けて立ちはだかるのは、もちろん彼女のよく知る白い狼であった。