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第8話

「ダンナぁ!」


 ネズミが快哉かいさいを叫び、傷ついた肩を抱く姫のもとへと駆け寄る。しかし、彼とは反対に、姫は空恐ろしい気持ちで殺気立つ白い狼の背中を見つめていた。


「お、狼さん……」

「心配するな」


 何か取り返しのつかないことになるのではないかと、姫の声は震えた。だが、振り返らずに告げられる狼の言葉はいつも通りで、彼女の心を落ち着かせてくれたのだった。


「この程度のヤツらに負けはしないし、殺すつもりもない」


 白い巨体が一歩前進すると、吹っ飛ばされた黒い二頭が怖じ気づいて後ずさる。それだけで、力の差は歴然だった。


「キサマら、ローの群れのものか?」


 問われた二頭は顔を見合わせる。そこへ白い狼が、追い討ちをかけるように吠えた。


「答えろ……!」

「……ああ、オレたちはローのむれにいる」

「そうだ! ロー! ローはつよい! まけたヨワムシでコシヌケのルーとはちがう!」


 ローという名を口にする二頭が強気に吠えたが、対峙する白い狼には何ほどのこともない。彼がギロリと一にらみするだけで、二頭はじりじりと後ろに下がる。


「アイツは……ローは近くにいるのか?」

「……いない。オレたちはボスにいわれてエモノをさがしにきた」

「そうだ。もうナワバリにエモノがいない。だから、まえにおそったムラまでさがしにきた。ニンゲン、もどってるかもしれないとおもって」

「……? どういうこと、ですか? この村のことを、あなた方は知っているの?」

「おい、不用意にしゃべるな」


 二頭の話に思わず身を乗り出した姫に、狼が鋭く注意を促す。が、姫の声を受けた二頭は怪訝けげんな顔となって、彼女をじろじろと見回した。


「コイツ、オレたちのコトバがわかるのか?」

「ヘンなニンゲン……ボスにおしえたらほめてもらえるか?」

「しらない。それより、オレはくいたいぞ」

「ちっ、言わんことではない。おい、キサマら。この場は見逃してやる。さっさと立ち去れ」

「……ぐる……、なぜ、メイレイされないといけない」

「そうだ。オマエはもう、ボスじゃない」


 圧倒的な余裕から見下されていた二頭であったが、顔を低くしてうなり声をあげる。みすみすえものを奪われたことに、不満を感じている様子だった。


「そうか。そうだな……。オレはもう、オマエたちのボスではない。群れの一員ではなくなった今、上も下もないな」


 敵意に染まる二頭の視線を受けて、狼は金色の瞳をすがめる。


「ならば、力ずくで奪うがいい。奪いたければかかってこい!」


 そして、獰猛に牙をむいて二頭を威嚇した。


「だが、これはオレのものだ。やるというのなら、キサマらが手を出したことを後悔するまでずたずたに引き裂いてやるぞッ!」


 狼の足下のしぶきのように雪が舞い上がる。姫はここまで怒りを露わにする彼を初めて見たことに驚き、同時に初めて怖いと思ったのだった。

 びりびりと、耳の奥がしびれている。いつの間にか姫の頭に乗っかっていたネズミも、「ぴぎっ」と変な声を上げていた。

 張り詰めた空気の中、にらみ合いが続く。それから黒い狼たちが後退るまで一分もかからなかったのだろうが、姫にはその時間を永遠にも感じた。


「……イくぞ。ボスにおしえる」

「ニクはいいのか?」

「うるさい。いいからイくぞ」


 名残惜しそうにする一頭を追い立てるように、もう一頭の狼がうなる。たとえ二頭でかかったとしても、白い狼相手ではただではすまないと判断したのだろう。


「ローに会うのなら伝えておけ。傷もえた。近いうちに決着をつけにいくとな」

「マケイヌが、えらそうにサシズするな……!」


 悠然と見送る白い狼に負け惜しみの台詞を吐き捨てて、二頭は彼の前から逃げ去った。それから十分にその気配が消えたことを確認してから、へたり込んだ姫を狼は振り返った。

 狼の大きな影がかかり、姫は彼を見上げてぎこちなく微笑んだ。


「立てるか?」

「す……すいません。恥ずかしながら、腰が抜けたようです……」

「ダンナぁ! 怖かったっすよお! オレっち、もうダメかと思いやした!」


 狼が姫に顔を寄せたところで、ネズミが涙ながらに狼の鼻先に飛びついてその頭上へとよじ登っていった。狼はうっとうしそうに眉間に皺を寄せたが、されるがままにしていた。


「こいつのそばを離れなかったことは、褒めておいてやる」

「へ、へい! 光栄っす!」

「やれやれ……ともかく、ねぐらに戻るぞ。つかまれ」

「え……? あ、はい……」


 ぐい、と狼は姿勢を低くして姫の前に首を突き出す。おずおずと姫が身を乗り出してその首に両腕を回すと、彼はやや乱暴に首を振り上げて彼女を背中に落とした。


「狼さん。助けていただいて……その、ありがとうございます」

「気にするな。オマエたちを置いていったオレの落ち度でもある。油断していたようだ」

「あの黒い狼さんたちは、お知り合いなのですか?」

「……そうだな。ねぐらで落ち着いてから話してやる」


 それだけ言うと、狼は堅く口を閉ざして歩き出す。姫もこの場で、それ以上の言葉を引き出すことはできなかった。

 そうして帰るまでの間に、姫の身体は思い出したように恐怖に震え始め、それを誤魔化すように狼の広い背中にしがみつく力を強めるのだった。





「肌は裂けていないようだな。もういいぞ」

「は、はい……。ありがとうございます」


 ベッドの上ではだけさせた服をいそいそと着直して、姫が狼に向き直る。間借りしている家に戻って早々に、黒い狼にのしかかられて爪を立てられた両肩を、彼に見せろと言われたのだった。

 不幸中の幸いと言うべきか、あざにはなっていたが大きな怪我にはなっていなかった。ほっとはしたのだが、真剣な目でじっと見つめられてしまい、恥ずかしさの方が勝る。向こうが何も気にしていないのだから、余計にだった。


「もういいっすか~?」

「ええ、大丈夫です」


 姫の声に応じて、狼の頭に隠れていたネズミがひょいと飛び出す。


「さて、それじゃあダンナ。姫さまの無事も確認できたことですし、説明してもらいやしょうか」

「わかっている」


 狼は言うと、のそりと暖炉の前まで移動を始めて古ぼけた絨毯の上で伏せた。そこで話そうということなのだろう。

 姫は従いベッドを立つと、そっと彼の隣で横座りの体勢をとる。ネズミも狼の邪魔にならぬよう、姫が膝上にかけた毛布の上に飛び移った。


「この山には、大きく分けて狼の群れが二つある。あの二頭は、その群れの片割れの一員だろう」

「群れ……あの方々は狼さんのことを、ボスって……じゃあ」

「ああ。群れの中でも、オレは最上位にいた」


 姫の疑問に、狼が先回りして頷く。


「だが、オマエも傷ついたオレを見ただろう。オレは戦いに敗れて群れを追われた」

「そいつは……。しかし、ダンナほどの方が、信じられませんねぇ」

「買い被るな。ふさわしくないと思われれば、序列の交代はありうることだ。挑まれれば受けねばならない」

「理由を、訊いてもよろしいですか?」


 話からするに、彼が群れの上位としてふさわしくないと思った別の狼がいたということになる。けれど、姫にはこれまでの彼の立ち振る舞い――何よりさきの黒い二頭の狼に毅然として向かった雄々しい姿を目の当たりにした上で、彼が他の狼に劣るところがあるようには思えなかった。


「オマエにとっては、気分の悪い話になるだろう」


 暖炉の火に照らされて、狼の瞳に一瞬赤い影が差す。目で問う彼に、姫はつばを飲み込んで首を縦に振った。


「きかせてください」


 狼は、姫の覚悟を問うようにじっと瞳を見つめ返した。そして、姫が引く気がないと知り、わずかに苦々しく口を歪めはしたものの、ゆっくりと話し始めてくれた。


「オレたちは鹿などの山の獣を狩って生きている。しかし、ここ数年、冬で得られる獲物がだんだんと少なくなってきているのだ」

「あぁ、確かに。まったくないってわけじゃないっすが、冬眠の蓄えをするのも一苦労だって、仲間も言ってたっすかねえ」


 ネズミが相づちをうつ。狼も頷き、先を続けた。


「冬の厳しさに、草木はいつも以上に育たない。そうなれば、それらを食料とするオレたちの獲物である動物たちも食うに困り、オレたちも飢える。少しずつではあるが、オレたちは追い詰められていった」


 人は収穫した食料を溜め込み、冬をしのぐ。だが、冬眠をせず野生に生きる動物たちにそのようなことはできない。冬を越せるかどうかが、彼らの中では重要な問題になっていたのだった。


「そこで、ニンゲンを襲おうという声が、群れの間では徐々に強まっていったのだ」

「ぇ……」


 姫の顔がさっと青ざめる。そんな彼女をまっすぐに見据えながら、狼は語ることをやめない。


「ニンゲンの溜め込んだ食料。家畜。あるいは、ニンゲンそのもの……あるものから奪う。それが自然の習わしだと。ヤツらの言い分は、そういうことらしい」

「では……では、狼さんは、人を食べたことがあるのですか?」

「だったらどうする? 今ここで、また食って欲しいとでも言うつもりか?」

「そんなことを言いたいのではありませんっ」

「わ、ちょっ、姫さま落ち着いてくださいっす!」


 急に大声を出す姫に驚き、ネズミが振り落とされないように毛布にしがみつく。興奮して潤んだ姫の瞳から、狼は顔を背けた。


「食ってはいない。逆だ。オレは、ニンゲンを襲うことには反対だった」

「そう……なの、ですか?」


 狼から否定の言葉をきけて、姫はすとんと腰を落とした。「ああ」と、狼は静かに再び姫の方へと目線を向ける。


「ニンゲンと争えば、遠からずオレたちは負ける。ニンゲンは、国という狼以上に群れる生き物だ。一時の飢えをしのげたとしても、報復は必ずあるだろう。結果として、群れに死にもたらすのは、おろかなことだ」


 姫は狼の足に刺さっていた矢のことを思い出していた。

 生身であれば人は狼に敵わないだろう。しかし、人は道具を、武器を使うことができる。狼の言うとおり、人里に狼の被害が広まれば、被害を食い止めるためにいずれ人々は行動に移るだろう。下手をすれば、それこそ国の兵隊が動くことだってあり得るかもしれない。


「……その顔を見るに、どうやらオレの考えはそう的を外したものではなかったようだな」

「他の狼さんたちは、あなたの考えを聞いてはくれなかったのですか?」

「五分五分だな。オレの考えを理解してくれるものもいたが。強行にニンゲンを襲うことを主張するものも多くいた。その群れを率いているのが、ローだ」

「あの黒い狼さんたちが言っていた名前ですね」

「そう……オレたちは互いの考えを譲らなかった。だから、どちらの考えが山の狼の行動としてふさわしいのか、最終的には決闘をすることになった。結果は……見ての通りだ」


 ギリ、と狼が牙を鈍く軋ませる。その戦いに彼は敗れたと言ったが、その目はとても敗者のものとは思えなかった。


「それで……ダンナはこれからどうするんです?」

「知れたことだ。もう一度、ローと戦う。敗れはしたが、決着はまだ完全にはついていない。――姫よ」


 静かに燃える闘志が、狼の声には滲んでいた。そして、彼の金色の瞳から感じる意思を、姫は聞きたくないと思いながらも、どうしても読み取ってしまう。


「明日、オマエを塔に送り届けよう。そこで、お別れだ」

「そう……言われるのではないと思いました」

「分かっているのなら話は早いな。では――」

「でも、いやです。わたくしは、離れたくありません」


 続く狼の言葉を強く遮って、姫は言った。


「狼さん……いえ、ルーさま」

「……オマエ」

「それが、あなたのお名前なのでしょう?」


 狼の耳が、ぴくりと揺れる。姫は身を乗り出し、彼の頬に両手を伸ばした。


「助けてくださったじゃないですか。オレのものだと仰ってくださったじゃありませんか。わたくしは、あなたのものです。ならば、連れて行ってくださるのが筋です」


 自分でもむちゃくちゃなことを言っていると姫は思う。しかし、気持ちは止めようもなく言葉となって溢れていた。

 このときを、彼と過ごす日々を、間違いなく姫は惜しんでいたのである。


「図に乗るなよ。オレのものであるのなら、捨てるのもオレの自由だ」


 だが、狼から発せられた台詞は、無情にも姫の気持ちを引き裂くものだった。


「オマエを連れて行けば、オマエは飢えた狼たちに今度こそ、全身の肉という肉を噛みちぎられるだろうよ」


 決闘におもむくとなれば、当然相手の群れの中に飛び込んでいくことになる。そのときに、自身を守るすべを持たない姫は、あっという間に食われてしまうに違いない。

 脅すように、狼は煌々と輝く瞳をつり上げていた。


「あの二頭に襲われたとき、オマエは逃げた。死を恐れ、拒んだのだ。オレと出会ったときとはちがう。オマエは、命を惜しむことができるようになった。そして、何より……オマエは冬の姫。狼が姫を食べたとなれば、オレたちにとっては本当に取り返しのつかないことになる」

「……っ、そんなこと。命なんて、わたくしの命なんて、誰も……」

「黙れ」


 両手を力なく下ろし、姫は唇を噛みしめる。もう、彼の目を見てそのようなことを言えるはずもなかったのだ。


「オレは群れの上位としての責任を果たす。オマエも、逃げずに姫としての責任を全うしろ。話は、終わりだ」

「……どこへ行かれるのですか!?」


 立ち上がる狼に、姫がすがるような声を出す。彼は冷たく姫を見下ろして、背中を向けた。


「ヤツらが戻ってくるとも分からんからな。見回りをしておく。いいな、明日には発つぞ」


 姫の了承を得ることなく、狼は家を出るべく扉へと向かう。成り行きを見守っていたネズミも、姫と狼の間でおろおろと顔を動かすばかりで、かける言葉をなくしていた。

 そして、狼が扉の前まで来て、鼻先で扉を押し開こうとしたときである。


「――もしもし、誰かいるの?」


 大きめなノックの音と同時に、扉の外から人の声がした。狼は警戒に耳を立て、さっと扉から距離をとる。


「いるのね? 開けるわよ」


 中の気配を察知したのだろう。声がしてからそれほど待たずに扉が開かれ、外の吹雪が室内に一気に流れ込んでくる。

 現れたのは、毛皮のマントとフードをかぶった、背の高い人だった。急いで中に入ったその人は後ろ手に扉を閉めて、身体に積もった雪を払うと「ふぅ」と息をついた。


「なるほど、なるほど、なかなか賑やかなのが揃っているみたいね」


 狼に、ネズミに、人間。この組み合わせを見てもその人はまるで動じた様子もなかった。それどころか、面白い見世物でもみるかのようにあごに指先を添えて、楽しげに口元に笑みをたたえてしきりに頷いている。


「その声……まさか」

「あら、ようやく気がついた?」


 この寒々しい季節においても、溌剌とした声は爽やかな生の息吹に満ちている。立ち上がり、凝視する姫に顔を向けたその人は、毛皮のフードをさっと後ろに流して素顔を見せた。


「エステルお姉様……!?」


 眩い金色の髪を少年のように短く整えた、貴公子然とした女性。真夏の空を思わせる深い碧の瞳が優しげに細められて、その美しい顔に大輪の花のような笑みを咲かせるのだった。


「イヴェルノ――イヴ。探したわよ」


 突然の来訪者。それは冬の姫の姉。

 四姉妹の次女にあたる、夏の姫君だった。

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