最終話
その夜更け。満月であったはずの空に、突如として薄く真白い雲がかかり、雪が降り始めた。
いまはもう春先の出来事ゆえに、国の人々は驚き空を仰いだ。中には子に手を引かれ、家から出てきたものもいる。
厳しかった冬の名残だろうか。
実はまだ、冬は終わっていなかったのか。
その空を見上げる人々は、様々な思いを胸によぎらせる。
しかし、誰もがその光景に不思議な暖かさを感じていた。
吹き付けるような痛さもなく、雨を凍らせたような重さもない。
満月の光を綿のように包んだ、柔らかくも優しい雪。
それは手に乗せた瞬間に、触れれば儚く消えてしまう、切ない調べのようであった。
雪は、長くは続かなかった。
数刻にも満たない、通り雨のようなものである。
なんだだ、たいしたことはない。季節が起こした、ほんのちょっとした気まぐれではないか。
そうして、皆が安堵し、それぞれの寝床へと戻ろうとしたときである。
子が親の腕を強く引き、遙か空を指していた。
興奮したようすで目を輝かせる子の姿に、親は戸惑いながらも子の指す空を再び見上げる。
そして、目を見張り、言葉を失った。
四季の姫たちが歌を紡ぐ塔のある山々。
いまだ雪が残る白き稜線に沿うようにして、色とりどりの光の帯がたなびいていたのである。
幾重にも合わさり、夜空を覆わんばかりのそれは、まさに輝く光のカーテンだった。
春に咲く、香しい花々の美しさでもない。
夏に漲る、はち切れんばかりの命の輝きでもない。
秋に実る、豊かさに満たされる心の楽しさでもない。
冬に輝く、澄み渡る空に現れる壮麗な自然の威容。
その心洗われるような神秘的な光景は、他のどの季節にも存在せず、生み出せないものに違いない。
人々だけではなく、野山に暮らす動物たちも、その空に魅入っていた。
遙か塔から奏でられる旋律は、冬を心から愛するもの。聴けばそれだけで、そのまま彼らの心を満たしてくれる。
やがて歌が終わりをむかえ、その輝きが夢のように消えてしまうことを、誰もが惜しんでいたのだった。
*
季節は廻り、また次の冬が始まろうとしていた。
塔へと続く山道を、冬の姫を乗せた馬車がゆく。冬の担い手として、次の冬を廻らせるためにである。
冬の姫の顔は晴れやかであり、瞳には、また冬を紡げることへの希望に満ちている。
それは、かつての彼女を知るものならば、見違えるほどの変化であった。
「よく来たわね。待ちかねたわよ」
塔の前に降り立った冬の姫を出迎えるのは、秋の姫である。おしゃまに見えていた彼女の笑みも、一つ季節を跨ぐだけで大人びた雰囲気を出すようになっていた。
「お久しぶりです、お姉様。秋のお役目、お疲れ様でございました」
「……ええ。次はあなたの番よ。しっかりね」
淑やかに礼をして微笑む冬の姫の顔を、秋の姫はしばし見つめる。そして、一人納得したように頷いた。
「イヴさま、お久しぶりっす!」
次に、秋の姫の肩をよじ登るようにして茶色い毛玉が姿を見せる。その姿は、冬の姫が記憶していたものよりもずいぶんとでっぷりとしたものになっており、再会の喜びはもちろんあったのだが、冬の姫は笑いを堪え切れそうになかった。
「ネズミさん。少し太ったのではありませんか?」
「あぁ! 笑ったっすね! 仕方ないじゃないっすか。秋は冬に備えて食いだめないとダメなんっすよ!」
「あなたは、塔で暮らしているのですから冬眠はいらないはずでしょう」
冬の姫と同じく、ネズミの弁明に秋の姫が笑みをこぼす。ネズミはそんな秋の姫を、恨めしそうな目で見つめた。
「それをいうなら、オレっちにいっぱい食べさせる秋の姫さまが悪いんっすよ。実りの秋だからって、食べ過ぎはよくないっす」
「だったら食べなければいいだけなのに」
「いやいや、残すのはもったいないじゃないっすか!」
「ふふ、ネズミさん。では、冬の間は少しやせる努力をしましょうか」
「そうっすねぇ……まぁ、おいおい頑張るとするっすよ……」
冬の姫が片手を差し出すと、ネズミは重たい動きで秋の姫の肩から飛び移った。このままでもふっくらとして可愛らしいが、肩に乗せて感じるちょっとした重みに苦笑する。
「じゃあ、屋上へ行きましょうか。彼も待っていることだし」
「あ……」
「隠したって丸わかりよ。ずっと、気になっていたのでしょう?」
「顔はウソをつけないってホントっすね」
口々にからかわれて、冬の姫は頬を染めた。けれど気持ちは隠しようもなく、花咲くように唇はほころんでいく。
あの春先に訪れた一夜限りの冬の日より、冬の姫は彼には会っていなかった。
山へと帰った彼は群れには戻らなかった。しかし、かつての群れは一頭で過ごす彼のもとへとたびたび訪れては、彼の存在を惜しんでいるらしい。そのような話を、季節を終えて塔から戻った春の姫と夏の姫からきいていた。
姉たちの歌声にも、彼はときおり遠吠えを返してくれているらしいが、決してその隣には立つことはないそうだ。それは、いかにも堅物である彼らしく、姉たちにからかわれながらも冬の姫はどこか誇らしい気持ちになるのだった。
自分こそが冬の担い手に相応しいと証明するため紡いだ歌が、どこまで認められたのかは、まだはっきりとした答えは出ていない。
それは、きっと今から分かることとなる。
少なくとも、次の冬を自分に任せることを王は認められた。その機会を、しっかりと生かさなければならない。
だから、この冬に至るまで、冬の姫は他の季節を大いに楽しむことにした。
春には芽吹く花々を愛で、夏には漲る暑さをも全身に浴び、秋には豊かに実る大地を喜びとともに踏みしめる。
他の季節の良さを知ることで、かつては卑屈にもなっていたが、もうそうした気持ちはなくなっていた。
季節に深く触れることで、姉たちは自分たちが司る季節に確たる誇りをもち、その素晴らしさを歌いあげていることを、冬の姫はようやく気づけたのである。
冬には冬の、誇るべき美しさが存在する。
今はただ、姉たちに負けぬよう、恥じぬよう、冬を紡ぎたいと思うだけなのだった。
自分の愛する、この冬を。
彼が愛してくれた、この冬を。
――それで、いいのですよね。お母様。
塔の屋上は空が近い。秋は終わりを告げて、葉を落とした山々はじきに白雪に染められることになるだろう。
美しき風景を思い、冬の姫は澄んだ空気を胸一杯に吸い込む。
きっと、同じ景色を思い描いてくれているといい。
「ただいま戻りましたわ。ルーさま」
そうして冬の姫は、悠然と景色を望む気高く雄々しい、愛するつがいの白き背中へと呼びかける。
すると、ぱたりと彼の大きな尻尾が一度大きく揺れたのだった。




