第19話
狼の想いを知ることのできた姫に、もう迷うところはなかった。
彼の鼻先への抱擁を解いた姫は、泣き笑いの顔を彼へと向ける。そして、檻の錠を開けるのだった。
「逃げましょう。ここにいては、明日の朝にあなたは殺されてしまいます」
冷たい鉄の軋む音が鳴り、檻の扉がゆっくりと開かれる。姫は「さあ」と狼に呼びかけて、テントの入口を振り返った。
しかし、狼は檻から出ようとはしなかった。
「よすのだ、姫」
思慮深い光を宿した金色の瞳が姫をまっすぐに見据えており、彼の意思は変わっていないのだと告げている。
「それではオマエが罪を重ねるだけだ。オレを逃がせば、それこそ冬を紡ぐ望みはついえる」
狼の意思は、彼がかつて想っていた冬を姫が再び紡ぐことなのだ。自分のために彼女が再び罪を重ねようというのなら、それは彼の望むところではないのである。
彼が姫を想う気持ちは本物だ。だからこそ、譲れぬものもある。想いを告げようとも、それは変わらぬことなのだった。
「そんなこと……あなたが死にゆく様を、黙ってわたくしに見届けろと仰るのですか?」
「最初から、そう言っている」
「嫌です!」
姫は檻の中へと足を踏み入れ、すがりつくように狼の懐へと飛び込んだ。
「わたくしの気持ちに、お答えになってくださったのではないのですか? こんな別れ方を、わたくしは望みません!」
「オレは必要なことを話した。オマエは冬を歌い続けるのだ」
狼の白い毛並みに顔を埋め、姫は彼の胸を揺さぶるようにして何度も叩いた。しかし、そんなことで狼の巨体は小揺るぎもしない。狼は小さき少女を愛しげに見下ろして、その震える背を抱くように頬を寄せた。
「季節を廻らせることならば、お姉様たちに任せましょう。どちらかを選ばねばならないのなら、わたくしは今、あなたを選びたい」
もともと国王は冬の姫の担い手としての任を解き、姉たちに冬を任せるつもりだったのだ。そうなれば、彼が罪をかぶる理由はない。
「あなたが群れを離れるというのなら、わたくしがあなたのつがいとなりましょう。何処へなりともお供致します。どうか、わたくしを連れ去って。わたくしを、あなたのお嫁にしてください」
「……一時の感情に流されるなと、言ったはずだぞ。聞き入れろ」
「そんな……」
狼と人間は生きられる時の長さが違う。ましてや彼女は一国の姫。落ち延びることなどはできるはずもない。姫の言うことは、理想にも届かぬ絵空事なのだった。
「――そうよ、イヴ。あなたにできることが何なのか、現実的に考えなさい」
と、凜と引き締まった声がして、姫と狼は声の聞こえた方へと顔を向けた。
テントの入口からつかつかと、険しい顔をした夏の姫が檻へと歩みよってきていた。秋の姫の時間稼ぎもそろそろ限界となったのだろう。立ち止まった彼女は檻の中のふたりを見下ろし、柳眉をひそめている。
「ちょ、ちょっと! ふたりの邪魔をしちゃダメっすってば!」
外で見張り役を買って出てくれていたネズミが遅れてやってきて、夏の姫の足下でくるくると回っている。が、彼女はひょいと身を屈めてあっさり彼を捕まえると、自分の肩に彼を押さえつけるようにして置くのだった。
「大人しくしていてちょうだい。話をつけるだけよ」
「……お姉様」
冬の姫を一瞥した夏の姫の視線は、白い狼へと注がれる。そして、引きつらせたような笑みを口端に刻むのだった。
「ルーさま。やってくれましたわね」
「何のことだ……」
「惚けても無駄です。その子の顔を見れば、だいたい何があったのかは想像できますもの。私とて女です。あまり侮ってもらっては困りましてよ?」
そう言った夏の姫は、深い吐息をともに肩を落として半眼となる。じっとりとした姉の視線に、冬の姫は頬に熱が上るのを感じていた。
「あの、お姉様」
「私は認めませんよ」
上目遣いで姉の様子をうかがおうとする冬の姫だったが、機先を制するように夏の姫はぴしゃりと言い放った。
「あなたが冬の担い手を辞めることを許しはしません。それから、ルーさま。あなたにも、責任を取っていただかなければなりませんね」
「何を言う。冬の姫の罪に対する話はついたはずだ」
「ええ、そちらはね。ですが、それだけでは足りないと言っているのです」
夏の姫は高圧的に狼を見下ろし、見るも恐ろしくも美しい笑みを湛える。逆立ちかける彼の毛の動きが、狼の懐にしがみついていた冬の姫の全身にも伝わっていた。
「これ以上、オレに何をしろという」
既にその命を懸けているのだから、これ以上支払える代償などない。狼はそう言いたげに夏の姫を見つめ返す。それに対して、夏の姫もさらに負けまいとにらみ返した。
「あなたは妹の心を拐かした。その責任は取っていただかなければなりません」
「物は言いようだな。だが、心とは返しようのないものだ」
「ええ、それはもちろん分かっておりますとも。ですから、贖う機会を与えましょう。イヴ、あなたもです」
立ちなさい、と夏の姫は有無を言わさず姫と狼についてくるように言い渡し、ふたりに背を向けてテントの外へと出るのだった。
夏の姫に言われるまま、仕方なく狼も重い腰をあげて、冬の姫も寄り添うように彼につき従う。
テントを出ると、月夜のもとに佇む夏の姫が、厳しい表情をつくってふたりを見据えて口を開いた。
「冬の姫。担い手の任を放棄し、塔から逃げ出したことが、あなたの一つ目の罪。それは、白い狼ルーの望みによって彼が負うことになりました」
裁判でもするかのように、夏の姫はふたりの罪状を諳んじる。そこから更に、彼女は続けた。
「ですが、今あなたは狼を逃がし、あろうことか供に行こうとまでしたのです。それは一つ目とは異なる罪です。夏の担い手として、看過できることではありません」
「勘違いをするな、夏の姫。オレは冬の姫を連れ去ろうとはしていない。オレに逃げる意思はないのだ」
夏の姫の糾弾にさらされる冬の姫を、狼が庇う。だが、夏の姫は首を横に振ってわざとらしく嘆息して見せた。
「いいえ、冬の姫の心があなたにある以上、同じことです。あなたの命を奪うということは、もはや冬の姫の心を殺すも同然。そうなれば、冬は心を失ったまま依然として厳しいものになるでしょう。それが、あなたの罪です」
「馬鹿な……。そのような理屈、まかり通るものか」
「通る通らぬの話ではなく、事実です」
苦々しげに牙をむいて抗議する狼を、夏の姫は口端を軽く持ち上げて一蹴する。そして、狼に向けて言うのだった。
「そういうわけですから、あなたを犠牲にすることは得策ではなくなりました。まずは、あなたが肩代わりした姫の罪は、別のものに負ってもらうことにします」
「なんだと?」
「お姉様、どういうことなのですか……?」
夏の姫の言うことに、冬の姫と狼は戸惑いを隠し切れていない様子だった。
狼が負った罪を、更に別のものにかぶせる。そんなことが許されるのかという疑問もあったが、それ以前に誰がその罪を負うことを了承するというのか。
狼は我が事を棚に上げながらも、そんなもの好きがいるものかと思うのだった。
「了承など、必要ありません。ルーさまの作り話にはもう少し脚色が必要でしょうが、大筋を違えることなく、その罪に見合うものはもう用意されています」
「まさか……! アイツの亡骸も運んできたのか!?」
かっと目を見開いた狼に、夏の姫は頷きを返す。そうして、両手で弓を引き絞る真似までしてみせるのだった。
「彼を最後に仕留めたのは私ですから、自由に使わせてもらいます。白か黒か、生きているかの違いはありますが、問題ないでしょう。うまい感じに誤魔化しますよ」
「う、うまい感じって……」
そこで冬の姫も、どうやら夏の姫が盛大なすり替えを画策していることに気づき、流石に呆れてものも言えないようだった。
だが、それで彼の命が救われるというのなら、暗澹としていた心に希望の日が差してくる。
「はい、この話はこれでおしまいです」
まだ狼は物言いたげに表情を歪めていたが、夏の姫は受け付けなかった。彼の望みは冬の姫が次の冬を紡げるように彼女の罪をかぶることであり、決して彼の命を奪うことではないのである。
「次に、二つ目の罪の話をしましょう。それについては、先も言いましたが、贖う機会を与えます」
夏の姫は隙のない足取りで冬の姫の前まで歩み寄ると、そっと彼女の髪を梳くようになでた。
「時間は夜明けまでです。今宵、あなたが冬の担い手に相応しいと証明してごらんなさい」
冬の姫は顔を上向けて、正面から姉の真剣な眼差しを受け止める。
冬を愛する心を取り戻し、愛するものの命も約束された。
今をおいて他に、その機会はないのだった。
「わかりました。必ずや、ご期待に添えてみせます」
担い手としての誇りを感じさせる冬の姫の言葉に、夏の姫は満足そうに笑みを浮かべる。そして、彼女の傍らの狼にもそっと手を触れさせた。
「ルーさま。あなたは姫の手伝いをするのです。彼女の心を解き放つことが、あなたの罪への赦しとなるでしょう」
「……心得た」
「よい返事です。では、誓いを」
夏の姫は冬の姫と狼から距離をとり、ふたりを見守るように微笑む。
「一夜限りです。罪を贖うまでのあなたたちを、私が認めます」
冬の姫は口に片手を添えて、瞳を震わせた。狼の顔を見上げると、彼も眉間にしわを刻み、難しい顔となっている。
そんな彼の顔がおかしくて、冬の姫はくすりと笑みを漏らした。
「ルーさま。お認めくださいませ。どうか、今宵だけのことでございます」
「オマエは……それで満足なのか?」
金色の瞳が問う。本音を言えば、そんなわけはない。いつまでも彼と供にいたいという想いは変わらないし、誓いを交わせば想いはいっそう激しさを増すに違いない。
けれど、この別れは悲しいものではないのだ。供にあれる喜びをこそ、今は感じていたい。彼の傍らに立てるこの瞬間をこそ、今の自分は切望する。
冬の姫は狼に答える代わりとして、彼の両頬を抱くように両手で触れる。そうして、静かに口元へと唇を添わせた。
「わたくしは、あなたのつがいです。行きましょう」
「……ああ。オマエが、そう望むなら」
万感の想いを込めた少女の笑みに、狼が屈強に頷く。一夜限りの花嫁をその背に乗せて、白銀の風が月下を駆けるのだった。