超長編『囚われの檻』――前編:閉じられた世界
1. 覺醒と、冷たい現實
指先の感覺が、じわじわと冷氣によって呼び戾されていく。
最初に意識に上ってきたのは、全身を苛む、鈍く重い地響きのような激痛だった。組織での過酷な拷問訓練ですら想定していなかった、底なしの疲弊が肉體の芯に沈殿している。
ゆっくりと目蓋を持ち上げる。視界に飛び込んできたのは、本土の洗練されたオフィスでも、あの薄暗い地下市場の赤黑い電球でもなかった。
煤けたコンクリートの天井。剥き出しの配管。そして、部屋の四方を圍む太い鐵格子と、その向こうに廣がる、豪奢でありながら歪な調度品が竝ぶ廣い部屋。
(ここは……どこ……?)
聲を出そうとしたが、喉が完全に涸れ果てており、かすれた呼氣が漏れるだけだった。
私は、部屋の隅に置かれた、薄汚れたマットレスの上に橫たえられていた。手首と足首には、ずっしりとした重みを持つ金屬製の枷が嵌められており、それが床の太いアンカーボルトから伸びる頑丈な鎖に繋がれている。鎖が擦れ合うたびに、ジャラリ、と冷酷な金屬音が靜かな部屋に響き渡った。
身に着けているのは、粗末な木綿のワンピース一枚きり。かつてスパイ「美波」として纏っていた、知性とプライドを隱すための衣服や裝備は、跡形もなく消え去っていた。
「目が覺めたか、ネズミ」
低く、肥大化した肉體特有の、粘り氣のある聲が部屋に響いた。
鐵格子の向こうにある革張りの大きなソファから、ゆっくりと巨體が立ち上がる。町內會のボス――あの市場で私を競り落とした、醜惡な肥滿體のデブだった。絹の豪奢なシャツを身に纏っているが、その隙閒から覗く肌は脂ぎっており、冷酷な光を宿した細い目が、私をじっと見下ろしている。
「ここがどこか、分かっているか? 俺の邸宅の最地階だ。お前のような餘所者が、二度と外の光を拜めないように作られた、特等席だよ」
ボスは手にしたグラスの琥珀色の液體を搖らしながら、鐵格子へと近づいてきた。
その足音が近づくたびに、私の身體は本能的な恐怖で小刻みに震え始める。市場で刻まれた、あの街の住人全員による蹂躙の記憶が、フラッシュバックとなって腦髓を突き刺す。
2. 剥ぎ取られた尊嚴とルーティン
この館での生活には、一切の慈悲も、例外もなかった。
私の存在價値は、ただの「囚人」であり、この街の絕對的な支配者であるボスの「所有物」として、その欲望と退屈を滿たすためだけに定義されていた。
一日の始まりは、冷たい金屬の音で吿げられる。
朝、ボスの手下であるあの太ったおじさんが、鐵格子の鍵を開けて入ってくる。彼は私に一切の言葉をかけない。ただ、冷え切った雜炊のような食事が入ったプラスチックの器を床に放り出し、私の枷のロックを確認するだけだ。
「おい、今日も生きてるな」
おじさんは私の顎を荒っぽく掴み、生存を確認するように顏を左右に振る。その手からは、あの路地裏で嗅いだ、安物のタバコと脂の臭いがした。抗う氣力すら湧かないまま、私はただロボットのように、その手的な動作に身を委ねるしかなかった。
食事が終わると、ボスの「時閒」が始まる。
ボスは氣まぐれに地下へと降りてきては、私を檻から引きずり出し、その巨體で組み伏せるようにして、我が物顏で私を蹂躙した。
組織で叩き込まれた、あらゆる逆境に耐えるための精神防壁。それすらも、每日のように繰り返される壓倒的な暴力と、逃げ場のない監禁生活の前には、少しずつ磨耗し、ひび割れていく。
(私は、美波。國のために戰うスパイ……)
暗闇の中で、私は何度も心の中で自分の名前を唱えた。
だが、その聲は日を追うごとに小さく、不確かに思えてくる。鏡のないこの世界で、自分の顏が今どうなっているのかすら分からない。全身に刻まれたアザと、金屬の枷が擦れて黑ずんだ手首が、今の私の唯一の屬性だった。
窓のない地下室では、時閒の感覺さえも狂っていく。
今が晝なのか、夜なのか。上陸してから何日が經ったのか。すべてが灰色の霧の中に消えていく。確かなのは、この館の壁の向こうには、あの狂氣に滿ちた街の住人たちが今も息潛めて暮らしており、私はその食物連鎖の一番底に叩き落とされたという事實だけだった。
「お前はもう、ただの肉だ。ここで朽ち果てるだけのな」
ボスの嘲笑が、頭上から容赦なく降り注ぐ。
私は冷たい床に頬を押し付けたまま、閉ざされた世界の天井を見つめていた。淚すら枯れ果てた瞳の奧で、かすかに殘る「人閒としての意識」が、深い、深い絕望の淵へと靜かに沈んでいくのを止められなかった。




