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先輩とヘリウムの風船

 あたしの姿を見た瞬間、驚きで目をまん丸くした先輩が言い放った言葉は、


「え!? お前怪我とかすんの!?」


「失礼な。あたしは先輩と違ってごく普通のか弱い女子なんですから怪我くらいしますよ。てかこれ昨日先輩のせいでこうなったんですからね?」

「え!? なんで!? 私行ってないのに!? なんで!?」


 頭はぐるぐる巻きの包帯で締め付けられていて、喋ると声が患部に響く。


 そんな容体だけど、狼狽する彼女に昨日の騒動の顛末を説明した。





 今日は日曜日。

 今は午後二時。


 近所にある巨大商業施設を一人ぶらついて帰ってきたばかり。


 先輩と遊びに行く予定の日だったんだけど、出掛ける準備を済ませたところで、彼女から『急な用事ができた』との謝罪のメッセージが来た。


 なので、せっかく気合い入れて念入りに行ったおめかしを無駄にするのもなんだし、十二月らしからぬ気持ちよいうららかな日だし、お一人様でも気後れすることなく手頃な昼食をとれそうな場所、ということで行ってきた。


 服もアクセも本も雑貨も特に目ぼしいものはなく、出費はフードコートのたこ焼きとりんごジュース代だけ。晴れた休日のにぎやかなモールで、ランチとウインドウショッピングを楽しんできた。


 要するに、バカでかいSCでお昼ご飯食べてうろうろして帰って来ただけなんだけど。


 でも、一つおみやげがあった。


 右手から伸びている紐の上にふわふわ漂っているピンクのおしり。ちょうど今日新しく開店したお店でこれを配っていた。なんも買ってないけどくれるというので、ありがたく頂いてきた。まずまずよい戦利品だ。戦ってないけど。


 さて。


 とりあえずは一息入れたいな。


 ということで、服はそのまま、階段を下りてコーヒーを淹れた。


 階段の照明は人感センサーで自動点灯するけど、足元を照らすだけで、そんなに明るくはない。まあ慣れてはいるのでコケることはないとはいえ、コーヒーをこぼすのは嫌だもん、お盆をなるべく揺らさないよう慎重に上っていく。


 無事、事故などなく自室に帰還。


 部屋はカーテンを開けただけ。自然な明るさと温度が最も心地よい、とっても素敵な日。


 砂糖で甘くしたそれを飲みながら、のんびり風船を眺める。


 風船はギラついたメタリックなピンクのハート形で、中の気体はちゃんとヘリウム。なので、とにかく上に逃げたくてたまらないらしい。でも、糸には浮力より重い厚手の白いボール紙がくくり付けられているため、うっかり持ち主が手を離してしまったとしても、逃走は不可能である。ハートが軽いならそれを上回る重さでもって縛り付けておけばいいじゃない、という単純明快な手段だね。


 奔放な方の彼女がどんなに頑張っても逃げられない。地べたに這いつくばっている方の彼女が掴んだその手を離さない。

 ぴんとまっすぐな糸の張り具合と長さは、両者を隔てる空気感と距離といったふうである。


 近付きもしないし遠ざかりもしない。ずっと同じ位置。


 よって、いい加減この景色も見飽きた。


 窓は開いてないしエアコンもつけていないので、気流が無い。そのため、空気より軽いものだというのに、微動だにしない。


 つまらぬ。神の介入だ。束縛を解いてあげよう。


 あたしはコーヒーを一口含むと、カップをテーブルに置き、ボール紙に巻かれた糸をほどいた。


 そうして、指先の力を緩めたら、風船は一目散に天を目指して昇っていった。


 でも残念、そんなとびきりの自由もわずかひと時、すぐに行く先を阻まれた。天井で二度ほどやんわりバウンドした後、そこでまた静止した。


 ハートの面を下に向けてうなだれるピンクのハートだけど、尻尾から垂れ下がった糸は床に届くことはなかった。糸の端は四角いボール紙のちょうど真上をふんわり緩やかに浮いたままだった。


 先ほどに比べれば、窮屈さは大幅に少なくなっている様子である。


 あたしがちょいちょいと糸を引っ張るたび、風船も沈んでは戻るを繰り返すのだけれども、その際の天井での位置取りは彼女自身がわりと好きに決めることができる。さっきまでの糸の真上の決められた高さのただ一点にしか位置することができない状態とは大違いである。


 だから、うなだれるという表現は間違っていたかもしれない。顔をこちらに向けた風船は、天井のせいでこれ以上は上に行けないことを嘆き、こうべを垂れて意気消沈しているかのように見えたんだけど、実のところ、それは思い違いだったのかもしれない。


 ある程度の自由を手にした彼女がその場所で下を向いたのは、一人ぽつねんと床に転がる彼女をはるか高みから見下ろしてやりたかったから、という理由だったように思えてくる。

 糸だってそう、『取れるもんなら取ってみろ』とばかり、彼女の顔のすぐ真上までといったひどく挑発的な垂らし方だもん。


 あたしはまた糸を重しに巻き付けてみた。


 やはりだ。


 尻尾を引っ張られ、下向きだった風船の顔は前向きになった。しかし、距離は近くなったのに、下は一瞥だってしようとしない。完全無視である。ずいぶんな嫌われようだね。


 そうすると、今度は下の子の方が不憫に思えてくる。


 まあこの子のせいで自由を奪われているんだもん、上の子が怒る気持ちも分かるよ。でも下の子もそれがお仕事なんだししょうがないじゃん。もうちょっとばかし歩み寄ってあげてもいいんじゃないですかねえ。つんとむくれて愛想の一つもないんじゃせっかくのかわいい顔も台無しですよ――。


 って、あ。


 そうか。


 あたしは油性ペンを手に取った。

 ハートにキュキュっと。

 あらキュート。


 キラキラなおめめとにっこりなお口のただそれだけで、あれだけの無愛想が人懐っこさ全開になった。


 あたしはまた再び重しの糸をほどいてみた。


 こちらを見下ろすピンクのハートは満面にっこにこ。


 おー、いい顔してんねえ。さっきとは大違い。自然とこっちも笑みがこぼれてしまうよ。人じゃないのにこの効果、笑顔っていうのはやっぱりいいもんだねえ。


 と、あたしはまた思い付いた。


 この平たい風船には表と裏があるじゃない。


 あたしは糸をたぐり寄せると、まっさらな面にまたさらさらっと顔を描いた。


 そうして、手を離した。


 すんごい激怒しとるな。


 いやでもちょっと怒りすぎじゃん? 顔真っ赤じゃん。天井でこんな青筋立てて怒ってる人なかなかいないって。


 これはこれでまた笑っちゃう。


 我ながらいい表情を描けたもんだよ。うんうん。上出来上出来。




 な に や っ て る ん だ あ た し は 。




 こんないい日に部屋で風船に顔描いてそれ眺めてるだけって。


 もっと有意義なことはないんかい。


 さっきは早々に帰ってきてしまったせいで、暇を持て余す破目になった。それもこれもこんなもんを貰ってしまったせいだ。まだ時間は早いし街に出てみてもいいかなと考えていたところに、これに出くわしてしまった。一人でこんなの持って電車はちょっと乗りづらい。その時はいいもの貰ったとほくほくしてたんだけど、今考えればとんでもない罠だったんじゃん。こいつほんと浮いてるだけでなんもしないもん。いやほんとなんなのこいつ。


 いら立ちとまでは行かないけど、八つ当たりみたいにぞんざいに紐を引っ張ってやった。


 罪の覚えなど全くないはずであろう風船が激しく揺さぶられた。


 が。


 意外にも、頭空っぽ極まったこの行為がなぜだかよかった。


 笑った顔と怒った顔が上に下に行くのを見て、すっからかんの頭に閃光が走った。


 これだ!

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