09
翌日、大学に行くと、笑子が神妙な顔をしていた。
「どうしたの」
いつも笑顔が絶えないはずの彼女でも、こうして思い悩む表情をする時があるのか、と必要以上にじろじろと眺めてしまう。
これは、もしや、恋ではないだろうか。
「実はね、少し家を空けるんだけど、置いていくお花さんたちが心配で…」
恋などと言ったトンチンカンは誰だ。私だ。
笑子が悩むことなど、彼女が心血注いで育てている植物のことに決まっているだろうに。
鞄を机の上に雑に放り投げながら、笑子の隣に座る。
教授はまだ来ていないので、授業が始まるまでもう少しかかるだろう。
統計学の先生は、計算の数字に対しては細かいくせに、時間にはルーズなのだ。
「何日くらい空けるの?」
「一週間」
「なんだ、たった一週間じゃん」
死にそうな程に暗い顔をしていたから、一ヶ月くらい留守にするのかと思っていた。
たった一週間くらい、放っておいても問題ないだろう。
親戚の家では一切世話をせずに放置しておいたコスモスでさえ、秋には花を咲かせていたのだから。
けれども、笑子にとっては大問題だったらしく、薄情な私の言葉に噛み付くように反論してきた。
「一週間だよ?一、週、間!日に当ててあげたり、ちゃんとお水あげないと、それだけで病気になったり枯れたりしちゃうんだから!」
目前に迫った笑子を軽く押して、後ろに追いやりながら、分かった分かったと頷く。
植物なんぞ育てたことの無い私には分からないが、本当に好きでやっている人には死活問題なのだろう。
旅行に行くだけでも、一苦労だなんて、とんでもない話だ。
笑子にはお世話になっているし、親切にしてもらっている。
そこまで悩んでいるなら、力になってあげたかった。
「私でいいなら、預かろうか?」
「えっ?!」
一週間もの間、留守にするなんて話は初めて聞いたが、まぁ、笑子にも事情はあるだろう。
まだゴールデンウィークが過ぎたばかりで、夏休みなんぞ最果ての地にいるような時期だが、そこは大学生。
自分の裁量で休むことが出来るのは特権である。
「いいの?本当に?」
「世話に失敗して、枯らしても怒らないでよ」
「大丈夫!やった!ありがとう!」
本当はお願いしようと思ってたんだよね、とさらりと心の内を暴露していたけれど、私が逆の立場でもそうしていただろうから何も言わない。
喜んでぴょんぴょんと座りながら器用に跳ねる笑子に、アルベルに加えて植物の面倒も見ることになるとは、と苦笑が零れた。
私の家に笑子の愛する植物たちが運び込まれたのは、それから3日後だった。
幸い、アルベルが留守にしている時間だったので、特に問題も起こらず、事はスムーズに運んだ。
「じゃぁ、このノートに書いた通りにお世話してあげてね」
「わかった。けど、一種類だけでいいの?」
「うん。ローズマリーなんかは、乾燥してもしばらくは平気だし。特に繊細なのは、その子くらいなんだよね」
私の名前と同じ、楓のような形の植物。
綺麗な緑色で、不思議な香りがするものだった。
ハーブというのは、思っていたよりも、随分と匂いがキツイらしい。
「これ、ベランダに出しても平気?」
「大丈夫だよ。この匂い、慣れない人にはキツイだろうしね」
3つのプランターを2人でせっせと、ベランダに運び出す。
移動が完了した時には、洗濯ものを干すための足の踏み場など無い状態になってしまった。
外からも丸見えで、ご近所さんにはあの大学生は貧乏すぎて、ついに自家栽培を始めた、などと噂されそうだ。
「ごめん、楓。ちょっと多かったかな?」
「一週間でしょ?問題ないよ」
「ありがとう」
にこり、と笑子がいつものように笑う。
それから、思い出したように鞄をごそごそと漁り、はい、とあるものを手渡された。
押し付けられるようにして手に渡ってきたのは、くまのぬいぐるみ。
そう、テディベアだ。
「なにこれ」
「一週間、誰もいない私の部屋に置いておくの、可哀想で。楓と一緒に寝かせてあげて」
笑子は私が思っていたよりも、ずっとファンシーで女子力の高い人間だったらしい。
そうか、これと毎日一緒に寝ているのか。
若干頬が引き攣りつつも、私は素直に頷いておく。
預かってから、その辺に転がしておいてもバレないだろう。
「それじゃぁ、よろしくね。お土産買ってくるよ」
「やった。楽しみにしてる。気を付けてね」
「またねー」
玄関先でばいばい、と手を振りながら笑子を見送る。
しかし、本当に急な旅行だと思う。
笑子と毎日のように顔を合わせていたけれど、そんな話は微塵も出ていなかった。
私に話すと都合の悪いことでもあったのだろうか。
そんな暗い考えが過るが、それならば、こうして彼女が大事にしている植物を託すこともないだろう。
私は気を取り直して、手にしたテディベアをどこかに飾ろうと部屋へ戻る。
自分のベッドに置くのも微妙だったので、アルベルがいつも寝ているソファへ置いておく。
美青年に抱かれて眠るなら、笑子のテディベアも文句はないだろう。
「たーだいま」
そこにタイミング良く、アルベルが帰ってくる。
もしかしたら、笑子とすれ違ったかもしれない。
「おかえり」
けれども、いつまで待ってもアルベルの口から笑子の話題は出てこなかった。
運良く、出会わなかったのだろう。
もし、アルベルがこの部屋に入るところを見られていたら、と思うと背筋が寒くなった。
「ねー、カエデ!これ、なーんだ」
そんな私の心配など知りもしないアルベルに、ほらほら、と見せつけるように目の前にぶらさげられたビニール袋。
見間違えるはずもない、そこに書かれた店名に私の目は輝いた。
「おあしすのとんかつ!」
「大正解」
やったー!と小躍りして、それを受け取れば、アルベルが目を細めて笑っている。
「好きだねぇ」
「大好物!」
「そっか。餌付けするって手も…」
「されないわよ」
一応、否定はしておいたが、正直、アルベルが私の好物を知っているとは思っていなかった。
じっくりと、プラスチックのパックに入ったとんかつを見つめれば、胸が高鳴り、頬が紅潮する。
「ありがとう、アルベル!」
大好き、と口元まで出かかった言葉を、慌てて飲み込む。
友人関係ならば、気軽に言っても問題ないだろうが、相手は私に好意を抱いているのだ。
期待させるようなことを言うのは、酷というもの。
「どういたしまして」
アイスブルーの瞳を細めて、アルベルが笑う。
白銀の髪が、彼の背中で美しく揺れていた。