07
約束をした。
金を用意すれば、バイトを辞めてくれると。
決して、カエデにとって分の悪い条件ではないはずだった。
むしろ、プラスになる事柄しかなかったはずだ。
だからこそ、アルベルは受け入れて貰えるものだと頭から信じきっていた。
拒む理由など、ありはしないのだから。
バイトが無くなれば、一緒にいられる時間が増える。
ただくっついているだけでも、話をしているだけでも、並んで座っているだけでも、何でもいい。
とにかく、少しでもカエデの側にいられるのならば、アルベルは満足だった。
カエデが大学に向かった頃合いを見て、魔法陣を展開させる。
その中に足を踏み入れれば、景色が飛ぶように変わった。
そして、瞬きをする間に、元いた自分の世界に戻る。
幸いなことに、貴金属はカエデの世界でも価値の高いものらしい。
それならば、自分のいた世界で好きなだけ手に入れることができる。
貴族の屋敷に忍び込み、宝石類を奪うことなどアルベルにとっては目を瞑ってでも出来る芸当だ。
結界を張っている雇われの魔術師がいようと、関係ない。
アルベルにとって、他の魔術師の使う魔術は子供の落書きのように拙いものにしか見えないのだ。
更には「異世界」という逃げ場所を得た今、怖いものなど何もない。
魔術を封じるための魔封具にさえ気をつけていれば、いつでも姿をくらますことが可能だった。
こうして、アルベルは順調に資金源を調達していく。
手に入れた宝石は、渡った先の世界にある質屋に全て入れた。
鑑定書も無ければ、出処が不明な貴金属など、まともな宝石商は買い取ってはくれない。
どうしても買い手が見つからない時は、仕方なく魔術で操り、買い取らせることもあった。
本来ならば、カエデの住む世界で盗みを働くのが、金銭を集める1番の近道である。
けれども、アルベルはそのことに思い至ることすら無かった。
彼女のいる世界で、悪事を働くという発想がとうに潰えていたのだ。
そして、数日で目標の倍近くの金銭を用意出来たアルベルは、非常に機嫌がよかった。
カエデの部屋に積んだ札束は、己の背丈を越える程の量がある。
これだけあれば、カエデがバイトをやめてくれることは間違い無かった。
喜んでくれるだろうか?
早く大学から帰ってこないかと、アルベルはそわそわと落ち着きなく部屋の中を歩きまわる。
これでまた、一緒にいられる時間が増えると思うと、どうしようもなく胸が弾んだ。
加えて、少しでもカエデの生活が楽になるならば、日頃の恩返しにもなるだろうと考えた。
そう、受け取りを断られるなど、そんな考えは塵ほどもアルベルの頭の中には存在しなかったのだ。
「…ごめん。こんな大金、やっぱり受け取れない」
肩を小さくして、申し訳無さそうに謝る姿。
事態が飲み込めず、アルベルは呆然とそれを見つめるしかない。
ようやっと、その言葉の意味を理解した時には、頭が真っ白になった。
否定され、拒絶された。
自分の存在を認め、受け入れてくれていたはずのカエデが見せた姿勢に激しく動揺する。
裏切られた、という絶望的な感情がアルベルを支配した。
「そう…約束、破るんだ」
ただただ必死だった。
ここで逃してはいけない、と焦りのせいで、あまりにも短絡的になりすぎていたのだ。
気がついた時には、手を伸ばし、魔術を発動させていた。
簡単なことだ。
いつの日か自分がやられたように、痛い目に合わせてから、少し甘やかしてやればいい。
そう、思ってしまった。
取り返しのつかないことをしたと気付いたのは、カエデに手を払いのけられてからだった。
恐怖に目を見開き、身体を小さくする様子が、かつての己の姿と被る。
得体の知れない、苦痛を与える者と相対する時の姿勢。
理不尽な暴力で踏みにじり、相手を従えることは容易い。
けれども、同時にその心までも、粉々に踏み砕いてしまうと、なぜ一瞬でも忘れていたのだろうか。
慌てて取り繕っても、遅いことは分かりきっている。
アルベルは、深く後悔した。
目の前の世界が、遠退き、色褪せていく。
開きかけていたはずのカエデの心が、固く閉ざされてしまったのだ。
関係は、悪化する一方だった。
なんとか修復しようと、必死に話しかけるが、全てが無駄に終わってしまう。
出来るだけ触れないように努め、怖がらせないようにと気を張り続けた。
けれども、以前のようにカエデが笑顔を見せることはない。
日に日に、焦りは募る一方だった。
そんな中で知らされた、昔の恋人の存在。
聞いた直後は、相手を惨たらしく殺してしまいたい衝動に駆られたが、直後に吐かれた罵詈雑言に毒気を抜かれた。
明らかにカエデが嫌っている様子に、ホッと息をつく。
そして、その様子からある確信を得て、わざと質問をした。
「僕と元カレだったら、どっちが好き?」
カエデの表情が驚いたように固まる。
まさか、そんなことを訊かれるとは思ってもみなかったのだろう。
予想される答えは明らかだったが、アルベルは小さな不安と共にその返答を待つ。
「アルベルだよ」
にっこりと、笑ってカエデが言う。
予想通りの答えだったとしても、アルベルの気持ちは舞い上がった。
まだ、挽回の余地はある。
決定的に嫌われた訳ではないのだと、自信が湧いてきた。
「カエデはここではしがらみが多過ぎるのかもしれないね」
そうだ。
それが、いけないのだ。
この世界には、カエデを知っている人間が多すぎるのだ。
アルベルに頼らずとも、カエデは生きていく術を知っている。
依存せずとも、1人で生きていくことが出来るのだ。
もし、こちらの世界に来たのならば。
アルベルは考える。
言葉も通じず、文字も読めない世界。
頼れるのは、アルベル・シャトーただ1人。
そうなれば、カエデは確実に自分がいなければ生きていけなくなる。
青天の霹靂だった。
まるで、絵の具を流し込んだかのように、再び世界に色彩が戻ってくる。
元いた世界で暮らすには、己の過去を精算しなければならないが、それくらい苦にもならない。
その先に、カエデと一緒にいる未来があるのならば、喜んで苦労を買おう。
じっ、と捨てられたネックレスを見つめる。
カエデを、この世界から孤立させなければならない。
二度と戻って来れないような状況を作り上げ、更に、信頼を回復するにはどのようにすれば良いだろうか。
必死にぐるぐると考えるアルベルの頭の中に、いつの日か、カエデと共に見た薬物のニュースが思い出された。




