05
同じ部屋に住む彼女を目で追うようになったのは、いつからだろうか。
こちらでの生活方法を学んだ後は、金目のものを奪って、早々に出て行こうと考えていたはずだったのに。
気がつけば、何かしら理由をつけて、出て行くことを先延ばしにしようとしている自分がいた。
殺伐とした生活しか知らなかったアルベルにとって、特定の人間と同じ空間で、時間を共有し、食卓を囲むのは新鮮な事だった。
束の間のおままごとだと分かっていても、幼い日に望んだ家族の団欒が実現したようで、否応なしに気分が高揚してしまう。
いつかは、目の前の黒髪黒目の地味な女の元から去らねばならぬのだ。
そう言い聞かせ、極力、関わらないようにしていたというのに。
気を抜けば、視線の先にはいつも同じ人物がいる。
日中は出かけるカエデに合わせ、外を歩きまわり、この世界のことを勉強した。
そして、彼女が学校から帰ってくる頃に、自分も戻る。
ただいま、と言えば、おかえり、と返事がある。
そして、おかえり、と言えば、ただいま、と返してくれる。
幼い頃、無視され続け、仕事しか押し付けられなかったアルベルには、ただそれだけの事が嬉しかった。
「ねぇ、カエデ。今日は僕がご飯作ってあげる」
褒めて欲しい。
頭を撫でて、よくできました、と言って欲しい。
ありがとう、と感謝の言葉を掛けて欲しい。
むくむくと湧き上がった欲求は、ひどく幼く、あまりにも小さな願いだった。
「え、アルベル料理できるの?」
「一応ね。僕の世界の料理を作ってあげる」
「やった!楽しみ」
お人好しな彼女は、何も知らずに無邪気に笑っている。
カエデも小さい頃に両親を亡くし、今まで1人で生きてきた、と言っていた。
似たもの同士。
そんな言葉が、アルベルの心に過る。
孤独に生きてきた自分たちは、お互いが必要で、出会うべくして出会ったのではないだろうか。
運命や天命など、まるで信じていなかったアルベルだが、こればかりは不思議な縁を感じずにはいられなかった。
「辛いのは平気?」
「うん、大丈夫」
「了解。そしたら、ジイシャでも作ろうかな」
「なにそれ?」
「出来てからのお楽しみ」
自分以外の人間のために、料理を披露することになるなどと、一体誰が想像出来ただろうか。
以前までは、絶えることの無かった凶暴な感情が、すっかり鳴りを潜め、落ち着いている。
このまま穏やかな日々が続けば良いのに、とアルベルは願わずにはいられない。
それと同時に、なぜ、もっと早くカエデと出会えなかったのかと、どうしようもない後悔が生まれた。
目を丸くして、驚いているカエデを、アルベルは満足気に眺める。
「美味しい、なにこれ」
「口に合ったようで何より」
「アルベルすごい」
そして、カエデは欲しい言葉をくれるのだ。
「本当に美味しい。ありがとう!」
「どういたしまして」
満たされる。
カエデの与えてくれる言葉が、温度が、アルベルの空虚な心を埋めていく。
その度に、目の前の彼女に何かを返したいと、自ら何かを与えたいと思うのだ。
似たもの同士。
カエデが抱えている空虚を埋めるのは、自分しかいないという強い使命感に襲われる。
それが、とんだ思い上がりだったと目の前に突き付けられたのは、すぐだった。
「違う違う。男女が複数人で食事したりして、気に入った相手がいれば、お近づきになるの」
おしゃれをして、出かける準備をしていた彼女の言葉に、息が止まる。
お前など必要ない、と明言されたようで、一瞬、視界がぐるりと回った。
何を言っても、笑うばかりで、全く取り合う様子のないカエデに自然と苛立ちが募る。
早く帰ってくるように、と釘を刺したものの、心を覆う黒い感情は払えなかった。
振り返りもしない後ろ姿を見送りながら、アルベルは歯をきつく食いしばる。
こちらの世界に来てから、静まっていたはずの破壊的な衝動が鎌首をもたげる。
アルベルの世界はカエデの部屋の中で完結していた。
そして、カエデも同じように、この部屋の中で完結しているものだと錯覚していたのだ。
「嫌だよ、カエデ」
誰もいない部屋の中でぽつりと呟く。
カエデの関心が、他に移ってしまう。
そうなれば、両親のように、アルベルという存在を無視するようになるかもしれない。
姉兄のように、嘲笑と暴力を以って、向かい合うようになるかもしれない。
幼いころ、踏み躙られた心の傷が疼く。
両親に売られた時の絶望が、蘇る。
気が狂いそうな程の激情が胸の中で暴れ回り、アルベルを内側から壊していく。
「いい子にするから、捨てないで」
時計の秒針が、単調に、そして、無情に時を刻む。
カエデが帰ってくるであろう時刻は、とっくに過ぎていた。
暗く寒い部屋の中で、アルベルは頭を抱えて目を瞑る。
瞼の奥に、自分の知らない男に組み敷かれ、喘いで縋るカエデの表情が目に浮かんだ。
瞳を潤ませ、男の首の後ろに腕を絡め、はくはくと口を動す。
あ い し て る
やめろ、と心が悲鳴を上げた。
幻想の中の、姿も形も分からない男を、ぐちゃぐちゃに壊す。
肌に触れるな、声を聞くな、言葉を与えて貰うなど、もってのほか。
その権利があるのは、自分だけでいい。
最初は、ただ褒めてもらいたいだけだった。
幼く、小さな願いでしかなかった感情は膨れ上がり、いつしか独占欲や支配欲へと変化を遂げる。
自分の手が届く範囲に、カエデがいないことが耐えられない。
「僕を見て、カエデ」
ふらり、とアルベルは立ち上がる。
魔術を手にしてから、欲しいものは全て手に入れてきた。
どんな手段を使ってでも、必ず、奪ってきたのだ。
欲しい、欲しい、カエデが欲しい。
ルビーやダイヤをあしらった高価な貴金属よりも、世界中から集めた金塊よりも。
他の全てを捨ててでも、カエデが欲しい。
どうか、お願いします。
この時、アルベルは、初めて祈りというものを唱えた。
ゆっくりと持ち上げた両手を組み、強く握り締める。
薄っすらと月明かりの差し込む窓に向かって、膝をついた。
誰に縋れば良いのか分からない。
何に祈りを捧げれば良いのか分からない。
それでも、彼女だけは諦めてはいけないと、アルベルの心が叫び声を上げた。
どうか、お願いします。
カエデと共に、僕を生かしてください。




