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これほど緊迫した王都は、戦が始まってからも一度もなかった。
カディールは連日クレイの護衛をしている。ほとんど休む間もなかったが、疲労を感じている余裕すらなかった。
(このままじゃ城壁が破られんのも時間の問題だ)
誰も口にこそしないものの、それを感じていた。カディールは冷たい石の壁によりかかって、右腕の傷に触れた。治らないかもしれないと言われていた。
「なにぼさっとしてんだ、カディ」
「いてっ」
頭を小突かれ、カディールは顔を上げる。自分よりかなり高い位置に、その顔はある。いつのまに近づいてきたのか、まるで気配を感じなかった。戦場であれば命取りともいえる状況だが、カディールはいまだ彼に勝てたことはない。
騎士長カザル=ロイズラン。
その名前は、敵国にまで広まっていた。
「別に!」
悔しさを悟られたくなくて、カディールは少し大きな声で答える。カザルは豪快に笑った。
街壁のそばにある大離宮は、この何年かは守りの要として要塞のように使われている。王であるクレイも今は、ここに駐屯し、最前線で指揮を取っているのだ。
「陛下はよくお休みか」
「よく、かどうかはわかんねぇけど、仮眠取らしてる」
「お前も休んでないだろう」
カザルの顔が少しだけ神妙になる。
「俺は王直属の騎士だから、クレイが寝てるなら俺は起きてる」
「……ったく、誰に似たんだか」
騎士のあり方をそう教えられたわけではなかった。けれど、そうしている背中を常に追いかけてきたから、自然とこうなっただけだ。そこに義務や苦痛はない。
「右手はやはり使えぬか」
無意識にかばうようにしていたのかもしれない。カディールは傷に触れていた手を離した。
「ああ、今日も神殿の神使いに見てもらった。動かせるけど、剣を振るうことはできねぇだろうって」
「そのわりには、落ち込んでおらんな」
落ち込んでいてほしいのかと疑いたくなる口調だった。先ほどは覇気がないと小突いていたのに。
「もう左手での練習してるから」
「ほう」
落ち込むのは性に合わないし、できなかった。今そんな暇はない。
(クレイがそうしてんだから、俺も負けらんねえよな)
騎士として当然のように王を守ったのだから、クレイはカディールに対して感謝や謝罪の言葉も口に出したりしなかった。そのほうがカディールもよかった。
だから、カディールがこの怪我で落胆していたら、クレイが自責に縛られるだけだとわかっていた。
(クレイだけは殺させない……)
それは国の存亡よりも優先させるべきことのように誓っている。
カディールには、ほかの騎士や兵たちのように、エリシャという国に対する執着や忠誠はなかった。それを知った上で、王クレイや騎士長カザルは、カディールを騎士と認めた。
「リージェは帰らなかったんだって?」
ふと、先ほどクレイから聞いた話を思い出してカザルに確認した。
「ああ、困った方だな。王妃様も。こちらも妥協して、王都外の離宮へせめて逃げていただきたいと申し上げたのだが、まだ王宮にいらっしゃるぞ」
カザルは、それほど困惑している表情ではなく、むしろ想定済みだったかのように苦笑した。
「王妃に選ばれなければ、騎士になっていたかもしれぬほどのお方だからな。お前と交えてどちらが勝つかわからんぞ」
「冗談!」
一笑しておいたが、それがあながち冗談ではないこともカディールは知っている。それを踏まえたうえでカザルはわざと、そんなことを言っているのだ。
けれど、外が少し騒がしいのを感じてカザルは顔をひきしめた。大勢の兵たちが、離宮の庭に集まってきていた。
「そろそろ次の攻撃に備える。あとで陛下に―――」
「今度は俺も行く!」
「ならん」
何度も却下されてきた。外では城壁を守るための必死の攻防が行われているというのに。
「付け焼刃の左手でどれだけ陛下をお守りできるんだ」
「やってやる。どんな手段でも」
「それなら余計に許すわけにはいかんよ。左手まで怪我したら生き延びたとしてもお前はもう、騎士ではいられんのだぞ」
戦えなくなれば、騎士という身分は剥奪。王宮にもいられなくなる。カディールはそれを思い出して、口をつぐんだ。
「陛下にご準備をと申し上げてくれ」
カザルはカディールの右肩を軽くたたいて踵を返した。その遠くなる背中をしばし見送ってから、カディールは帷を右手で持ち上げて王の部屋に入る。彼はすでに寝台から上半身のみを起こしていた。
「なんだ、もう起きてたのか」
「ああ、今しがたな」
王の自室といっても仮の部屋だから、木で作られた簡易寝台や椅子が置かれているだけの質素なものだ。それでも一般の民や一介の兵らは、寝台などを使って寝ることもないから、贅沢品といえる。
外での会話を聞かれていただろうか。別に聞かれてどうという内容ではないから、それについて何かを尋ねられても気にしないことにする。
クレイは、寝台のそばにある椅子にかけてあった服に手早く着替えた。
「カザルはお前の心配ばかりしているな」
「やっぱり聞いてたのかよ」
「聞こえただけだ」
彼は少し笑みを浮かべた。これからまた、戦場に行くのだが、それはほんの少しの余裕に見えた。
「……騎士長なんだから、一介の騎士なんかじゃなくて、あんたを心配するべきだろ?」
「騎士長としての勤めはそうであろう。しかし、親としての責務もまた、あるのではないか」
「―――……」
親、という言葉が、カディールは苦手だった。
「正式な養父じゃねーし」
「いつもそれを言い訳にするのだな」
「言い訳なんかじゃ……」
否定しようとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
クレイは一つ息をついて帷のほうに向かい、立てかけてあった剣を手に取った。カディールはそれを見て、軽く息を呑んだ。
それは、いつも持っている王としての飾りの剣ではなく、本物の―――真剣。
「なんで―――」
「私ももう、逃げないことに決めたのだ」
その手に持つ重さの意味を、噛みしめるように。
「この数日考えていた。イナと……お前が気づかせてくれたのだ。国を守ることの意味を」