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そこは無涯と厳威、そして慈悲をひっそりと受容する密林だった。
戦場にあって、なお映える、無垢。けれどそんなものは、なんの慰めにもならない。
(この身や我が国の穢れを浄化するものではないのだから)
それをこの地に願うことすら、おこがましいように思える。
「またこちらにおいでだったのですか、ルーフェイザ王」
足音を立てずに近寄る人影の存在に気づいてはいたが、岩に座ったまま身じろぎもしなかった。
「ここには誰もおらぬ。―――カディ」
「そうか。じゃあ、クレイ」
指摘され、カディールは素直に言い直した。親しい者のみに許された呼称を聞いて、クレイはようやく振り返った。最近やっと、彼も人前での礼節を学ぶようになったが、素直なままのほうがいい。
「まだ、時間ではないだろう、どうした?」
決行まであと幾許もない。けれど、その間はなるべく冷静であるふりをしなければならない義務が、クレイにはある。
「あんたが心配だっただけだ。悪いか」
「……別に」
礼を述べるよりも先に、強がりの言葉が口をつく。
憂いを拭い去ることはできなくとも、友の真実の言葉には少しだけ救われているというのに。
冷静を装う義務を負うクレイの身を、無事に祖国に帰すこと、それが奇襲部隊の一員であるカディールの義務だ。けれど、責務よりも先に、クレイよりも二歳年下のカディールにはいつも弟のように接していた。
「―――いよいよ、か」
「そうだな、月のなくなる今夜まで、もう五日も待ってんだから。この奇襲策が終わればすぐ帰国できるんだぞ」
帰国―――その言葉を聞いても晴れやかな気分には、到底なれなかった。
(ひとが死んだら帰れる、などと、不謹慎な)
けれど戦とはそういうものだ。国の軍事教育ではそう教えられる。けれど、長い戦を強いられている故郷は今、クレイにとって居心地のいい場所ではなかった。
(ここで起こるすべてが早く終わってほしい、けれど、終わってしまえば、何百人もの命も終わる……)
どうしようもない葛藤。彼の苦悩とは裏腹に、刻だけは無情に、規則的に、ただ未来への階段を上る。
時が止まればいい。
叶うはずもない願い、だ。
「クレイ」
カディールが動くたび、背負う剣が軽い金属音をたてる。それが触れられるほどそばにまで近寄って、彼はクレイの顔を覗き込んだ。臣下だったら無礼とも取れる態度。
「そんな顔すんな。戦を終わらせたいんだろ」
年下の彼にそう言われ、クレイは顔を緩ませた。緊張の面持ちだったことに、そのとき初めて気づいた。初陣というわけでもないのに。
「あんたのことは俺が守るから」
王がここで倒れるようなことがあってはいけない。その振舞いのすべてが、今後の動静に影響するのだから。
「―――お前は我が国で一、二を争う剣使いだから、そんなことは心配しておらぬぞ」
カディールがどんな表情をしたか見えなかったが、肯定も否定もしなかった。
自分の身は彼によって守られるだろう。けれど、彼の強さは敵国の犠牲者を増加させる。それは戦場にあって当然のことであり、責めるべき事柄ではありえないのだが、考えるたびにどこか恐ろしかった。
(私の態度が彼をいつか、殺してしまうかもしれぬ)
それは二度目の戦場から感じていたことだ。
無敗の強さを誇るカディールだが、クレイの前ではけっして自分も敵も血を流させない。守るべき主君を安全な場所に移動させてから後の、戦鬼とも異名される彼の姿を、クレイは見たことがなかった。
カディールが人を殺していく様を見たいはずはない。だが、クレイへの過剰な配慮が彼の力を削いでいるのではないかと思い始めたときから、戦場ではなるべくカディールの傍から離れるようにしていた。その行動がまた、カディールを心配させているのに気づいていながら、そうするしかなかった。
「俺はしばらく離れてるから」
目を伏せていたクレイがはっと顔を上げると、踵を返すカディールの後ろに別の小柄な影を見た。
「イナ……」
「あとで迎えにくるからな」
彼の姿が見えなくなってから、イナはすっとその場に膝を折った。臣下の態度を頑なに守る彼女に、戸惑いや怒り、悲しみなどが渦巻くけれど、それらを押し殺してクレイもその傍で膝をついた。
「……陛下」
「これで同じ目線だ。話ができるぞ」
「お立ちくださいませ」
「イナが立つのなら、な」
我侭とも取れる王の言動に、困惑の表情を浮かべるも、クレイはそれすらいとおしいと思ってしまう。
「カディに呼ばれたのか?」
「はい」
率直な返事。けれど、彼女は細い肩を震わせていた。ほんのわずか、わからないほど。
まだ十五歳の少女に過ぎない。
出発前、クレイの幾度とない説得にも、彼女はがんとして応じず、奇襲部隊に参加した。
「イナ」
声を和らげて呼んでも、彼女の顔色は晴れない。緊張の瞳は、幼い彼女を大人に見せた。四歳も年下ではあるが、たぶん自分のほうがずっと子供なのだろう。
彼女の態度を見るたび、そう思わされる。
「……あ」
細い肩を抱いて無理やり立たせると、軽く身じろぎしたものの、彼女からの抵抗はなかった。
「やはり私は今でも後悔している。お前の参加を許してしまうとは」
「……しかし、わたくしは……初陣、ですから。できることも少なく、心苦しく、思っております」
震えるような口調。
何もしないほうがいいとクレイは思ってしまう。前線で彼女が剣を振るうような日を、想像したくない。
目を伏せたままの彼女の真意を図りきれず、無理やりに顔をあげさせた。
「あ……お許しください、ませ」
胸を押され、思ったより強く拒絶されて、クレイはその瞳の強い決意を知る。思わず手を離した。
イナは、魔剣使いとしてここにいるのだった。国の一兵として、戦う覚悟で。
血で穢れていくのは、自分だけでいいのに。
(カディもイナも、本当は私自身が守りたかった)
そう言ってしまいたかったけれど、イナの態度に制されて言葉を続けることはできなかった。
彼女の緊張は初陣のためではなく、王という立場にあるルーフェイザの傍にいるせいかもしれないと思い、一歩下がって距離を置いた。
「正妃様もいらっしゃる御身で、わたくしなどに……」
イナはそう言いかけてはっと口を閉ざした。誠実すぎるその優しさが逆に、クレイには苦痛になる。
「都合だけで定められた婚儀に何を申すのだ」
教養があり、聡明で美しい王妃のことを、けっして嫌いではなかった。
けれど、愛を語り、愛を貫く―――そんな資格が王族にあるはずはない。婚姻も政治の一部だ。けれどそれは、争いを生み続けるだけ。わかっているのに、クレイには何もできない。
「陣に戻る」
ここで心乱されては奇襲の実行にかかわる。それを投げ出すほど、クレイの王としての自尊心は軽くなかった。
カディールの消えていった方向へ歩いていこうとして、ふと足を止める。
イナのほうをゆっくり振り返ると、彼女も今までとは違う緊張の眼差しを返してきた。腰を低くし、剣の柄に手を置いた。
風があり、葉が揺れている。
けれど、音が―――ない。
「陛下っ!」
物陰から現れた金属を、イナが腰から抜いた鞘で受け止めて弾き飛ばした。左右からも襲い掛かってくる影があったが、彼女の剣技がクレイに触れさせなかった。
「ここでは不利だ、引くぞっ」
「いいえ……特定の音だけ消されておりますから、囲まれている、かもしれません……」
魔道だろうか。クレイには幸か不幸か、その力はほとんどなかった。
クレイも剣を抜いた。だが、イナが彼の前に立ち、その身を守っている。彼女は護衛騎士の卵として、カディールと行動をともにしているから、その行動は当たり前だった。王を守るのが、随一の役目。
(だがそれは、同時に相手を傷つけていく)
他人を傷つけて、自分の大切なものだけを守っていくのか……。
(そんなのは偽善だ)
クレイにはわからない。
他人が向けてくる憎悪。それを回避するために争いになり、憎悪は膨張する。
その間にも、イナはクレイを守って剣を振るう。彼女のために、何もできない。
イナは見えない何人もの敵の攻撃を、的確に最低限の動作だけではじいていた。クレイを守りながら、自分にも傷をつけさせずに。
(相手にも、血を流させない)
イナのやり方は、カディールと同じだった。初めて目にする、魔剣使いとしての彼女の勇ましい姿。
それに気づいたとき、右手のほうで何人かが声も上げずに倒れる音だけが聞こえた。
月がない今夜は、星明りだけでは何も見えない。だが、その音は不規則的に続いている。
「カディール様、です……」
こちらへの攻撃が止んで、警戒を解いたわけではないが、彼女は長い息を吐いた。
「でも、まだ近くに気配があります。……陛下は、わたくしがお守りいたします!」
カディールと同じことを口にし、カディールのいるであろう方向とは逆に、身体ごと振り返った。
ほぼ同時に、そこから誰かが飛び出してきた。
長い髪に細い肢体。
すぐに女性とわかる体躯だった。
とっさのことで、イナは考える余裕もなく直感で行動した。
体を低くし、相手の剣を避けながら首筋を深く切り裂く一部始終を、クレイは眼前で瞬きもできずに見ていた。
返り血で、目の前のすべてが赤く染まっても、まだ目を逸らすことができなかった。
愛しいひとが、他人を殺す様、を。
だから、そのあとに続く光景も、無意識のまま視界に入れていた。
「リンっ!」
敵の中の誰かが叫んだ。
男の、声だ。
イナがその声の方角を見た。けれど、遅すぎた。
体制を整えながら、剣を薙いだ。それは風を切る音だけを残した。
男は、イナを一瞥する余裕を見せてから、クレイのほうを向いた。
「王だな!」
確認ではなく、確信した口調で、男が問う。
その言葉に応える前に、男の腕は動いていた。その背後でイナが剣を構えなおした。
「おまえが……おまえたちが、リンを殺したのか!」
「―――ここは戦場、ですから」
冷静かつ慎重に、イナは答えた。男も納得して頷いたようだった。
「リース」
「来るな、セイン。王は俺がやる」
「させませんっ」
イナは剣を握る手に力を込めた。
だが、ここにいる三人の、誰もが、何秒かの間、指ひとつ動かさなかった。
誰が最初に動いても、不利な状況。
周りにはまだ、いくつかの敵の気配があるようだったが、彼らもリースと呼ばれたこの男の言葉を信じているのか、行動を起こそうとは思っていないようだった。
すぐに沈黙を破ったのは、イナだった。いや、破らざるを得なかったのだ。
彼女は、強い力でクレイに全身を投げ出してきた。それを抱きとめるような形になったクレイだったが、突然のことに支えきれず、二人で地面に倒れこんだ。
リースと呼ばれた男が剣を振り上げる姿を、クレイはただ見上げた。
何もできず、何も考えられない。
こんなときでも、時間は早くもなく遅くもなかった。
別の影がクレイと男の間に入ったと認識できたときには、男はわき腹を押さえて膝をついていた。
カディールだとすぐにわかったが、クレイは声を出すことができなかった。
(―――重、い)
腕の中のイナが、やけに重く感じた。
身じろぎさえしない彼女の、細い腕をつかんだが、彼女からの反応はなにもなかった。ただ、奇妙に暖かかった。
(イナ?)
声に出して呼びかけたつもりなのに、唇は動いても音は風に乗らなかった。
「何をぼっとしてんだ! こっちだっ!」
カディールがすばやくイナを背負い、クレイの腕をつかんで立たせた。
「逃がすものか!」
「……っぐ」
イナとクレイがそばにいて、カディールの反応が一瞬だけいつもより遅れた。だがそれでも反射的にクレイだけは右腕でかばう。
剣がキンと弾かれた。
体制が万全ではなかったとはいえ、そんな状況になったのは初めてだった。かろうじて地面には落とさなかったものの、無防備になったカディールの二の腕を、男の剣が深く突き刺していた。
はっと横で、クレイが息を呑んだが、声は上げなかった。正確には上げられなかった。
カディールは気力だけで自分に刺さるその剣をためらいもなく引き抜き、そのまま風を切るようにして相手に向かって放った。手ごたえのある音がしたが、それを確認している余裕はなかった。
クレイは、カディールにされるがままただ走った。
暗くて足元も見えない。何度も転びそうになりながら、それでもカディールの強い力に支えられて、走り続けた。彼はじっと前を向いていて、その表情を窺い知ることはできなかった。
駐屯地のほうに向かっていたのかと思ったが、彼らが着いたのは森のさらに奥のようだった。特に木々が密集していて、まわりからはほとんど見えないようになっているようだった。
カディールは木を背もたれにして、イナを座らせた。
「ここまで来れば大丈夫だろ……」
小さな声で、立てるかと聞かれ、クレイは曖昧に首を動かした。けれど、カディールに腕を解かれたら、思ったより膝に力が入らずに座り込むしかなかった。
彼のほうがよほど重傷で気遣わなければならないことはどこかでわかっていたが、それよりもまず尋ねることがある。
それは王として。
顔を上げて。
「クレイ―――」
「何が、あったのだ?」
争いをどんなに厭う気持ちがあったとしても、クレイは王であり、国のために生きる宿命を生まれながらにして背負っている。その自覚はあるつもりだった。
「森を、出る。なんとしても、絶対にだ」
「そうではない! 何が、何があったのだ」
カディールは表情を殺して、瞳を伏せた。初めて見せる、苦渋。彼のこんな顔は知らない。
それが悲痛の眼差しのように思えて、クレイは即座に最悪の事態を予測した。
「……敵のほうが一枚上手だった。それだけだ」
カディールは自らの服を破って右腕に応急処置をほどこしながら、クレイのほうに視線を投げずに言葉を紡ぐ。
「我が軍たちは」
「もう、ほぼ全滅したらしい。俺たちからじゃ確認がとれないんだ」
表情のない顔で、クレイはただカディールを見た。
暗闇の中に、カディールだけがいる。
けれど、どこか自分と関係のない話を聞かされているようで。
「別の部隊と合流する。撤退するしかねーだろうな」
カディールに腕を引かれて立ち上がりながら、クレイはイナを振り返った。
「え? イナ、は」
幹に寄りかかって座ったままのイナに目も向けないカディールが、まさか怪我をした彼女のことを足手まといだからと置いていくとは思えなかった。戦場では重傷者はたしかに切り捨てられることもあるというが……。
「……イナは、もう生きてねーから」
「何、を―――」
「―――……」
先ほどの報告よりもさらに抑揚なく、カディールは状況を説明する。
弓矢によってほとんどの仲間が命を落としたこと。かなり強い毒で、その矢に当たれば数分で命が途切れてしまったこと。その矢を、イナも受けていたこと。
(あのとき……私をかばって?)
全身の力をこめて体当たりしてきた彼女の姿を思い出す。
「あんたはもう、王だ。俺はだから、イナを連れていかない」
静かな一言。
けれど、それが真実だ。
クレイはカディールに掴まれた腕を振り切ったが、それ以上の力を搾り出すことはできず、糸が切れたように膝を落とした。それでも這うようにして、イナに近づいた。
彼女はうつむいたまま、顔を上げなかった。ただ眠っているだけのようだったのに、その頬に触れたら先ほどまでの暖かさがなくなっていた。
指先から否応にも悟ってしまう、カディールの言葉が真実であるのだと。
「……イ、ナ」
呼びかけに応じない彼女をはじめて見た。
クレイの灰色の双眸から急速に色が失われていったのを、カディールは驚愕の思いで見守るしかなかったが、それを本人は気づいていなかった。
手を引かれるままに立たされ、走らされたことも、記憶に残していなかった。




