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カストゥール王国は、魔道研究により急速な発展を遂げた、大陸随一の大国だ。
かつてはたいした土地も持たない小国だったが、次々と編み出した魔道によって近隣諸国を併合していった。
比較的大きな国土を持つエヴァン王国と、安定した治安と高い教育水準を誇っていたエリシャ王国ももはやカストゥールの下に置かれた。
今ではこの大国に並ぶ国は、大陸中央部に存在するカストゥールに次ぐ武力国家として知られるディトレス王国か、小国だが貿易などで潤う新興国のクリス聖王国しかないと言われている。小国はほかにも数多く存在するが、どこもカストゥールの顔色をうかがうことでしか国を存続させることができなかった。
(カストゥール、か……)
ここフェイの町は、その国境まで馬で半日とかからない距離にある。
そのことがカディールを少なくとも苛立たせていた。落ち着きなく部屋をうろうろしたところでどうともならない―――わかっているのに、理性だけではこの焦燥感を止められない。
そのとき壁をはさんだ廊下に人の気配を感じて、はっと顔を上げる。
すぐにそれは見知ったものだと知れたのだが、彼が手で帷を押しのけて姿を見せるまでは気を抜けなかった。
「まるで空腹の野生動物だね、カディール」
皮肉なのかなんなのか、シオンは優美な唇に余裕の笑みを浮かべてそう言った。だが、その翠の瞳だけは無表情とも取れるほど硬質なものだった。
湯浴みをしてきたのか、銀糸の髪から雨が上がる直前のような水滴が落ちる。肩にかかる布がそれを吸い取って消した。
ようやく神経を和らげて、カディールは深く息を吐き出した。
薄い絨毯の敷かれた床に行儀悪く座り込む。いつもは自分より少し低い位置にあるシオンの顔を見上げたら、やっと焦燥感と後悔で暴れだしそうだった感情が内側に消化された。
凪のように落ち着いた彼の態度は、カディールの頭をゆっくりと冷やしていくのだ。
「ここで間に合って……ほんとよかった……」
情けない、愚痴のような一言だったが、シオンは笑ったりしなかった。
カディールと視線を合わせたまま、衣擦れの音や湿気のある風を纏いながらゆっくりと近づいてくる。
その手がこちらに伸ばされるのを認識したが、避ける理由などもちろんなくて、どうするのかの予想も立てられずに、ただ彼を見上げた。
「いつまでも子供みたいなことを言うね」
「―――はあ?」
その言葉ではっと我に返る。
伸ばされたシオンの手が……。
カディールの頭に置かれていたから。
「は、放せっ! なんでおまえが俺を子ども扱いすんだよっ」
「―――そんな顔、してたから」
五歳しか違わないだろ―――そう言いかけたカディールを止めるには、シオンのそれは十分すぎる一言だった。
カディールの足元に、シオンの髪の毛から垂れた一雫が落ちた。それを追うように、カディールの視線も床に向く。
無機質な木の板と、昔は白かったのにもう生成り色になってしまった絨毯。
この視界の中に、カディールの記憶を脅かすものなんて何一つない。ただの田舎の、小さな神殿。
「―――そんな顔、してない」
それがどんな表情なのかもわからずに、カディールは否定する。シオンに強がっても意味のないことを知りながら。
「そう? 私の思い過ごしならいいのだけど」
シオンはカディールから手を引いて、髪の毛を布で軽く押さえながらベッドに腰を下ろした。
少しだけ離れた気配。それだけで……寂しい、なんて。
思ったことは、懸命に顔には出ないように、努力して無表情を作った。
「……なんでお前は平気なんだ」
その疑問が意外だったのか、シオンは髪の毛を拭く手を止め、珍しく素で瞠目してカディールを見やる。けれどそんな表情は一瞬のうちに、いつものつかみ所のない微笑に取って代わった。
「平気、かな……そうだね。トゥールには行きたくないよ。回避できたから、今はほっとしている。だから平気なふりが簡単にできるのだと思う」
最悪よりはまし……いやかなりいい状況なのだと言われて、カディールもその事実にようやく気づいた。
(そうかも、しれない……けど俺は……)
シオンのようには割り切れない自分がいる。
(今は俺のことなんて考えてる場合じゃないのに)
ユティアのことをエヴァン王国で表沙汰にはできないが、少なくともサイロン家の令嬢が誘拐されたのだ。そして、セトがカストゥールの人間だと知れれば、フィオナはただリトルセの誘拐の片棒を担いだだけでなく、他国の人間と共謀し、資金援助までしていたことが明るみに出てしまう。
「―――セトとかいう男を知っているのか?」
「……うん、会いたくない人物だね。―――王の密偵だよ」
カストゥール王は獅子王とも覇王とも言われ、その武勇は大陸中に知れ渡るほどだ。近隣の小国を次々と手中に収め、もっとも手ごわいと言われてきたエリシャ王国までも陥落させた。
そんな王が持つ密偵。
ユティアは確実に狙われている。
「彼には気をつけたほうがいい。けれど……それよりもイデアのほうが私は気になる」
「イデア、か」
「―――あれはルキの配下にある。おそらく」
カディールは何も言わなかった。
その可能性を、どこかで感じていたから。対峙したあのときからずっと。
「それでも……何がなんでもエリシャに行くんだろ?」
「私たちの力が及ぶ限りは」
明日にでも王都サルナードに戻り、その翌日には国境を越える手はずになっている。そのあたりはカリスとジュリアスが手を尽くしてくれていた。
「そんで海賊王国か……船の手配をあいつに頼まなきゃなんないんだろ」
「絶対なんて言葉は言えないけれど、高確率だよ。あの方にできなければもう私たちには不可能といっていい」
カディールは一つ頷いた。
迷っているだけの余裕が、この旅にあるはずもないのだ。
ただ前に進むだけ。
自分が信じると決めたものだけを正確に見極めながら。