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眠りやすくなる薬草を混ぜたミルクを飲ませて、ユティアはやっと眠りに落ちた。
「よかった。よく眠っている」
シオンがユティアの横顔を見つめて、とりあえず息をついた。
「お前が魔道力で眠らせればいいだろ」
「それでは起きたとき余計に疲れてしまうよ」
カディールは魔道のことなどさっぱりわからないから、そうなのかと端的に返した。
一人でゆっくり寝かせてやりたかったが、あまり遠くに離れてしまうと闇に隠した魔道の威力が弱くなってしまうとシオンに言われ、ユティアはカディールのすぐとなりに彼の外套を敷いて横になっていた。
「やっぱり、私が魔道で隠したものが見えていたみたいだね」
「だからお前も遊里で強い力にすぐ気づいたんだろ?」
カディールの言葉に、シオンは神妙に頷いた。魔道というのはくせがあるらしいが、そんな力のないカディールにはわからず、シオンの言葉を信じるしかなかった。先ほどシオンは姿を消していて、自分には見えていなかったのだが、ユティアは反応していた。それは潜在能力がシオンよりもユティアのほうが優れているという証なのだろうか。
「また昨日みたいに暴走することはないのか?」
「どうだろうね……。まだユティア自身、このお力にあまり気づいていらっしゃらないから、ないとは言い切れないね。けれど、王の腕輪はたしかに魔道抑止の力があるから」
「そう何度も起こらねえってことか」
十歳を超えてから魔道力をうまく操る練習をするのは難しいと聞いたことがある。何事も若いときのほうが吸収力がいいのはたしかだ。
「五年もずっと……ひとりでいたんだしな。どんな生活だったんだろうな……」
「後悔しているの?」
もっと早く気づいてあげられたら、と。
けれどそれは、無理だったとカディールもわかっている。
十年、戦は続いた。
先王の戦死ですぐに降伏していれば、これほど長引かなかったかもしれない。けれど、王の嫡男クレイが、すぐに王位を継いで戦は続いた。それほどまでに、カストゥールに屈服するのを民は許さなかった。
「やっぱり俺がクレイを連れて逃げればよかったのか? そしたら兄妹が再会できたかもしれねーよな」
「いまさら言ってもどうしようもないよ、カディール。それにクレイ様はそんなことをお望みではなく……民と最後まで戦うと、そう決意されたのでしょう?」
リディアーナ姫の兄、ルーフェイザ=クレイ=エリシャ。
義妹を守ってほしいと言い残し、民が生き残るために全面降伏を選択した、若き王。
「そう、だな」
カディールはユティアの黒髪をそっとなぜた。薬の影響か、彼女は軽く身じろぎしたものの、目を覚まさなかった。無造作に伸ばされたままのそれも、神殿で洗いシオンに梳かされてずいぶん綺麗になっている。
「ずいぶん緊張してたなこいつ」
それに血が苦手だった。そういうところは兄とよく似ているのかもしれない。カディールもけっして得意ではないが、剣使いである以上、仕方がないことだ。生きていくための手段なのだから。
「まだ、私たちのことも疑っているご様子だね」
「そりゃそうだろ」
カディール自身、クレイに言われるまで忘れていた、夢のように遠く幸福だった日々。
奴隷として殴られるような生活をしていた少女が突然、人々の頂点に立つ王族なのだと言われても信用されないとは思う。
「でも、クレイと約束したからな。俺はなにがなんでもユティアを守ってやる」
「珍しいね。君が女性に対してそんなふうに言うなんて」
からかうその口調に、カディールは半ば本気で怒りの眼差しを向けた。
「女じゃない。主君だ!」
「そのわりには尊大な態度だけれどね」
そんな態度をとられても、シオンは余裕の表情を崩さずにくすくすと笑う。
王直属の護衛騎士―――今となっては何の役にも立たない称号だが、これがカディールのすべてでもあった。
その王がユティアを守れというのなら、自分の命をかけて達成させるしかない。
(次は、間違わない)
王を守れなかった後悔は昔はあったけれど、捨てることにした。
クレイが望んだことだ。もう、王を守る必要はないのだと、彼が命じた。そして、カディールには、生き延びさせる目的を忘れずに残した。
「でもこれからどうするんだ? 俺たちだってもう、行くあてなんかないだろ」
第一の目的である、リディアーナ姫の保護は達成した。
陥落した王宮と国を捨てて、三年以上が過ぎている。リディアーナ姫同様、カディールにも追っ手は仕向けられているはずだったし、シオンという魔道使いの協力者がいることも知られているだろう。
「しばらくは転々とするしかないかもしれない」
「珍しく無計画だな」
「うん……できればクリス聖王国に行きたかったけれど難しいようだから、もう少し情報がほしいところだね」
いつまでもエヴァン王国にはいられない。
かつてはエリシャ王国と同盟国であったこの国も、カストゥール王国との戦が激化していく中で、その関係を維持できなくなっていた。今ではエヴァン王国は、カストゥール王国に従属することで戦を回避した。
「クリスはだめなのか」
天神クリスナードと神殿という文化はそこから生まれ、いまでは東大陸中の国に広まっている。
大国と呼ばれるほどの力はまだないが、確実に成長をしており、カストゥールも安易には戦をしかけられない相手のようだ。
けれど、逆にこちらを保護するような余裕はないかもしれない。さらに、クリス聖王国の正式な後見を得れば、カストゥールとはますます対立する立場に置かれることになる。
「クリスにはいつか行けると思う。けれど長く滞在できない」
そうなるとこの放浪生活がいつまでも続くということだ。それはユティアにとって好ましくないとカディールも思う。
「それに、エリシャ領にも立ち寄らないとならないね……」
さらりと言うが、それがどれほど難しいか、想像もできない。
エリシャ領。
かつて王国と呼ばれていたその地域は今、カストゥール王国の一部になっている。けれどいまだに、エリシャの民はそこをカストゥールとは呼ばないのだという。それが精一杯の抵抗のしるし。
「なんでエリシャに行くんだ」
ユティアをあの地へ連れていきたくないという思いがどこかにある。
(いや、ちがう……)
カディール自身が、もう行きたくないと思っている。
思い出は美化されたままで、現実を突きつけられたくないのかもしれない。
「アセアラ王国に行きたいからだよ」
「はあ?」
本気かと疑いたくなったが、こういうときにシオンは冗談を言わない。
南東の海を制する、別名を海賊王国。
面積こそ取るに足らない小さな国だが、それによってアセアラを軽んじる国はどこにもない。
陸路はすべて山脈に囲まれているという天然城壁を備え、絶対に沈まない船と絶対に迷わない航海技術を持っていると言われている。どことも正式な国交がないため、詳しいことは誰も知らない。
見知らぬ船が彼らの海域を通れば容赦なく攻撃されるという危険極まりない国ではあるが、そんな場所だからこそ他国の影響を受けていない。カストゥールですら、容易に手出しできずに沈黙を保っている。
エリシャは地理的にアセアラ王国の西にあり、海流に乗ればその海域に入り込むことができるのだが……。
「……お前の考えそうなところではあるよな」
「君に思考を読まれるようでは、私もまだまだだね」
「―――てめーなぁっ」
そう軽口を叩いてはいるが、カディールはアセアラへの足がかりのためにエリシャを選ぶのは正しいと思った。
(……だったらエリシャであいつに会わないと)